執愛の誓い

皇 英利

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三章 月の下で明かされる決意

(二)

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ナイジェルとともに馬車で向かった王宮は、当然だが貴族の屋敷とは比べものにならないくらい広大で壮麗な建物だった。夜闇の中無数の灯りで照らし出された宮殿は幻想的で、初めて訪れたフィアンはまるで異世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こす。

そんな王宮の大広間で舞踏会が始まってから、フィアンは妻として大人しくナイジェルの腕に手を添えて付き従っていた。しかし仕事の話があると言われ彼と離れてからは、壁の花に徹していた。

誰かにダンスに誘われても、踊るのは苦手だからと断る。落ちぶれた今のローレライ伯爵家は社交界に出ることもあまりなかったから、知り合いもいなかった。

フィアンはずっとアベルの姿を目で捜しているが見つからない。いっそ舞踏会場をこっそり抜け出して捜しに行こうかとも思ったが、迷子になりそうなので止めた。

代わりに会場の警備をしている騎士に、今日アベルはどうしているのかと訊く。

「彼なら今夜は宮殿内の見回りをしているはずですが」

「そう……。アベルは私の義理の弟なの、少しだけ会うことってできないかしら?」

お願いしてみると、アベルに取り次いで来ると言って彼は会場の外へ出て行った。

やがて戻ってくるとアベルは少し離れたバルコニーにいるので、フィアンのほうから来てほしいとのことだった。

伝言役をしてくれた騎士の人にその場所を聞きお礼を言って、アベルのいるバルコニーを目指す。

壁にも天井にも装飾の施された長い回廊を突き進み、言われたとおりの場所に到着するが、月明かりに照らされたバルコニーに人影は見当たらない。

「アベル……?」

返事のない静寂に、もしかして場所を間違えたのかと不安になったとき。

「……んッ!」

誰かに背後から抱きしめられ、いきなり唇を奪われた。

長い抱擁と重ねるだけの口づけのあと、やっと解放してもらえる。

向き合うように身体を反転させられると、息をつく間もなく今度は正面から抱きすくめられた。

赤い髪がさらりとフィアンの顔をくすぐる。

「はあっ……アベル……」

「あんなにひどいことをしたのに、まさか貴女のほうから会いに来てくれるなんて……思いもしなかった」

情感のこもった言葉とともに、彼はさらに腕に力をこめる。

辺りを包むアベルの香りに、フィアンはなぜか胸が苦しくなった。

「アベル、苦しい……」

「あっ、すみません!嬉しくてつい……」

アベルがフィアンの背中に回していた腕をぱっと退ける。自分がそうするように促したのに、温もりが去ったことをなぜか寂しく感じた。身体を撫でていく夜風が、やけに冷たい。

「昨日は会いに行けず、申し訳ありませんでした。すぐにでも直接会って一言謝りたかったのですが、どうしても時間を割けず……」

しょんぼりと赤い頭を下げうなだれている。そんな姿を見ていると、やはり可愛いと思ってしまう。

「……身体は大丈夫でしたか? どこか、痛いところは……?」

なにを心配されているのかすぐに察してしまい、フィアンは頬が赤くなった。

「今は、大丈夫……。どこも痛くはないわ」

「そうですか、よかった……」

アベルがほっと胸を撫で下ろす。そのときになにかが目についたようで、おもむろにフィアンの左手を持ち上げた。

「今日は兄上と一緒に来たんですか?」

「え? ……ええ」

アベルの挙動を不思議に思いながらも頷く。

「兄上と踊ったのですか?」

「誰とも踊っていないわ。私ダンスは苦手だし……ナイジェルも、私なんかとは踊りたくないでしょうし」

「……僕は踊りたいですけどね、義姉上と。貴女とのダンスなんて、想像しただけで愉しそうだ」

そう言ってアベルは結婚指輪の嵌まったフィアンの薬指を自分の口内の奥へ持っていき、カリッと強めに噛んだ。突如走った痛みにフィアンは肩を震わせる。

「痛っ……!」

「義姉上、この指輪を外して僕と結婚してください」

「な……にを言っているの? ここにはナイジェルもいるのに」

「貴女の初めての男は僕だ。だから兄上とは離婚して、僕と夫婦になるべきだとは思いませんか?」

真剣な眼差しにドクリと心臓が脈打つ。

噛まれた薬指を押さえながら、フィアンはここに来た本来の目的を思い出した。

「そうだわ……私、その話をしようと貴方に会いに来たの。私は純潔を失ってしまった……そのことをナイジェルに知られるのも時間の問題。だから、どうしたらいいのか貴方に相談しようと思って」

「僕を頼ってくださったんですね、嬉しいです」

腕を広げまた抱きしめようとするアベルを、フィアンは身体を引いて拒否する。

「なにか……純潔じゃないことをごまかす方法はないかしら……? たとえばナイジェルにお酒をたくさん飲ませて、酔っ払った状態で……とか」

「……あくまで義姉上は、兄上の妻でいたい……と?」

伸ばした腕を拒まれ少し傷ついた様子のアベルは、瞳に険しい色を浮かべた。

「そりゃそうよ。だってナイジェルとの結婚を決めたのは私だもの」

「……お酒を飲ませる方法は確実ではないでしょうね。そもそも、記憶が危うくなるほど泥酔した状態で抱かれて、義姉上は嬉しいのですか?」

「私が嬉しいかどうかは関係ないの。そんなことより、ナイジェルにばれないかどうかが大事。──ねえ、すごく痛がる演技をしても、やっぱり男の人ってそういうのはわかるものかしら?」

ナイジェルに処女でないことを知られない方法を必死に模索するフィアンに、アベルはなぜか苛立ちを募らせているようだった。

声を一段低くして彼は答える。

「それはもちろんわかるでしょうね。男というものは案外、そういうことには敏感なものです」

「じゃあ、他になにかいい案はないかしら」

「残念ながら、ないでしょう」

「そんな……っ! それじゃあ私、どうすればいいの? ナイジェルに秘密がばれたら、私……っ」

フィアンは悲壮な顔で途方に暮れた。そんな彼女を見て、アベルがいきなり乱暴に彼女の肩を掴んだ。

そして、もう限界だとばかりに一気にまくし立てる。

「っ……、さっきからナイジェルナイジェルと、兄上のことばかり! そんなに兄上が好きですか、愛しているんですか!? 貴女の初めての男は僕だというのに、なぜ僕を見てくださらないんです。兄上のように貴族的で煌びやかな容姿じゃないからですか? 醜い赤毛だからですかっ? こんなに……僕は貴女だけを見ているというのに!」

「ア、アベル……? いったいどうし──」

「黙りなさいっ!」

アベルの急激な変化についていけずフィアンが呆気にとられていると、強い力で顎をすくい上げられ、強引に唇を塞がれた。そして性急に濡れた舌がねじ込まれる。

「んっ……ふうぅっ!」

アベルは普段の謙虚さなどかなぐり捨てて、フィアンの口腔を貪った。

歯列をなぞり上顎を何度も舐めたかと思えば、怯えて引っ込んでいるフィアンの舌を自分のそれで引きずり出す。ぬるぬると蠢く舌を絡め合っていると、口内に溜まった唾液がつぅっと、フィアンの口端から零れ落ちた。

アベルはそれを舌先ですくい取ってから、角度を変えてもう一度唇を重ねる。飽きることなく舌をこすり合わせ続ける。

フィアンの首の後ろはアベルの手でがっちりと固定され、身体も腰に回された腕で彼の身体に押し付けられている。だからフィアンは身じろぎすらできない。

ときおり首をくすぐられたり、官能を煽るように腰のラインを撫で回されたりした。

フィアンの唾液をすべて寄越せとでも言うように、アベルが口内を思いきり吸う。

暴力的なほどの愛撫は苦しいくらいだった。

喉の奥まで届きそうなほど舌を突き出して粘膜を存分に舐めたあと、ようやくアベルは激しい口づけをやめた。

フィアンは腰に力が入らなくてアベルの胸にもたれかかる。

「はあ……はあ……」

酸素が足りず、頭がぼーっとする。

全身が熱くて、なんだか足元がふわふわした。

アベルを見上げると情欲に濡れた琥珀の双眸には、顔をとろんととろけさせた自分の姿が映っていた。

アベルが熱く濡れた息を吐く。

「……義姉上は知らないでしょうけど、貴女の初めてのキスの相手も、兄上ではありません」

「え……」

アベルは何を言っているのだろう。フィアンの初めての口づけの相手はナイジェルだ。結婚式の一連の儀式のなかで、ほんのわずかに唇がかすめる程度だったが、誰かと唇を触れ合わせたのはたしかにあの誓いのキスが初めてだった。

だがアベルは否定する。

「僕ですよ。貴女の唇を最初に奪ったのは。……二年前、貴女は僕が寄宿学校から久しぶりに屋敷へ帰ってくると聞いて、僕に会いにわざわざ子爵家を訪ねてくださいました。憶えていますか?」

「ええ……」

「しかし僕は帰るのが予定より数時間遅くなってしまった。それで待ちくたびれた貴女は客室でうたた寝をしてしまい、そんな貴女を見つけた僕は誰にも気づかれないのをいいことに、寝ている貴女にキスをした。……だから、貴女の初めての口づけの相手は僕です」

フィアンは無意識に震える手で自分の唇に触れる。

「……どうして、そんなこと……」

「…………さあ、どうしてでしょうね」

アベルは辛そうにフィアンから目を背けると、自身の考えを吐露する。

「兄上に決闘を申し込もうと思います」

「アベル!?」

「決闘で僕が勝利すれば、貴女は兄上と離婚して僕と結婚することになる。そうすれば貴女は不義を知られて責められることもない」

「待って……決闘なんてやめて」

アベルの熱にあてられて霞がかっていた頭が一気に冴える。

決闘とは名誉のために命を懸けて行うものだ。たとえ命を失わなかったとしても、重傷を負う危険性がある。

たしかに、ナイジェルに処女ではないことを知られたくなくてアベルを頼ったのは自分だが、そこまでしてほしかったわけじゃない。

決闘なんて危険なこと、やめさせなければ。

けれどアベルは聞く耳を持たない。

「兄上のことは任せてください。必ず勝利してみせますから。貴女や貴女の家族に、害は及ぼさせない──絶対に」

フィアンのことを護ってくれると言っているのに、なぜかその瞳は冷たい。

フィアンは説得の言葉をかけることも許されず、アベルは背を向けてバルコニーを去って行った。

一人取り残されたフィアンは呆然と、しばらくそこに突っ立っていた。
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