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神森竜義

神森の決意

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 落ち着かない気分のまま、午後の授業を受けた。年度末に近いこともあって授業は気合いが入っておらず、座学も体育の実技もぼんやりしていても切り抜けられたのは幸いだった。ホームルームでは授業に関するアンケート用紙や、春期休業用の課題集などをまとめて受け取った。クラスを見回した夏木が、終業式まで日があるのだから気を抜くなと叱咤したのは、氷川の他にも気もそぞろな生徒がいたせいかもしれない。
 放課後になり、神森と落ち合って氷川の部屋に戻った。氷川の寮の部屋は、留学生や原級留置となった最上級生、転入生などが使う予備の一人部屋だ。同フロアの最上級生はほとんどが既に退寮済みで、プライベートな話をするのに気兼ねがいらない。
 食堂で保温容器に入れてもらった緑茶と、購買部で贖ってきた軽食を、床に置いた盆に広げる。日常的に簡単な掃除をしているため、さして抵抗はないが、やはり小テーブルくらい導入してもいいかもしれない。そんなことを考えながら、神森と斜向かいに床に座り込んだ。
「これ、よく見かける桜餅とは違うよね」
 味気ないプラスティックのケースには、寿甘すあまと桜餅が並んでいる。白く滑らかな寿甘と、桜の葉から少しつぶつぶとした肌を覗かせる薄紅色の桜餅は、どちらも美味しそうだ。
 氷川の問いに、神森が頷き、手にしていた紙コップを置いた。
「これは道明寺です。関東では珍しいですね」
「お寺?」
「起源はそう言われていますが、この場合は材料です。道明寺粉という、荒く挽いた餅米を用いています。よくこちらで見かけるのは長命寺、小麦粉と白玉粉で作ってあるはずです」
「白玉粉はうるち米?」
「細かく挽いた餅米です。柔らかくてもっちりしていて、舌触りが滑らかでしょう。うるち米の粉は上新粉と言って、冷めると硬くなりやすいんです」
「ああ、そうだね、桜餅は冷めても柔らかい。流石、よく知ってるね」
「恐縮です」
 苦笑した神森が、いただきますと菓子に手を伸ばす。彼の食べ方に倣って、氷川も遠慮なく桜の葉ごと口に運んだ。見た目通りの食感が面白い。
 菓子を存分に味わって、氷川は紙コップを置いた。
 昼休憩時には、時間切れで詳しい話を聞くことができなかった。京都の学校に進学して欲しいというのは、神森自身も京都の学校に進むことと関係があるのは確かだろう。だが、彼が何故そう望むのか、それが礼として成立しうるのかが分からない。
「それで、昼間の続きだけど……詳しい話を聞かせて貰えるかな」
 そう切り出すと、神森が緊張した面持ちで両手を膝の上に揃えた。
「まずは、不躾なお願いをしましたことをお詫びさせてください。驚かれたことでしょう、申し訳ありませんでした」
「うん、そうだね、びっくりはした。でも、考えてみたら京大クラスなら格付けは充分すぎるほどなんだよね、合格できるかは別として。これが沖縄とかだったら申し訳ないけど難しいって答えただろうけど、京都は距離的にもそこまで遠くないし。でも、理由が分からない。だから、理由を教えて欲しいんだ」
「そうですよね……順序立ててお話しします。ご存知の通り、僕の生家は都内にありますが、本家は京都で旅館を営んでいます。僕も本来ならば中学入学時から、そこで修行をするはずでしたが、受験の失敗もありまして長期休暇に少し勉強させていただくことしかできませんでした。ですので、高校卒業後こそは本家で修行することになります。これは家の方針ですが、僕の意思でもあります。けれど、僕はやはり大学でも学びたい……氷川くんのお話を聞き、そう思うようになりました。学校は必然的に夜学になるでしょう。ですが本音を申し上げれば、修行と学業を両立し、日々を乗り切る自信がありません」
 正直と言えば聞こえはいいが、不安になりそうなことを断言する神森に、氷川はええとと頬を撫でた。ぬるい緑茶を一口飲んで、身振りで先を促す。神森は緑茶で唇を湿らせ、目を細めた。
「ですが、あなたがいてくださるなら、乗り越えられます」
「どうして……」
「僕はこの学院で過ごした五年間、何の努力もしてきませんでした。適当に勉強をこなして、野分くんに誘われるまま、推薦入試目当てで生徒会の役員を引き受けました。そんな安穏としたぬるま湯に浸かってきた僕には、早朝から仕込みの現場に入り、夜から学ぶような生活には耐えられないでしょう。そんな惰弱な自分では駄目だと、氷川くんを見ていて思えたんです。あなたがいてくれれば、僕は努力できます。怠けている僕では、氷川くんの側にいることが恥ずかしいからです」
「……俺は、そんな風に言って貰えるほどたいしたものじゃないよ」
「いいえ」
 恥ずかしくなって首を横に振った氷川に、神森が間髪入れずに否定を返す。
「慣れない環境で上手く生きようと努力しながら、学校と資格の勉強を両立させて、更に僕たち生徒会の仕事や行事にも協力してくださる方が“大したものではない”とは思えません」
「俺だって資格の勉強はしてなかった時期もあるし……認めて貰えるのは嬉しいけど……や、俺なんかが神森くんの役に立つならそれは協力したいけど、だけど」
「迷うのはわかります。氷川くんにはお父様の事務所で働ける都内の大学のほうがいいと分かっています。ですが、あなたなしで四年間、生きていけると思えないんです」
 場合によっては睦言めいてすら聞こえかねない言葉に、自然と頬に血が上る。指先がそわそわとするのは、胸を占める歓喜のせいだ。神森に求められることはとても気分が良く、嬉しい。しかし、神森は気付いていないだろうが、氷川と神森の間にあるのは純粋な友情や好意ではない。
 神森が氷川に執心するのは、氷川が神森を暴き、肯定したためだ。それはカウンセラーのアドバイスや、独学で得た知識を基にした、神森を立ち直らせるためのプロセスの一環だった。自然体で接してはいないし、そうしていれば氷川はここまで神森と親しくはならなかっただろう。そう考えれば、この関係は正しい友情ではない。だから、大学生活まで共にいるのは神森に悪い影響を与えてしまいそうで怖かった。氷川は神森に寄り添い、一生を共にすることは困難なのだから。
 東京・京都間は、先に氷川も言った通り、現代においてはさして離れてはいない。新幹線ならば片道二時間半前後だ。昨今はインターネットを介した連絡手段も多くある。何も同じ場所に住む必要はないだろうと説得できないか、頭の中で論を組み立てている時だった。
 じりじりとにじり寄った神森が、すっと手を伸ばした。乾いた手が、頬と耳を撫で、首と肩を伝って背に落ちる。軽く引き寄せられて、触れ合った体温に身体が強張った。
「昼食を和風の献立にしたことを覚えておいでですか」
「今日だね、もちろん、美味しかったよ」
「ありがとうございます。ですがあれは本当にありふれた家庭料理で、僕が作らねばならないものとは違うんです。僕はまだ、和食を作りたいとは思えません。楽しんで調理できるとも思えません。ですが、あなたが召し上がってくださると思えば、作りたいと思えます」
「……俺、だけ? 生徒会の皆は」
 氷川は食通でもなんでもない。味音痴ではないだろうが、インスタント食品やファストフードも食べられる。神森の供してくれる料理にも毎度、美味しいの一言くらいしか返せていない。まるで張り合いがないだろうにと首を傾げた氷川に、神森が笑みのような吐息を漏らした。
「皆さん美味しそうに召し上がってくださいますが……あなただからこそ、でしょうね。本来なら、どなたが召し上がるのであっても心を込めて、楽しんで支度をすべきでしょうけれど、僕はその境地には到底到達できそうにありません。好きな相手に振る舞えると思えばこそ、わだかまりのある和食の修行にも取り組もうと思えるんです」
 神森の言葉に、氷川は僅かに背を硬くした。無意識に喉が鳴る。好き、とは。端的で、だからこそ幾通りもの意味を持つ単語の深意を探る前に、神森が腕に力を込めた。
「お願いです、僕を拒まないでください」
 掠れた声に、息をすることを忘れた。
「僕は狡い人間です。あなたに拒まれれば生きていけない。あなたがいてくださらなければ、自分の人生のために努力することも出来ない。だからお願いです、受け入れなくて結構ですから、拒絶しないでください」
 こんなに真摯な声を、今まで生きてきた十七年間で聞いたことがあっただろうか。だが、返答をためらったのは、気圧されたからではない。
 耳のすぐ側で、血液の流れる音がやけに大きく聞こえる。心臓の鼓動は、騒々しく早鐘を打ち続けている。神森の朱に染まった頬や、潤んだ瞳や、触れ合った身体の発熱したような熱さ、そして懇願するような声を聞けば、説明されずとも言葉の真意は読める。けれどそれもまた錯覚ではないかと、不安が首をもたげた。
 氷川自身、神森に好意を抱いている自覚はある。自分をゲイだと認識したことはないが、自分の感情が友情としての好意ではないことは理解している。だが、神森に対してそうした感情で接するのは間違っていると思い、表に出ないように気を付けていたつもりだ。悪い意味での刷り込みになってしまうことを恐れてもいた。
 これは、無自覚に付け込んだことになるのだろうか。
 氷川くん、と神森が不安そうに呼ばう。氷川は一度硬く目を瞑り、ゆっくりと開いた。そして、不安と期待で揺れる瞳を静かに見返す。神森の瞳は濡れたように黒く光り、虹彩の縁が僅かに青く滲んでいた。
 びくつく神森の背に、そっと腕を回す。細い身体だ。氷川も他人のことは言えないくらい貧弱だが、神森は案外体力勝負らしい料理人にしてはひどく薄い身体をしている。背骨と肋骨を探るように背を撫でると、神森が背筋を強張らせた。
「俺が言うの、良くないんじゃないかって思ってたけど……嘘つくのも違うと思うし、まあ、間違ってたらその時、ってことにしてもいいのかな」
 独白めかした懺悔に、神森が訝しげに眉を寄せる。氷川は唇を緩ませた。息を吐くと、少し気分と呼吸が楽になる。両親に相談して、説得しなくては確定的な事は言えない。それでも、自分の感情ひとつくらいならば明かしても許されるような気がした。
「俺ね、神森くんのこと好きだよ。だから、神森くんが望んでくれるなら一緒にいたいって気持ちはあるよ」
 控えめな声で告げると、一拍置いて神森の身体から力が抜け落ちた。するりと滑り落ちかけた身体を慌てて建て直し、神森が氷川に顔を向ける。その目尻や頬が、よく陽射しを浴びた林檎のように赤く染まっていることに、良くない優越を抱いた。
 この思慕は間違いだろう。氷川の抱くものも、神森から向けられるものも、同情と刷り込みで構成されている。そう理解してなお、わななく唇に触れたいし、薄い身体を離せなかった。彼が巣立つまでの、ほんの少しの時間でいい。錯覚でも誤認でもなんでも、彼を独占する権利を得ていたかった。

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