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神森竜義
報告と頼みごと
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昼食を食べ終えると、岩根は早々に寮へと戻っていった。今は氷川と神森でのんびりと食後のお茶を飲んでいる。午後に予定している、学年末考査対策の勉強会までの時間調整だ。とはいえ、氷川を筆頭に全員原級留置の心配もないので、心配点は成績と来年度の所属クラスくらいだが。
近日中に退寮する予定だという岩根は、荷造りが大変だよと苦笑していた。新居へ発送する作品が沢山あるらしい。その中には、件の削がれた絵も入っているという。生きるとはそういうことでもある。傷も過ちも全て置き去りにはできない。送り先は実家と表現していなかったから、実家からは独立するのかもしれない。進学先への通学距離や、家族の理解度によっては、その選択肢も悪くないだろう。そこまで考えて、氷川は持ち上げかけたカップを置いた。神森が怪訝そうに首を傾げる。
「どうしました?」
「学年末テストが終わったらすぐ春休みだけど、生徒会は春休みも仕事があるの?」
「ありますよ、入学式と新年度の準備に、引き継ぎ資料も作り始める必要がありますから」
「そっか、じゃあ皆帰省しない感じ?」
「平沢くんは都内にご実家があるそうで、少しは顔を見せに帰りたいと。僕も帰るように言われていますが……どうでしょうね」
困ったような表情で、神森が氷川に視線を向ける。そこに縋るような色合いが滲んでいるようで、氷川は瞳を揺らした。
「正直なことを言うなら、帰らないで済むならそのほうがいいんじゃないかな……神森くんのご家族に対して失礼だけど、わざわざ嫌な思いをしに行くことはないと思う」
本心を包み隠さず告げた氷川に、神森が小さく微笑んだ。
「そう仰っていただけると期待して訊いたと言ったら怒りますか?」
「まさか。むしろ、帰るって言われたら引き止める方策を考える所だったよ」
「どんな風に、とお訊きするのは野暮でしょうか」
「例えば……生徒会の活動日じゃない日は毎日、朝から美術館や博物館や映画館を連れ回して、夜には新年度に提出する課題を一緒にやってもらうとか?」
「それは素敵ですね、一日はそうしましょう。とはいえ、佐々木先生にもお話を伺う必要もあるでしょうし、できれば氷川くんのお父様とも対面でお話したいですし、あまり時間が取れる気はしませんが」
指折り数えるように列挙して、神森がおかしそうに目を細めた。
「どちらにしろ、氷川くん関係の用件ばかりなのは変わりませんね」
その柔らかな声音に、心臓がぎくりとする。愉快ではない用事だろうに、楽しんでいるかのような余裕すら感じられる。交渉ごとが好きなのかもしれない。計画を練ることが好きなのかもしれない。実際、生徒会の仕事でも、折衝や企画などには携わるはずなので、嫌いではないのは確かだ。ただ、それだけが理由なのかは分からない。そう考えてしまうのは、氷川自身に過分な期待があるためだろうか。
彼が楽しそうな理由が、氷川が関わっているからであればいいのに。そう考えてしまうようになったのがいつからかは分からない。だが、その願望の根底にあるものは察していた。今の神森に押し付けるべきではない感情、カウンセラーの松野には告白しづらい、しかし共依存の心理とは別の欲求だ。
ざわりと体内でうごめいた熱を呼気に含ませて吐き出すと、申し訳なさが戻ってくる。
「面倒かけてごめんね、なかなか話し合いが進んでないみたいで」
「僕が勝手に関わったことですから、お気になさらず。むしろ氷川くんのお父様にはご面倒をお掛けしてお詫びしなければなりませんね。額面も大きな数字になることもないでしょうし、経歴に疵がつくこともないのですからと軽く見ていた僕のミスです。書面一枚にこうも渋るとは」
神森が眉間に皺を寄せて嘆息する。さもありなん、件の元同級生らは、接触禁止には同意したものの、詫び状は書かないと言い張っているらしい。アメリカではないのだから、謝っておけば穏便に済ませられることも多いだろうに。
会計事務所の繁忙期は五月頃までだ。自身で交渉しているのではないとはいえ、煩わしいのは確かな筈だ。忙しい父にこれ以上の負担をかけるのは心苦しい。そろそろ、父と佐々木に連絡を取るべきだろうか。
「俺としては別に、謝罪なんていらないから早く解決しちゃってくれたほうが気が楽なんだけど」
「駄目ですよ、形だけでも反省を示していただかなければ。慰謝料とは本来そういう性質のものですし」
「慰謝料も俺は別にいらないよ。怪我も治ったし、心療内科も保険が適用できてるから」
打撲は既に完治していて、痛みも痣も残っていない。あれから隔週で通っている心療内科も、保険診療が適用されているため、驚くような額ではない。とはいえ、重なれば高校生の懐には優しくない。取り戻せると信じて領収証を出してもらっているが、帰ってこなければ結構な痛手だ。逆に言えば、それを負担させられる側は額面に頭が痛くなるだろう。
「不躾で申し訳ありませんが、心療内科では、どのような治療を受けているんですか?」
お茶のグラスを飲み干して、神森が興味津々という態で訊ねてくる。確かに、外科や内科、眼科や歯科と異なり、心療内科や精神科といった看板を掲げた診療所の診療室内は、掛かった経験がなければ未知数だろう。
「俺の場合は日常には支障もないし、薬物療法も必要ないってことで、カウンセリングメインで、イメージトレーニングみたいな感じかな。今のところ実際にあの人達と遭遇したことがないから、効果の程は分かんないけど、少なくとも思い出すだけで気持ち悪くて怖くて動けないって感じではなくなったし、勧めてくれた佐々木先生には感謝してるよ」
神森には認知行動療法という治療法が有効かもしれないと考えながら、彼が関心を持ったならば気軽に足を運べるように言葉を選ぶ。神森はどの程度、どう考えているのか今ひとつ読みにくい表情で、氷川の説明に耳を傾けていた。
神森から電話がかかってきたのは、翌週火曜日の放課後だった。弁護士を通して、示談成立の見通しが立ったと連絡があったという。氷川は送話口を遠ざけ、息を吐いた。
ちょうど寮の自室に戻ってきた所だ。カウンセリングルームにいる間でなくて助かった。あるいは神森も、生徒会の仕事が終わったばかりかもしれない。
『急展開で驚きました。こうもスムーズに運ぶのでしたら、もっと早く事を進めるべきでしたね』
「そうだね……というより、弁護士を通して連絡した意味が分かってなかったってのがね……話がまとまらないなら告訴状を提出するつもりでいることくらい、明言しなくても察していい気がするのに」
『それが理解できるのでしたら、最初から他者に暴力を奮わないよう教育すると思います』
きっぱりと言い切る神森に、氷川もそうだねと苦笑した。
今月一杯までに話が纏まらないならば、弁護士に依頼して警察に告訴状を提出するつもりだと、氷川が父に連絡したのは、土曜日の午後だ。同じタイミングで、神森には佐々木弁護士への連絡と相談を頼んだ。多忙な父は捕まらなかったが、留守番電話サービスの録音を聞いてすぐに対応してくれたそうだ。佐々木と相談し、佐々木から電話で先方の親と話し合った結果、翌日には示談に応じると伝えてきたらしい。
移動時間の隙間に連絡してくれた父が、疲れた声で言っていた。
――先生が、“ご子息が未成年であることを配慮して、警察への届け出を保留しておいでのご依頼主様方の誠意をご理解いただけないのでしたら、公的機関に相談するしかありませんよね”と言った途端に慌て出したそうだ。どうも、被害者であるこちらも事を荒立てたくないと考えていたらしい。ごねれば有耶無耶にできると思い込んで強気でいたんだろうな。それだったら医療機関には行かないし、弁護士にも相談しないだろうに。
子供が子供なら親も親、話にならない、別件の交渉を考えると頭が痛い、と漏らしてから、父は雰囲気を変えた。
――すまなかった。私が至志高校に行けなんて言わなければ、お前もあんな連中と関わり合いにならずに済んだ。私が通っていた頃とは、本当に校風が変わっていたんだな……。
心からの後悔と謝罪に、氷川は息を呑んだ。父の責任ではない、いじめなどどこでもあることだから仕方がない、と伝えるのが精一杯だった。
一段先を提示したお陰で、示談交渉はスムーズに進みそうだというのが、佐々木からの報告だったらしい。
『謝罪文と、接触禁止の誓約書、見舞金と医療費及び交通費、そして弁護士費用を求める形になりますが、他に要求したいことはありますか?』
「思い浮かばないな、それで充分じゃないの?」
『一切の暴力行為の禁止くらいは誓約させても良いのではないでしょうか。それから、お父様が請求なさる予定の慰謝料等に関して、誠実な対応をし、同輩にもそれを促すこともです。今回、さして大きな額でもない、立証も可能な暴力行為に対してすらここまで抵抗した方なのですから……』
穏やかな声で、神森が不穏当な計算を口にする。確かに、かろうじて進級したものの登校できなかった至志高等学校二年生の分の前期の学費や諸経費、如水学院に転入学するに当たって必要だった受験料や入学・入寮費用その他、各種経費は決して小さな額ではない。物的証拠がない以上、証言のみによって交渉する他なく、前途多難だと想像できる。
「でも、それは行きすぎな気がするよ、状況に対して過分な要求だと思う。逆に、今回の件を証拠扱いにして交渉できるんじゃないかな……甘いかな」
『そうですね……分かりました、佐々木先生に伺っておきます』
電話の音声は感情が読み取りにくい。元より平淡な話し方をする神森は特にそれが顕著で、彼が納得してくれたのかどうかはよく分からなかった。
「あのね、神森くん」
急き込んで声を掛けると、少し驚いたような、笑うような気配があった。
『どうかしましたか?』
「色々考えて、気に掛けてくれてありがとう。神森くんが助けてくれて、凄く感謝してる。俺一人だったら泣き寝入りしてたよ」
信号化された笑みの吐息が、スマートフォンをあてた左の耳殻をくすぐる。感じるはずのない空気の流れに、寒気が耳から背筋を駆け下りて、氷川は肩を竦ませた。こちらの動揺に気付くはずもなく、神森が淡々と否定する。
『そこまで言っていただくほどのことはしていませんよ。佐々木先生のお陰です』
「その佐々木先生は、神森くんが相談してくれたお陰で依頼を受けてくれたんだよ。それに、あの時神森くんが来てくれなかったら、もっと大きな怪我になってたかもしれない。俺にとって神森くんは本当に恩人だよ。たとえ、それが偶然だったとしても関係なくね。落ち着いたら、何かお礼をさせてよ」
『氷川くん……』
電話の向こうで、神森が感嘆めいた声で氷川を呼ばう。氷川は落ち着かない気分で、机上に転がったシャープペンシルを握り込んだ。うん、何、と努めて静かに問い返す。彼は悩むような沈黙の後、あの、と話を切り出した。
『そう言っていただけて、嬉しいです。光栄です。それでしたら……もし僕の学年末考査の順位が、七十位以上でしたら、お願いがあります』
ひどく真剣な声音に、自然とこちらも居住まいを正してしまう。年季の入った椅子が、細く軋んだ音を立てた。
「そんな条件つけなくても、俺に出来ることならなんでもするよ」
『いえ……重要なことです。ご検討いただくだけで結構ですので、僕が結果を出せたら、お時間をいただきたいんです』
切実な声に、氷川は送話口を少し遠ざけ、息を吐いた。頼みの見当はつかない。少なくとも家庭教師の依頼程度ではないだろう。家族の問題だろうか。それとも、氷川の知らない他の事情か。何にしろ、否という返答はないのだが。
「分かった。神森くんが俺より上位になれるように期待してる。まだ十日くらいあるし、一緒に勉強頑張ろうね」
考えながらゆっくり言うと、神森が息を呑んだのが分かった。しばしあって、受話口から声が聞こえた。
『ありがとうございます』
電波の向こうで頭を下げる姿が思い浮かぶような、真摯な礼だった。
近日中に退寮する予定だという岩根は、荷造りが大変だよと苦笑していた。新居へ発送する作品が沢山あるらしい。その中には、件の削がれた絵も入っているという。生きるとはそういうことでもある。傷も過ちも全て置き去りにはできない。送り先は実家と表現していなかったから、実家からは独立するのかもしれない。進学先への通学距離や、家族の理解度によっては、その選択肢も悪くないだろう。そこまで考えて、氷川は持ち上げかけたカップを置いた。神森が怪訝そうに首を傾げる。
「どうしました?」
「学年末テストが終わったらすぐ春休みだけど、生徒会は春休みも仕事があるの?」
「ありますよ、入学式と新年度の準備に、引き継ぎ資料も作り始める必要がありますから」
「そっか、じゃあ皆帰省しない感じ?」
「平沢くんは都内にご実家があるそうで、少しは顔を見せに帰りたいと。僕も帰るように言われていますが……どうでしょうね」
困ったような表情で、神森が氷川に視線を向ける。そこに縋るような色合いが滲んでいるようで、氷川は瞳を揺らした。
「正直なことを言うなら、帰らないで済むならそのほうがいいんじゃないかな……神森くんのご家族に対して失礼だけど、わざわざ嫌な思いをしに行くことはないと思う」
本心を包み隠さず告げた氷川に、神森が小さく微笑んだ。
「そう仰っていただけると期待して訊いたと言ったら怒りますか?」
「まさか。むしろ、帰るって言われたら引き止める方策を考える所だったよ」
「どんな風に、とお訊きするのは野暮でしょうか」
「例えば……生徒会の活動日じゃない日は毎日、朝から美術館や博物館や映画館を連れ回して、夜には新年度に提出する課題を一緒にやってもらうとか?」
「それは素敵ですね、一日はそうしましょう。とはいえ、佐々木先生にもお話を伺う必要もあるでしょうし、できれば氷川くんのお父様とも対面でお話したいですし、あまり時間が取れる気はしませんが」
指折り数えるように列挙して、神森がおかしそうに目を細めた。
「どちらにしろ、氷川くん関係の用件ばかりなのは変わりませんね」
その柔らかな声音に、心臓がぎくりとする。愉快ではない用事だろうに、楽しんでいるかのような余裕すら感じられる。交渉ごとが好きなのかもしれない。計画を練ることが好きなのかもしれない。実際、生徒会の仕事でも、折衝や企画などには携わるはずなので、嫌いではないのは確かだ。ただ、それだけが理由なのかは分からない。そう考えてしまうのは、氷川自身に過分な期待があるためだろうか。
彼が楽しそうな理由が、氷川が関わっているからであればいいのに。そう考えてしまうようになったのがいつからかは分からない。だが、その願望の根底にあるものは察していた。今の神森に押し付けるべきではない感情、カウンセラーの松野には告白しづらい、しかし共依存の心理とは別の欲求だ。
ざわりと体内でうごめいた熱を呼気に含ませて吐き出すと、申し訳なさが戻ってくる。
「面倒かけてごめんね、なかなか話し合いが進んでないみたいで」
「僕が勝手に関わったことですから、お気になさらず。むしろ氷川くんのお父様にはご面倒をお掛けしてお詫びしなければなりませんね。額面も大きな数字になることもないでしょうし、経歴に疵がつくこともないのですからと軽く見ていた僕のミスです。書面一枚にこうも渋るとは」
神森が眉間に皺を寄せて嘆息する。さもありなん、件の元同級生らは、接触禁止には同意したものの、詫び状は書かないと言い張っているらしい。アメリカではないのだから、謝っておけば穏便に済ませられることも多いだろうに。
会計事務所の繁忙期は五月頃までだ。自身で交渉しているのではないとはいえ、煩わしいのは確かな筈だ。忙しい父にこれ以上の負担をかけるのは心苦しい。そろそろ、父と佐々木に連絡を取るべきだろうか。
「俺としては別に、謝罪なんていらないから早く解決しちゃってくれたほうが気が楽なんだけど」
「駄目ですよ、形だけでも反省を示していただかなければ。慰謝料とは本来そういう性質のものですし」
「慰謝料も俺は別にいらないよ。怪我も治ったし、心療内科も保険が適用できてるから」
打撲は既に完治していて、痛みも痣も残っていない。あれから隔週で通っている心療内科も、保険診療が適用されているため、驚くような額ではない。とはいえ、重なれば高校生の懐には優しくない。取り戻せると信じて領収証を出してもらっているが、帰ってこなければ結構な痛手だ。逆に言えば、それを負担させられる側は額面に頭が痛くなるだろう。
「不躾で申し訳ありませんが、心療内科では、どのような治療を受けているんですか?」
お茶のグラスを飲み干して、神森が興味津々という態で訊ねてくる。確かに、外科や内科、眼科や歯科と異なり、心療内科や精神科といった看板を掲げた診療所の診療室内は、掛かった経験がなければ未知数だろう。
「俺の場合は日常には支障もないし、薬物療法も必要ないってことで、カウンセリングメインで、イメージトレーニングみたいな感じかな。今のところ実際にあの人達と遭遇したことがないから、効果の程は分かんないけど、少なくとも思い出すだけで気持ち悪くて怖くて動けないって感じではなくなったし、勧めてくれた佐々木先生には感謝してるよ」
神森には認知行動療法という治療法が有効かもしれないと考えながら、彼が関心を持ったならば気軽に足を運べるように言葉を選ぶ。神森はどの程度、どう考えているのか今ひとつ読みにくい表情で、氷川の説明に耳を傾けていた。
神森から電話がかかってきたのは、翌週火曜日の放課後だった。弁護士を通して、示談成立の見通しが立ったと連絡があったという。氷川は送話口を遠ざけ、息を吐いた。
ちょうど寮の自室に戻ってきた所だ。カウンセリングルームにいる間でなくて助かった。あるいは神森も、生徒会の仕事が終わったばかりかもしれない。
『急展開で驚きました。こうもスムーズに運ぶのでしたら、もっと早く事を進めるべきでしたね』
「そうだね……というより、弁護士を通して連絡した意味が分かってなかったってのがね……話がまとまらないなら告訴状を提出するつもりでいることくらい、明言しなくても察していい気がするのに」
『それが理解できるのでしたら、最初から他者に暴力を奮わないよう教育すると思います』
きっぱりと言い切る神森に、氷川もそうだねと苦笑した。
今月一杯までに話が纏まらないならば、弁護士に依頼して警察に告訴状を提出するつもりだと、氷川が父に連絡したのは、土曜日の午後だ。同じタイミングで、神森には佐々木弁護士への連絡と相談を頼んだ。多忙な父は捕まらなかったが、留守番電話サービスの録音を聞いてすぐに対応してくれたそうだ。佐々木と相談し、佐々木から電話で先方の親と話し合った結果、翌日には示談に応じると伝えてきたらしい。
移動時間の隙間に連絡してくれた父が、疲れた声で言っていた。
――先生が、“ご子息が未成年であることを配慮して、警察への届け出を保留しておいでのご依頼主様方の誠意をご理解いただけないのでしたら、公的機関に相談するしかありませんよね”と言った途端に慌て出したそうだ。どうも、被害者であるこちらも事を荒立てたくないと考えていたらしい。ごねれば有耶無耶にできると思い込んで強気でいたんだろうな。それだったら医療機関には行かないし、弁護士にも相談しないだろうに。
子供が子供なら親も親、話にならない、別件の交渉を考えると頭が痛い、と漏らしてから、父は雰囲気を変えた。
――すまなかった。私が至志高校に行けなんて言わなければ、お前もあんな連中と関わり合いにならずに済んだ。私が通っていた頃とは、本当に校風が変わっていたんだな……。
心からの後悔と謝罪に、氷川は息を呑んだ。父の責任ではない、いじめなどどこでもあることだから仕方がない、と伝えるのが精一杯だった。
一段先を提示したお陰で、示談交渉はスムーズに進みそうだというのが、佐々木からの報告だったらしい。
『謝罪文と、接触禁止の誓約書、見舞金と医療費及び交通費、そして弁護士費用を求める形になりますが、他に要求したいことはありますか?』
「思い浮かばないな、それで充分じゃないの?」
『一切の暴力行為の禁止くらいは誓約させても良いのではないでしょうか。それから、お父様が請求なさる予定の慰謝料等に関して、誠実な対応をし、同輩にもそれを促すこともです。今回、さして大きな額でもない、立証も可能な暴力行為に対してすらここまで抵抗した方なのですから……』
穏やかな声で、神森が不穏当な計算を口にする。確かに、かろうじて進級したものの登校できなかった至志高等学校二年生の分の前期の学費や諸経費、如水学院に転入学するに当たって必要だった受験料や入学・入寮費用その他、各種経費は決して小さな額ではない。物的証拠がない以上、証言のみによって交渉する他なく、前途多難だと想像できる。
「でも、それは行きすぎな気がするよ、状況に対して過分な要求だと思う。逆に、今回の件を証拠扱いにして交渉できるんじゃないかな……甘いかな」
『そうですね……分かりました、佐々木先生に伺っておきます』
電話の音声は感情が読み取りにくい。元より平淡な話し方をする神森は特にそれが顕著で、彼が納得してくれたのかどうかはよく分からなかった。
「あのね、神森くん」
急き込んで声を掛けると、少し驚いたような、笑うような気配があった。
『どうかしましたか?』
「色々考えて、気に掛けてくれてありがとう。神森くんが助けてくれて、凄く感謝してる。俺一人だったら泣き寝入りしてたよ」
信号化された笑みの吐息が、スマートフォンをあてた左の耳殻をくすぐる。感じるはずのない空気の流れに、寒気が耳から背筋を駆け下りて、氷川は肩を竦ませた。こちらの動揺に気付くはずもなく、神森が淡々と否定する。
『そこまで言っていただくほどのことはしていませんよ。佐々木先生のお陰です』
「その佐々木先生は、神森くんが相談してくれたお陰で依頼を受けてくれたんだよ。それに、あの時神森くんが来てくれなかったら、もっと大きな怪我になってたかもしれない。俺にとって神森くんは本当に恩人だよ。たとえ、それが偶然だったとしても関係なくね。落ち着いたら、何かお礼をさせてよ」
『氷川くん……』
電話の向こうで、神森が感嘆めいた声で氷川を呼ばう。氷川は落ち着かない気分で、机上に転がったシャープペンシルを握り込んだ。うん、何、と努めて静かに問い返す。彼は悩むような沈黙の後、あの、と話を切り出した。
『そう言っていただけて、嬉しいです。光栄です。それでしたら……もし僕の学年末考査の順位が、七十位以上でしたら、お願いがあります』
ひどく真剣な声音に、自然とこちらも居住まいを正してしまう。年季の入った椅子が、細く軋んだ音を立てた。
「そんな条件つけなくても、俺に出来ることならなんでもするよ」
『いえ……重要なことです。ご検討いただくだけで結構ですので、僕が結果を出せたら、お時間をいただきたいんです』
切実な声に、氷川は送話口を少し遠ざけ、息を吐いた。頼みの見当はつかない。少なくとも家庭教師の依頼程度ではないだろう。家族の問題だろうか。それとも、氷川の知らない他の事情か。何にしろ、否という返答はないのだが。
「分かった。神森くんが俺より上位になれるように期待してる。まだ十日くらいあるし、一緒に勉強頑張ろうね」
考えながらゆっくり言うと、神森が息を呑んだのが分かった。しばしあって、受話口から声が聞こえた。
『ありがとうございます』
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