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神森竜義

去りゆく人の決断

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 岩根に呼び出されたのは、その週の土曜日の午後だった。美術部長の涌井を通して、美術室に来て欲しいと言伝を受けた。氷川たちはまだ学期の途中だが、卒業生の退寮は既に始まっている。岩根は早々に推薦入試で進学先が決まっていたから、いつまでも学院に残っているわけではない。学内で彼に会うのは、今日で最後かも知れない。そんなことを考えながら足早に向かった美術室には、ずらりと机が並べられ、キャンバスが広がっていた。
「失礼します、岩根さんにお呼びいただきました氷川です」
 声を掛けると、窓辺で外に向かっていた岩根が振り返った。
「呼びつけて悪いね、氷川くん」
「いいえ。こちらのキャンバスは、この間描いていた絵ですね」
 覗き込んだ内の一枚は、冬枯れの庭園と講堂棟の描写だった。細やかな筆致で、くすんだ世界が再現されている。淡い光が木々をすり抜けて枯れ葉の地表を照らす表現が繊細で美しい。
 氷川の隣に来た岩根が、筆致を撫でるようにキャンバスに手を伸ばした。指を這わせることなく、するりと宙を滑らせる。
「描いてみたら案外、冬景色も悪くなかったよ。単調なモノクロに見せて、濃淡も色もちゃんとある」
「そうですね、色合いは静かですけど、鮮やかな印象がありますし」
「そう言って貰えて良かった」
 岩根が口角を上げる。前後して、前触れもなく戸車が音を立てた。振り返れば、僅かに息を切らせた神森が立っていた。
「お待たせいたしまして失礼いたしました」
 丁寧に詫びて扉を閉め、神森が氷川と岩根の側へやってくる。岩根が手を挙げて指をひらひらと動かした。
「掃除当番でもあった?」
「日直でした。施錠に少し手間取りまして、もう一人の当番に頼んでしまいましたけれど」
「それは急がせて悪かった」
「構いません。それで、こちらの作品が?」
 神森が半端に言葉を止めて岩根を覗う。岩根は迷いなく頷いた。
「寄贈したいと思ってる」
 予想外の言葉に、氷川は思い切り岩根を振り返った。
「そうなんですか?」
「うん、言ってなかったっけ」
「聞いてないです。全部ですか?」
 机を寄せて作られた簡略的な台の上には、A3サイズほどのキャンバスが六枚並んでいる。先日描いていたのが最新だろう、冬枯れの庭園と、ガラス張りの壁面が光る講堂の真冬の光景。落ち葉の敷き詰められた桜の並木道が秋の情景。蓮池を埋め立てて作られた花壇の花が咲きこぼれる様は、文化祭でも飾られていた秋口の様子だ。ぎらりと輝く空と、それを縁取る建築と樹木の深緑をあおりの構図で切り取ったものは夏だろうか。海のような雨の景色は、脇に配された濡れそぼつ新緑から勘案するに梅雨時期の校庭あたりだろうか。幻想的な枝垂れ桜の夜桜は、確か教員寮の横手にあったはずで、言うまでもなく春だ。
 幽玄な春、静謐な梅雨、輝く夏、光溢れる秋と、色づく秋、そして凍り付く真冬。全てが校内の自然を切り取ったものだ。一枚一枚が繊細で、現実の風景よりも美しい。如水学院の四季と名付けて飾れば観覧料も取れるだろうし、場合によっては買い手もつきそうな質だということくらいは、芸術への造詣が深くない氷川にも分かった。だというのに、岩根はなんでもないことのように首肯する。
「俺が持ってても仕方ないし、ここの絵ならここに残しておくのが無難かと思って。特にこいつは、持ってたいもんでもないし」
 苦い表情で、岩根が花壇の絵を手振りで示す。睡蓮の絵のことを考えれば理解できないでもないが、しかし、とつい問いを重ねてしまった。
「でも、この一枚だけじゃなく、六枚全部置いていくんですか?」
「そうですね、どの作品も素晴らしいですので、寄贈されるおつもりでしたら展示されるよう学院長先生にも掛け合いますけれど、値段をつけることも充分可能な作品ですよ」
 氷川の言を神森が補強する。後輩二人の発言に、岩根はやりづらそうに耳の下を撫でた。
「惜しんでくれるのは嬉しいけど、まあ……けじめみたいなものだと思ってくれればいいよ。俺の色んな迷いとか、後悔とか、あとは感謝とか、そういうものが籠もってるから、できれば後輩たちに見て欲しいんだ」
 とても静かに語る岩根に、氷川は目を伏せた。岩根の思いを読み取れず、即物的な反応をしてしまった羞恥で頬が熱い。
「そうでしたか、失礼なことを言ってすみません」
「いいよ、氷川くんの気持ちは嬉しい。どうかな、神森くん」
 改めて問われて、神森は小さく頷いた。
「岩根さんのお気持ちは承知しました。学院長先生にお伝えしておきます。決定が出されるまで、この六枚は美術準備室に預からせていただいてもよろしいでしょうか」
「うん、頼む。できれば飾ってやって欲しい」
「承りました」
 神森と岩根が丁寧にお辞儀をし合う。三人で協力すると、絵を仕舞って机を元に戻す作業はすぐに済んだ。なんとなく名残惜しくて、美術準備室に椅子を運び込み、イーゼルに置いた六枚の絵画を覆う布を取り払った。
「さっき、後輩に見て欲しい、って仰ってましたよね」
 闇に浮かび上がる桜を眺めながら、氷川はふと思い出して岩根に訊ねる。
「もしかして、弟さんもこの学校に在籍されているんですか」
「いや、あいつはもっと頭のいい学校行ってるよ」
 氷川の問いに、岩根が肩をすくめて学校名を挙げた。それは誰でも聞いたことがあるような、最難関クラスの学校名だ。如水もそれなり以上の名門私立だが、進学校としては格が違う。無論、兄弟校で如水よりはいささか高偏差値の豊智も比較にはならない。息を呑んだ氷川と神森を順に眺めて、岩根は苦みの混じった笑みを浮かべた。
「俺はあいつのお陰で好き勝手出来るし、弟ものびのび実力を発揮できて、上手いこと回ってるよ。同じ学校だったら比べられて面倒だったろうけど、中学上がってからこっちはそういうのもないし」
「凄いですね、僕はなかなかそんな風に思えません」
「神森くん、兄弟いたっけ?」
 神森の感嘆に、岩根が不思議そうに訊ねる。神森は軽く首を横に振った。そして、少し暗い声で苦悩の表層を静かにこぼす。
「いいえ、同学年の親戚がいるんです。神戸の学校に通っているんですが、とても優秀な方で、いつも我が身と比べてしまいまして」
「なるほど。俺も、もっとガキの頃はやっぱり、複雑な部分はあったよ。悔しい、っていうか。優秀な身内がいるやりにくさは俺も分かるし、正直それはどうしようもないもんだから、自分で折り合いつけるしかないよね」
「折り合い、というと?」
「弟は弟、同じ両親から生まれても、違う人間なんだから、色々と仕様が違ってて当たり前、ってところかな。弟は本当に頭が良くて、このままいくと現役で東大に入れるけど、絵は描けない。機械的なデッサンは出来ても、そこまでだ。俺は弟ほど頭は良くないけど、人に認めて貰える程度の絵が描ける。出来が違うってのは、必ずしも全面的な優劣じゃないって認めることだよ」
「ではもし、弟さんのほうが絵も上手かったら、岩根さんはどう思われました?」
 神森の質問は、おそらくは彼自身の問題へのヒントを求めたものだったろう。岩根はそれに気付いているだろうに、のんびした雰囲気を崩すことなく首を捻る。
「さあ、どうかな、それは経験がないけど……身近に失敗例がいれば誰だって先人の轍を踏まないように気を付けるから、結果に差が出るのは当たり前と思っておく。天賦の才なら羨んでも疲れるだけだから、諦めるよ。仕方がないものは、どうしたって仕方がないんだから」
「仕方がない、ですか」
「そう。諦めるって言葉が悪ければ、受け入れる。同じ人間なんて言うけど、才能には優劣がある。でも、能力で劣ってるからって、人間として劣ってると思い込む必要はない。例えば……」
 言い止して、岩根がぐるりと視線を巡らせる。二度まばたきをして、彼は思いついたように頷いた。
「そう、経済的な生産力だけが基準だったら、どうしても筋力や論理思考力で負けがちな女性は劣った生き物だろうけど、男しかいなかったら人類は一代で絶えるし、女性の繊細さが必要な仕事も多いよね。だけど、生涯賃金はやっぱり男のほうが多い。これはある意味では優劣だけど、必要性、役割が違うって捉えることができる。個々の違いも同じじゃない?」
 論を組み立てながらゆっくり話す岩根は、やはり直感力に優れた芸術家肌の人間に見える。すんなりと神森に適切だろう考え方を提示できる岩根が羨ましくなったが、これこそが彼の言う個性の差なのかもしれない。氷川には岩根のようには振る舞えないが、逆も真なりだ。
 たとえ、陽介が何もかもにおいて勝っているように思えたとしても、それは神森の価値とは直結しない。親や親類の言うままに引き比べ、自分は駄目だと自己否定する必要などどこにもない。
 緩く唇を噛んだ神森が、僅かに顔を伏せて視線を落とす。それは沈んでいると言うよりも、岩根の言葉を咀嚼し、思案しているように見えた。
 冬の寒風が、美術準備室の小さな窓を容赦なく叩く。南中した太陽の陽射しは強く、暖かそうな気配だというのに、世界はまだ冬の寒さの中だ。がたりと揺れる窓を見遣った神森が、大きく息を吐いた。
「僕は僕……ですか」
「使い古された言葉だけど、それくらい正しいってことでもあるよ」
「そうですね、そう考える……努力は、してみます。アドバイスありがとうございます」
 丁寧に頭を下げた神森に、岩根が楽しそうに微笑んだ。
「いつも相談に乗ってもらってるからね、最後に先輩らしいことができて嬉しかった。相談してくれてありがとう」
「俺も参考にさせてもらいます。それから、絵を見せていただいてありがとうごいました」
 追従する形で会釈した氷川に頷いて、岩根が壁を見上げた。そして小さく口を開ける。
「もうこんな時間か。二人とも昼飯まだだよね、折角だから、一緒に食べて寮に帰ろう。手伝ってもらったお礼に奢るよ」

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