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神森竜義

生徒会のボランティア 1

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 専門家にアドバイスを受けたからといって、即座にそれを活用できるとは限らない。その週中は神森と顔を合わせる機会がなかった。普通にしていればすれ違うことくらいあってもおかしくないのに、避けられているのかと疑うほどだ。日曜日の今日は生徒会のボランティア活動で顔を見たが、集合時や道中には話す機会を作れなかった。
 生徒会執行部の面々と、その他数人の参加者たちと連れ立って児童福祉施設に赴いた。目的は、施設の入所者と遊んだり、話したり、勉強を教えたりすることだ。この施設に入所しているのは、三歳から十九歳までの男女七人だ。専門学校に通う最年長の女性の他は、幼児と小中学生ばかりで、高校生くらいの年代がぽかりと抜けている。
「こちらには高校生はいないんですか?」
 手洗いを借りたついでに、施設の職員に尋ねてみる。雑談程度の問いかけに、三十代半ばほどの男性スタッフは一人の少年を仕草で示した。制服を着ているから、如水学院の生徒だ。
「彼は中学までここにいたんですが、そちらの学校に入学したので」
「そうだったですか……失礼ですが、資金はどのように? 如水学院は私立の全寮制で、入学金も授業料も、生活に掛かる金額も決して安くないと思いますが」
「学院の厚意で、在学できる程度の学力を維持できれば無償にしていただけています。学力が落ちれば転校することになりますが、彼は幸い、問題ないようです」
 職員の返答に、氷川は驚いて目を丸くした。教育は慈善になり得るが、学校運営は慈善事業ではない。如水学院も成績優秀者には学費の補助こそあれど、全額免除の制度など聞いたことはない。つまり、これもまた特例ということだ。あの学院は案外、弱者や敗者に優しいのかもしれない。
 言われてみれば確かに、件の生徒は他のどの生徒よりも場に馴染んでいた。この場所も、入所者も知っていたからかと納得した。
「ただ、公立の高校に行くよりも本当にいいことなのかは分からないんですよね。実際の所、どうですか?」
 探るようでもなく、かといって世間話という雰囲気でもない。あけすけな問いに、氷川は少し考えて答えを探した。
「実は僕もちょっと訳ありだったんですが、如水の生徒の方々や先生方は自然に迎えてくれました。いい学校ですよ」
「そうですか、それは何よりです」
 微笑む表情は穏やかで、いかにも優しげだ。無駄に詮索されないことを含めて、きちんとしていると感じる。話を適当に切り上げ、氷川は元々いた場所に戻った。入所者は遊んでいたり、話をしていたりと様々だが、大きめの机には二人の中学生が学習用具を広げている。そこが氷川の担当場所だ。
「ただいま」
 声を掛けると、中学生の男の子が顔を上げた。
「ここ分かんない。教えて!」
 英語のテキストを見せられて、氷川は軽く目を細めた。中学英語は高校英語の土台部分だ。範囲を逸脱しないように気をつけて説明したが、彼は首を捻って顔をしかめた。
 外国語の習得は、結局の所どれだけ必要としているかが重要だ。洋書を読みたいとか、洋楽の歌詞を自然と把握できるようになりたいとか、字幕映画を字幕を読まずに理解したいだとか。氷川にとっては三番目が大きなモチベーションとなり、そこを入口に英字新聞が読める程度の読解力も身についた。だが、施設で暮らす中学生には難しいだろう。さてどうしたものか、考えながらも対症療法的に噛み砕いた説明をしていく。どの程度飲み込めたのか、彼は頭を揺らしながら問題に向き直った。
 ノートと問題集に向かい合う中学生二人から視線を外して、室内を見回した。生徒らと遊んだり、話したりしている入所者らは、一様に明るい表情をしている。この手の施設にいる子供たちの背景が明るいはずはないが、部外者には沈んだ顔を見せないようにしているのか、楽しいと思ってくれているのかの判断は難しい。誰だって見ず知らずの相手には泣きつけない。まして、難しい環境で育ってくれば、他人に頼ることは困難だろう。人を信用できない、最も根本的な問題はそこにある。神森も同じだろうか。
「あの、この問題ってこの公式で合ってますか?」
 声を掛けられて、氷川は思考を中断させた。女の子のほうが示した数学のノートに視線を落とすと、幾度かやり直した痕跡のあとに、一つの式が書かれている。何度も突っかかったらしい。問題は少し難しい応用問題だった。
「うん、そうだね、その公式を使えば解けるはずだよ」
「ありがとうございます」
 氷川の返答を受けて、少女はにこりもとせずにシャープペンシルを握り直した。俯き、ノートに向かい合う彼女の髪は清潔で艶があるが、若白髪が目立った。ただの体質の可能性もあるが、どうしても栄養失調や心労の余波なのではと勘ぐってしまう。溜息を飲み込んで、氷川は教材に意識を向けた。
 勉強を見たり、雑談をしたりしていると、規定の時間はあっという間に過ぎてしまう。単純なもので、宿題の面倒を見た子供たちにありがとうと会釈されると、来て良かったと自然と思えた。
「本日はありがとうございました。またよろしくお願いします」
 施設の玄関口で、職員が改めて頭を下げる。それに対応するのは、生徒会長の野分と、副会長の神森、一歩下がった所に顧問の須田がいる。あくまで生徒主体であることを強調する立ち位置だ。
「こちらこそ、お世話になりました。お陰様で良い経験をさせていただいています」
「そう言っていただけると気が楽になります。子供たちも、皆さんがいらっしゃるととても楽しそうなんですよ」
「それは……ありがとうございます」
 職員は特段、年に三回しか訪問日程を組まないことを当てこすっているわけではないだろう。しかし、言われた側は素直に受け取りかねる言葉だった。もう少し話をし、改めて挨拶を交わして施設を辞した。

 スマートフォンが手元にないことに気付いたのは、施設を離れて十分ほど歩き、信号で立ち止まった時だった。現在時刻とバスの時刻表を確かめようとして、衣類のポケットにも鞄の中にもないことに気付いた瞬間、血の気が引く思いがした。何せ、今時の携帯電話はただの連絡ツールではない。個人情報も満載だが、電子マネー機能もあれば、ウェブサービスの引き落としもできる代物だ。落としたよりは、置き忘れた可能性が高い。考えてみれば、勉強を見ている時に使って、その後の記憶が曖昧だ。ひやりとする心臓を押さえ、野分と顧問の須田のもとへと歩み寄る。
「すみません、忘れ物をしてしまったのでもう一度、施設にお邪魔してきます」
 顧問にそう話しかけると、野分が意外そうに目を開いた。
「忘れ物?」
「うん、スマホ。多分置き忘れたんだと思う」
「それはないと困りますね、どうぞ行ってきてください。学院に帰ったら職員室に顔を出してください」
「はい。失礼します」
「ひとりで大丈夫か? なんなら一緒に行くけど」
 心配そうな野分に、氷川は軽く首を振った。何キロも歩くわけでもなし、付き添いが必要な距離ではない。
「夏と違って体調いいから大丈夫だよ、気にしてくれてありがとね」
「ああ、そうか。気をつけてな」
「うん。では」
 野分と須田に会釈して、来た道を引き返す。大寒を目前にした冬の風は冷たいものの、穏やかな陽射しが心地良い。道には雪もなく、住宅地には散歩や買い物帰りか、出歩いている人の姿も少なくない。のんびりとした足取りで、氷川は先程まで訪れていた施設にまで戻った。インターフォンで来意を告げると、玄関口で出迎えてくれた職員がスマートフォンを差し出してくれた。
「こちらですよね。どなたのお忘れ物か、如水学院にお聞きしようかと思っていたところでした」
「それです、お手を煩わせましてすみませんでした」
「いえいえ、引き取りに来ていただけて良かったです。誰も触っていないと思いますけど、一応確認してくださいね」
 促されて、液晶画面に触れた。ざっと履歴を確認する。元々ロックもかけているし、使い終わったらすぐに画面をオフにする習慣がついているので問題はないだろうが、念を入れて悪いことはないし、礼儀でもある。
「大丈夫ですね」
「そうですか、良かった」
 職員が安堵した風に肩の力を抜く。貴重品を置き忘れられて、さぞかし気を遣ったことだろう。
「ご心配とご迷惑をおかけしてすみませんでした。お世話になりました」
「こちらこそ、皆さんが来てくださると本当に嬉しそうで、助かります。また来てくださいね」
「ありがとうございます」
 確約できずに濁した氷川に、職員は目を細めた。社交辞令程度と軽く流して、是非と言っておけばいい。理解していてもできないのが自分の性格だと諦めているが、損だと思うことはなくはない。
 丁寧に挨拶をして、施設を出る。傾きかけた太陽が、家々や塀の影を濃く地面に落としている。まだ日は短く、早く帰寮しなければ暗くなってしまう。そう思い出して、氷川は少し急ぎ足で門へと向かった。声を掛けられたのは、錆び付いた音を立てる門扉を開き、敷地から出て閉めて手を離した時だった。
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