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橘祐也

音楽を作るということ 2

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 今まで生きた年数はさして長くないが、もちろん嫌な思いもしたことはある。寂しさも悔しさも、暴力を振るわれる痛みも情けなさも、他者に対する憎悪すら、自分自身の感情として知っている。その反対に、感謝も、歓喜も、安堵も、執着に近い欲も――人を愛しいと、感じる心も、知ってはいる。しかしそれらを言葉にして伝えたいと思ったことはない。
「分かんない、かな……別に声高に叫ぶほど不満なこともないし……」
「何もパンクよろしく自分の主張を叫ぶだけじゃなくて、それこそ映画みたいにお話を描くとか、主人公を作って語らせるとか、古典を下敷きにするとか、色々やり方はあるよ。他にもニュースや社会問題を題材にする人もいるし」
「ニュースって?」
「血腥いけど、殺人事件とかテロとか。戦争とか貧困とか」
 橘が例として上げたものが前置き通りに陰惨で、氷川は顔をしかめた。確かに芸術には、現実の悲惨な側面を赤裸々に描き出すものもある。たとえばピカソのゲルニカは、見ているだけで戦火のむごさに胸が苦しくなるほとだ。しかし、商業音楽に類するジャンルでそうしたものは扱うのは、非常に繊細な問題を孕みそうだ。
 氷川の沈黙をどのように捉えたのか、橘が仕切り直しのように、あとは、と話を繋いだ。
「変わった所だと、物理学とか」
「物理?」
「量子力学とかね。だからまあ、何でもありだよ。なんなら出エジプト記を素材にしてもいいってくらい」
 唐突に引き合いに出された旧約聖書の章題に戸惑う氷川に、橘が喉の奥で笑う。冗談だったらしいと察して、氷川は苦笑した。
「橘くんも聖書から着想したりするの?」
「まさか。読んだこともないよ。モーゼが海を割った話しか知らない」
「じゃあ、どうやって書いてるの?」
「んー、シチュエーションと語り手を設定して書いたりもするけど」
 言い止して、橘がちらりと氷川に視線を向ける。見返して首を傾げると、彼は目を細めて頬を緩めた。
「今は、氷川くんのこと考えることが多いかな」
「俺?」
 幸せそうな表情に、胸の奥が熱を持つ。おそらく真っ赤になっているだろう顔を覗き込んで、橘が楽しそうに頷いた。
「氷川くんが歌ってくれて嬉しいなとか、一緒にやれて幸せとか、ずっと一緒にいたいなとか。どう誘うか悩むのも楽しかったけど、考えるって言われた後は不安だったなとか、口説いてる間も怖かったなとかね」
「ちょ、も、う……橘くん」
 直截な表現の羅列に、頬と言わず耳と言わず体中が熱い。歓喜と羞恥によるいたたまれなさで、全身が溶けそうな氷川の様子に、橘が目尻を下げた。
「氷川くんて反応可愛いよね」
「橘くんは性質悪いよ」
「知らなかった?」
「知ってた」
 彼がただ、無邪気で人好きのするだけの人物ではないことくらい、わかっていた。意図的に率直な言葉を選ぶ狡猾さも、人をからかって遊ぶ子供じみた側面も、それらが信頼を置いている相手への甘えの表れであることも、理解できる程度には一緒に過ごしている。表現の仕方が揶揄やゆめいていたとしても、そこに嘘がないことも分かっているから、余計に気恥ずかしくなる。
 体内の熱を溜息で吐き出して、氷川はぐしゃりと前髪を掻き上げた。
「だったら、もし俺が書くとしたら、橘くんと組めて嬉しいって詞にしなきゃだね」
 仕返しのつもりの台詞に、橘が苦笑する。
「恨み節が書かれそうで怖いな」
「まさか。甘いラブソングになるよ」
 冗談めかした軽い口調で告げたのは本心だった。友人や仲間の範疇を逸脱した好意は、理性を焼き焦がすほどの熱量には至らないまま、胸の奥でおきのように温度を保ち、時に火花を散らしては沈静化すること繰り返している。今はまだ、あやしておける。それでも少しもどかしく感じるのは、きっと、同じものを向けられている自負があるからだ。好かれていると、確信に近いレベルで感じている。
 本音の度合いを測ろうとするかのような、探る視線を向ける橘に微笑んで、氷川は手を伸ばした。見た目よりも骨張った、硬い手に指を這わせる。
「この手が奏でるギターが好き」
「……ありがとう」
 照れたように応じる橘に頷いて、口元に指先を伸ばした。
「この唇が紡ぐ言葉と、声が好き」
 橘の目尻が朱を帯びる。その反応に気をよくして、頬を手のひらで覆い、指先で耳の輪郭をなぞった。橘がうっとりと目を細めて、熱い息を吐く。引き寄せられるように顔を近づけ――唐突に、顎を押しやられた。
「駄目!」
 いきなりのことに、押された勢いで重心がぐらつく。咄嗟に腕をついて身体を支えつつ、氷川は橘を窺った。彼は赤い顔でおろおろと手を伸ばしたり引っ込めたりしている。
「ごめん、嫌だった?」
「え、や、あの」
 うん、と氷川は話の先を促す。好きの一言を省略して触れようとした自覚はあったから、理由を聞かれればきちんと伝える覚悟はできていた。しかし橘は緩く首を振ると、その手で顔を覆ってしまった。そして低くごちる。
「ああ、もう……バンド、誘わなければ良かった」
 予想外の拒絶に、氷川は目を見張った。それはつまり、こんな不純な、おぞましい感情を持っている相手と一緒に過ごすのも嫌だと、そういうことか。思い違いをしていたのか、と、全身の血が下がったような冷たさを感じる。同じ種類の好意を向けられていると感じていたのは、ただの思い上がりだったのか。だとしたら、これ以上の醜態はなく、これに勝る裏切りもない。胸に穴が空いたように苦しく、心臓が痛む。舌の裏に、苦い唾が溜まった。
「……ごめん、気持ち悪かったよね」
「違っ……本当、違う、嫌じゃないし、気持ち悪くないし、むしろ嬉しいっていうか、あの、でも、あのね」
 距離を取ろうとした氷川の手首を掴んで、橘がかぶりを振って言い募る。
 必死な様子に逆に落ち着きを取り戻して、氷川は橘を覗き込んだ。濡れた赤い瞳には、確かに拒絶や嫌悪の色はしない。しかし、それならば何故ああもきっぱり拒まれた上に、バンドを組んだことまで後悔するようなことを言われたのか、腑に落ちなくて首を捻った。その感情そのまま橘を見つめると、彼は目を伏せて呟くように言う。
「メンバーとは付き合えない、し……こんなに……こんな風になるなら、組まなければよかった」
 懺悔のように、橘が途切れ途切れに話す。メンバーとは付き合えない。逆に言えば、橘の気持ちとしては氷川と付き合ってもいいと思っているということだろう。どんな拘りがあるのか、橘は感情を抑制している。だが、何故。氷川は気付かぬうちに噛んでいた唇を開いた。彼の理由も根拠もわからない。しかし、真実それが理由ならば、音楽を選んだことを後悔して欲しくなかった。氷川自身のためにも。
「でも、俺は橘くんが誘ってくれて嬉しかったよ。一緒にやれて、よかったと思うし」
 それにきっと、そうでなければ、ここまでの好意を抱きはしなかった。彼のギター、彼の曲、音楽について語る姿の楽しそうな様、真剣な瞳、焦がれるような希求に甘く掠れる声――そして、望まれるという優越感。清濁合わさった感情が、執着と思慕になったのだから、その仮定は無意味だ。そんな本心は言わないまま、苦しそうな橘の手の甲に触れた。
「バンド内恋愛禁止なの? 世の中には結婚してる人だっているよ」
「禁止っていうか……良くない感じに譲歩しちゃったり、逆に意地張ったりしちゃうから、やめたほうがいいって言われてて」
 堅物そのものな返答を、橘は淡々と口にする。正論ではあるが、ことわりで感情をねじ伏せようとするのは無謀だし暴挙だ。そんな暴論を述べたのはいったい誰なのかと、氷川は眉をひそめた。
「梨野さんか江上さん、それとも佐竹さん?」
「貴幸さんと辰彦さん」
 橘の従兄の早坂貴幸と、彼らの友人にして橘のギターの師でもある向井辰彦の名前を出されて、氷川は口を閉ざした。何故だろう、いかにも含蓄がありそうに思えてしまう。江上や梨野と同年代だろうに、肩書きが違うとこうもイメージが変わるのか。
 考えていると、それにねと、氷川の爪を撫でて橘が苦笑した。
「別れることがあったらバンドまで壊れちゃうことがあるから、やめたほうがいいんだって」
「別れる、か……シビアだね」
「未来は誰にも分からないから」
 冷めたことを平然と言って、橘が目を伏せる。まだ幼さの残る丸い頬が、見慣れぬ諦念を帯びて僅かに歪んだ。
「前のバンドが解散しちゃったのは、仕方ないってわかってる。誰だって生きていかなきゃいけないし、採算取れるようになる見込みもなかったから。だからこそ次は絶対、失敗したくない。失くしたくない。俺の判断ミスで壊したくないんだ」
 橘がぎゅっと氷川の指を握った。熱い手のひらに包まれて、心臓が大きく脈打つ。だがどんなに身体が歓喜しても、彼から告げられるのは拒絶でしかないのだ。
「ごめん、だから、駄目」
 掠れた細い声が、揺らぎもせずに希望を断ち切る。氷川は詰めていた息を吐き出した。胸の内側が隙間風でも吹き込んだように冷える。
 どうあがいても、橘は恋愛よりもバンドのほうが大切ということだ。それはいかにも彼らしく、好ましい清廉さだ。なんだか負けた心地だ。仕方がないと、そう諦められるくらいには、氷川も音楽活動に魅力を感じている。何かをやってみたいと思ったことは、いままでの短い人生で初めてだったのだ。
「そういうことなら、納得するしかないよね」
 腕を引くと、するりと手が帰ってくる。それに喩えようのない寂しさを感じながら、氷川は右のてのひらを差し出した。
「改めてよろしく、リーダー」
「よろしく……って、俺リーダーだっけ?」
 握手を交わしてから、橘が首を傾げた。潤んだ瞳は、まばたき三回で熱を消す。
「最初に動いたのは橘くんだし、橘くんがリーダーじゃないの?」
「……今度のミーティングで議題に上げるね」
 神妙な顔で、橘が冗談のようなことを真面目に言う。やるせなさを抱いたまま、氷川は頷いた。橘に言ったことも嘘ではないけれど、今なら失恋の詞を書けるような気がする。
 寂しい、けれど仕方がない。このままこの感情を育てることなく諦めれば、きっとずっと一緒にいられる。短絡的な衝動で失うより、遥かにいい。向井が言っていたような、ただ経歴に一行書き足されるだけの経験にはしたくない。そう自分自身に言い聞かせた。
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