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橘祐也

文化祭 1

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 一週間は飛ぶように過ぎ、暦は十一月に突入した。夜毎の練習で睡眠不足と疲労を蓄積された身体が休息を要求し、文化祭二日目の前半を寝て過ごしてしまったりもしたが、下見を兼ねてライブイベントを見に行ったり、おおむね楽しい時間だった。そして文化祭三日目、外部開放日の今日、氷川はスマートフォンを覗き込んで頭を悩ませていた。
 氷川達の出番は七組中四番手、十四時からだ。リハーサル順はトリからのいわゆる逆リハで、やはり四番目にあたる。時間は各組四十分間でサウンドチェックがせいぜいだが、ここで調整できるかがとても重要だという。定刻に始められれば九時から九時四十分までで、つまり九時までには機材の搬入を終えなければならないし、ステージを片付ける時間を考慮すれば十時くらいまでは掛かるだろう。そんなとても忙しい朝に、呆然としている時間はないはずだが。
 ――今日文化祭なんだよね? おばさまたちと行きます。時間があったら一緒にまわらない?
 幼馴染みの古川紗織から届いたメールに、こめかみを押さえる。招待状も送らなかったとはいえ、入場制限などは無いのだから来るのは不思議ではない。しかし、何も当日の朝に、決定事項として送ってこなくともいいだろう。
 ――来てくれるんだ、嬉しいよ。でもごめん、三時頃までは身体が空かないから、案内はできそうにない。
 返信を送ると、数分で更に返信が届いた。
 ――そうなんだ、残念。なにかあるの?
 ――ライブイベントに出る。
 ――本当!? 凄いね! どこで何時から?
 ――二時半から体育館で。
 ここまでやりとりをしてから、電話をかけたほうが早く済んだと後悔した。
 スマートフォンをベッドに投げ出し、氷川は速やかに制服に着替えた。朝食を摂る習慣はないので、このまま軽音部の予備室――楽器置き場――に向かってしまおう。
 着替えて取り上げたスマートフォンが震えた。
 ――ごめんね、その時間は声楽部の発表を見たいから、行けなさそう。残念。
 本文を確認して、氷川は苦笑した。最初から期待はしていない。彼女はうるさい場所があまり好きではないのだ。
 ――気にしなくていいよ、それより気をつけて。楽しんで。
 そう送って、氷川はスマートフォンをジャケットのポケットに落とすと、足早に部屋を後にした。
 橘たちと合流して、楽器を体育館に作られたステージの袖の指定の場所に運び、そのままの流れでセッティングをしてリハーサルを開始する。本当は昨日のうちに楽器を運んでおきたかったが、クラスの当番や委員会の役割などの事情が重なって搬入できなかったのだ。
 音響と繋ぎ、そしてブレイク部分のキッカケを念入りに確かめて、定刻にステージを捌けた。機材を袖に戻す時は、逆順でセッティングすることを考えながら戻すものだと教えてもらった。なるほど、そうすれば転換でゴタつかない。経験者の智慧だ。

 リハーサルとステージの片付けが終わると、なんとも微妙に時間が空いた。ステージは十四時からで、諸般の都合を考慮して、十三時くらいには袖にいてほしいと言われている。三時間ほどの空き時間は、食事だけで潰すには長く、しかしのんびり見て回れるような心境ではない。紗織達のことも気になったが、質問攻めに遭いそうで気が引けた。
 次の組がリハーサルをするのを、シートの敷かれた、今はガラガラのフロアで眺める。ラウド系というやつか、ベースの音が腹に響く。出演者はドラム以外はひとりもステージにおらず、方々で外音を確かめていた。氷川には今ひとつ分からなかったが、橘や倉本もフロアを徘徊していたから、バランスを見るには必要な過程なのだろう。
 ボーカルの生徒がラインティングスタッフと話しているのを眺めていると、橘が袖から出てきた。ひとり残って作業をしていたのだが、終わったようだ。手を挙げると、こちらに歩いてくる。
「まだいたんだ。どこか行ったりしないの?」
「あんまり、そういう気分じゃないかな」
「そっか、そうかも。ボーカリストって繊細な人多いもんね」
 橘の台詞に居心地悪く重心をずらす。自分を繊細だとは思っていないが、他の人のことは分からない。
「橘くんの前のバンドのボーカルさんも?」
「まあ、結構、それなりに。って言ってももう大人だし、ちゃんと社会人やれるくらいには普通の人だけど」
「そうなんだ。年上の人なんだね」
 どうして解散したのとは聞けずに、頭の悪そうな感想を口にする。橘は笑って、体育館の床に座った。そして隣をぽんぽんと叩いて示す。促されるまま座ると、彼は上体を軽く揺らした。緑と黄色のレーザーライトが、体育館を切り裂く。高校の文化祭にしては本格的な照明だ。
「前のは皆年上だったんだよね。受験生と就活生がいてさ。ボーカルの人、佐竹さんって言うんだけど、転勤が決まっちゃうしで、活動の見通しが立たなくて解散したんだけど。泣いて惜しんでくれる子もいて、嬉しいやらありがたいやら申し訳ないやらでね」
「そう、だったんだ」
「うん。あの、それでね。もしかしたら来るかも」
 少し緊張した声で、橘がためらいがちに言う。意味合いを掴み損ねて、氷川は首を捻った。青く染まった橘が、顔だけ氷川に向けていた。
「来るって……」
「好きでいてくれた子。公表してなかったんだけど、どっかで嗅ぎ付けられたみたいで。氷川くんに態度悪い子がいるかもしれない。だから、最前列に女の子がいたらできるだけ、見ないようにして」
 橘の真剣な表情に気圧されつつ、氷川は眉を寄せた。
「でも、仙台の時はなんていうか、あったかい感じだったのに」
「や、今度のは違って。氷川くんを見定めに来る子がいそうなんだよね、そういうの嫌でしょ。一応、センターには友達とかにできるだけ入って貰うように頼んであるけど、ああいう子たちは本当強いから」
 橘は暗い表情で話して、大きく嘆息した。不思議な感覚を覚えて、隣で項垂れる友人のつむじを眺める。アイドルでもない、同い年の彼に、そこまで過激なファンがいるらしい。彼自身は決してよく思っていなくとも、認識しないわけにはいかない程度のファンが。
 守ろうとしてくれるのは、素直に嬉しいとは思う。プライドが欠けているとしても、庇護しようとしてくれる意思が嬉しい。けれど、もし、正式に彼と組んで活動するなら、それは必ず通らなければならないハードルだ。今避けられたとしても、いずれは――そこまで考えて、氷川は息を吐いた。まだ、返事もしてない。むしろ、正式に誘われてもいないのに、気が早いにもほどがある。
 氷川くん、と不安げに呼ばう橘の肩を軽く叩いた。
「気を遣ってくれてありがとう。俺も気をつけるね。ペットボトルとか投げられてもちゃんと避けるよ」
「う、ん。多分、そういう類いのことはしないかな。もうちょっと陰湿な感じだと思うけど、気をつけてね」
「わかった」
 陰湿な感じとはどういう風なのか。気にはなるが、あまり聞きたくない。ステージにペットボトルやゴミが投げ込まれるというのは、行儀が悪いが聞く話だ。中には靴を投げたという話もあり、それが履いてきた物だとしたら投げた人物は帰る際にどうしたのか気に掛かる。ともあれ、そうした物理的なブーイングでないなら、被害は少なくて済む。客席は見ないようにしようと決めて、橘に頷き返した。
「ごめんね、本番前に嫌な話して」
「ううん、心の準備ができてありがたいよ。それで、橘くんはどうするの、ファンの子に見つからないように隠れてるの?」
「そうしたいけど、実は、前のバンドのメンバーが来ててさ。見に来るって。それで、一緒にお昼食べる約束しちゃったんだよね。だから、そろそろ行かなきゃ」
「そうだったんだ」
「うん。良かったら、氷川くんも一緒にどうかな。校内の食堂だと危なそうだし、寮で食べるつもりでいるんだけど」
 危ないというのは、遭遇率が高そうという意味合いだろう。確かに普通に考えれば、食堂と中庭の屋台コーナーを見張っておけば、どこかのタイミングでは捕まえることができるはずだ。色々考えているものだと感心して、その後で不憫になった。誰かから逃げ回る術を身につけ、それを上達させるのは悲しいことだ。追われている、ということだから。
 橘の前のバンドのメンバーとはどんな人たちなのだろうか。遠目で一度見ただけなので、興味はあった。少し考えて尋ねる。
「俺も行ってもいいの?」
「もちろん。来てくれたら嬉しいよ」
 社交辞令ではなさそうな返答を受けて、氷川は唇を綻ばせた。
「なら、一緒させてもらうね」
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