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橘祐也

文化祭の前に 6

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 昨日の午後サボった埋め合わせを兼ねて、日曜日のクラス展の準備にはきちんと参加した。それぞれの研究成果の展示の順番や位置を決めていく。前日に慌てないように、予めボードや机をを設置する場所や必要数、どういう順番で貼り出していくかなどを決めておくのだ。
 噛み殺しきれなかった欠伸で、涙の滲んだ目尻を拭う。一緒に話していた文月が心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫か? 寝不足なんだろ。無理するな」
「ん、でも、クラスの準備参加できてないから……」
 学校行事にまともに関わるのは、もしかしたら初めてかもしれない。前の学校でも、中学でも、そういうことにはあまり積極的ではなかった。小学校の頃のことまでは記憶にないが。人の輪に入るのは苦手だったし、好きでもなかった。その本質は、おそらく今も変わってはいない。それでも、できればここでは上手くやり過ごしたかった。
 そんな氷川の内心などまるで知らない文月は、気遣わしげに顔を覗き込んでくる。
「戸田に聞いた。夜中まで練習してるんだろ。そういうことなら、無理しなくていい」
 ぽんと肩を叩かれる。氷川は目をまたたいた。
「朝も、早く来てやらなくていい。ゆっくり寝ろ」
「だけど、そしたら本当に手伝えないし」
「うちの班の展示は出来上がってるから、おまえのノルマは済んでる。それよりもコンディションを整えて、いいステージを見せろ。言っとくが、クラス展の準備なんて端から手伝う意志もない奴らもいるんだからな。それに比べればおまえは充分参加してるほうだ」
「別に、悪いと思ってるんじゃないよ。俺がやりたくてやってただけで」
「そうか」
 文月が目を細めて、氷川の頭を軽く撫でた。子供を宥めるような所作に、つい眉間に皺が寄る。彼は苦笑して、手を引いた。
「でも、二兎を追う者は一兎をも得ず、だ」
「……わかった。それで、さ」
 なんとなく言いづらくて口ごもる。文月が先を促すように軽く首を傾けた。穏やかな動作に背を押されて、問いを舌に乗せる。
「見に来るの?」
 何をと言わなかったため、文月は一瞬怪訝そうな表情を見せてから、ああと得心した風に頷いた。
「行くさ。時間が決まったら言え」
 きっぱりとした返答は、氷川が望んだそのままで、嬉しくて照れ臭くて頬を撫でた。文月にとっては当たり前のことかもしれない。けれど氷川にとっては違った。友人と呼べる存在がいて、その人物が自分の発表を見に来てくれるのは、特別なことだった。

 夕方までクラスの準備をして――独自研究でごたついている班以外は、だいたい仕事が片付いた――帰寮して食堂に向かった。橘から、歌詞が書けたら見て欲しいという打診と共に、夕食に誘われていた。
 券売機の近くで待っていた橘と合流して、食事を調達して席を確保する。時間帯が早めなためか、食堂は空いていた。食事のトレイを置いたまま、橘は真っ先にクリアファイルを差し出した。緑色のファイルに挟まれた、B5サイズの二枚のレポート用紙には、丁寧に文字が書き連ねてあった。文月ほど達筆ではないが、流麗な読みやすい文字だ。
 選曲した中で、歌詞のない曲は二曲だ。ボーカルがゆっくりめのノリがわかりやすいミドルテンポの曲には、優しい記憶と喪失の慟哭。壮大なバラードには、圧倒的な絶望と、か細い希望の光。決して明るくない歌詞が、橘から出てきたものだと思うと不思議だった。そういえば、もらった他の三曲も、明るく楽しい内容ではなかった。
 歌詞を鞄に入れ、氷川は水をひとくち飲んだ。そして、食べずに待っている橘に視線を向ける。
「いいと思う。俺は好きだよ」
「本当? なんか考えてなかった?」
「いや、ちょっと違うことっていうか、なんていうか……」
 言っていいものか迷って、口ごもる。橘が不安そうに瞳を曇らせた。
「問題あるならすぐ手入れするよ、気になることがあったら教えて」
 真剣に問われて、氷川は頬を掻いた。不満があるわけではない。しかし、橘はそう受け取ってしまったようで、梃子でも動きそうになかった。溜息を飲み込んで、言葉を探した。
「問題じゃないよ。ただ……橘くんてラブソングは書かないのかな、って思っただけで」
 それが考えたことの全てではないが、とても単純に表現するならばそうなる。世の中にはラブソングが氾濫している。愛しいと叫ぶ歌。恋しいと嘆く歌。しかし、氷川に渡された歌はどれも、恋愛を歌っていない。弾き語りをしていた晩には確かに、恋の歌も歌っていたのに。
 氷川の返答を受けて、橘は苦笑した。思い出したように水を飲んで、フォークを手に取る。銀色の三つ叉が、海藻サラダをそっと崩した。
「氷川くんが歌ってくれると思うとラブソングは書きにくくて」
「え、なんで?」
 思ってもみない台詞に、反射的に問い返す。彼は少し乱雑に、海藻とスライスオニオンを混ぜた。
「だって、あんな天使みたいな声に恋とか愛とか、申し訳なくてさ」
「俺、別に、聖人でも神学生でも神職希望でもないよ。天使とかどこがって感じだし」
 確かに性経験は控えめに表現しても豊富とは言い難いが、声だけとはいえ天使とまで言われる筋合いはない。そんな形容は、芸術の都ウィーンの少年合唱団に謹呈するべきだ。
 不服さを隠さない氷川に、橘はそういう意味じゃなくてと、手にしたフォークを置いた。
「声の話ね。でも、あれだよ、氷川くんが歌いたいならラブソングも書くけど、どうする?」
「や、いいよ。せっかく書いてくれたんだし。それにそういうの歌いたいわけじゃないよ、なんか恥ずかしい」
 単純に、橘は恋歌を書くのか、書くとしたらそれはどんなものなのだろうかと、考えてしまっただけだ。興味本位というほど不躾でもない感情の理由は、上手く説明できそうにない。本音を隠して、氷川はプレートに向き合った。もう湯気も上がっていないサーモンと水菜のクリームパスタにフォークを差し込む。
 歌いたいなら書く、そう易々と言える橘はきっと、相応の経験も積んでいるのだろう。そう思考を発展させてしまい、氷川は苦い唾を飲み込んだ。何故苦みを感じるのかさえ分からないまま、納得していない表情の橘に笑顔を作ってみせる。
「気持ちを込めるのが難しいから、いいよ。橘くんが書いたの、好きだよ」
 そう率直に告げると、橘は少し赤い顔で頷いた。

 帰寮後、ルーティンワークの自室学習を済ませて、橘から受け取った音源を流す。ボーカルのメロディラインを拾って、歌詞を読みながら吐息だけで音をなぞる。寮の部屋は、防音が完璧とはお世辞にも言えない。それでも、隣や相部屋の住民がいなければ、多少物音に気を遣わずに済む。
 念のためにタオルで口を覆って、メロディに無音声の歌を合せる。それが楽しくて、不思議だった。
 歌いたくない、もう二度と歌うものかとまで思った。自棄でもあったし、傷心もしていた。男のくせに合唱なんて気持ち悪い、そんな、よく考えればくだらない言葉に怯えて、氷川は歌うことを遠ざけた。今なら分かる。あれは単に氷川が気に入らない人物が、なんでもいいから責め立てる道具として選んだ言葉だった。それでも、人前で歌おうとすれば、あの嘲笑と暴言が甦って、喉を狭めた。だから、白沢がカラオケで聞いた氷川の歌は、決して上手いと言えるような代物ではなかったはずだ。それなのに。
 あの晩のアメイジング・グレイスは奇跡的な出来だった。疲れていたし、誰も嗤わなかったから安心できた。そして何より切羽詰まっていた。期待に応えなければと焦っていた。けれど。
 氷川は唇に笑みを浮かべた。
 昨夜のライブのように、大騒ぎにもっていくという手もあった。たとえば、WE WILL ROCK YOUのような誰でも知っているナンバーで。そして、その選択をしていたならば、こうして橘に誘われたりはしなかっただろう。そうすれば、規則を破って宿を抜け出したり、夜中に寮を抜け出して練習することもなかった。校則を考えればそちらが正しかっただろう。だが、きっと今ほど楽しくはなかった。
 甘くも優しくも明るくも楽しくもない歌を、音程を確かめながら口ずさむ。感情がまるで寄せられていないけれど、今は許して欲しかった。
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