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野分彩斗

春 1 送る人

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 日々はまたたく間に過ぎ、季節は春へと移った。
 無事に志望校への入学切符を手にした谷口は退寮期限ぎりぎりまで残り、仕事の引継以外にも色々なことを指南してくれた。折衝における振る舞い方。受験対策の組み立て方や、気構え。専門性の高い書籍の読み解き方。退寮期限を明日に控えた今日は、不備がないかどうかの確認を兼ねて書類の整理をしていた。
「それにしても余裕だよね、高三になろうとしてる時に恋人作るとか」
 顔を上げないまま、谷口が呆れたように苦笑した。
「余裕なんてないですよ、俺は外部受験ですし」
「ああ、野分くんはどうせ推薦当て込んでるもんね、あっちは本当に余裕だよね。進学後に苦しめばいいんだ」
 楽しげに呪詛を吐きながら、谷口が書類をファイリングしていく。相談した手前、どう決着したかくらいは伝えるべきかと報告した氷川は、口車に乗せられて言わなくてもいいことまで口を割る羽目になった。
 ――じゃあ、野分くんが氷川くんをひいきしてるんじゃないかって疑惑は、まだ納得いってない感じだったりして?
 ほだされて付き合うことになりましたと言った氷川に、好意の返報性って本当にあるんだねえと笑った後、谷口はそう訊ねた。どうしてここで野分くんが出てくるんですかと平静を取り繕って返答したが、動揺しているのを読まれて、結局は認めざるを得なくなった。
 気持ち悪い、あり得ないなどと言われなかったのは幸いだし、まあいいんじゃない二人が納得してるならと言ってくれたのも有り難かったが、ことあるごとにからかわれるのだけは頂けない。
 ――でもね、いくら好きだからって、それだけで大事な役割を与えたりもしないと思うけどね。氷川くんが最適だって思ってるのも本当なんじゃない? むしろ、他の人と比べて厳しいくらいに見て決めたと思うな。だって僕からしても、氷川くんならきちんと仕事ができるはずだって思えるもの。
 そう太鼓判を押してくれたことには感謝している。
 谷口がファイルを閉じて重ね、まあ、と話を繋げる。
「後悔しないならいいんじゃない。二人ともなんだかんだでやるべきことはやるタイプみたいだし」
「そうですかね、俺は自分に自信がないですよ」
 何せ行くべき学校に行けなくなってここに放り込まれた前科持ちだ。結果として良い環境で過ごせているので後悔はしていないが、それとこれとは別問題だった。肩をすくめた氷川を、谷口が軽く笑う。
「付き合い始めの浮かれてる時にそうやって不安になれるなら大丈夫でしょう。それにこの学校にいたら、否が応でも勉強する状況になるしね。夏が来たら毎日夜まで補習だし」
「そう言っても二ヶ月経ってますけど……そうですね」
「うん、そうそう、それに一年や二年浪人したところで、氷川くんの人生設計なら問題なさそうだしねえ」
 ペンを取った谷口が、付箋にさらさらと何事か書き込んで書類に貼り付ける。氷川は内容を再確認して、手にしていたファイルを置いた。そろそろ目が疲れてきて、眉間を指で押す。紙仕事は目を酷使するものらしい。
「だいたい今、野分くんがいないのも氷川くんが送り出したからでしょ? 感心しちゃうくらい落ち着いてるよね」
 言外にそこまで執着していないだろうと言われた気がして、氷川は耳の下を撫でた。確かに、春の彼岸の墓参りは腹蔵なく話す好機だと煽って送り出したのはつい先日のことだ。野分家の本家は東京にも別宅があり、社長以下そちらで普段は暮らしているらしいが、本家と菩提寺は茨城にあり、墓も当然そちらだ。野分は今、生家で胃の痛い思いをしていることだろう。
「俺だってできることなら四六時中一緒にいたいですよ」
「別に責めてないよ。お陰で落ち着いて仕事ができてるし、何であれ、溺れないのはいいことだ。ただ、まあ」
 言い止して谷口がぱらぱらとファイルをめくり、途中に書類を挟み込む。
「もうちょっと隙がないと、可愛げがないって疎まれるかもね」
 こちらを見ないまま投げかけられた言葉に、氷川は乾いた声でそうですねと返すしかなかった。
 疎まれるかは別として、可愛げがないという評価ならば受け取り慣れている。他でもない、野分から。
 夕方までかかって作業を全て終了させた氷川は、谷口に深く頭を下げた。
「お世話になりました。お陰様で、問題なく次年度以降の仕事に取りかかれそうです」
「いえいえ、こちらこそ有能な後輩が後任に着いてくれたお陰で、安心して後を任せられます」
 同じように礼をした谷口が丁寧に言う。そうしていると、本当にこれで最後なのだと実感する。予餞会と卒業式が済んでも、谷口は当然のように学内で受験対策に励んでいたので、どこかで忘れていたのかもしれない。また会う機会はあるだろうし、付き合いを続けていくことも可能だろうが、今のように接することはもう、ないのだということを。
「谷口先輩、短い期間でしたけれど、先輩にご指導いただけて光栄でした」
 僅かに震える声で告げた氷川の肩に、谷口が手を置く。そして穏やかに目を細めた。
「僕も可愛い後輩ができて嬉しかったよ。今年は氷川くんも忙しいだろうけど、夏休みでも、進学してからでも、また会おうね」
「はい。これからもよろしくお願いします」
「うん。あと、野分くんに困らされたら連絡してね、叱ってあげるから」
 上機嫌な含み笑いで谷口が余計なことを言う。確かに、野分は他のどの人物よりも谷口に手を焼き、同時に敬っていた、それは確かではあるものの。
「先輩……台無しです」
 肩を落とした氷川の苦言に、谷口が弾けるような笑い声を上げた。
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