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野分彩斗

予餞会 2:言葉と口付け

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「お疲れ。良いステージだった」
 聞き慣れた声に、思わず振り返る。薄暗くても見間違えるわけがない、ステージの進行をしているはずの野分がそこにいた。
「野分くん、なんでここに」
「ちょっと神森に任せてきた」
「え、神森くんだって仕事があるんじゃ」
「橘が落ち着いたらやらせる。それよりちょっと付き合え」
 ぐいと野分が腕を引く。疲労と酸欠の名残が消えていない身体は、抗うことを知らないように自然とそれに従った。足元が覚束ない気がするが、どうやら両足は問題なく動いているらしく、つまずくこともない。ただ、触れられた腕が発熱しているかのように熱い。
「どこ行くの」
「上」
 講堂は全校生徒と教師を収容してもまだ余裕がある、千五百余の座席数を誇る。二百人しかいない卒業生のためのイベントでは、前方の座席ブロック以外はシートとロープで使用が制限されていた。当然、二階席や三階席は開放されていない。講堂棟の三階と四階には学生食堂があるが、二階部分には二階席とそこへの扉しかない。つまり、二階部分は今日は使用しないことになっている。
 人気のない廊下を抜け、野分は氷川を手洗いの個室へ押し込んだ。自分も入り、戸を閉める。清掃の行き届いた手洗いは広く明るく綺麗だが、しかしと氷川は野分を見上げた。
「人が来たら……」
「見なかったか、故障中の表示を出してあったろ」
「故障中なの?」
「ということにしてあるだけだ。俺が決めたんじゃない、清掃業者を入れる都合だ」
「業者さんが来るの?」
「もう帰った。なあ、焦らしてんの」
 野分が氷川の頬をするりと撫でる。もう片方の手が腰を抱き寄せた。密着すると心音がばれそうで、小さく身をよじる。
「焦らすとかじゃなくて、だからここ学校だし、俺はもう良いけど野分くんは仕事があるし」
「わかってる、すぐ戻る」
 そう言いながら、野分はその場を動こうとせず、余裕のない表情で顔を寄せた。そういえば、キスをするのも久しぶりだと気付く。頭の中でカレンダーを展開し、指折り数える。
「考え事?」
 吐息の触れ合う距離で、野分が囁く。氷川は開けた目を伏せた。
「片付け済んでからならもうちょっと落ち着いて、話とかも」
 言葉を交わす間も唇は離れない。触れ合い、なぞるように辿り、指先が愛撫のようにくすぐる。下唇を唇で食まれ、氷川は背を跳ねさせた。音にならない声が漏れる。
「夜、部屋行っていい?」
 掠れた声に、身体の奥に痺れるような感覚が走る。返答は喘ぐように途切れた。
「いい、けど、だから今は」
「だっておまえ橘とも他のやつとも普通にくっついてんだもん、むかつく。おまえにとっちゃキスもハグもなんでもないことなんだろうけど、俺は……苦しい。頭が煮えそうだ」
 腰を抱いていた手が背骨をなぞるように這い上がる。氷川は野分の瞳を見返した。
「嫉妬?」
「うざいよな、悪い。付き合ってるってわけでもねえのに」
 自嘲げに言う野分の頬に、氷川はてのひらを当てた。野分が伏せた目を上げる。濡れたような瞳が不安げに揺れていて、胸が詰まった。
「嬉しい」
 囁くように告げると、野分が目を見張る。日本人らしくない淡褐色の瞳は、不安に陰っていてさえ透き通って見えた。二度またたいて、彼は眉尻を下げる。
「そんな風に言われたら、都合良く解釈しそうだ」
 悲壮感のない嘆きは甘く、懇願めいていた。肯定して欲しい、そんな誘惑に抗うのは困難だ。根負けした気分で頷いた。
「うん、それで間違ってないよ」
 囁くと、野分は虚を衝かれたように息を呑んだ。そして焦ったように尋ねてくる。
「……まじで? いつから、なんで」
 驚きを隠さない野分の様子に、氷川はええと、と視線をそらした。さして新しくない建物のトイレなのに薄青の壁はとても綺麗で清潔だ。
「なんでって言われても困るよ、分かんないもん。いつってことなら、先月の、ほら、映画見に行った日の、夜に、電話してる時……?」
 記憶を探りながらそう答えると、野分が氷川の肩にぐったりと額を落とした。体重こそかからないが、頬に髪が触れてくすぐったい。肩口に額をすり寄せながら呻く野分の背を軽く叩くが、彼は体勢を戻そうともしない。
「嘘だろ、そんな素振そぶり全然……」
「忙しかったから、気が散ると困るし」
「それって……気が散るくらい、俺のこと考えてくれてるってこと?」
 返答に、野分の声に活力が戻る。這い上がった指先が首筋を撫で上げ、襟足の髪を梳く。思わず息を詰めた氷川は、息を吐いて触れる手を払い落とした。野分が喉の奥で笑っているのが、振動で伝わってくる。立ち直りが早いなと、呆れ半分感心半分の感想を抱きながら問い返す。
「言わなきゃわかんないの?」
「わかるけど、正直ちょっと、あー、もう、だめだ会場戻って仕事しないと」
 言葉の途中で我に返ったのか、野分が身を起こす。その頬が赤く色づいていて、性質の悪い満足感が胸を満たした。自然と口角が上がってしまう。
「うん。なんか、そこまで動揺してくれると、ちょっと嬉しいね」
「根性悪」
「そうだよ、知ってるでしょう」
 自分が善良だなどと、考えたことも言ったこともない。氷川は冷淡で狡猾で臆病な人間だ。決定的な言葉一つ、自分からは渡そうとしない。そんな氷川を、野分は何故か嬉しそうに覗き込んだ。
「なあ……もしかして、もしかしてだけど、不安にさせてた?」
「どうして?」
 少しだけ弾んだ問いに反問を向けてから、失敗したと気付く。否定するべきだった。彼は気にした様子もなく、表情を和らげる。誤魔化そうとするのを押し止めるように、人差し指と中指を氷川の唇に這わせる。冷たい感触が乾いた唇を愛撫するようにくすぐった。腹の底に熱が灯りそうで、氷川は身体を離そうと身じろぐ。それを片腕で押さえ込み、野分は笑いながら言葉を紡ぐ。
「なんとなく。というか、微妙になんか迷ってる雰囲気あったし、そういうことだったら気分良いかなって。思い上がりも甚だしいわな」
 野分は誤魔化すように笑う。氷川は暫時考え、素直に心中を吐き出すことにした。息を吸い、吐く。そして吐息に紛れさせるように細く声を出した。
「本当言うと、ちょっとだけ……都合が良いから、かなあって、思ったりはしてた」
「今も?」
「どうかな」
 探るような視線から、目を伏せることで逃げる。ぼかした言葉は、氷川の内心そのままだ。それだけではないと思うが、そうではないとも言い切れない。そして氷川自身もまた、好いてくれているから好感を抱いているのではないと断言できない。
 野分は息を吐き、強く腰を引き寄せて唇を重ねた。舌が唇の表面をするりと舐め、しかしそれ以上は踏み込もうとせずに、リップ音を立てて離れる。触れ合った部分からお互いの速い心音と、季節にそぐわない高い体温が布越しに伝わってくる。目を閉じた氷川の耳に口を寄せ、野分は疲れたように囁く。
「本気で好きでもない男にここまで拘るわけないだろ」
 柔らかく甘いキスよりもその言葉に膝の力が抜けて、氷川は咄嗟に触れたブレザーにしがみついた。
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