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野分彩斗

初詣の帰り

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 綺麗に舗装された生活道路を常よりも足早に抜け、何度か訪れたことのあるカフェの扉を潜る。頭上でドアベルが軽快に鳴り響いた。まだ正月休暇中である可能性も頭を過ぎったが、営業してくれていて助かった。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「明けましておめでとうございます」
 カウンターの中から声をかけてくれた四十歳代ほどの女性に、それぞれ軽い挨拶を交わす。彼女がここのマスターで、もう一人若い女性と二人で店を切り盛りしているようだった。
「お好きな席にどうぞ。外は寒かったみたいですね」
「ええ、風が冷たくて……」
 カウンターの椅子を引こうとして、氷川は動きを止めた。そして慌てて掴んだままだった手を離す。あまり驚いたものだったから、忘れていた。大仰な反応に野分が喉の奥で笑みを漏らす。
「お見苦しい所を失礼……野分くんも笑ってないで釈明のひとつくらいしてよ」
「すみません、単に身体が動かないくらい寒かっただけなんですけど。陽射しは暖かいですけど、風が強くて冷えますね」
 防寒具を脱ぎ、軽く畳んで荷物籠に入れる。氷川もそれに倣い、コートとマフラーを外した。耐熱グラスに湯気の立つ赤い飲み物が供される。改めて座り直し、氷川は手を拭いてからグラスを手に取った。
 この店の面白い所は、最初に出される飲み物が水ではないことだ。夏は甘くないフレーバーウォーターだったし、肌寒くなったら温かいお茶やハーブティーが出てくるようになった。試作品を供し、評判の良い物をメニューに加えているようだ。
「凄く綺麗な透き通った赤い色ですね。なんですか、これ。赤い飲み物ってローズヒップが有名ですけど」
「ええ、ローズヒップとクランベリー、それからジンジャーがメインです」
「色が強いわりにさらっとしてて飲みやすいですね」
「意外と癖がないんですね、もっときつい味をしてそうな見た目なのに。これ好きだな、メニューに入ったら週一で通います」
 野分が指先を温めるようにグラスを両手で包み、賞賛を述べる。マスターが苦笑した。
「褒めてもこれくらいしか出ませんよ」
 人型に抜かれたクッキーが、小皿に六枚ほど出てくる。少し焦げていたり、端が欠けていたりと、いわゆる“ロス品”と呼ばれるものだろう。
「ありがとうござます、いただきます。それから、このお茶のお代わりと、フレンチトーストをください」
「あ、俺はBLTサンドとブレンドお願いします」
「お代わりはお代をいただきますよ」
 野分に釘を刺してから、注文内容を復唱し、伝票を書いてマスターが調理場へ引っ込んだ。
「気に入ったの、それ」
「うん、飲みやすいしあったまる感じがこう、ほっとする。あー、それで、さっきの話の続きだけど」
 野分がクッキーをぱきりと割り、上半身を氷川に手渡した。
「多分、そうなんだと思う。正直自信ないけどな、今まで女の子としか付き合ったことないし。でも、おまえのことは、なんていうか……嫉妬はしないくても、そういうことが気になるくらいは、気にしてくれてるんだろ」
「んん、と、どうだろう」
 渡されたクッキーをかじると、生姜の香りがした。クリスマスのジンジャーブレッドだったらしい。
 野分が恨みがましそうな視線を向けて来る。氷川はクッキーを飲み込み、お茶をひとくち飲んでから口を開いた。
「気にしてたら、嬉しい?」
 訊ねると、野分はゆっくり目をまたたく。そして困ったように失笑した。
「嬉しいよ、そりゃな。本当、なんつうかあれだ、前途多難かこれ」
 声音には疲れが滲み、吐き出した吐息さえ重そうだ。ぐったりと落ちた腕がマホガニー調のカウンターを這った。ええと、と、氷川は頬を掻く。
「ごめん、実はそういうのもよく分かってなくて」
「だと思った。いい、もういい、諦めた。躱されてるんだと思ってたけど、むしろ分かんないって本当に分かんないのほうか」
 野分が舐めるようにお茶を飲む。中身の減ったグラスの内側を、赤い液体が伝い落ちた。
「別に、躱す意図がなかったとは言わないけど」
「……だよな」
 呻くように言った野分は残ったクッキーを更に割り、半分を口に運ぶ。咀嚼する様子を横目で見遣り、氷川は目を伏せた。
「だって、どれくらい、どう、そうなのか分かんなかったからさ、一生懸命考えて、からかってただけって言われたら口惜しいじゃん。ああいや、別に、野分くんがそういう風に人で遊ぶとも思ってないけど、可能性として」
 店内にはもう三組の客がいる。窓際の席で本を読む大学生くらいの女性と、奥の卓で話し込む三十歳代くらいの男女、そして卓を囲む高校生くらいの女の子四人組。流れるゆったりとしたピアノ曲が会話の声を消してはくれるだろうが、それでも直截な単語を口にする勇気はなかった。
 氷川の代名詞ばかりのぼかした話し方でも、言いたいことは伝わったのだろう。野分が姿勢を正し、頬に流れた髪を耳に掛けて苦笑した。
「それで、結論は出せた?」
「多分ね」
「多分か。なら、答え合わせするか」
 どうして彼はこんなに余裕そうなのだろう。少し身体を傾けて、下から覗き込むように野分を見上げる。その角度で野分を見たことがなかったので、不思議な感じがした。
 冷めた赤いハーブティーを一口飲んで、グラスを卓に戻す。
「認めるよ、真面目に言ってくれてたんだよね?」
「あー、まあ、言っちゃいない気もするけど、そうだな」
 好意を向けてくれていると考えて良いのだろうと、そう婉曲に訊ねた氷川に、野分は特に照れもせず肯定してみせた。物語の登場人物のように、この場面で心臓が痛くなったり、頬が熱くなったり、飛び跳ねたい気持ちになったりすれば、きっと野分は喜んでくれる。だが現実の氷川は少々据わりの悪さを覚えるだけだった。
 野分が手を伸ばそうとして、慌てたように指を握り込んで引く。そして唇の片端を歪めるように上げた。
「困った顔するなよ、別に今すぐ返事を寄越せとか、よく考えろとか言ったりしない」
「それは、どうも」
 猶予期間というやつだろうか、考えながらジンジャーブレッドに手を伸ばす。手の欠けた一枚をつまもうとした中指の爪を、野分が悪戯を仕掛けるようにつついた。
「ただ、もう遠慮しないから」
 囁くように告げられた宣言に、氷川は横目で野分を見遣った。彼は瞼を半分ほど伏せ、カウンターあたりに視線を落としていた。横顔は何を考えているのか読み取りづらい。これまで、はっきりしない部分はあっても、遠慮されていたとは思わなかった。驚きのまま、鸚鵡返しに訊いてしまう。
「遠慮してたの?」
「ちょっとは。でも嫌じゃないなら、がんがん行っていいかなって」
 がんがん。口の中で物騒なオノマトペを繰り返し、氷川は額を押さえた。
「その、お手柔らかにお願いします」
「それ、お願い事?」
 楽しげに問われて、氷川はえ、と間抜けな声を漏らす。お願い事というのは、野分から押し付けられた課題だろうか。しかしあれをここで消費するのは意図とずれている気がするし、それを考慮しなくても何となく、惜しい気がした。
「や、えっと……保留で」
「そう。じゃあまあ、返事も保留かな」
 野分が氷川の手からジンジャーブレッドを浚い、半分に割って氷川の口元に寄せる。先程食べ損ねたそれは、食べれば美味しいと分かっているのに、餌付けのような振る舞いに口を開くことをためらわされる。
 逃した視線の先で、厨房でマスターがサンドウィッチの仕上げをしているのが見える。あれらを持ってカウンターに戻ってきてくれたら、この居たたまれない状況から解放されるはずだ。困惑しきり、焦れる氷川の様子に、野分が上機嫌そうに笑みを漏らした。

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