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野分彩斗

ディプロマシー 2

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 詰める所を詰めた後、氷川は野分の袖をそっと引いた。
「あとは、スカンディナビアとその近海についてだけど」
「俺は橘先輩とお話ししたいですし、外します。よろしくお願いしますね」
 最後に残した話題を俎上に載せると、山井が礼儀正しくその場を離れた。充分な距離が開くのを待って、野分がそっと囁く。
「本題は?」
「野分くんはスウェーデン、欲しい?」
「そりゃ、貰えるもんならな」
 直截な問いに、野分は動じることなく頷く。氷川は視線だけで山井を窺った。
「これは純粋にパターンの話だけど、露土がオーストリアを併呑した後、ロシアが西を向かずにトルコを攻めて、勝ったとする。その間、ドイツが東欧を静観しているとは思えない。俺なら迷わずロシアの国力を削ごうとする。または、ドイツとトルコが協調して北上する可能性もある」
「そうだな、ロシアは巨大だし、極地に近いとはいえ海もある。そもそも、ドイツにとってはロシアは絶対に脅威だしな」
「そう。もしドイツが対露姿勢を取ったら、ドイツの背中をつついてくれると嬉しい。それが成功すれば見返りに北欧を引き渡してもいい。もちろん、イギリスが対独するなら手伝う」
 無論、ロシアが滅べば北欧はイギリスの天下だ。この頼みをイギリスが受ける必要はない。いっそ英独土でロシアを分割するという手段もある。だが、氷川は切り分けられるのを待つパイになりたくはなかった。
 目を細めて暫し考え、野分が氷川を横目で見遣った。
「イギリスが対独戦線を張らない場合、俺のメリットが薄いな」
「何が欲しいの? デンマーク、ヘルゴランドとスカゲラク……ボスニア湾、バルト海」
「海ばっかりだな。まあ、ボスニア湾は空白で構わない。あとは、そうだな……個人的な楽しみも欲しいかな」
 バルト海までイギリスの侵入を許したくはないのだが、そんな思考を途切れさせ、氷川は顔を上げた。野分は唇に笑みを掃き、首を傾げる。柔らかそうな髪の向こうに、夕焼けに染まった空が見えた。
「陸地を出せないなら他のものでもいい」
 賄賂の要求に氷川は眉を跳ね上げた。
 分かりやすい金銭の授受は禁止、金額上限は食堂のコースメニューまでという取り決めは、ボードゲーム部の規則らしい。古今東西どこででもあるやりとりだ。差し出せるものがないならば、ゲーム外の利益を提供する。氷川はさして迷わず問い返した。
「なにが欲しいの?」
「多少、下世話な要求をしても?」
「下世話、って。野分くんが俺に何を求めてるか分かんないんだけど。内容によっては断るよ」
 ゲーム内の滅亡と現実の自尊心ならば、後者を取る。もちろん滅ぼされても精神は傷つくが、自分から売り渡すよりはいくらかマシだ。顔をしかめて告げた氷川の反応に笑みを漏らし、野分は袖に触れたままだった手を指先で撫でた。
「じゃあ、簡単なものにしよう。氷川の読みが当たって俺の助けが役に立ったら……そうだな、遊びに行こう。映画でも奢ってくれ。なんならハグでもいいけど、メシじゃ対価になんないだろ」
「映画ね、後で好きなジャンル教えて」
「スプラッタホラーって言っても付き合ってくれんの?」
「クメール・ルージュとルワンダ虐殺、どっちを扱った作品がいい?」
「スプラッタでもホラーでもねえな」
 氷川の出した凄惨かつ非道徳的な選択肢に、野分が顔をしかめた。その反応は正しい。スプラッタホラーは娯楽だが、それら虐殺は実際にあった悲劇だ。家族を、恋人を、友人を、恩師を失った人々にとって、それは歴史にはならない。腕を、足を、人間の尊厳を奪われた人々には、謝罪があり法の裁きが下されても、犯人を許すことは困難だ。
 真っ当な反応に安堵し、氷川は肩をすくめた。
「不謹慎だって怒る? 一応、精一杯の譲歩のつもりだけど」
「いや、いい。ちゃんと考えとくから睨むな」
「ん。約束を守ってくれたら映画でもなんでも連れて行くし、なんなら黙ってクッションにもなってあげる。だから、俺が狙われたら助けてね」
 軽く握った拳を顔の高さまで上げると、野分は表情を緩め、そこに拳を軽くぶつけた。

 結論から言えば、氷川の懸念は正解だった。
 山井ドイツは神森オーストリア保護政策を採り、オーストリアは地中海へ展開しようとした。平沢とも懸念を共有し、橘と話をつけておいたお陰でドイツを押さえ込めたことは喜ばしい。最終的には見事に食い合いになり、食堂のラストオーダーを前に強制終了と相成ったが。
「もう……いつも思うんですけど、氷川さん絶対、性格悪いですよね? いつもいつも俺の夢を打ち砕いてくれて……」
「諦めろ、そもそも神聖ローマ帝国による欧州制覇って夢が間違ってるんだ。あんなの神聖じゃなければローマでもなく、帝国ですらない、ローマ帝国とは別物じゃないか」
 野分の辛辣な言葉に、山井が眦を吊り上げた。
「ヴォルテールは名言多いですけど、その言葉はロマンを解してないですよ」
「本当のことじゃん。でも実際、氷川先輩はなんで山井の出方が分かるんです?」
 ロールキャベツを切る手を止めて、平沢が訊ねてきた。黒海での衝突を偽装しつつ一緒に征西した仲なので、自然と当たりが柔らかくなる。興味深そうにこちらを見る橘と神森の視線を意識して、氷川は箸を置いた。
「分かってるわけじゃないよ、ありったけの可能性を考えて、できる限りセーフティを張ってるだけ。誰が嘘を言ってても、どう動いても、他の皆と協力体制を築けてたら簡単に滅びないでしょ?」
「お陰で俺は早々に袋にされましたけどね。根回し早いし厄介なんですよ本当。またやりましょう」
 山井が煮込みハンバーグにフォークを突き刺す。笑顔だが、所作が荒い。氷川は頬を引きつらせた。
「お手柔らかに」
「こっちの台詞です。次は鉄壁の同盟組みましょうね」
 卓の向こうから睨め付けてくる山井に、苦笑して曖昧に頷く。橘がてのひらで耳の下をさすった。
「そんな後ろから狙われそうな同盟はやめといたほうがいいよ。卓全体に氷河期が来る」
「僕は悪くないと思いますよ、氷川くんと山井くんが潰し合っている所に横から奇襲を仕掛ければこの二人を排除できるかもしれません」
「ウロボロスか、逆に他の国が滅びそうだけど……神森くんも意外と怖いよね」
「神森先輩きついです、俺が何したって言うんですか」
「そりゃあ今までの数々の……な」
 クリームシチューを掬う手を止めて、野分が思わせぶりに笑う。そして氷川に視線を向けた。
「氷川も気を付けな、次は我が身だ。山井も大概容赦ないけど、おまえも結構えげつない」
「肝に銘じておくよ」
 氷川は隣に座った野分にメインディッシュの皿を寄せる。唐揚げをいくつか取って、野分が皿を返した。その様子に、山井が目をまたたく。
「もしかして、それが賄賂ですか?」
 移動した唐揚げを身振りで示す山井を見返し、氷川は野分に視線を滑らせた。彼は軽く首を傾げ、唇だけで微笑む。
「秘密」

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