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横峰春久
予餞会の日 1
しおりを挟む予餞会のプログラムには、氷川も誘われてはいた。橘と、クラスメイトで軽音部員の戸田がかなり熱心に口説いてくれたが、氷川は最上級生との交流も乏しく、練習時間を取れそうになかったので遠慮したのだ。
氷川が最も面識のある最上級生は、悲しいことに金本たちだ。彼らは予餞会には出席できない。顔を見てもうんざりするが、いないことを確かめても嫌な気分になりそうだったというのも、誘いを蹴った理由のひとつではある。
彼ら五人は一足早く退寮手続きも済んでいるし、卒業式の当日さえやり過ごせばなんとかなると考えていた。その見立てはおそらく、間違いではなかっただろう。ただし、当日さえ、という見込みが叶えばの話だ。
現在氷川は、物陰に押し込まれていた。目の前にはスーツ姿の最上級生が三人揃っている。目の前に金本と木下、少し離れて林。安田と黒井という人物の姿はない。氷川は苦い気持ちで、三人の生徒を見上げた。
そもそも、在校生はカレンダー通り休日になる今日この日に、氷川が校舎付近にいること自体がイレギュラーだ。本来ならば寮に籠もっていた。それが一番安全だ。それがこんな場所にいるのは、ひとえに氷川の迂闊さに由来する。
好天につられて布団をベランダに出した。寮の個室は狭いが、全室ベランダが完備されている。景観を気にするデザイナーズマンションと異なり、洗濯物や布団類を干すことも禁じられていない。先の土日が雨だったこともあり、風と陽射しに当てようと思い立った。だがうっかり、布団挟みを落としてしまった。幸い下に人気はなかったが、九階から落下したプラスチックは無事ではないだろう。ゴミ袋を掴んで部屋の下に駆け付け、大きくひび割れた布団挟みを拾い上げた。細かく割れていなかったのは不幸中の幸いだ。芝生がクッションの役割を果たしてくれたのだらしい。確かこれは不燃ゴミの筈だと考えながら、収集場所へ足を向けた。金本達に捕まったのは、その帰り道だ。
如水学院の立地が交通の良い場所ではないこともあり、卒業式は午後からだ。金本等は親族と一緒に登校し、一緒に帰宅するはずだと考えていた部分もある。家族に囲まれていれば、そうそう無茶はできないはずだと。しかし、現実はそうでもなかったらしい。
「どうして、こんな場所に?」
諦めた境地で、氷川は金本に問いかける。廃棄物の収集場所は、業者の車が入ってくる都合もあって私道に面した、寮からも学校からも遠くない位置にある。徒歩でほんの数分の距離だし、人目も多い。にもかかわらず、氷川は引きずられるように物陰へ連れ込まれた。どうしてこんなことにと、自分の迂闊さと間の悪さを呪いたくなる。
怯えない氷川に苛立ったように、木下が顔をしかめた。
「卒業生が卒業式に出るのは当然だろ。で、六年間在籍した学校を見て回りたくなるのも、当然だよな」
「俺らは残念ながら、別れを惜しむ暇も貰えなかったからな、今日くらい見て回ったっていいだろ」
木下と金本が嫌味たらしい物言いで氷川に凄む。それは好きにすれば良いが、氷川を巻き込むのはやめて欲しかった。顔をしかめた氷川に、木下が唇の端を歪める。
「それに、おまえには礼を言っとく必要もあったし? たまたま、会えて、ラッキーだった」
「……お礼参りなんて昭和の遺物が今も残っているとは思いませんでした」
まさかどこかで見張ってでもいたのだろうか。随分と情熱的だが、その熱意は他の方面に向けて欲しかった。そもそも小賢しい小銭稼ぎの術だって、真っ当な方面で働かせておけば、こんなに面倒なことにもならなかっただろうに。そんな呆れた感情が表情に出てしまったのか、木下が氷川の背後の壁を蹴りつけた。さすがに背筋がびくりと震える。
「そんな懐かしい単語も知ってんなら、意味合いも知ってるよな。おまえも俺らに言うことがあんだろ?」
「いいえ、特に思い当たりません」
暴力は怖い。威圧されるのも、本当は怖い。だが、ここで顔を伏せるわけにはいかない。氷川が謝れば、横峰や、他の部員、教師たちがしたことも誤りだったことになる。ここは、何一つ後ろめたいことはないかのように振る舞わなければならない場面だ。
金本が舌打ちした。林が腕組みした指先で苛立ったように腕を叩く。
「おまえがしゃしゃったせいでこっちは散々な目に遭ってんだよ。横峰の野郎も使えなかったしな」
金本の言葉に、ぴくりと目尻が引きつるのを感じた。
「使えない?」
「そうだろ、せっかく仕込んでやったのに投げ出して、挙げ句に教師と結託しやがった」
「なんのために部長に据えたんだかなあ」
木下が歯噛みしたのが分かった。よく磨かれたローファーが地面を蹴る。眩暈のような感覚を覚えて、氷川は目を眇めた。耳元でさらさらと血液の流れる音がする。胸が苦しく、吸い込んだ息が鎖骨の辺りまでしか下りていかないような錯覚を覚えた。
氷川は下ろしたままの手を強く握り込んだ。そして細く息を吐く。この煮えたぎるような情動が何か、知っている。
これは、怒りだ。
氷川は目の前の金本を睨み付け、ゆっくりと口を開いた。声は、意識せずとも普段よりも低くなった。
「彼は、あなた方のために頭を下げました。退学や停学にはしないで欲しいと、大切な、お世話になった先輩だからと、そう言って。あなた方には、横峰くんはただの道具でしかなかったんですが。彼に競技登山を教えたのもただの義務で、なんの気持ちも、情もなかったんですか」
横峰は言っていた。利用されていたとしても、様々なことを教えてくれた先輩だ、感謝もしていると。横峰を部長に据えた理由が打算だったとしても、それでも認めて貰えた部分もあるはずだ。そして彼らの競技に対する姿勢それ自体は真剣なもので、尊敬できた、と。
競技から離れて、その精神が濁ってしまったのだろうか。安易な道を知って低きに流れ、淀んでしまったのか。それとも、横峰は表層しか見えていなかったのだろうか。苦く思い出す。大切な先輩だから、できるだけ経歴に疵を付けたくない。どうか穏便な処分にしていただけませんか。うちの部ばかり問題をおこして申し訳ありません、心から反省していますし、再発防止を徹底しますから、だから、どうか。横峰は教師陣に土下座せんばかりの勢いだった。だから彼らは自宅謹慎という形式的な処分で済んだのだ。
無論、あの場にいた人間以外は知り得ない裏事情だ。察しろなどと言うつもりもない。だが、それでも、横峰の厚意を踏みにじる物言いは許しがたかった。彼らは自分で書いて学院長に預けた退学届の存在も忘れてしまったのかと呆れてしまう。
氷川の様子にか、それとも告げた内容にか、金本が息を呑んだ。
「頭、を……あいつが……?」
呆然としたように金本が呟く。木下が眉をひそめ、林は顔を逸らした。三者三様の反応の中、疑い深げに氷川を見てくる木下を見上げ、口を開いた。
「あなた方だって、自分のしていることが正しいとは考えていなかったはずです。だからこそ、学校に知られないようにしていた。見過ごすほうが楽に決まっているじゃないですか。部のことを考えても、横峰くん自身の立場でも、黙っているほうが都合がよかったんですよ」
「じゃあ、どうして俺らを売ったんだよ」
木下が腹立たしげに地面を踏みにじる。それは理不尽さに腹を立てているのではなく、認めたくない事柄を突きつけられて焦っているように見えた。考えてみれば当たり前だ。目の前にいるのは得体の知れない破落戸ではなく、相応の教育を受け、それなりの大学に進学を決めている人物なのだ。ものの道理が分かっていないはずがない。それがこうも道を踏み外してしまうのが不思議でさえある。金銭や快楽の誘惑は恐ろしい。人を簡単に愚鈍にする。
嘆息と共に怒りを吐き出し、氷川は三人を順に見つめた。
「大切な先輩だからこそ、道を誤ることなくいて欲しいと願うのは当然じゃないですか」
平然と告げた氷川から、金本が視線を逸らす。木下が唇を噛んだ。
「彼の厚意は、あなた方にとっては傲慢な、愚かな、無意味な、鬱陶しいだけのことだったんですか」
だめ押しのようにそう訊ねる。林が重心を移すように足をずらした。その背後に影が差し、氷川は目を見張った。いつの間に、という驚きと、気恥ずかしい台詞を聞かれてしまった居心地の悪さで身じろぐ。音も無く歩み寄ったその人物は、手を出すつもりがないことを示すように腕を組んだ。
「こんなところで何をしてるんですか」
低い声が、穏やかに問い質す。林が肩を跳ね上がらせた。
「……横峰」
地を這うような声音で、金本が彼の名前を呼ぶ。横峰は苦い表情で腕を解くと会釈した。
「ご無沙汰しています、金本先輩、木下先輩、林先輩。ご卒業おめでとうございます」
ああ、とか、ありがとう、とか、口の中で応じる三人を順に見遣り、横峰が目を眇めた。
「それにしても……開式も近いというのに、こんな所にお揃いでどうしたんです? 彼が、何か」
「いや、あー……少し、話を……聞かせて貰ってた」
歯切れの悪い林に、横峰が眉を上げる。
「こんな物陰でですか」
「人に聞かれたくない話だ」
「彼とですか、俺でも、先生でもなく?」
横峰の声色が厳しくなる。これはもしや、仲裁したほうが良いのだろうか、そんなことを考えていると、タイミング良く校内放送が流れた。卒業生と卒業式参列者は講堂にお集まりくださいというアナウンスだ。
「時間みたいですね」
解放するかのような横峰の言葉に、三人が詰めていた息を吐く。半歩建物に近付き、道を空けた横峰の脇を林と木下が早足ですり抜ける。金本もそちらに向かい掛け、しかし足を止めた。
「二人とも、その、なんだ、悪かったな」
言いづらそうに迷った末、吐き捨てるようにそう告げて、金本が走り去る。弾かれたようにそれを振り返った横峰が、やがて静かに頭を下げた。
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