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横峰春久

三学期 3:銀世界の夢想

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 午前の授業を終えて帰寮すると、寮のフロアは静まり返っていた。氷川の部屋があるのは三年生が使用しているフロアの隅にある予備室で、原級留置、留学などの事情がある生徒が固まっている一角だ。一般選抜入試を受験する三年生たちは、大学入試センター試験受験のため学校を離れている。同じフロアには自習室も設けられているが、この時間帯はそちらも人気がない。
 寮食堂で昼食を済ませ、自室に戻る。横峰は、午後の講習を一科目だけ受けてから来るという。
 好成績の秘訣は堅実な学習なのだろうなと感心半分に考えるものの、今日も氷川は講習を取らずに帰寮してしまった。勉強は嫌いではないし、分からない時は教わったほうが効率が良い。しかし、それなりに理解できていると思うとつい、自習を選んでしまう。講師から教わるほうが理解を深化させられることも知ってはいる。だが、自分のペースで学習をこなしたほうが格段に速く、他のことに時間を使える。
 父から借りた書籍をめくっていると、扉が叩かれた。
「氷川くん、いる? 横峰だけど」
「いるよ、今開ける」
 横峰の声はどこか不安げな響きを帯びていて、氷川は急いで解錠した扉を引く。私服に着替え、レジ袋を提げた横峰が、所在なさそうに眉を提げていた。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します。これ、お土産」
 横峰がレジ袋を差し出す。受け取ると、それなりの重みがあった。買ってきてくれたらしい。
「ありがとう、良かったのに」
「手ぶらで邪魔するほうが落ち着かないから」
「飲み物のひとつも出ない部屋でごめんね。座って」
 特に皮肉でもない、いつもの軽口だったが、横峰は慌てたように手を振った。
「いや、そういうつもりじゃなくて」
「うん、親切で買ってきてくれたんだよね、わかってる。お茶とコーヒー、お茶が横峰くんのでいいの?」
「うん、そのつもり」
 短く答える横峰に、お茶のボトルを渡す。どちらもまだ熱く、買ってそう時間は経っていないようだ。
 普段は片付けているスツールを、横峰と斜向かいになるように置いて腰を下ろす。彼は備え付けの椅子に座ると、机上に視線を向けた。
「勉強してたの? 邪魔してごめんね」
「横峰くんが来るまでの暇潰しだよ。父からの借り物」
「中南米情勢の本?」
「荒れてるのは中東だけじゃないって話。気分のいい内容じゃないよ」
「ああ、オリンピックの反対運動もあるんだっけ」
 ニュースになることも多い話題に、横峰が軽く頷く。それもあるが、それだけではない。マフィアの脅威、不安定な治安、先行き不安な経済と、明るい展望は望めない。氷川は肩をすくめた。
「外国の状況を見ると、日本に生まれて良かったって思っちゃう。昔の人が頑張ってくれたお陰だし、日本海と太平洋っていう海の守りもあるし、って」
「植民地化されて愚民政策が採られたところは今もひどいところが多いもんね。言葉や文化が殺されたのは、アメリカやカナダやオーストラリアだけじゃない」
 暗い表情で同意を示し、横峰が顔を上げた。
「いつも、こんな難しい本を読んでるの?」
「まさか。横峰くんも知ってるでしょ、俺は大抵映画漬けだし、そうでなくても学校の勉強と試験の勉強で真面目なことは手一杯だよ」
 氷川には元々、読書の趣味はない。本が読めないわけではないが、読書家とは程遠く、図書室の利用もDVDばかりだ。とはいえ、その映画鑑賞もここのところお預けだが。六月の検定試験に間に合わせたいと思えば、遊んでいる余裕はあまりない。そんな氷川の焦りなど知るよしもなく、横峰は感心した様子で書棚を一瞥する。年明けに彼が来てからラインナップは変化していないはずだが。
「あ……これ」
 何かに気付いた様子で彼は手を伸ばした。するりと引き出されたディスクケースに、そうか、と気付く。それは新しい品物だ。昨日レンタルしたばかりの、山岳救助を題材にした映像作品だった。
「図書室で借りた。見たことある?」
「うん、あるよ」
 目を細めて、横峰がケースの裏側を見下ろした。訊ねはしたが、彼が見ていないはずがないと思っていた。彼自身が冬山に挑むことがなくとも、それはハイカーの憧れであると氷川も知っていた。会話の糸口に利用できないかという下心があって調達した部分もある。
「借りたはいいけど、まだ見てないんだよね。どんな内容?」
「それは見て楽しんでもらわないと。見所っていうなら、雄大な銀世界一択」
「それは楽しみだな。見る時間が取れるといいんだけど」
 一時間半、二時間、画面に向かい合うだけの時間を確保するのは意外と難しい。横峰が苦笑した。
「延滞してでも絶対見て。本当おすすめ。氷川くんが借りてて俺も嬉しいくらい」
「うん。良かったら、今から一緒に見る?」
「いいの?」
 目をまたたいた横峰が、瞳をきらめかせた。そんなに好きなのかと思うと、興味がそそられた。
「ノートだから画面小さいけどね」
 言いながら、パソコンをセットし、電源を入れる。オペレーションシステムが起動するまでの短いタイムラグの間、横峰は迷うように目を伏せていた。システム音が鳴って、パスワード入力画面が開く。気を遣って立ち上がった横峰が、窓へ足を向けた。レースのカーテンの向こうには、抜けるような冬の群青が広がっている。
「カーテン閉める?」
「開いてると画面見づらい?」
 尋ねた氷川に、横峰が聞き返す。手早くパスワードを打ち込み、目を眇めた。
「暗いほうが見やすい」
「それなら、ちょっと閉めよう」
 タッセルを外してカーテンを広げると、部屋が暗くなる。遮光カーテンを完全に閉めると暗くなりすぎるので、ほどほどに光が差し込む程度に調整していた横峰が、大きく息を吐いた。こちらに背を向け、空を見上げるように顔を上げている。
「横峰くん、どうかした?」
「普通だと思って」
 要領を得ない返答に、眉が寄る。彼はこちらに背を向けたまま、吐息だけで笑みをこぼした。
「もっと、どうしたらいいか分からないと思った。俺、態度悪かったでしょう。氷川くんは怒ってもいいのに、そうしないんだね」
「……横峰くんに、怒ることなんてないよ。気分悪い思いさせたのは俺のほうでしょう」
 先日の食事の際のことだと見当を付けて答えると、横峰がかぶりを振った。
「違う。俺はただ……嫉妬しただけなんだ」
「嫉妬?」
 意味が分からず、鸚鵡返しに訊ねる。横峰が手を上げて、カーテンを隙間なく閉めた。窓からの自然光が遮られ、液晶画面の光が放射状に広がる。それは氷川の顔を照らし、いびつな影を壁や床に落とした。
「氷川くんが怒るところ、初めて見たから。その幼馴染みさんが本当に大事なんだって……当たり前なのにね。物心ついてからだって十年以上の付き合いだ、そりゃ、一年にも満たない俺とは違う」
 自嘲めいた響きでこぼし、横峰がくるりと振り返る。彼は足音もなく氷川のすぐ側に歩み寄った。見下ろす顔は、表情が見えづらい。氷川は眉を寄せた。
「横峰くん、怒られたかったの、俺に?」
「怒ってくれたら、俺は氷川くんを怒らせることが出来るって驕れるでしょう」
「俺は別に、菩薩よろしく怒らないわけじゃないよ」
 横峰の物言いはまるで、揺さぶりを掛けようとしているかのようだ。氷川は我が身を省みて、内心で首を傾げた。そんなに自分は怒らない人間に見えていただろうか。苛立つこともあれば、気分を害して機嫌が悪くなることもある、普通の人間だというのに。
 氷川の返答に、横峰が怪訝そうに片眉を上げた。
「そう? あんな風に怒ったの、初めて見たよ」
「だって、ここに来てから、嫌なことないし。そりゃ困ったりとか、疲れたりとかで態度悪い時もあっただろうけど……怒るほどのことってなかったよ」
 横峰に絡まれた時も、気分は落ち込んだが怒りは沸かなかった。他の誰に対しても同じだ。氷川の言葉に、横峰が肩を落として嘆息した。ぐったりと椅子に座り込む。
「氷川くんって、沸点高いの?」
「さあ、分かんない。でも怒ると疲れるから、あんまり好きじゃないかな」
 自分でも意識したためしがないので、返答が曖昧になる。おそらく沸点の問題ではないだろう。怒る前に困ってしまうし、疲れてしまうだけだ。それはある意味、薄情なことかもしれない。怒りは強い感情だ。そのやりとりを避ければ畢竟、表層的な付き合いに留まってしまう。他者に興味がないように見えるのも仕方がない。
「なんか、ごめん。横峰くんがどうでもいいわけじゃないよ」
「……うん」
「怒ってはないけど。でも、不安だったよ。何が悪かったのかな、愛想尽かされたかなって思ってた。だから、来てくれて嬉しかった」
 薄暗闇の中で、横峰が息を呑む。画面を見やすいように、椅子をすぐ隣同士に並べたせいで顔は見づらい。代わりのように、氷川は手を伸ばして横峰の腕を叩いた。その手首に、横峰の手が絡みつく。乾いたてのひらが、熱い。
「俺と、話したいって、思ってくれてた?」
「そうだよ」
「それって、他の誰かと気まずくなっても、同じなの」
 手首を掴む手に、僅かに力が込められた。氷川は首を傾ける。そもそもの問題として、氷川は人間関係の構築、維持に慣れていない。表層的に挨拶を交わし、ちょっとした雑談をする程度の相手を作ることはできているが、拗れるほど深い関係の相手は多くない。そしてたとえば川口や文月から、突然素っ気ない態度を取られたとして、氷川はおそらく、その修復にさして拘泥しないだろう。受け入れ、受け流す。そうしてやり過ごすのが、もっとも傷つかない生き方だった。
「どうかな、きっと、諦めちゃうかも」
「じゃあ……俺は」
 横峰が小さくこぼす。問いの響きではない。単に思考の断片がこぼれ落ちたような声音だった。
 氷川は何も言わず、小さくかぶりを振った。
 今までのように話をしたかった。なんでもないような雑談を積み重ねる、穏やかな時間を共有していたかった。取り戻したいと願って、けれど自分だけならば諦めてしまっただろう。川口の後押しがあればこその現在だが、それをあえて告げる必要もない。横峰は相変わらず川口が苦手なようだし、川口もあまり感謝されることを好んでいない。もっとも、彼の場合は単に気恥ずかしいだけだろうが。
「自惚れていいのかな」
 黙したままの氷川を覗き込むようにして、横峰が問う。ぬくもりが手首から移動して、するりとてのひらに回った。指の隙間に絡まり、甲を指先が撫でる。咄嗟に引きかけた腕が、強い力に阻まれて戻ってこない。氷川は二、三度目をまたたき、僅かに眉をひそめた。
「横峰くん?」
「俺は、氷川くんにとって、それなりに特別だって思ってもいいの?」
 言葉だけ取れば、あるいは友情を確かめるようにも聞こえただろう。横峰が氷川の手を撫で回してさえいなければ。
 意図を読み切れないまま返答を保留し、氷川は視線を床に落とした。
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