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横峰春久

冬期休暇 1

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 結局、三十日の午後から実家に帰省した。父もさすがに年末年始は事務所を閉めている。これは父自身の都合というよりも、雇用しているスタッフのためらしいが。今日の午前中に大掃除を済ませ、氷川が帰宅した頃には父も母も家に揃っていた。顔を合わせるのは文化祭以来なので、約二ヶ月ぶりだ。
「ただいま帰りました」
 帰宅するのは半年以上ぶりなので、奇妙な違和感がある。慣れ親しんだはずの実家が、知らない場所のように思えた。居心地悪く身じろぐ氷川を可笑しそうに見て、母が荷物に視線を向ける。
「おかえりなさい。荷物を置いていらっしゃい。すぐ夕食にしますから」
「はい。あ、父さん」
 リビングで本を広げる父に呼びかける。父は不思議そうに顔を上げた。
「どうした」
「お暇な時で結構ですので、少しお時間いただけませんか。一級の対策なんですが、理論部分は独学では限界があるので」
「ああ、簿記か。わかった、夕飯の後でやろうか」
 目を細めた父が、鷹揚に頷く。氷川は頬を緩めた。
「よろしくお願いします」
 教師陣にも簿記の有資格者はいるが――専門科目の教諭だ――これを取っ掛かりに父と関わりを持ちたい気持ちもあり、教授を頼んだ。おそらく、父も氷川の狙いは理解しているだろう。
 再度母に急かされ、氷川は足取り軽く自室へ戻った。換気や清掃などの手入れはしてもらっていたようで、長いこと帰宅しなかったというのに自室はすっきりとしている。頬を緩めて、ひんやりとした学習机に手を当てた。
 この部屋を出て行く時は、どうしようもなく暗澹たる心地だった。現在の自分も、過去の自分も嫌いで、未来など見ようともしなかった。誰にも同じように訪れる朝を厭い、憎んですらいた。自分が世界に対して扉を閉ざしていただけだというのに。
 今の氷川が多少なりと前向きに生活できているとすれば、それは受け入れられているという安心感のためだろう。ありのままの自分とはずれているとしても、他者からの受容と肯定は精神を安定させる。しかも今は、取り繕わない自分でさえも認めてくれる友人がいる。
 横峰のことを考えると、自然と表情が緩んだ。胸に温かな熱が宿る。雨降って地固まる。あんなに苦手だった相手が、今では気の置けない友人になるのだから、人生というものも存外分からないらしい。
 緩んだ頬を軽く叩き、気持ちを切り替える。少しぼんやりしすぎてしまった。早く降りていかなければ、せっかくの食事が冷めてしまう。慌ただしく荷物と防寒具を片付け、ダイニングへ向かった。

 大晦日は両親と話しながら資格の勉強をしているだけで過ぎた。幼馴染みとは、二家族で初詣に行く約束になっている。彼女は今日は彼女の母親とお節料理作りに精を出しているはずだ。出来合いのお節だけでは物足りないからと、一人で台所に立つ母が、女の子はいいわよねと恨み言を言うのを聞き流し、テキストに集中した。
 昨今は男でも料理をする人間もいる。たとえば生徒会副会長の神森などは、実家の家業と彼自身の将来も相俟ってプロ級の腕前の持ち主だ。とはいえ、そんなことを言えばやぶ蛇になるのは目に見えているので、考えるだけだが。
 男子校という空間は面白い。中学までは共学で、高校に進学してからも一年生の間は息を潜めて生活していたため気が付かなかったが、今の学校ではそう感じることが多い。生徒に男子しかおらず、教員も男性しかいない――これは女性教師がいた当時、トラブルがあったためらしいが――空間では、男だから、男なのに、という感覚が生まれにくい。男が料理や編み物をしていても普通に受け入れられる環境的素地がある。家政科の教師も男性ならば、職人も男女問わずいることもあるだろうが、女性の目を気にしないで済むという面が大きいだろう。異性には格好をつけたくなるものだから、それがなくなれば気取る必要もなくなるわけだ。
 女性相手だからいい格好をしたい、という気持ちも、氷川には今ひとつわかっていないけれど。
 年越し蕎麦を揃って食べて、日付が変わる前に部屋に戻る。家族でテレビを見る習慣もないし、仕事で疲れている父をあまり遅くまで付き合わせるのも申し訳ない。近隣の寺院から聞こえる除夜の鐘をBGM代わりに、問題集に向き合った。六月の試験に合格できる可能性は高くないが、間に合うに越したことはない。頑張ろう、と気合いを入れ直した。
 年をまたぐ夜だとしても、氷川にとっては普段と何も変わらない。日付が変わる前に布団に入り――夜明けと共に、スマートフォンの着信で叩き起こされた。
「う……はい、氷川です……」
 特段、低血圧でもないが、さすがに寝起きは頭が働いていない。薄青い闇の中で、氷川はほとんど目を閉じたまま通話に出た。相手が誰か確認する前に通話を受けてしまったので、こんな時間に電話を掛けてくる非常識者が誰なのか分かっていない。
 赤田あたりが徹夜明けのテンションで電話してきたんだったら怒ろう。そう考えながら耳を澄ませると、鼓膜に低い笑い声が届いた。
『眠そうだな』
「そっちは朝から元気そうだね、横峰くん」
 皮肉でも何でもなく、素直に答える。実際、横峰は早朝だというのにすっきりと覚醒した声音をしている。ごろりと寝返りを打ち、覚悟を決めて身体を起こした。カーテンを開くと、白っぽい光が満ちる。氷川は一度固く目を瞑ってから、窓を開いた。早朝の冷気が忍び寄るように室内に入ってくる。
「明けましておめでとう」
『ああ、おめでとう。去年は本当に色々と世話になって、ありがとう。今年もまたよろしく』
「こちらこそ、今年も仲良くしてね」
 格式張った挨拶はしない。感情をそのままに伝えると、横峰がああと応じた。瞬間、大気が朱色を帯びる。太陽が顔を出したらしい。あ、と漏らした声が重なって、氷川は笑みを浮かべた。
「初日の出見ちゃった。生まれて初めてかも」
『朝が遅いね。俺は晴れてる年はいつも見てるよ』
「それは、すごいね」
 自慢げな台詞に、求められるまま賞賛を返す。嘘はついていない。この寒い時期に、日の出が拝める時から活動しているなんてたいしたものだ。体育会系の人間はそういうものなのだろうか。
『日の出っていつ見てもいいけど、新年は特別な感じがしてさ、いいよな。心が静かに、穏やかになる気がする』
 言葉通りに落ち着いた声音に、氷川は頬を緩めた。横峰の言うことも分かる気がする。夜の闇を太陽光が打ち払う様は、清々しく美しい。夜明けが一番遅い時期には、氷川でもその様を目にすることがある。山の端から白んでいく光景は、夕暮れよりも静かで、特別感があった。けれどそれに同意するのも気恥ずかしくて、別方向の感想を口に上らせる。
「横峰くんって、感性が鋭いね」
『……そうかな』
「秋に紅葉見に行った時も思ったけど、同じもの見てても、俺より深く、細かくものを見てる気がする。俺は鈍感だから、羨ましいな」
 風が吹き込んで、窓の隙間を細める。綺麗に拭いた窓ガラス越しに、朝日が身体を照らした。
 横峰はしばらく黙した後、溜息を吐いた。吐息の音に背をすくめてスマートフォンを持ち替える。先程まで機械を当てていた耳を擦りながら、電話の向こうに意識を凝らした。
『何、まだ寝ぼけてるの。いきなりさ、そういう恥ずかしいこと言って……もう……人がいるのに』
 ぶちぶちとこぼす声に笑いがこみ上げる。それを飲み込んで、誤魔化すように咳払いをした。
「ごめんごめん、今、どこにいるの?」
『山の上』
 こともなげに横峰が答える。氷川は目をまたたいた。
「ご実家、じゃないの?」
『うん、ご来光拝みに来た』
 ご来光、つまり日の出だ。この寒い季節によくやると感心するが、新聞か何かでそんな話を読んだ記憶もあるから、意外と一般的な行事なのかもしれない。
「そうなんだ、山小屋に泊まったの? それとも夜登るの?」
『今日は夜中に登った』
「夜中に……」
 いい年をして夜闇が苦手な氷川にはとてもできないだろう。凄いねと、芸のない感想を述べると、横峰が笑う気配があった。
『登ってる内に明るくなってきてさ、超いいよ。山頂からの日の出って本当絶景って感じで最高だし』
「それは、いいね」
『うん、身も心も浄化される感じ? 頑張って登って良かったって思うし……本当に。ねえ、氷川くん、俺、前に言ったこと取り消すわ』
「え、何?」
 唐突な話題転換に、氷川は首を傾げた。太陽が厚めの雲に隠れて、雲の端が金色に輝く。その光景に目を奪われた。
『前に、一緒に山に行きたくないって言った。あれ、取り消す』
「えっと……ああ、そんなこともあったっけ」
 まだ横峰の態度が軟化する前に、そんな風に言われたこともあった気がする。今の今まで忘れていたし、実際、氷川は今ひとつ協調性に欠け、登山パーティ向きの人材ではないので異論はない。体力もない。だが、横峰はもしかしたら、気にしてくれていたのかもしれない。
「そんなの、気にしなくていいのに」
『ん、でも……氷川くんと、一緒に来られたら良かったかなって思ったから』
「足手まといだよ」
『それなら低地でもいい。俺が綺麗だと思ってるものを、氷川くんにも見せたい。いや、見て欲しい』
 耳に触れる声は、一度信号化されて音声に戻された機械音声だ。そうわかっているのに、声の響きは生身のそれのように甘く、低い。
『街ん中から、どんな景色が見えてるかわかんないけど。今、光が放射状に広がってて……こんなん見たら、ああ世界って綺麗なもんなんだって思えるからさ』
 雲の端から顔を出した太陽が、鋭い光で空を灼く。この光景は、彼が見ているそれとは違うだろう。けれど、同じ太陽だ。そう考えると、腹に熱が満ちて喉が詰まるような気がした。スマートフォンを寄せた側の耳がやけに熱く、心臓の音が速く大きく聞こえる。氷川は唾を呑んで、そっと息を吐いた。
 これは、歓喜だ。
「ありがと、横峰くん。そう思って貰えて嬉しいし……俺も、見たいな」
 彼と同じ景色を。文化祭で見た雲海のような、地上にいては到底見ることの出来ない光景を、横峰は沢山知っている。それは、頭に詰め込んだ数字と理論の知識よりもずっと得がたいものだ。
 自然とこぼれ落ちた言葉に、横峰が息を呑んだのが分かった。
『夏になったら、トレッキングでも行こうか』
「夏は駄目だよ、俺、死んでる」
『そういえば、そうだっけ。ま、計画は追々ね。後で今日の写真送る』
 電話しながら撮影もしていたのだろうか、まめなことだ。というより、写真や景色に集中せずに電話を掛けてきたのだなと、今更に気付いた。それがどんな意味合いかは知らないが、なんとく特別感があって気分がいい。
「ありがと、楽しみにしてる。じゃあ……下り、気を付けてね」
『ああ。それじゃあ、また、学校で』
「うん、またね」
 通話を終えて、スマートフォンをベッドに投げ出す。まだ開けたままの窓からは、冷え切った外気が流れ込んでくる。室温は目覚めた時よりも格段に下がっているはずだ。それでも、横峰が今いる、どこかの山の頂上よりは暖かいだろうけれど。
 落とすように息を吐き、氷川はてのひらで頬を押さえた。発熱したかのような温度が、てのひらに伝わってくる。心臓はまだ高らかに早鐘を打ち鳴らし続けている。跳ねるような落ち着かない気分が全身を駆け巡る。指先が浮き立つようだ。
 早く休みが終わればいいのに。会いたいと思う理由も分からないまま、そう願った。
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