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横峰春久
ワンゲル部の事情 5
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誠実であろうとする態度は理解できる。倫理的に問題のある行為をしていた時、横峰は罪悪感に追い詰められていた。彼はおそらく元来、真面目で誠実で、責任感のある人間だ。嘘を吐きたくないと考えるのは理解できる。だがその頭に、氷川には、という単語が付くと話が変わってくる。横峰の台詞には不思議な特別感があった。
「俺には?」
「氷川くんには色々本当に迷惑掛けたし、嫌な思いもさせたからね」
氷川は僅かに眉を寄せた。嫌な思いとはなんのことだろう。八椎のような人種と二度も話す羽目になったことか、金本らに絡まれたことか、夏期休暇の盆を潰した調査のことか、取引の場に居合わせたあの日のことか、それとも、その前のささやかな嫌がらせのことか。
無言で紙コップを傾ける。油脂の多い甘い液体は、なめらかなはずなのに喉に絡みつくようだった。ぬるい温度が、舌の裏に半端な苦さを残していく。
今となっては横峰も普通に友人と呼べるし、他愛のない話をすることも多い。しかし、彼に関わる時間は楽しいだけのものではないことが多かった。他のクラスメイトらと比べれば格段に、過酷な時間を共有している。それは決して不快なばかりではなく、良い経験にもなかったが、横峰が負い目にしていてもおかしくはない。
「気にしなくていいのに」
するりと口から出た本心に、横峰が表情を曇らせた。手にしていた緑茶の缶を机の空いたスペースに置き、氷川に向き直る。彼はとても真剣な表情をしていた。
「ずっと、氷川くんには謝らなきゃいけない、いや、謝りたいと思ってた。氷川くんが転入してすぐの頃、態度悪かったよね。ごめん」
子供のような率直な謝罪に、氷川は返す言葉も見つけられずに横峰を見返した。
半年も前の、たかだか二週間程度の、暴力も暴言もない些細な出来事だ。前の学校で受けた仕打ちとは比べものにならないし、今となっては気に留めてもいなかった。一瞬、忘れたふりをしてしまおうかと狡い思考が頭を過ぎる。しかし、真摯に頭を下げた横峰に対して、それはあまりに不誠実だ。
氷川は二回、深呼吸をして、背を伸ばした。横峰が不安そうに身体を竦ませる。彼はずっと、謝りたいと思ってくれていたのだろうか。氷川の態度がその機会を奪い続けていたのだろうか。だとしたら、申し訳ないことをした。
「うん、そうだね、横峰くんにはいきなり絡まれて、びっくりした。俺、そんなに感じ悪かったかな」
気にしていないという言葉を保留して問いかける。横峰は責められたも同然だというのに、安堵したように息を吐いた。
「違う。俺の勝手なやっかみなんだ。中途転入は、外部受験よりも入学要件が易しいからさ、俺らはあんだけ必死に勉強したのに、なんて、勝手に苛ついてた。氷川くんにも氷川くんの事情があるのにね」
横峰がごめん、ともう一度繰り返す。不安そうな視線は、氷川から呆れられるのを恐れているように見えたが、氷川自身は納得していた。横峰の説明してくれた感情は理解できる。それはたとえば、地道に山道を登って山の頂上に着いた直後に、他者がヘリコプターですぐ隣に降り立つのを見てしまったような感覚だろう。狡いと思ってしまう。自分の努力はなんだったのかと虚しくもなる。道中の地道な努力は決して無駄ではないが、それでもなお、同じ結果に楽にたどり着いた相手には苛立ちを覚えても仕方がない。本来ならば、他者がどのような行動をしようと、枠の奪い合いでもないならば自分には関係ないのだが、感情はそう簡単なものではない。
「それは確かに、横峰くんじゃなくてもいらっとするよね。ごめん、俺が無神経だった」
「やめてよ、ここで氷川くんに謝られたら、俺が本当に心が狭いって実感させられるじゃん」
眉を曇らせた困った表情で、横峰が首を横に振る。膝の上に置かれた組んだ手には力が込められ、指先が白く変色していた。
「だいたい、考えてみたら豊智とは兄弟校だし、あっちのが偏差値高いんだから、転入試験が形式的なものになるのは当たり前だし」
「確かに、それはそうだけど……俺には、その前提は当てはまらないんだよ」
明白な悪意を持って嘘を吐いたつもりはない。氷川は一度も、自分が豊智学院出身だとは言わなかった。それでも、口を閉ざすことで誤解を利用したのも事実だ。
これは言わなくてもいいことかもしれない。だが、横峰が言わなくてもいいことを告白し、謝ってくれたのに、氷川は黙っているというのはフェアではない。戸惑った表情で氷川を見つめる横峰を見上げて、氷川は唇を緩めた。
「俺は豊智には在籍したことがない。俺の転出元は都内の、至志高校だ。ここより偏差値も学内民度も低い学校だよ。黙ってて……結果的に騙して、ごめん」
頭を下げ、上げる。横峰は呆気にとられたように薄く口を開き、目を見張っていた。そのやや細めの目が、ゆっくりと二度またたく。そして、項垂れるように上体をぐったりと膝に倒した。
「それで……西の訛りもないと思ったら……そんな抜け道あんのかよ」
「抜け道、かな。色々あって学校に行けなくなって……叔父が理事の一人と知り合いで、紹介してくれたんだ。外部からの転入も、完全に受け入れていないわけじゃないから、相応の理由があって、学力が認められれば転入も可能だからって話で」
「学力は問題ないのは分かるけど、理由ってのは」
身体を起こさないまま、横峰が顔だけ上げて氷川を見上げる。氷川は逃げるように目を伏せた。声が掠れないよう、腹筋に力を入れる。そうしなければ、背を丸めて縮こまってしまいそうだった。情けなくて、そんな自分を横峰に見せることが悔しい。しかし、話し始めたのは氷川自身だ。
「社会復帰」
投げ捨てるように告げた単語に、横峰が息を止めた。
「学校に行けなくなって、家から出られなくなって、一時期は起き上がることも難しくなった。心因性の理由だろうけど、医師の診察を受けていないからはっきりとは言えない。それで燻ってたら、この学校の生徒は距離を取るのが上手いから、受け入れてくれるだろうって言ってくれてね、お言葉に甘えることにしたんだ」
宇宙飛行士の資質には、他者と衝突しないことが求められる。怒りを上手く処理し、他者と上手な距離を取って付き合うこと。寛容で、協調性があること。同じく密室空間である潜水艦の乗組員にも求められる資質だろう。全寮制のこの学校も、外部への窓口は開かれているものの似たようなものだ。
イギリスのパブリックスクールなどでは、上級生による下級生いびりは大きな問題点として指摘されてきた歴史があるという。その意味では如水も同様に、閉ざされているが故の陰湿な人間関係が醸成されていても不思議はない。だが、学院は風通しがよく、生徒たちは往々にして寛容で、快適な環境の維持に成功している。これはおそらく、徹底した人間教育と、生徒らの合理主義が噛み合った結果だ。どうせ顔を突き合わせなければならない他者ならば、当たり障りのない関係を築いておくほうが誰にとっても面倒がない。苦手な相手とは距離を取り、距離を取られたならば無理に近付かない。ただそれだけのことを実践するだけで、空間は驚くほど快適になる。そうした落ち着いた風土のお陰で、氷川も快適に日々を過ごすことができている。
氷川の説明を聞いた横峰は、ゆっくりと姿勢を戻した。そして短い前髪に指を差し込んで乱す。吐き出された溜息に、氷川は肩を縮こまらせた。
「失望した?」
問う声が掠れて震えていて、自分が思う以上に怯えていることに気付いた。欺瞞は人間関係を容易く打ち壊す。肯定されたら、どうすればいいだろう。せっかく、友人と思える相手ができたのに。
不安を抱いたまま、氷川はそろそろと視線を上げる。横峰は険しい表情で、静かに氷川を見つめていた。心臓がびくつき、拍動を速める。胸を押さえる氷川に眉を寄せ、彼はゆっくりと口を開いた。
「言いづらいことを話してくれて、ありがとう」
「怒ってないの」
横峰には、いや、横峰だけではない、学院の生徒達には怒る権利がある。それなのに彼は緩く首を横に振った。
「なんで怒ると思うの、俺たちが勝手に思い込んでただけじゃん。豊智だって寮が併設されてる、それなのに転入してきたんだからそれなりの理由があるはずって思ってたのは確かだよ。それが他の学校からだとしても、理由があるのは変わらないじゃん。それなのに、何を怒ることがあるの」
「だとしても、騙したようものなのは変わらないし」
横峰の優しい言葉に、逆に不安になって否定の言葉を探した。横峰が柔らかく目を細める。
「豊智以外から入ってきたなんて公表したら色々と突っ込んで聞かれることになる、それが嫌で伏せてたんでしょ。話せないくらい、つらいことがあったなら仕方ないよ。今になって公表したら逆に、それで、だから? って言われちゃうし。気にしなくていいと思うけど。少なくとも俺は、氷川くんに怒れる立場じゃないしね」
言い聞かせるようにゆっくりと話す横峰の言葉を咀嚼し、氷川は小さく頷いた。目の奥が熱くて、うっかりすると涙が滲んでしまいそうになる。落ち着こうと吐き出した吐息は熱く、重い湿度を孕んでいた。
「ありがとう」
「お礼言ってもらう所じゃないけど、どういたしまして」
椅子が軋んだ音を立て、横峰が立ち上がった。先程までならば、その音ひとつにも、彼が呆れて出て行くのではないかと恐怖しただろう。横峰が落ち着いて対応してくれたお陰で、今はそうした不安は抱かずに済んだ。
彼は大きめの歩幅で短い距離を渡り、氷川の隣に腰を下ろした。セミシングルの寝台がぎしりと軋み、マットレスと布団が僅かに傾く。横峰が優しく背を叩いた。
「嫌なこと思い出させて、ごめん。来て早々から俺の態度悪くて、きつかったでしょ」
「ん……まあ。でも皆優しかったし、横峰くんも怖くなかったよ。俺の何かが気にくわないんだろうなって、分かったし」
素直に答えると、横峰が短く呻いた。
「自業自得だけど……きついな」
「半年も前のことだよ、今はそんなことない。さっきの話だって、横峰くんにしか話したことないよ」
それに、こうして取り繕わずに話ができるのは横峰だけだ。容赦ない対応をされる横峰にはいい迷惑だろうが、気分の良い人物を演出しなくていいと楽でいい。氷川は表情を緩めて、横峰を見上げた。優しい表情に励まされて、普段の調子を取り戻す。
「なんなら、学校に行けなくなった理由も話す? 誰にも言ったこと無いから、整理できてないけど」
「話したいなら聞くけど、そうじゃないならいいよ。ていうか、聞いちゃったら殴り込み掛けたくなりそうだし言わなくていい」
大きな手が宥めるように背中を撫でる。抑え込んだ震えがぶり返しそうになって、氷川は無理矢理笑みを作った。
「殴り込みって、横峰くんが?」
「似合わない?」
「や、いけるとは思うけど……だって、横峰くんには関係ないことだし」
氷川の過去は、横峰とは関わりがない。顔にバンダナを巻いた横峰が金属バットや鉄パイプを持って殴り込みをかける構図は、高身長と鍛えられた体躯のお陰で絵になるだろうが、動機が弱すぎる。映画にしたら批判必須だ。そもそも昨今ではその手の武装も時代遅れだから、受け入れられる可能性は低いし、そもそも誰もそんな話はしていない。
あまりの非現実感にふわりと脱線した思考をまたたき一つで戻し、氷川は横峰に目線を戻した。彼は難しい表情で虚空を睨んでいた。
「横峰くん?」
「ああ、いや、確かに関係ないと言えば関係ないけど、そう言われるときついなって」
雲を掴むような物言いに、氷川は首を傾げた。何故と声に出して訊く前に、横峰が氷川の背に置いた手に力を込める。頬に触れた高い体温に、氷川は驚いて身を固くした。
「でも確かに、友達の代理闘争なんてのは古いといえば古いわな」
そうごちる声は残念そうな色を帯びていて、氷川は笑みを漏らした。
「気持ちは嬉しいよ。それで充分」
自分のために怒ってくれる人がいる。その感覚はなんとも甘く、むずがゆい。緩む頬を引き締めることを諦めて、氷川は横峰を見上げた。彼は照れたように頬を染めて、落ち着かない風に視線を揺らしている。気を惹くように、その腕に触れた。
「ありがとね、横峰くん」
耳まで赤くした横峰が、随分とためらった末に、どういたしましてと細く応じた。
あんなに情熱的な台詞を言っておいて、意外とシャイなのだなと思ったのは、横峰が帰って行ってからだ。どこか困ったような様子で、なんの話しに来たんだか分からなくなったと肩を落としていた。
唇を緩ませ、氷川はくるくるとペンを回す。今は夕食も入浴も済ませて、冬期休暇の課題に手をつけたところだ。とはいえ、今ひとつ集中できずにいるが。
忙しい一日だった。できることならば八椎とは二度と会いたくない。トラブルの処理以外で顔を合わせる可能性は非常に低いので、おそらく先方も同じだろう。だからといって望むようになるかどうかは天の采配によるが、この期に及んでのトラブルは遠慮したい。
集中できていないなと、氷川は目を瞑った。息を吐き、吸う。気分を切り替えるための簡易的な儀式だ。その途中で、机上に投げ出してあったスマートフォンががたがたと振動を始めた。短い着信は、メールのはずだ。氷川は眉をひそめると、筆記具を小型の機械に持ち替えた。
母からの、年末年始はいつ帰省するのかという問いに、壁のカレンダーに視線を走らせる。学内の冬期講習は今週いっぱいまでだ。二十八日の日曜日から、明けて六日までの十日間が純粋な休暇になる。寮の部屋の掃除もしたいし、勉強はここでやったほうが捗る。それでも、大晦日から三箇日くらいは帰省しないと母がうるさいだろう。何せ、夏期休暇にも帰省していない。
家族のことは嫌いではない。帰省すれば幼馴染みもいる。それは楽しい夢想だ。氷川は唇を緩ませて、帰省の予定を送信した。直後に、もっと早く帰省してと要求される可能性など、考えもせずに。
「俺には?」
「氷川くんには色々本当に迷惑掛けたし、嫌な思いもさせたからね」
氷川は僅かに眉を寄せた。嫌な思いとはなんのことだろう。八椎のような人種と二度も話す羽目になったことか、金本らに絡まれたことか、夏期休暇の盆を潰した調査のことか、取引の場に居合わせたあの日のことか、それとも、その前のささやかな嫌がらせのことか。
無言で紙コップを傾ける。油脂の多い甘い液体は、なめらかなはずなのに喉に絡みつくようだった。ぬるい温度が、舌の裏に半端な苦さを残していく。
今となっては横峰も普通に友人と呼べるし、他愛のない話をすることも多い。しかし、彼に関わる時間は楽しいだけのものではないことが多かった。他のクラスメイトらと比べれば格段に、過酷な時間を共有している。それは決して不快なばかりではなく、良い経験にもなかったが、横峰が負い目にしていてもおかしくはない。
「気にしなくていいのに」
するりと口から出た本心に、横峰が表情を曇らせた。手にしていた緑茶の缶を机の空いたスペースに置き、氷川に向き直る。彼はとても真剣な表情をしていた。
「ずっと、氷川くんには謝らなきゃいけない、いや、謝りたいと思ってた。氷川くんが転入してすぐの頃、態度悪かったよね。ごめん」
子供のような率直な謝罪に、氷川は返す言葉も見つけられずに横峰を見返した。
半年も前の、たかだか二週間程度の、暴力も暴言もない些細な出来事だ。前の学校で受けた仕打ちとは比べものにならないし、今となっては気に留めてもいなかった。一瞬、忘れたふりをしてしまおうかと狡い思考が頭を過ぎる。しかし、真摯に頭を下げた横峰に対して、それはあまりに不誠実だ。
氷川は二回、深呼吸をして、背を伸ばした。横峰が不安そうに身体を竦ませる。彼はずっと、謝りたいと思ってくれていたのだろうか。氷川の態度がその機会を奪い続けていたのだろうか。だとしたら、申し訳ないことをした。
「うん、そうだね、横峰くんにはいきなり絡まれて、びっくりした。俺、そんなに感じ悪かったかな」
気にしていないという言葉を保留して問いかける。横峰は責められたも同然だというのに、安堵したように息を吐いた。
「違う。俺の勝手なやっかみなんだ。中途転入は、外部受験よりも入学要件が易しいからさ、俺らはあんだけ必死に勉強したのに、なんて、勝手に苛ついてた。氷川くんにも氷川くんの事情があるのにね」
横峰がごめん、ともう一度繰り返す。不安そうな視線は、氷川から呆れられるのを恐れているように見えたが、氷川自身は納得していた。横峰の説明してくれた感情は理解できる。それはたとえば、地道に山道を登って山の頂上に着いた直後に、他者がヘリコプターですぐ隣に降り立つのを見てしまったような感覚だろう。狡いと思ってしまう。自分の努力はなんだったのかと虚しくもなる。道中の地道な努力は決して無駄ではないが、それでもなお、同じ結果に楽にたどり着いた相手には苛立ちを覚えても仕方がない。本来ならば、他者がどのような行動をしようと、枠の奪い合いでもないならば自分には関係ないのだが、感情はそう簡単なものではない。
「それは確かに、横峰くんじゃなくてもいらっとするよね。ごめん、俺が無神経だった」
「やめてよ、ここで氷川くんに謝られたら、俺が本当に心が狭いって実感させられるじゃん」
眉を曇らせた困った表情で、横峰が首を横に振る。膝の上に置かれた組んだ手には力が込められ、指先が白く変色していた。
「だいたい、考えてみたら豊智とは兄弟校だし、あっちのが偏差値高いんだから、転入試験が形式的なものになるのは当たり前だし」
「確かに、それはそうだけど……俺には、その前提は当てはまらないんだよ」
明白な悪意を持って嘘を吐いたつもりはない。氷川は一度も、自分が豊智学院出身だとは言わなかった。それでも、口を閉ざすことで誤解を利用したのも事実だ。
これは言わなくてもいいことかもしれない。だが、横峰が言わなくてもいいことを告白し、謝ってくれたのに、氷川は黙っているというのはフェアではない。戸惑った表情で氷川を見つめる横峰を見上げて、氷川は唇を緩めた。
「俺は豊智には在籍したことがない。俺の転出元は都内の、至志高校だ。ここより偏差値も学内民度も低い学校だよ。黙ってて……結果的に騙して、ごめん」
頭を下げ、上げる。横峰は呆気にとられたように薄く口を開き、目を見張っていた。そのやや細めの目が、ゆっくりと二度またたく。そして、項垂れるように上体をぐったりと膝に倒した。
「それで……西の訛りもないと思ったら……そんな抜け道あんのかよ」
「抜け道、かな。色々あって学校に行けなくなって……叔父が理事の一人と知り合いで、紹介してくれたんだ。外部からの転入も、完全に受け入れていないわけじゃないから、相応の理由があって、学力が認められれば転入も可能だからって話で」
「学力は問題ないのは分かるけど、理由ってのは」
身体を起こさないまま、横峰が顔だけ上げて氷川を見上げる。氷川は逃げるように目を伏せた。声が掠れないよう、腹筋に力を入れる。そうしなければ、背を丸めて縮こまってしまいそうだった。情けなくて、そんな自分を横峰に見せることが悔しい。しかし、話し始めたのは氷川自身だ。
「社会復帰」
投げ捨てるように告げた単語に、横峰が息を止めた。
「学校に行けなくなって、家から出られなくなって、一時期は起き上がることも難しくなった。心因性の理由だろうけど、医師の診察を受けていないからはっきりとは言えない。それで燻ってたら、この学校の生徒は距離を取るのが上手いから、受け入れてくれるだろうって言ってくれてね、お言葉に甘えることにしたんだ」
宇宙飛行士の資質には、他者と衝突しないことが求められる。怒りを上手く処理し、他者と上手な距離を取って付き合うこと。寛容で、協調性があること。同じく密室空間である潜水艦の乗組員にも求められる資質だろう。全寮制のこの学校も、外部への窓口は開かれているものの似たようなものだ。
イギリスのパブリックスクールなどでは、上級生による下級生いびりは大きな問題点として指摘されてきた歴史があるという。その意味では如水も同様に、閉ざされているが故の陰湿な人間関係が醸成されていても不思議はない。だが、学院は風通しがよく、生徒たちは往々にして寛容で、快適な環境の維持に成功している。これはおそらく、徹底した人間教育と、生徒らの合理主義が噛み合った結果だ。どうせ顔を突き合わせなければならない他者ならば、当たり障りのない関係を築いておくほうが誰にとっても面倒がない。苦手な相手とは距離を取り、距離を取られたならば無理に近付かない。ただそれだけのことを実践するだけで、空間は驚くほど快適になる。そうした落ち着いた風土のお陰で、氷川も快適に日々を過ごすことができている。
氷川の説明を聞いた横峰は、ゆっくりと姿勢を戻した。そして短い前髪に指を差し込んで乱す。吐き出された溜息に、氷川は肩を縮こまらせた。
「失望した?」
問う声が掠れて震えていて、自分が思う以上に怯えていることに気付いた。欺瞞は人間関係を容易く打ち壊す。肯定されたら、どうすればいいだろう。せっかく、友人と思える相手ができたのに。
不安を抱いたまま、氷川はそろそろと視線を上げる。横峰は険しい表情で、静かに氷川を見つめていた。心臓がびくつき、拍動を速める。胸を押さえる氷川に眉を寄せ、彼はゆっくりと口を開いた。
「言いづらいことを話してくれて、ありがとう」
「怒ってないの」
横峰には、いや、横峰だけではない、学院の生徒達には怒る権利がある。それなのに彼は緩く首を横に振った。
「なんで怒ると思うの、俺たちが勝手に思い込んでただけじゃん。豊智だって寮が併設されてる、それなのに転入してきたんだからそれなりの理由があるはずって思ってたのは確かだよ。それが他の学校からだとしても、理由があるのは変わらないじゃん。それなのに、何を怒ることがあるの」
「だとしても、騙したようものなのは変わらないし」
横峰の優しい言葉に、逆に不安になって否定の言葉を探した。横峰が柔らかく目を細める。
「豊智以外から入ってきたなんて公表したら色々と突っ込んで聞かれることになる、それが嫌で伏せてたんでしょ。話せないくらい、つらいことがあったなら仕方ないよ。今になって公表したら逆に、それで、だから? って言われちゃうし。気にしなくていいと思うけど。少なくとも俺は、氷川くんに怒れる立場じゃないしね」
言い聞かせるようにゆっくりと話す横峰の言葉を咀嚼し、氷川は小さく頷いた。目の奥が熱くて、うっかりすると涙が滲んでしまいそうになる。落ち着こうと吐き出した吐息は熱く、重い湿度を孕んでいた。
「ありがとう」
「お礼言ってもらう所じゃないけど、どういたしまして」
椅子が軋んだ音を立て、横峰が立ち上がった。先程までならば、その音ひとつにも、彼が呆れて出て行くのではないかと恐怖しただろう。横峰が落ち着いて対応してくれたお陰で、今はそうした不安は抱かずに済んだ。
彼は大きめの歩幅で短い距離を渡り、氷川の隣に腰を下ろした。セミシングルの寝台がぎしりと軋み、マットレスと布団が僅かに傾く。横峰が優しく背を叩いた。
「嫌なこと思い出させて、ごめん。来て早々から俺の態度悪くて、きつかったでしょ」
「ん……まあ。でも皆優しかったし、横峰くんも怖くなかったよ。俺の何かが気にくわないんだろうなって、分かったし」
素直に答えると、横峰が短く呻いた。
「自業自得だけど……きついな」
「半年も前のことだよ、今はそんなことない。さっきの話だって、横峰くんにしか話したことないよ」
それに、こうして取り繕わずに話ができるのは横峰だけだ。容赦ない対応をされる横峰にはいい迷惑だろうが、気分の良い人物を演出しなくていいと楽でいい。氷川は表情を緩めて、横峰を見上げた。優しい表情に励まされて、普段の調子を取り戻す。
「なんなら、学校に行けなくなった理由も話す? 誰にも言ったこと無いから、整理できてないけど」
「話したいなら聞くけど、そうじゃないならいいよ。ていうか、聞いちゃったら殴り込み掛けたくなりそうだし言わなくていい」
大きな手が宥めるように背中を撫でる。抑え込んだ震えがぶり返しそうになって、氷川は無理矢理笑みを作った。
「殴り込みって、横峰くんが?」
「似合わない?」
「や、いけるとは思うけど……だって、横峰くんには関係ないことだし」
氷川の過去は、横峰とは関わりがない。顔にバンダナを巻いた横峰が金属バットや鉄パイプを持って殴り込みをかける構図は、高身長と鍛えられた体躯のお陰で絵になるだろうが、動機が弱すぎる。映画にしたら批判必須だ。そもそも昨今ではその手の武装も時代遅れだから、受け入れられる可能性は低いし、そもそも誰もそんな話はしていない。
あまりの非現実感にふわりと脱線した思考をまたたき一つで戻し、氷川は横峰に目線を戻した。彼は難しい表情で虚空を睨んでいた。
「横峰くん?」
「ああ、いや、確かに関係ないと言えば関係ないけど、そう言われるときついなって」
雲を掴むような物言いに、氷川は首を傾げた。何故と声に出して訊く前に、横峰が氷川の背に置いた手に力を込める。頬に触れた高い体温に、氷川は驚いて身を固くした。
「でも確かに、友達の代理闘争なんてのは古いといえば古いわな」
そうごちる声は残念そうな色を帯びていて、氷川は笑みを漏らした。
「気持ちは嬉しいよ。それで充分」
自分のために怒ってくれる人がいる。その感覚はなんとも甘く、むずがゆい。緩む頬を引き締めることを諦めて、氷川は横峰を見上げた。彼は照れたように頬を染めて、落ち着かない風に視線を揺らしている。気を惹くように、その腕に触れた。
「ありがとね、横峰くん」
耳まで赤くした横峰が、随分とためらった末に、どういたしましてと細く応じた。
あんなに情熱的な台詞を言っておいて、意外とシャイなのだなと思ったのは、横峰が帰って行ってからだ。どこか困ったような様子で、なんの話しに来たんだか分からなくなったと肩を落としていた。
唇を緩ませ、氷川はくるくるとペンを回す。今は夕食も入浴も済ませて、冬期休暇の課題に手をつけたところだ。とはいえ、今ひとつ集中できずにいるが。
忙しい一日だった。できることならば八椎とは二度と会いたくない。トラブルの処理以外で顔を合わせる可能性は非常に低いので、おそらく先方も同じだろう。だからといって望むようになるかどうかは天の采配によるが、この期に及んでのトラブルは遠慮したい。
集中できていないなと、氷川は目を瞑った。息を吐き、吸う。気分を切り替えるための簡易的な儀式だ。その途中で、机上に投げ出してあったスマートフォンががたがたと振動を始めた。短い着信は、メールのはずだ。氷川は眉をひそめると、筆記具を小型の機械に持ち替えた。
母からの、年末年始はいつ帰省するのかという問いに、壁のカレンダーに視線を走らせる。学内の冬期講習は今週いっぱいまでだ。二十八日の日曜日から、明けて六日までの十日間が純粋な休暇になる。寮の部屋の掃除もしたいし、勉強はここでやったほうが捗る。それでも、大晦日から三箇日くらいは帰省しないと母がうるさいだろう。何せ、夏期休暇にも帰省していない。
家族のことは嫌いではない。帰省すれば幼馴染みもいる。それは楽しい夢想だ。氷川は唇を緩ませて、帰省の予定を送信した。直後に、もっと早く帰省してと要求される可能性など、考えもせずに。
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この学園では、各委員会の委員長副委員長と、生徒会執行部が『役付』と呼ばれる特権を持っていた。
東海林幹春は、そんな鶯実学園の風紀委員長。
風紀委員長の名に恥じぬ様、真面目実直に、髪は七三、黒縁メガネも掛けて職務に当たっていた。
しかしある日、突如として彼の生活を脅かす転入生が現われる。
ボサボサ頭に大きなメガネ、ブカブカの制服に身を包んだ転校生は、元はシングルマザーの田舎育ち。母の再婚により理事長の親戚となり、この学園に編入してきたものの、学園の特殊な環境に慣れず、あくまでも庶民感覚で突き進もうとする。
おまけにその転校生に、生徒会執行部の面々はメロメロに!?
そんな転校生がとにかく気に入らない幹春。
何を隠そう、彼こそが、中学まで、転校生を凌ぐ超極貧ド田舎生活をしてきていたから!
※11/12に10話加筆しています。
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