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横峰春久

ワンゲル部の事情 1

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 横峰から会って欲しい人がいると頼まれたのは、十二月に入って二回目の週末だった。結果はともかく二学期の期末考査を乗り越え、あと一週間で年末年始休暇に入る時期だ。寮の食堂で昼食を摂りつつ、悪いんだけどと拝むように片手を立てる。
「八椎さんって言って、まあ、世話になった人って言うか」
 耳目を気にするかのように濁して、横峰が氷川を伺う。その名前に聞き覚えがある気がして、氷川は目を眇めた。記憶を探って、半年弱前の出来事に行き当たる。
「例の取締役さん?」
「そう。俺と氷川くんに聞きたいことがあるんだって。今日の午後か明日の午後。駄目かな」
 定食のハンバーグを切る手を止めて、横峰が不安そうに氷川を覗き込む。氷川は虚空を睨んだまま、軽く頷いた。
「空いてるし、それはいいけど、今更俺に用事ってなんだろう」
 夏の一件の直後ならまだしも、季節は既に冬の入口にまで到達している。その意味では、横峰が今でも件の八椎という人物と連絡が取れることも不可解ではあるが――あれだけ罪悪感を感じていたのだから、疾うに連絡先を消していると思っていた。
 氷川の疑問に、横峰が肩をすくめた。
「それは教えて貰えなかった。責任どうこうとか、そういう話じゃないとは言ってたけど」
「それは残念。まあ、会えば分かるか。明日の午後でいい?」
「うん、連絡しとく」
 一言断って、横峰がスマートフォンを取り出し操作する。その様子から視線を外して、置いてしまった箸を手に取った。
 正直なことを言うならば、気は重い。相手は成人向けのサービスを運営している人物だ、反社会的勢力と関わっている可能性が高い。付き合いを持つべき相手ではないし、関わり合いになることも極力避けるのが賢明であることは自明だ。だが、横峰のことを考えると頼みを断ることもできない。
 溜息を喉元で噛み殺し、ぬるくなってしまった昼食を再開した。

 公共交通機関で市街に降り、八椎が事務所を構えるビルに着いたのは、翌日曜日の昼過ぎだった。アポイントメントの時刻まであと十分少々というところで、おおむね予定通りだ。
 来意を述べて応接室に案内され、待つこと五分強、がちゃりと扉が開いた。案内されるまま上座に座していた氷川と横峰は、弾かれたように席を立つ。入ってきたのは三十代半ばほどの男性だった。上等そうなグレーのストライプスーツでがっしりした体を覆い、ブルー系のネクタイが爽やかな印象を与えてはいるものの、滲み出る威圧感を隠し切れていない。
「呼び出して悪かったな、まあ座って」
 軽い調子で促され、氷川と横峰は失礼しますとソファに座り直した。適度な弾力がふわりと腿から背を包み、居心地悪く背筋を伸ばす。そんな氷川の様子を面白そうに眺めてから、男は横峰に視線を向けた。
「呼び出して悪かったな、横峰。そっちが例の?」
「はい、友人の……」
「深沢です、お邪魔しています」
「八椎だ、よろしく」
 名刺入れから名刺を取り出し、差し出してくる。薄青の名刺には、会社名と会社の連絡先、代代表取締役として八椎の名前が書かれている。流れるような流麗な書体は、堅気のそれとはやはり異なった。
 横峰が視線を寄越すのを無視して、軽く頭を下げる。
「すみません、学生の身分でして、名刺の用意がないのですが」
「気にしなくていい。まあ、要らんかったらそいつも捨ててくれ」
「……お預かりしておきます」
 机の端に名刺を置き、八椎と向き直る。直後にノックがされて、扉が開かれた。ラフな服装の若い男性が、盆を持って入ってくる。
「お茶をお持ちしました。緑茶でよろしかったですか」
「おかまいなく」
「まあどうぞ。ごゆっくり」
 にこにこと微笑み、ペットボトルの緑茶を三本と、小袋に入った洋菓子をテーブルに配して退出する。所作が綺麗なのが意外だった。扉が閉まるのを待って、八椎が口を開く。
「そっちも忙しいだろうし、こっちも暇じゃない、前振りの世間話はいらねえわな。呼び出したのは他でもない、おまえらに訊きたいことがある」
 粗雑な言葉遣いで横峰と氷川を順繰りに見て、八椎が目を眇める。横峰が緊張に背を硬くする気配があった。
「なんでしょうか」
「金本、木下、林、それから黒井と安田」
 八椎が指折り数えて名字を上げると、横峰がぴくりと眉を動かした。前三者は氷川も聞き覚えのある名前だ。となれば後二者も同様の関係者だろうか。
「先輩方が何か……?」
「なんか噂とか聞いてねえか」
「いえ、特には」
「そっちの、深沢は?」
 水を向けられて、氷川は首を捻った。
「いいえ。黒井さんと安田さんというお名前には聞き覚えもありません」
「そうか、そんなもんだろうとは思ったが」
 八椎はさして残念そうでもなく、綺麗に流してある髪を撫で付けた。横峰が不安そうに八椎を伺い見る。
「なにかあったんですか?」
「ちょっと噂が出ててな……どうせおまえは関わってねえとは思ってたが。まあ、なんだ、援交だわな、分かりやすく言えば」
 八椎の台詞に、横峰が呻くような声を漏らした。氷川は声も出せずに八椎を凝視する。援交、援助交際、つまり売春だ。児童売春、という単語が脳裏に浮かぶ。犯罪行為だ。
 今の台詞だけを聞けば、八椎はワンダーフォーゲル部OBの素行不良を質すために横峰と氷川を呼びつけたことになる。だが、この男はそんな面倒するようなタイプだろうか。その程度なら、メールでも電話でも済む用件だ。もっと他に理由があるのではないだろうか。それに、手から離れた駒がどう動こうが、我が身に被害が及ばなければ関係がないだろうに。考えながら、氷川は悩んでいる風に口を開いた。
「ワンゲル部のOBの方が、売春をしてるんですか?」
「そういう噂がある」
「それを確かめるために、八椎さんは横峰くんと僕を呼んだんですか?」
「そうだ。学内にいるおまえらなら、もう少し何か知っているかと思ったが、当てが外れた」
「……ええ、申し訳ございませんが、そういう話は聞いたことがありません」
「僕も、ないですね。むしろ詳しい話をこちらが伺いたいくらいで」
 横峰が心当たりはないと頭を下げる。それに同調して、氷川は八椎を控えめに伺った。八椎がうんざりしたように舌打ちをして、首筋を掻く。
「詳しいって言ってもな、あいつらが女とホテルに入るの見たって程度のもんだ」
「それだけなら、恋人や普通の遊び相手ということもあるでしょう」
「まあな、他に一点、ネットの掲示板だ。俺らが使ってたもんと同じ伏せ字が使われてるんだが……誰でも考えりゃ分かるレベルの符牒だ、決め手にならん」
 苦い表情で言って、八椎が一枚の用紙を見せる。ウェブサイトを印刷したもののようで、下にURLが印字されている。本文部分には、女口フノくaon、外出2.5K/H、他応相談と書かれていた。氷川は顔をしかめる。
「なんですか、この暗号」
「深沢はあれか、ネットスラングとかは知らん類いだな。こいつは翻訳すると如水学院ワンゲル部、時間単価二千五百円でデートします、つう意味になる」
「これが如水、を分解したものなんですね。aonは?」
「ゲール語で一、ワン、ゲール、だ」
「高度な駄洒落ですね」
 いささか難解に過ぎるのではないだろうか。氷川が分からないものを、対象層が解読できる可能性は低い。そんな思考を読んだのか、八椎が肩をすくめた。
「一見にゃ如水の名前で充分だからな。常連向けの符牒だ、ちょっとくらいややこしいほうが、いかにもハイクラスの坊ちゃんと遊んでるっぽくて受ける」
「そういうものですかね。それで他応相談、というのは」
「追加サービスは交渉次第で承ります、だろうな。セックスがいくらとか」
 なるほど、と頷いた氷川を、横峰が居心地悪そうに伺ってくる。氷川は宥めるように横腹を叩いた。
「これが本物なら、連絡先が生きている内に約束を取り付ければ捕獲できますね。先輩方が鬱陶しいならそうすれいいのに、しないのはどうしてですか?」
「別に鬱陶しいなんて思ってねえよ。揉め事を起こすわけでもねえ、こいつらが勝手にやってることだ、パクられたところで問題ない、これに関してはな」
「以前のものも、法令に反するものではなかったはずですが」
 横峰がフォローするように口を挟む。それは氷川も知っている。法の網をかいくぐって、グレーゾーンの商売をしていたはずだ。というより、キャストである高等科の部員らが正しく状況を理解していなかったことは、だいぶ黒に近い印象だったが。あえて口を噤んだ氷川に苦笑して、八椎がかぶりを振る。
「ま、それはいい。いいんだが、あいつらが洗われでもしたら芋づる式にそっちまで余波がいくのは確実だ。法に触れていなかったとしても、後ろ暗くないとまでは言えねえだろ。必死で揉み消したもんが明るみに出ちまうのは不本意だろうし、俺も表沙汰にしねえですむならそのほうがいい。だから相談だ。あと三ヶ月、あいつらを大人しくさせりゃ俺もおまえらも万々歳だろ」
「……つまり、こちらに動けと」
「実害があんのはそっちだ、そっちが動くのが道理だろ。むしろ教えてやったことを感謝されてもいいはずじゃね」
 尊大に顎を上げる八椎に、氷川は隠すことなく溜息を吐いた。確かにそうだ。知らないうちに警察沙汰になり、マスコミスキャンダルとなったら、夏の苦労が水の泡になる。ワンゲル部の醜聞は氷川自身には関係がないが、学名が汚されるのは避けたい。
「わかりました。学院長先生や理事会に相談してみます。情報提供ありがとうございます」
 座ったまま、氷川は深く頭を下げた。横峰が身の処し方を迷って身じろぎし、結局は氷川に倣って礼をする。八椎が愉快そうな笑い声を上げた。
「なるほど、そういうことになってんのな」
「なんのことですか?」
「さあね。さて、じゃあ横峰、おまえはあっちで詳しい資料受け取っとけ。深沢はちょっと俺と話そうか」
「え、八椎さん?」
「おら、出てけ。こっちが出てくまで入って来んな、覗くな聞き耳立てんな」
 動揺する横峰に、背後を顎でしゃくって示し、八椎が横柄に足を組む。それでも困ったように氷川を見てくる横峰の腿を叩いて、移動を促した。
「大丈夫だよ、仕事してきて。横峰くんなら、どんな資料が必要か分かるよね」
「……うん、気を付けて」
 不安そうに氷川の腕を一度握り、横峰が何度も振り返りながら応接室を出て行く。その扉が静かに閉まるのを待って、八椎が姿勢を戻した。氷川は緊張に早鐘を打つ心臓をなだめるように、静かに深呼吸をして呼吸を整えた。
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