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文月凉太
生徒会長の依頼 2
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食事を済ませ、紙コップにコーヒーを貰って談話室に移動した。寮の食堂と談話室は共に一階にあり、階を移動しないで済む。椅子とテーブルがまばらに設置された談話室は、無人ではないものの閑散としている。携帯型のゲームができるような環境ではなく、読書や勉強に向いた空間でもないので、用途が限定されて利用者は多くないようだ。それでも幾人か卓を囲んでいたり、勉強道具を広げている生徒もいる。室内には誰の選曲か、静かなバイオリン曲が流れていた。
隣の席に座った文月は、凍頂烏龍茶のコップを両手で持って考え込んでいる。氷川は一口だけ減らした紙コップをテーブルに置いた。
「引き受けるの?」
失笑した文月が、透き通った金色の飲み物を舐めるように飲む。
「まさか。俺には向いてないさ」
「そんなこともないとは思うけど」
文月の面倒見の良さならば、氷川はよく知っている。転入当初はよく気に掛けてくれたし、さり気なくフォローしてくれた。困っていれば助けてくれたし、参っていれば励ましてくれた。細やかな気遣いは人の上に立つには必要なものの一つだ。人を見ないリーダーの組織は容易く瓦解する。文月ならば問題なく人をまとめ上げられるだろう。ホームルーム時間の進行振りでも、彼は場を動かしまとめるのが上手い。
どちらかといえば議長向きかもしれない。考えながら薄いコーヒーをすする。文月が眉をひそめた。
「やれと言われてる気がするな」
「残念ながら、俺は野分くんみたいに学校のため、後輩のために何かするべきなんて立派な意思はないよ。ただ、あんなに情熱的に口説かれると少し心が揺らぐよね」
「相変わらずお人好しだな。でも……そうだな、氷川がやりたいなら考えなくもない」
中身を減らしたカップを揺らして、文月が微笑む。テーブルの下で、促すように足同士が触れ合った。
「俺が?」
「何かやってみたいって言ってただろ。渡りに船だったかと」
「そういえば、そんな話もしたね」
自分も何か、打ち込めるものを。熱心な生徒達を見てそう感じたのも事実だが、果たしてボランティア組織発足に尽力したいかと言われると疑問は生じる。野分は持ち上げてくれたが、氷川は自分が冷淡な人間だという自覚があった。関わりのある相手ならばともかく、見ず知らずの、利害関係もない他者にまで親切にする余裕はない。けれど、少し考えつつ、冷めかけのコーヒーを飲んだ。
「そうだね、文月くんと一緒なら、そういうのも楽しいかもね」
彼が隣にいれば英文読解だろうが長距離走だろうが楽しめるだろうと思える程度には、浮かれている自覚がある。潜めた囁きは、自分でも分かるほど甘いものになった。文月がテーブルに肘をつき、頭を落とす。
「ひどい殺し文句……やばい、うっかりやる気になってきた。これで引き受けたら野分が調子に乗る」
「恩を売ると思っとけばいいんじゃない? 貸借対照表の右側に、野分彩斗くんに貸しひとつってね」
「物は言いようか」
笑いながら告げた氷川に、文月が穏やかな声で応じる。その表情は楽しげで、しかしどこか陰があった。手を伸ばして軽く腕に触れる。
「無理強いするつもりじゃない。迷惑なら断っていいんだよ」
誘われては断っていたのなら、気が進まない理由があるはずだ。氷川の一存で巻き込むことは正しくない。少し慌ててそう付け加えると、文月は虚を衝かれたように目を瞬き、次いで苦笑した。
「別にそこまで心底嫌なわけじゃない。面倒だったし荷が重かっただけだ。去年引き受けたら、どうして高一の、参加経験も少ない奴が頭なのかと反発を食らう。今年になっても経験が少ないのは変わらないし、受験勉強を考えたら面倒事を抱え込みたくなかった。ま、逃げを打ったって言われても否定できないか」
お茶で喉を湿らせて、文月が氷川の腕をつついた。
「親切な奴じゃなくて失望した?」
からかうような口調の底に不安そうな色が滲んだ気がして、氷川は咄嗟に文月の手に自分のそれを重ねていた。乾いた手の甲を上から掴むように握る。
「別に、文月くんが優しくて親切だから好感を持ったわけじゃないけど、正直ちょっと安心した。あんまりいい人だと、同情して面倒見てくれてるのかなって思っちゃうし」
「残念ながらそこまで善人じゃない」
「うん、俺としてはそのほうが助かる。あんまり善良な人を見ると、我が身を省みちゃうし」
善意で行動できる人を見ると、自分の打算的な性質を強く意識してしまう。人として劣っていると、誰が言わなくとも自分自身でそう感じるのだ。しかし文月の目にはそのように映っていなかったのか、不思議そうに目を瞬いた。
「氷川は充分お人好しだろう」
「そう思って貰えてるとありがたいな。なら、仮面性お人好しの俺に付き合って、野分くんに貸しを押し付けることに協力してくれるの?」
露悪的な物言いに文月は眉を跳ね上げ、肩をすくめた。
「たまには善行積んどくのも悪くないだろ」
やってもいいという方向でまとまったと連絡すると、野分は十分もしないうちに談話室に駆け込んできた。閑散とした室内を見回し、氷川と文月のいるテーブルに直進する。文月がごくごく小さな声で、猪か、と呟いた。
「ここ座っていい?」
返答を待たずに椅子を引いた野分は、氷川と文月を順繰りに見、何笑ってんのと怪訝そうに片眉を上げた。
「ごめん、ちょっとね」
「そう、まあいいけど。それでさっきの話だけど」
野分が静かに氷川に視線を寄越す。氷川は小さく頷いた。
「別に俺が一生懸命口説いたわけじゃないよ」
「誘導された感はなくもないがな」
文月が言い足して冷め切った烏龍茶を飲み干す。氷川は唇の端を引きつらせ、頬を撫でた。
「そんなつもりもなかったけど、まあそういうことかな」
「計算尽くのくせによく言う」
文月がテーブルの下で、氷川の腿を軽く叩く。氷川は無言で文月の手を払いのけた。テーブルの下の攻防を知らない野分が物言いたげな表情で口を開き、そのまま閉じて軽くかぶりを振った。そして話の軌道を強引に戻す。
「何にしろ、やってくれるんだな」
「そういうことになった」
いかにも不本意そうな表情と声を作って文月が頷く。仕方なく引き受けたというポーズを取りたいらしい。氷川はその脇腹をつつき、野分に笑顔を向けた。
「俺も手伝うよ。でも俺も文月くんも経験不足で分からないことばっかりだから、色々よろしくね、野分くん」
「もちろん、こっちこそよろしく頼む。正式な書類は週明けに用意する。詳細を詰めるのは資料がある時でいいか?」
野分が安堵した表情で訊ねる。氷川は首肯してから文月を見遣った。彼は目を眇め、指の背で耳の下を撫でる。
「構わないが、分担の構想は?」
「児童館と公民館は他との連携もあるから執行部受け持ちのままだな。児童福祉施設と高齢者福祉施設の訪問を任せたい。訪問頻度は可能ならば双方毎月一度、無理なら隔月でもいい」
「そういうのって、毎月一回を目標に最初は様子見で隔月で、って始めると、絶対ずっと隔月のままだよね」
文月がそれなら隔月でと言い出す前に予防線を張る。別にやりたいわけではないが、やるからには後顧の憂いを断っておきたい。
野分は確かにと苦笑し、文月は横目で氷川を睨む。面倒なことをと言いたい気持ちはよくわかる。しかし取り下げることなく、氷川は肩をすくめた。
「筋道をつけるのが仕事なら、できるだけのことはやって手渡さなきゃ。初代が悪かったから面倒事が起きたとか言われないためにもね」
「見上げたリスクマネジメント精神だな。完璧主義で助かるよ、せいぜい粗をつついてくれ」
機嫌良く笑う野分に頷いて、残ったコーヒーに口を付ける。冷めたコーヒーは薄いのに妙に苦く、自然と眉が寄った。手を差し出した野分にそのまま受け渡すと、文月が足を軽くぶつけてくる。子供のような悋気を腿を叩いて宥めつつ、つい、溜息がこぼれた。
勢いで物事を進めてしまったが、半年足らずの期間でやるべきことは案外少なくない。地ならしまで手がつけば上々だろう。
「とにかく最初にやることは組織作りと人集め、だよね。次の部長も選んで一緒に話したほうがよさそうだけど、誰か心当たりはいるの?」
苦いばかりのコーヒーに顔をしかめた野分が、ああと曖昧に頷いた。
「一年の役員に心当たりを聞いてみる。ふたりとも良さそうな奴がいたら当たってみてくれ」
「条件は?」
「真面目で責任感があって、人当たりが良くて人を見る目があって、面倒見が良くて施設と個人的な関わりがない奴」
「多いな」
指折り数える野分に、文月が眉をひそめた。妥当な内容ではあるが、実際にクリアするのは容易くない。
「施設と関わりがある人は駄目、か……そうだよね、肩入れしちゃって癒着が起きるんじゃないかって、実際はどうあれ思われるし」
「そういうこと。これはって奴がいたらリストアップしといてくれ」
野分は軽く言うが、条件に適ってなおかつ身体が空いている高等科一年生は、列せられるほどの人数がいるのだろうか。二百人もいれば、探せば見つかるのかもしれないが、考えながら、氷川はかぶりを振った。
「残念ながら俺は下級生とは関わりがないから」
「俺もない。級長会議はただの報告会だから個性までは見えないしな」
「だったらこっちで見繕っとく。それにしても」
言い止して、野分が文月と氷川を感心したように眺めた。そして嘆息するように微笑む。
「まさかさっきの今で本当に引き受けて貰えるとはな」
「善は急げって言うでしょう」
「善、ね。どんな魔法を使ったんだか」
野分が思わせぶりに文月に視線を流す。文月は目をそらして肩をすくめた。
「おまえに乗せられたこいつに頼み込まれただけだ」
「なるほど、すっかり骨抜きなわけね。次から文月に頼みごとをする時は氷川を通すことにするよ」
「野分くん、その言い方はちょっと語弊があるような」
下世話な言い様を、氷川は苦笑いで諫める。実際のことを言えばおそらくその通りだし、あえて否定するほうが角が立つ場合もある。それでも、悪質な冗談として受け流すには少しばかり、野分の口調や表情の含みが気に掛かった。野分は唇の端を意地悪そうに歪める。
「そういうことにしておこう。とにかく、委細は週明けだ。月曜日の放課後でいいか?」
「俺は構わないけど、来年の部長の目星もついていないんでしょう」
「二日あれば目途はつく。なによりさっさとサインさせないと逃げられそうだ。今まで散々断られたからな」
文月を一瞥して野分が冗談のように言う。まさか、と文月が一笑に付した。
「そこまで無責任なつもりはない」
「確かに、口約束でも契約は効力を持つしな」
あくまで信用していない風に口先だけで予防線を張り、野分が壁の時計を確かめた。さして時間は経っていないが、空の紙コップを手元に二つ重ねて置く。
「そろそろお暇するか。思いついたことがあったいつでも連絡してくれ」
「ああ、また、月曜に」
「頼りにしてるね」
「こちらこそ」
二人分の廃棄物を引き受けて、野分が席を立つ。きちんと椅子を戻してからダストボックスへ向かう背中を見送って、氷川は横目で文月を見遣った。そして声を潜めて囁きかける。
「やけに突っ掛かるね」
「仲が良いと思ってた?」
「そうじゃないけど、冗談半分でも口喧嘩は心臓に悪いよ」
感情の乗らない口論は、当事者には軽いじゃれ合い程度のやりとりかもしれないが、隣で聞くには少々刺激が強い。氷川は未だに緊迫したやりとりが得意ではなかった。怖くて動けないとまでは言わないが、心臓によくないし、気を抜くと嫌な記憶が表に出てきそうになる。
そんな事情は特に言わず、簡潔にたしなめて済ませる。文月は思う所があったのか、眉を曇らせた。
「悪かった。気分の悪い思いをさせたか」
「そこまでは。でも、おかしな噂でも流れたら困るから、人前では気にして欲しいかな。皆、ゴシップに飢えてるからね」
微妙に田舎で、どれだけ風通しが良くても結局は全寮制という閉塞感があるためか、それともこの世代の特性か、あるいは人間は皆そうなのか分からないが、ここの生徒らはどうも噂話に敏感で怖い時がある。表立って動くならば、当事者間に亀裂があると思われるのは問題だ。文月が神妙に頷いた。
「そうだな、気を付ける」
僅かに沈んだ返答と表情に、氷川は少しばかり慌てて文月の腕を叩いた。
「怒ってるとかじゃないよ、心配なだけ」
「分かってる。あれだな、なんというか……氷川はどうもそつがなくて困る」
「……なんで?」
唐突な苦情に、氷川は首を傾げた。文月が唇の端に笑みを刻み、氷川の腕にそっと触れた。
「甘えて頼り切りになりそうだ」
囁く声は静かで落ち着いていて、他意など全くないように聞こえる。それでもその声の底に誘うような甘さが滲んでいるのを聞き分けて、氷川は咄嗟に空いた手で口元を押さえた。指の背が触れた頬が、炙られたように熱かった。
隣の席に座った文月は、凍頂烏龍茶のコップを両手で持って考え込んでいる。氷川は一口だけ減らした紙コップをテーブルに置いた。
「引き受けるの?」
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「まさか。俺には向いてないさ」
「そんなこともないとは思うけど」
文月の面倒見の良さならば、氷川はよく知っている。転入当初はよく気に掛けてくれたし、さり気なくフォローしてくれた。困っていれば助けてくれたし、参っていれば励ましてくれた。細やかな気遣いは人の上に立つには必要なものの一つだ。人を見ないリーダーの組織は容易く瓦解する。文月ならば問題なく人をまとめ上げられるだろう。ホームルーム時間の進行振りでも、彼は場を動かしまとめるのが上手い。
どちらかといえば議長向きかもしれない。考えながら薄いコーヒーをすする。文月が眉をひそめた。
「やれと言われてる気がするな」
「残念ながら、俺は野分くんみたいに学校のため、後輩のために何かするべきなんて立派な意思はないよ。ただ、あんなに情熱的に口説かれると少し心が揺らぐよね」
「相変わらずお人好しだな。でも……そうだな、氷川がやりたいなら考えなくもない」
中身を減らしたカップを揺らして、文月が微笑む。テーブルの下で、促すように足同士が触れ合った。
「俺が?」
「何かやってみたいって言ってただろ。渡りに船だったかと」
「そういえば、そんな話もしたね」
自分も何か、打ち込めるものを。熱心な生徒達を見てそう感じたのも事実だが、果たしてボランティア組織発足に尽力したいかと言われると疑問は生じる。野分は持ち上げてくれたが、氷川は自分が冷淡な人間だという自覚があった。関わりのある相手ならばともかく、見ず知らずの、利害関係もない他者にまで親切にする余裕はない。けれど、少し考えつつ、冷めかけのコーヒーを飲んだ。
「そうだね、文月くんと一緒なら、そういうのも楽しいかもね」
彼が隣にいれば英文読解だろうが長距離走だろうが楽しめるだろうと思える程度には、浮かれている自覚がある。潜めた囁きは、自分でも分かるほど甘いものになった。文月がテーブルに肘をつき、頭を落とす。
「ひどい殺し文句……やばい、うっかりやる気になってきた。これで引き受けたら野分が調子に乗る」
「恩を売ると思っとけばいいんじゃない? 貸借対照表の右側に、野分彩斗くんに貸しひとつってね」
「物は言いようか」
笑いながら告げた氷川に、文月が穏やかな声で応じる。その表情は楽しげで、しかしどこか陰があった。手を伸ばして軽く腕に触れる。
「無理強いするつもりじゃない。迷惑なら断っていいんだよ」
誘われては断っていたのなら、気が進まない理由があるはずだ。氷川の一存で巻き込むことは正しくない。少し慌ててそう付け加えると、文月は虚を衝かれたように目を瞬き、次いで苦笑した。
「別にそこまで心底嫌なわけじゃない。面倒だったし荷が重かっただけだ。去年引き受けたら、どうして高一の、参加経験も少ない奴が頭なのかと反発を食らう。今年になっても経験が少ないのは変わらないし、受験勉強を考えたら面倒事を抱え込みたくなかった。ま、逃げを打ったって言われても否定できないか」
お茶で喉を湿らせて、文月が氷川の腕をつついた。
「親切な奴じゃなくて失望した?」
からかうような口調の底に不安そうな色が滲んだ気がして、氷川は咄嗟に文月の手に自分のそれを重ねていた。乾いた手の甲を上から掴むように握る。
「別に、文月くんが優しくて親切だから好感を持ったわけじゃないけど、正直ちょっと安心した。あんまりいい人だと、同情して面倒見てくれてるのかなって思っちゃうし」
「残念ながらそこまで善人じゃない」
「うん、俺としてはそのほうが助かる。あんまり善良な人を見ると、我が身を省みちゃうし」
善意で行動できる人を見ると、自分の打算的な性質を強く意識してしまう。人として劣っていると、誰が言わなくとも自分自身でそう感じるのだ。しかし文月の目にはそのように映っていなかったのか、不思議そうに目を瞬いた。
「氷川は充分お人好しだろう」
「そう思って貰えてるとありがたいな。なら、仮面性お人好しの俺に付き合って、野分くんに貸しを押し付けることに協力してくれるの?」
露悪的な物言いに文月は眉を跳ね上げ、肩をすくめた。
「たまには善行積んどくのも悪くないだろ」
やってもいいという方向でまとまったと連絡すると、野分は十分もしないうちに談話室に駆け込んできた。閑散とした室内を見回し、氷川と文月のいるテーブルに直進する。文月がごくごく小さな声で、猪か、と呟いた。
「ここ座っていい?」
返答を待たずに椅子を引いた野分は、氷川と文月を順繰りに見、何笑ってんのと怪訝そうに片眉を上げた。
「ごめん、ちょっとね」
「そう、まあいいけど。それでさっきの話だけど」
野分が静かに氷川に視線を寄越す。氷川は小さく頷いた。
「別に俺が一生懸命口説いたわけじゃないよ」
「誘導された感はなくもないがな」
文月が言い足して冷め切った烏龍茶を飲み干す。氷川は唇の端を引きつらせ、頬を撫でた。
「そんなつもりもなかったけど、まあそういうことかな」
「計算尽くのくせによく言う」
文月がテーブルの下で、氷川の腿を軽く叩く。氷川は無言で文月の手を払いのけた。テーブルの下の攻防を知らない野分が物言いたげな表情で口を開き、そのまま閉じて軽くかぶりを振った。そして話の軌道を強引に戻す。
「何にしろ、やってくれるんだな」
「そういうことになった」
いかにも不本意そうな表情と声を作って文月が頷く。仕方なく引き受けたというポーズを取りたいらしい。氷川はその脇腹をつつき、野分に笑顔を向けた。
「俺も手伝うよ。でも俺も文月くんも経験不足で分からないことばっかりだから、色々よろしくね、野分くん」
「もちろん、こっちこそよろしく頼む。正式な書類は週明けに用意する。詳細を詰めるのは資料がある時でいいか?」
野分が安堵した表情で訊ねる。氷川は首肯してから文月を見遣った。彼は目を眇め、指の背で耳の下を撫でる。
「構わないが、分担の構想は?」
「児童館と公民館は他との連携もあるから執行部受け持ちのままだな。児童福祉施設と高齢者福祉施設の訪問を任せたい。訪問頻度は可能ならば双方毎月一度、無理なら隔月でもいい」
「そういうのって、毎月一回を目標に最初は様子見で隔月で、って始めると、絶対ずっと隔月のままだよね」
文月がそれなら隔月でと言い出す前に予防線を張る。別にやりたいわけではないが、やるからには後顧の憂いを断っておきたい。
野分は確かにと苦笑し、文月は横目で氷川を睨む。面倒なことをと言いたい気持ちはよくわかる。しかし取り下げることなく、氷川は肩をすくめた。
「筋道をつけるのが仕事なら、できるだけのことはやって手渡さなきゃ。初代が悪かったから面倒事が起きたとか言われないためにもね」
「見上げたリスクマネジメント精神だな。完璧主義で助かるよ、せいぜい粗をつついてくれ」
機嫌良く笑う野分に頷いて、残ったコーヒーに口を付ける。冷めたコーヒーは薄いのに妙に苦く、自然と眉が寄った。手を差し出した野分にそのまま受け渡すと、文月が足を軽くぶつけてくる。子供のような悋気を腿を叩いて宥めつつ、つい、溜息がこぼれた。
勢いで物事を進めてしまったが、半年足らずの期間でやるべきことは案外少なくない。地ならしまで手がつけば上々だろう。
「とにかく最初にやることは組織作りと人集め、だよね。次の部長も選んで一緒に話したほうがよさそうだけど、誰か心当たりはいるの?」
苦いばかりのコーヒーに顔をしかめた野分が、ああと曖昧に頷いた。
「一年の役員に心当たりを聞いてみる。ふたりとも良さそうな奴がいたら当たってみてくれ」
「条件は?」
「真面目で責任感があって、人当たりが良くて人を見る目があって、面倒見が良くて施設と個人的な関わりがない奴」
「多いな」
指折り数える野分に、文月が眉をひそめた。妥当な内容ではあるが、実際にクリアするのは容易くない。
「施設と関わりがある人は駄目、か……そうだよね、肩入れしちゃって癒着が起きるんじゃないかって、実際はどうあれ思われるし」
「そういうこと。これはって奴がいたらリストアップしといてくれ」
野分は軽く言うが、条件に適ってなおかつ身体が空いている高等科一年生は、列せられるほどの人数がいるのだろうか。二百人もいれば、探せば見つかるのかもしれないが、考えながら、氷川はかぶりを振った。
「残念ながら俺は下級生とは関わりがないから」
「俺もない。級長会議はただの報告会だから個性までは見えないしな」
「だったらこっちで見繕っとく。それにしても」
言い止して、野分が文月と氷川を感心したように眺めた。そして嘆息するように微笑む。
「まさかさっきの今で本当に引き受けて貰えるとはな」
「善は急げって言うでしょう」
「善、ね。どんな魔法を使ったんだか」
野分が思わせぶりに文月に視線を流す。文月は目をそらして肩をすくめた。
「おまえに乗せられたこいつに頼み込まれただけだ」
「なるほど、すっかり骨抜きなわけね。次から文月に頼みごとをする時は氷川を通すことにするよ」
「野分くん、その言い方はちょっと語弊があるような」
下世話な言い様を、氷川は苦笑いで諫める。実際のことを言えばおそらくその通りだし、あえて否定するほうが角が立つ場合もある。それでも、悪質な冗談として受け流すには少しばかり、野分の口調や表情の含みが気に掛かった。野分は唇の端を意地悪そうに歪める。
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「俺は構わないけど、来年の部長の目星もついていないんでしょう」
「二日あれば目途はつく。なによりさっさとサインさせないと逃げられそうだ。今まで散々断られたからな」
文月を一瞥して野分が冗談のように言う。まさか、と文月が一笑に付した。
「そこまで無責任なつもりはない」
「確かに、口約束でも契約は効力を持つしな」
あくまで信用していない風に口先だけで予防線を張り、野分が壁の時計を確かめた。さして時間は経っていないが、空の紙コップを手元に二つ重ねて置く。
「そろそろお暇するか。思いついたことがあったいつでも連絡してくれ」
「ああ、また、月曜に」
「頼りにしてるね」
「こちらこそ」
二人分の廃棄物を引き受けて、野分が席を立つ。きちんと椅子を戻してからダストボックスへ向かう背中を見送って、氷川は横目で文月を見遣った。そして声を潜めて囁きかける。
「やけに突っ掛かるね」
「仲が良いと思ってた?」
「そうじゃないけど、冗談半分でも口喧嘩は心臓に悪いよ」
感情の乗らない口論は、当事者には軽いじゃれ合い程度のやりとりかもしれないが、隣で聞くには少々刺激が強い。氷川は未だに緊迫したやりとりが得意ではなかった。怖くて動けないとまでは言わないが、心臓によくないし、気を抜くと嫌な記憶が表に出てきそうになる。
そんな事情は特に言わず、簡潔にたしなめて済ませる。文月は思う所があったのか、眉を曇らせた。
「悪かった。気分の悪い思いをさせたか」
「そこまでは。でも、おかしな噂でも流れたら困るから、人前では気にして欲しいかな。皆、ゴシップに飢えてるからね」
微妙に田舎で、どれだけ風通しが良くても結局は全寮制という閉塞感があるためか、それともこの世代の特性か、あるいは人間は皆そうなのか分からないが、ここの生徒らはどうも噂話に敏感で怖い時がある。表立って動くならば、当事者間に亀裂があると思われるのは問題だ。文月が神妙に頷いた。
「そうだな、気を付ける」
僅かに沈んだ返答と表情に、氷川は少しばかり慌てて文月の腕を叩いた。
「怒ってるとかじゃないよ、心配なだけ」
「分かってる。あれだな、なんというか……氷川はどうもそつがなくて困る」
「……なんで?」
唐突な苦情に、氷川は首を傾げた。文月が唇の端に笑みを刻み、氷川の腕にそっと触れた。
「甘えて頼り切りになりそうだ」
囁く声は静かで落ち着いていて、他意など全くないように聞こえる。それでもその声の底に誘うような甘さが滲んでいるのを聞き分けて、氷川は咄嗟に空いた手で口元を押さえた。指の背が触れた頬が、炙られたように熱かった。
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