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十月

消えた絵画 8

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 高等科三年生は寮の居室が一人部屋になる。氷川が使っているのと同じサイズ、同じ調度の、鰻の寝床のような部屋は、画材などで手狭に感じる。興味深そうに室内を見回す神森を促して、示されたベッドに腰掛けた。
「岩根さん、どういうことですか」
 神森が険しい表情で岩根に問う。彼はイーゼルボックスを適当に置くと、収納ボックスを開けた。テレピン油の匂いが強くなる。どうやら彼は、持ち込んだ収納用品に作品を収めているらしい。そこに向き合ったまま、岩根が低い声で話す。
「祥三さんは俺の叔父だけど、父とは十五歳も年が離れてて、どっちかっていうと、年の離れた兄って感じだった。十二歳年上だから随分大人だけど、自由な人だから若く見えたのもあるだろうね。いつも絵を描いてて、でもあまり評価されなくて、寂しそうな人だった」
 岩根が膝をついた。がたん、と物音がする。
「祥三さんが亡くなったのは知ってるよね。亡くなったのは俺が中学三年の時。悪性リンパ腫で、入院してから半年も経ってなかった。若いから、進行が速かったんだ。遺品の整理は割とすぐにされたんだけど、その中の日記をね、俺が譲り受けたんだ。家族の中で、俺が一番祥三さんと親しかったからだよ。他の誰も、祥三さんにも、作品にも興味がなかった。俺だけが、彼と仲が良かった」
「岩根祥三氏の影響で、油彩を?」
「そう。タッチも似てるでしょ」
 神森の問いに、岩根は穏やかに頷いた。話の腰を折ったと怒ることもない。神森もいつの間にか平静を取り戻し、静かに頷いた。
「ええ。良く、似ています」
「ありがとう。まあそれで、日記をね、この夏にようやく、開く気になったんだよ。ずっと仕舞い込んでたし、まあいくら故人で身内でも、日記なんて個人的なものを読むのは気が引けたからさ。でも進路について考えてて、何かヒントを貰えないかと思って、読んじゃったんだ」
 岩根は大きく溜息を吐き、項垂れた。腕がだらりと床に落ちる。神森も氷川も急かすことなく、彼の話に耳を傾けていた。
「後悔したよ。読むべきじゃなかった。まるでパンドラの箱だ」
「何が、書かれていたんですか?」
「睡蓮の下にあるものさ」
 岩根が顔を歪め、歯を軋らせるように吐き捨てた。引きずり出すように、収納ボックスから何かを出す。A3サイズほどのキャンバスだ。こちらには裏面しか見えないが、岩根はその表側を見ているはずだ。神森が寝台から立ち上がった。ゆらりと揺らぐように、岩根の背後に回る。そして息を呑んだ。
「祥三さんは結婚してなかった。同じ敷地の離れに住んでてね、優しい人だった。俺は、彼が大好きだったんだよ。それは、兄や叔父に向ける親愛じゃあなかった」
「これは……」
 神森が声を震わせる。氷川は腰を上げると、足早に神森の隣に並んだ。キャンバスを見るより先に、神森の腕にしがみつく。そうでもしなければ、彼は岩根に殴りかかるのではないかと思えたのだ。神森に抱きついたまま、顔を逸らしてキャンバスを見る。
 そこには睡蓮はなかった。
「どうして、こんなことを……」
「日記に書いてあったんだ。愛しい人の横顔を描きたかった。けれどそれに色を載せることができなくて、睡蓮の下に隠した。要約すれば、そんな意味合いのことだよ。俺は知りたかった。彼の愛した人が誰なのか。もしかして彼はその人に焦がれて、誰とも結ばれずに生きて、そして死んだんじゃないか。ロマンティックな妄想だ。だけど、見るべきじゃなかった」
 岩根が項垂れる。神森が肩を震わせた。
 睡蓮の池は削がれ、キャンバスの布地が露呈している。そこには木炭でデッサンが描かれていた。掠れているが、どうにか判別はできる。短い髪、涼やかな目元、すうと通った鼻筋と、薄い唇、顎のバランスがとても綺麗だ。カッターシャツの襟は四角く、ネクタイのデザインは見慣れたドット柄。それを確かめるまでもなく、しなやかな喉のラインには喉仏があって、被写体が男性であることは一目瞭然だ。
 岩根祥三が愛した人物は、学院の生徒だったのだ。
 岩根にとってそれは絶望だろうか。慰みにはならないのだろうか。考えるままに問いかける。
「どうしてですか。岩根祥三さんも同性愛者だったなら、思いが叶う可能性もあったわけでしょう」
「だからこそだよ。確かに、手に入ったかもしれない。祥三さんにとっては俺はどこまでも甥でしかなかったかもしれない。どっちにしろ、あの人には二度と手が届くことはない。もしかしたらって思えたら余計に、無理なことが堪えるんだって、知らなかった。こんなことをして、絵を壊して、俺は……」
 言い止して、岩根が手を握り込んだ。彼の手はまだ絵の具で汚れていた。草木の緑。土の茶。花の赤。黄。白。光の色だ。彼は何枚、あの花壇の絵を描いたのだろう。今日も、この間も、どんな気持ちでキャンバスに色を乗せていたのだろう。
「岩根さん。あなただったら、岩根祥三さんのデッサンの上に、風景画を描きますか?」
 神森の唐突な問いに、岩根が顔を上げた。神森はいつの間にか掴み掛かろうとするのをやめて、氷川に抱きつかれるままにしている。なんとなく動けなくて、その姿勢のままで岩根を見下ろした。岩根が二人の様子に目をまたたいてから、首を傾げる。
「祥三さんの、デッサンの上に……?」
「岩根祥三氏は、愛する人の横顔の上に、睡蓮の絵を描きました。睡蓮は、泥沼の上に咲くんですよ。沼の底に好きな人を沈めたんです。岩根祥三氏の恋は、叶わなかったのではないでしょうか。それがロマンティックな行為かは僕には分かりませんが、今の岩根さんと少し、似た状況ですよね」
「神森くん……」
「少し、考えてみてもいいと思います」
 唇だけで微笑んで、神森が氷川の手を剥がす。押されてようやく、身体を離すことができた。あんなに怒っていたのに、どういう心境の変化だろう。削がれた絵を見下ろして、神森は大きな溜息を吐いた。
「僕の愛した絵は、もう二度と見られないんですね……ある意味では、あなたと僕は同じ状況ですよ」
 冷ややかに告げて、神森は戸口へ身体を向ける。岩根がはっとした様子で、神森に声をかけた。
「神森くん」
 呼ばれた神森が足を止める。振り返らない背中に、岩根は少し、言葉に迷ったようだ。言い淀んでから、息を吸う。
「騙して悪かった。それから、祥三さんの絵を愛してくれて、ありがとう」
「……いいえ。僕が勝手に、あの絵を好きになっただけです」
 迷うような沈黙の後、神森は身じろぎもしないままそう告げると、扉を開けて出て行った。タイミングを逃して取り残された氷川は、困って岩根の前にしゃがみ込む。それでようやく氷川がいたのを思い出したように、岩根は目をまたたいた。
「氷川くんだっけ。巻き込んで悪かったね」
 この一件は岩根と神森の問題だとでも思っているのか、そう謝ってくる。確かに随分と踏み込み、時には神森を先導しさえしたが、氷川はこの件には部外者だ。思い入れの度合いが違いすぎる。しかし、そういう人間だからこそ訊ねられる事柄もある。
 氷川は痛ましい様相のキャンバスに視線を落とした。
「この絵は、どうするんですか?」
 訊ねると、岩根は笑うような吐息を漏らした。
「どうもしないよ。これは俺が芸術に対して働いた暴挙、冒涜の証拠だ。適当に隠し持っておくしかない」
「すり替えるために絵を描いたんですよね。だったらこの絵は……」
 パンドラの箱と呼ぶほどにつらいならば、手元に置かなくてもいいのでは。そう思ったが、岩根はかぶりを振った。
「そうだよ。だからって、望まないものが出てきたからって、手放すことなんてできない。だってこれは、祥三さんの作品なんだから」
 絵の具のついた手で、キャンバスをそっと撫でる。その仕草には愛情が感じられた。絵を削いだ手だというのに、慈悲深い癒しの手のようだった。
 そうですかとしか言えずに、氷川は腰を上げた。神森はもう帰ってしまっただろう。おそらく今頃、校舎に向かっているはずだ。氷川とは違い、彼は忙しい。
「色々と不躾なことを伺ったり、言ったりしてすみませんでした。俺もこれで失礼します」
「うん……話を聞いてくれてありがとう」
 岩根が氷川を見上げて、目を細める。悲しい気持ちになって、氷川は眉を寄せた。しかめ面を隠すように礼をして、踵を返す。廊下に出ると案の定、誰もいない。大きく息を吐いて、氷川はエレベーターホールに向かった。教室に戻って学祭の準備に参加すべきか、それとも部屋に戻るか。考えていたら、胃がきゅう、と音を立てた。
 そういえば、昼食を摂っていなかった。

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