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九月
帰校 1
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修学旅行三日目の日程を終え、如水学院の生徒達は新幹線で東京に帰った。東京駅からバスで一時間半ほど走れば、学院の敷地に着く。蟻の行列よろしく帰寮する生徒の群れは、駐車場からエレベーターへと続いていく。寮の玄関口でその流れからはずれ、氷川はすっかり自室として使い慣れた予備室へと進路を取った。
荷物を肩に、二日ぶりに自室に戻った氷川は、ほっと息を吐いた。荷物の整理もするべきだが、一先ず休憩したくて、ベッドに上体を倒す。昨夜は夏木の部屋で橘と雑魚寝したためか、四六時中他者がいる空間に慣れないためか、疲労が蓄積しているのが分かる。目を瞑って深呼吸を繰り返すと、身体から徐々に力抜けていくのが分かった。
迷惑をかけた詫びに文月、白沢、横峰の三人に夕食を奢る約束をしてしまったので、そうのんびりしている時間もない。ある程度休まったところで身体を起こし、荷物の整理を始めた。洗濯物と、持っていっただけで着なかった衣類を分けたり、資料をまとめたりとやることは少なくない。実家宛の土産は店頭で発送を頼んだから、その世話がないのだけが幸いだ。
「でも、母さんうるさいかな……」
夏休みに帰省しなかったため、三ヶ月は母親に会っていない。他の家族や、家族同然に過ごしてきた幼馴染みなんて、転入から一度も顔を見ていない。電話やメールはしているものの、心配させているかもしれない。なにせ、いじめられて不登校になった前科があるのだし。
少し考えて、氷川は溜息を吐いた。まあ、メールを送っておけばいいだろう。半月後には中間考査が控えているし、外出している余裕はあまりない。
粗方片付いた荷物を見回し、氷川は洗濯物を入れた袋を手に取った。寮には洗濯室があり、洗濯機がずらりと並んでいる。自分で洗えないものはクリーニング窓口があるが、日常的な洗濯は自分でするのが普通だ。洗濯開始時刻と名前を書いたメモを貼り付け――もし取りに来るのが遅くなったり、取りに来られない事情ができてしまった時のための対処だ――食堂へ向かった。道々、友人達に連絡を入れる。食堂に行くと伝えると、すぐに行く、という反応が綺麗に揃った。
本日のメニューを見ていると、すぐ隣に立ち止まる人がいた。夕食時にはやや早いが、混雑を避けるために時間をずらす人がいるのは不自然ではない。邪魔にならないようにと動くと、その人物もまたすぐ隣に動いた。不思議に思って視線を向ける。そこにいたのは私服に着替えた神森だった。
「神森くん、修学旅行お疲れさま」
知り合いだと気付いて話しかけないのも不自然だ。そこまで気負ったわけでもないが、氷川はのんびりと声をかけた。野分の気遣いを無にしないために、彼には昨夜の騒ぎを知られないようにする必要がある。
「氷川くんもお疲れさまです。夕食ですか?」
「うん。混み合う前にと思って」
「じゃあ同じですね。ああ、そういえば、仙台でも似たような感じでしたっけ」
昨日の昼に、やはりやや早い時間帯にレストランで顔を合わせたことを思い出したのだろう、神森が表情を緩める。
「そうだったね。タンシチュー食べてみた?」
「ええ。とても美味しかったです」
神森が上機嫌に目を細める。うっとりした表情で、とろとろに煮込んだ牛タンの素晴らしさを語り始める。その途中で白沢がやって来て、意気投合していた。そうこうしているうちに文月と横峰も着く。横峰がタンシチューに興味津々で、気付けば何故か揃ってビーフシチューセットに決定していた。
「僕も一緒でいいんでしょうか」
いつの間にか同席する流れになっていた神森が、少し不安そうに言う。今は彼と二人で券売機に向かっている途中だ。白沢と文月は席取りに行き、横峰は先に飲み物を調達しに行った。
「神森くんがいいならいいんじゃない?」
「そうですか。氷川くんが彼らの分も支払うんですか?」
思い出したように、神森が不思議そうに訊ねる。氷川は苦笑した。
「修学旅行中にちょっと、迷惑かけちゃって、そのお詫びに」
「そうでしたか。そういうことはありますよね、僕も同じ班の人の夜更かしに付き合って寝坊してしまって」
カウンターに向かいながら、神森が苦笑する。え、と声を上げた氷川に、神森が唇だけで微笑んだ。
カウンターの行列の最後尾付近で、横峰が手を挙げた。飲み物はすぐに調達できたようだ。
「お詫びに朝食を買って貰いました」
「……神森くんが寝坊なんて信じられないな」
言われた台詞をなかったことにして、感想を言う。彼は吐息だけで笑みを漏らした。
「僕だって普通の人間ですから、寝坊もミスもしますけど。書類を見落とすこともありますし」
「そうなんだ、ちょっと安心した」
「あなたが僕をどう捉えているのかとても不思議なんですが。少なくとも勉強は氷川くんのほうがずっとよく出来ますからね」
「神森くん、首席ですって雰囲気なのにね」
嫌味でも皮肉でもなく、素直な感想だったが、神森は苦笑した。
「成績が良かったら、生徒会役員なんてやってませんよ。お待たせしました」
後半の言葉は、横峰に対するものだ。彼は軽くかぶりを振って、列を示した。
「全然。むしろ買ってきてくれてありがとな」
「そういう約束だったからね。この季節にシチューメニューがあると思わなかったけど」
なんとなくシチューは冬のものという印象がある。横峰が確かにと同意する。
「夏はビーフシチューとトマトシチューが日替わりですが、冬には常設メニューになるんですよ」
「そうなんだ。冷やし中華や素麺と入れ替わりって感じ?」
「ええ。確か、クリームシチューとビーフシチューが常設で、アイリッシュシチューやトマトシチューなど日替わりのシチューメニューもありました」
「詳しいね」
「ね、よく覚えてるね。俺は冬のメニューなんて覚えてないや」
氷川と横峰が感心したように言うのに、神森が困ったような表情になる。
「僕は今年で五年目ですからね。それに、料理のメニューを覚えるのは得意なんです」
「神森くんって実はご飯大好きキャラだったり?」
「実家が料亭を営んでいるので」
冗談めかした横峰に、神森が冷ややかに返す。あまり面白い冗談ではなかったようだ。
食券を渡した食堂のスタッフが、シチュー五つかと驚いたように見てくる。横峰がにこやかに、ライスとパンの人数を告げた。
荷物を肩に、二日ぶりに自室に戻った氷川は、ほっと息を吐いた。荷物の整理もするべきだが、一先ず休憩したくて、ベッドに上体を倒す。昨夜は夏木の部屋で橘と雑魚寝したためか、四六時中他者がいる空間に慣れないためか、疲労が蓄積しているのが分かる。目を瞑って深呼吸を繰り返すと、身体から徐々に力抜けていくのが分かった。
迷惑をかけた詫びに文月、白沢、横峰の三人に夕食を奢る約束をしてしまったので、そうのんびりしている時間もない。ある程度休まったところで身体を起こし、荷物の整理を始めた。洗濯物と、持っていっただけで着なかった衣類を分けたり、資料をまとめたりとやることは少なくない。実家宛の土産は店頭で発送を頼んだから、その世話がないのだけが幸いだ。
「でも、母さんうるさいかな……」
夏休みに帰省しなかったため、三ヶ月は母親に会っていない。他の家族や、家族同然に過ごしてきた幼馴染みなんて、転入から一度も顔を見ていない。電話やメールはしているものの、心配させているかもしれない。なにせ、いじめられて不登校になった前科があるのだし。
少し考えて、氷川は溜息を吐いた。まあ、メールを送っておけばいいだろう。半月後には中間考査が控えているし、外出している余裕はあまりない。
粗方片付いた荷物を見回し、氷川は洗濯物を入れた袋を手に取った。寮には洗濯室があり、洗濯機がずらりと並んでいる。自分で洗えないものはクリーニング窓口があるが、日常的な洗濯は自分でするのが普通だ。洗濯開始時刻と名前を書いたメモを貼り付け――もし取りに来るのが遅くなったり、取りに来られない事情ができてしまった時のための対処だ――食堂へ向かった。道々、友人達に連絡を入れる。食堂に行くと伝えると、すぐに行く、という反応が綺麗に揃った。
本日のメニューを見ていると、すぐ隣に立ち止まる人がいた。夕食時にはやや早いが、混雑を避けるために時間をずらす人がいるのは不自然ではない。邪魔にならないようにと動くと、その人物もまたすぐ隣に動いた。不思議に思って視線を向ける。そこにいたのは私服に着替えた神森だった。
「神森くん、修学旅行お疲れさま」
知り合いだと気付いて話しかけないのも不自然だ。そこまで気負ったわけでもないが、氷川はのんびりと声をかけた。野分の気遣いを無にしないために、彼には昨夜の騒ぎを知られないようにする必要がある。
「氷川くんもお疲れさまです。夕食ですか?」
「うん。混み合う前にと思って」
「じゃあ同じですね。ああ、そういえば、仙台でも似たような感じでしたっけ」
昨日の昼に、やはりやや早い時間帯にレストランで顔を合わせたことを思い出したのだろう、神森が表情を緩める。
「そうだったね。タンシチュー食べてみた?」
「ええ。とても美味しかったです」
神森が上機嫌に目を細める。うっとりした表情で、とろとろに煮込んだ牛タンの素晴らしさを語り始める。その途中で白沢がやって来て、意気投合していた。そうこうしているうちに文月と横峰も着く。横峰がタンシチューに興味津々で、気付けば何故か揃ってビーフシチューセットに決定していた。
「僕も一緒でいいんでしょうか」
いつの間にか同席する流れになっていた神森が、少し不安そうに言う。今は彼と二人で券売機に向かっている途中だ。白沢と文月は席取りに行き、横峰は先に飲み物を調達しに行った。
「神森くんがいいならいいんじゃない?」
「そうですか。氷川くんが彼らの分も支払うんですか?」
思い出したように、神森が不思議そうに訊ねる。氷川は苦笑した。
「修学旅行中にちょっと、迷惑かけちゃって、そのお詫びに」
「そうでしたか。そういうことはありますよね、僕も同じ班の人の夜更かしに付き合って寝坊してしまって」
カウンターに向かいながら、神森が苦笑する。え、と声を上げた氷川に、神森が唇だけで微笑んだ。
カウンターの行列の最後尾付近で、横峰が手を挙げた。飲み物はすぐに調達できたようだ。
「お詫びに朝食を買って貰いました」
「……神森くんが寝坊なんて信じられないな」
言われた台詞をなかったことにして、感想を言う。彼は吐息だけで笑みを漏らした。
「僕だって普通の人間ですから、寝坊もミスもしますけど。書類を見落とすこともありますし」
「そうなんだ、ちょっと安心した」
「あなたが僕をどう捉えているのかとても不思議なんですが。少なくとも勉強は氷川くんのほうがずっとよく出来ますからね」
「神森くん、首席ですって雰囲気なのにね」
嫌味でも皮肉でもなく、素直な感想だったが、神森は苦笑した。
「成績が良かったら、生徒会役員なんてやってませんよ。お待たせしました」
後半の言葉は、横峰に対するものだ。彼は軽くかぶりを振って、列を示した。
「全然。むしろ買ってきてくれてありがとな」
「そういう約束だったからね。この季節にシチューメニューがあると思わなかったけど」
なんとなくシチューは冬のものという印象がある。横峰が確かにと同意する。
「夏はビーフシチューとトマトシチューが日替わりですが、冬には常設メニューになるんですよ」
「そうなんだ。冷やし中華や素麺と入れ替わりって感じ?」
「ええ。確か、クリームシチューとビーフシチューが常設で、アイリッシュシチューやトマトシチューなど日替わりのシチューメニューもありました」
「詳しいね」
「ね、よく覚えてるね。俺は冬のメニューなんて覚えてないや」
氷川と横峰が感心したように言うのに、神森が困ったような表情になる。
「僕は今年で五年目ですからね。それに、料理のメニューを覚えるのは得意なんです」
「神森くんって実はご飯大好きキャラだったり?」
「実家が料亭を営んでいるので」
冗談めかした横峰に、神森が冷ややかに返す。あまり面白い冗談ではなかったようだ。
食券を渡した食堂のスタッフが、シチュー五つかと驚いたように見てくる。横峰がにこやかに、ライスとパンの人数を告げた。
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