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六月

転入二週間:ワンゲル部長エンカウント 2

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「ちょっと、横峰くん、放してよ」
「上のマックでいいでしょ。それとも、お上品なお坊ちゃんはファストフードなんて食べたこともない?」
 ちらりと振り返った横峰が、嘲りの表情を浮かべる。シャツにジャケットを合わせたごく普通の服装だが、高校生が遊びに行く支度としては少々異質だろう。ドレスコードさえなければ、氷川だってもっとありふれた格好をしていた。いくらリネンでもジャケットは暑いし肩が凝る。
「外出するときまで制服着用の人に言われたくないし、マックくらい行ったことある。ただ、今は」
「じゃあ行き先言ってよ。道すがらでいいって言ってるじゃん」
 その二択なのがまずおかしい。氷川の意思を完全に無視している。そう言い返せたら、もっと楽に生きられただろう。氷川は大きな溜息をついたあと、ホテルの名前を出した。途端に横峰が歩みを止めて、慣性の法則でぶつかりそうになる。それを無視して、横峰は進行方向を変更した。
「だったら逆側か。誰と待ち合わせてるの」
「……母親」
「本当に?」
 ちらりと振り向いた横峰が、探るように氷川を見遣る。自然と眉が寄った。
「嘘ついて何になるの」
「さあね」
 人波を泳ぐようにすり抜け、エスカレーターに導かれる。先に乗った横峰に普段以上の角度で見下ろされて、氷川は視線をそらした。
「理事長にでも呼ばれてんじゃないの」
「まさか」
 理事長なんて、転入した日以降すれ違ってもいない。理事らは他に本職があり、直接生徒に関わることは基本的にない。多くの生徒は入学式と卒業式の他は、せいぜい大会やコンクールで好成績を上げたときにしか顔を見ないだろうし、そうあるように願っているだろう。慶事以外で理事長から呼び出されるのは、相応の問題を起こした場合だ。誰だって処分は受けたくない。
「理事長とか……どこから出てきたの。面接試験の日と転入初日にしか会ったこともないのに」
「じゃあ、他の理事か、学院長、それ以外の教師」
 どうしても学校関係者と会うことにしたいらしい。ラグジュアリーホテルで三者面談なんて聞いたこともないし、二者面談はもっとあり得ない。
「どうして……」
「誤魔化すなよ、教師の犬が」
 誤解を解こうとした言葉を遮って、鋭い罵倒が降りかかる。常とはかけ離れた口調だが、声そのものは決して大きくはなく、周囲の人々は気にした様子もなかった。にぎやかな館内放送に救われた形だが、内容はとんでもない。というより、意味が分からない。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、横峰が唇を歪めた。
「図星突かれたからって黙らないでよ。ね、どんな報酬で探偵の真似事なんて引き受けたの」
 エスカレーターが平らになって、横峰は迷わずホテルの方角へ向かった。ショップの並ぶフロアから離れたせいか、人通りが少し減って、呼吸がしやすくなる。
「何の話?」
「いい加減にしら切るのやめなよ。俺だって目付けられてるのくらい知ってたよ。まさかあんたを使うと思ってなかったけど」
 要領を得ないが、幾つか分かったことがある。横峰は何か学校に知られては困ることを行なっている。それが学校側にバレたか察されたと感じて、しかも氷川が調査に来たと誤解している。あの女性と会っていたのが、その場面だ。
 ここまで疑心暗鬼になり、神経を尖らせるのだから、簡単な内容ではないはずだ。売春の斡旋、という単語が頭を過ぎる。もしそうなら立派な犯罪だ。警察のお世話になってしまうし、学校も退学になる。けれどそれなら、仲介者が顧客と顔を合わせるだろうか。紙の証拠を残すだろうか。しっくりこなくて、内心首を捻る。
 考え込んでまた黙ってしまったためか、不自然な間が開いた。横峰が苛立った風に、腕を掴む手に力を込める。このペースではすぐにホテルに着いてしまいそうで、氷川は足を止めた。先導していた横峰が訝しげに足を止める。
「急に止まんないでよ、危ないじゃん。本当、氷川くんって協調性ないよね。一緒に山行きたくないタイプ」
「ワンゲル部のお世話になる予定はないから安心してよ。それより、誤解してるみたいだけど、俺は横峰くんのこと調べてなんて頼まれてないし、調べようともしてないよ」
「白々しいって言ってるの。母親と会うような場所じゃないじゃんね」
 聞き慣れた嫌味を受け流し、誤解を解こうと試みる。しかし横峰は、冷めた視線で鼻で嗤うだけだ。氷川はわざとらしく溜息をついて、横峰の腕を振り払う。皺になった気がして袖を払うと、彼は不快そうに目を眇めた。嫌悪の表情に怖じ気づいて、しかし言うだけは言わなければと気力を奮い立たせる。妙な誤解をされて迷惑を被るのは、氷川本人だけではない。
「それ言ったら、先生や理事と会う場所でもないよね。学院長や先生なら、校内で会えばいい話だし」
「ふうん。じゃあ、理事長? それとも他の理事?」
「……自分にやましいことがあるからって、他人もそうだと思わないでくれるかな」
 すっと、横峰が目を細めた。
「やましいこと?」
「確かにちょっと、目についたからって盗み見しちゃったのは行儀悪いし、俺が悪かったと思う。でも問答無用で難癖付けるなんて、バレたら困ることしてるって言ってるようなものだよ。こっちの話も聞かずに一方的に決めつけるなんて……援交の斡旋でもしてるのかって疑っちゃうけど」
 援助交際という言葉は新しい単語だが、それでも社会に浸透して充分な年数が経つ。行き過ぎる人々の耳に入らないよう、その部分だけトーンを落とした。聞き取りずらかったのか横峰が軽く眉をひそめる。一拍置いて、彼は一気に顔を赤くした。羞恥ではなく、怒りで。
「なっ……」
「言っておくけど、人に知られたら困ることをやってることも、教師に疑われてるって考えてることも、横峰くんが自分で言ったんだよ。俺はその中から当てはまりそうな可能性を考えてみただけ」
 赤い顔で氷川を睨む横峰の表情は、見当外れな侮辱を受けた憤りとも、核心を突かれた焦りとも判別がつかない。氷川はセットした前髪に指を差し込んだ。気分が悪い。
「本当、何してるか知らないけどさ。悪いことしてる自覚があるならやめなよ」
 罪悪感は精神を摩耗させる。横峰が氷川を目の敵にする理由は分からない。しかし今日、視野狭窄に陥って口を滑らせたのは、世界に怯えているからだ。彼は今も、氷川の言葉を吟味している。自分を謀り、陥れようとしてはいないかと考えているはずだ。
「じゃあね。また明後日、学校で」
 じりじりと距離を取り、手を伸ばしたくらいでは触れない位置まで下がってから、一息にそう告げた。はっとして顔を上げた横峰から逃れるように、目的地へと足を進める。人目をはばかる理性があれば、捕り物よろしく追いかけてなど来ないだろうという判断だったが――十歩も進まないうちに、がしりと腕を掴まれた。
「待った。誤解したまま行かないでよ」
「誤解も何も……」
 額を押さえて、氷川は振り返った。別に本当に、彼が売春の斡旋をしていると思っているわけじゃない。センセーショナルな可能性を突きつけてみただけだ。だが彼は氷川が言い終わるのを待たずに、腕を掴むのとは逆の手で肩を押さえる。通行人が何事かと言わんばかりに視線を投げてきて、氷川は居心地悪く身じろいだ。
「変な噂を広められても困るから、説明する。聞いてよ」
「分かった、誰にも言わない。だから離して」
「氷川くん」
「横峰くん、俺、約束があるって言ったよね」
 何度目かの要請で、横峰はようやく氷川から手を離した。容赦なく掴まれていた腕も肩も熱を持ったように痛む。肩を摩って、氷川は大きく息を吐いた。
「門限までには帰寮するから、その後で聞かせて」
「……でも」
「じゃあ、母に紹介すればいいの? 俺はそれでもいいけど」
 しつこく食い下がる横峰に、うんざりした感情そのまま辛辣に当たってしまう。彼は唇を引き結んで、脇におろした手を握り込んだ。
「……悪い。先に寮に帰る。詳しく言うから、それまでは、誰にも……」
「言わない。ねえ、横峰くんが俺を嫌いなのは知ってるけど、少しくらい信用してよ」
 できるだけ静かに告げると、横峰が目を見張った後、視線をそらした。気まずそうな表情だが、それを可哀想と思うほど、彼と親しくはない。
「じゃあまた、後でね」
 今度こそ背を向けて歩き始める。約束の時間にはもう少し間があるが、寄り道をする気は失せていた。

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