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六月

登校初日 1

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 翌朝、真新しい制服を着込んだ氷川は指定された通り第二職員室にいた。目の前にいるまだ若い男性教諭、夏木清二が、氷川の担任教師となる。落ち着いた雰囲気の人物であることに安堵した。厳しそうな人や、体育会系の教師にはあまり良い思い出がない。
 購買部で教科書類を購入して来たため、ずしりと重い鞄を持ち直して、夏木の言葉に耳を傾ける。
「氷川ね。成績に関しては問題ない。ちゃんと自習しててえらいよ。ただ、予想がつくと思うけど、こんな時期の転入生は珍しいから色々聞かれると思う。そういうのは平気?」
「あんまり得意じゃないですね」
「うん、だろうな」
「ええ。得意だったら、まずご面倒をおかけすることになっていないかと」
 引きつり気味にそう答えると、夏木が苦笑いを浮かべる。困らせてしまったなと、氷川はちょっとだけ口角を上げた。
「まあ、頑張ります。俺も……上手く溶け込めるようになりたいですから」
「そうか。ほどほどに、無理はするなよ。なんでも先生に相談すること。それから、学級委員にはちょっと話をしてあるから、頼ってやってくれ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、悪いけど時間まで待ってて。そっちのソファ使っていいから」
「分かりました」
 指で適当に方角を示した夏木に頷き、指された方向に足を向けた。ちらちらと盗み見る視線に気付かない振りをして、応接セットのソファに腰を下ろす。喉元を締め付けるネクタイを僅かに緩め、扉に背を向けて窓の外を眺めれば、流れるように鳥が横切った。空が青い。
 学級委員ねと、胸中で繰り返す。そんな肩書きをもらっているのは、どうせ真面目な人物だろう。その方が、接するのが楽でいい。
 けれど、できることなら。幾度も頭を過ぎる思考に、氷川はきゅっと拳を握った。

 やがてホームルームの時間が近づき、教員たちがばらばらと職員室を出て行く。荷物を持って立ち上がると、すぐに夏木もやって来た。
「悪い、お待たせ。行こうか。教室四階だから結構登るよ」
 促す夏木に従って職員室を退出し、階段を上る。登校時には多くあった生徒の姿は既にまばらだ。予鈴の音に早足で歩く生徒が何人か目についた。
 目当ての教室の前に付き、夏木は安心させようとするような笑顔を浮かべた。
「緊張しなくて平気だからな。あ、携帯の電源は切っとけよ」
「分かりました」
「じゃあ、呼ぶまで待ってて」
 肩を軽く叩いて、夏木は教室の扉をがらりと開ける。さざめく話し声が途切れて、静寂に本鈴が重なって響いた。
 ――おはようございます。
 ――おはよう。今日は転入生を紹介します。
 ――美人ですか?
 ――いや……男だから。
 氷室が思うのと同じことを夏木が呆れた風に言うのが聞こえる。思ったよりも元気そうな様子に、少しばかりたじろいだ。もっと真面目そうな集団かと勝手に想像していた。
 ――先生ノリ悪いっすよ。でも、こんな時期にですか?
 聞こえてきた問いに、びくりと肩が震える。詰まった息をそっと吐き出し、氷室は握り込んだ拳から力を抜いた。誰だって疑問に思う。当たり前だ。むしろ事前に聞こえてきて良かった。いきなり直に聞かれたら動揺を隠せなかった。
 ――人には色んな都合ってもんがあるからな。ともかく、廊下で待ってるから呼ぶから。静かにしろよ。氷川、入って。
 ひゃあとか、うっわそこにいたのかよとか、廊下で待たせるなんてひどいとか、いくつかの声が聞こえる。氷川は覚悟を決めて、扉を引いた。一礼して入室し、扉を閉めてから夏木の隣に立つ。波が引いていくように静かになった教室を一瞥して、夏木は氷川をてのひらで示した。
「今日から一緒に勉強する、氷川泰弘くんです。仲良くするように」
 それだけ言うと、夏木は黒板に向かってチョークを取り上げた。振り返れば、資料を片手にかつかつと氷川の名前を書いていくのが見える。親切に甘えることにして、氷川は教室内をくるりと見回した。横に八列、縦に五席、合計四十人の生徒たちのほとんどが氷川に目を向けている。無関心そうなものから興味津々のものまで様々だが、数は力で、圧迫感がある。怯みそうになりながら、なんとか笑顔を作った。
「氷川です。慣れないこと、分からないことが多くて迷惑をかけると思いますが、早く慣れるように頑張るので、よろしくお願いします」
 頭を下げると、まばらに拍手が起きた。恥ずかしいから止めて欲しい。顔を上げると、最前列の窓際の生徒が軽く挙手をする。
「はい、質問。趣味は?」
「見合いかよ」
 即行で入った突っ込みを無視して、人懐こそうな生徒が首を傾げる。多分、雰囲気を軽くしようとしてくれたんだろう。
「趣味は……映画を見ること、かな。DVDも悪くないけど、映画館に行きたい派」
「あ、俺も映画好き。ここの図書室は映画のDVD充実してるから、使うといいよ」
 質問したのとは別の生徒が、親しげに言う。氷川は頬を緩めた。
「ありがとう」
「僕も質問、好きな球団は?」
「え、えっと……」
 野球にあんまり興味がないと答えていいものか悩んでいると、夏木が手を打ち合わせた。
「はいストップ。続きは休み時間にやれ。氷川の席は窓際の一番後ろな」
「分かりました」
 ブーイングを起こす生徒達の間を抜けて、指定された席につく。ひとつだけ後ろにはみ出した席は、そのまま自分が異端者であることを表現しているようだ。夏木が出席の点呼を取り始めると、教室は自然と静かになり、その後のホームルームは何事もなく進行していった。賑やかだが、無秩序ではない。そんなバランスに感心する。続いて衣替えに関してや、今月から水泳の授業が始まるから水着の用意に不足がないか確認するようにとの通達。他にもいくつか注意事項などが告げられて、朝のSHRはこんな風だったろうかと記憶と照合しかけて取りやめた。少なくともここ半年間、まともに朝から登校したことなど数えるほどしかなく、そのいつだってまともに参加していられる状況や心境ではなかった。比べられない。
 そうこうしている内にSHRが終わり、ごく短い休み時間を挟んで授業が始まる。教師陣は既に説明を受けているためか、無関心そうに氷川を一瞥する程度で特別扱いするでもなく時間が過ぎていく。このまま平穏に一日が過ぎ、一週間も経って日常になってくれないだろうか、そんな希望が儚く打ち砕かれたのは、昼休みになった時だった。

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