優等生ごっこ

村川

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 誰かが悩み迷っていようと、時間は等しく流れる。秋内が結論を出せず、誰にも相談できずにいる間に、夏祭りの日はやって来た。夕方まで講習を受けて、予備校を出る。顔なじみになった生徒に用事があるのかと聞かれた板見は、今日は夏祭りに行ってみるんだと楽しそうに応えていた。それは楽しそうだと社交辞令を言う者はいても、それなら自分も行ってみようと行き先を変更する者はいない。
「皆、お祭りなんて興味ない感じだったね」
「わいわい騒ぐのが好きだとか、彼女でもいるとかなら楽しいって程度のもんだし、そういう風に遊ぶのが好きかどうかって人それぞれじゃん」
 世の中には様々な人間がいる。興味の方向も、娯楽の好みも各人で異なる。
「秋内くんは、お祭りは好き? 詳しかったけど」
 板見の伺うような視線に、秋内は苦笑を浮かべた。苦心して、それをまともな笑顔に変える。客として遊んだ経験はほとんどないが、楽しいことも多かった。
「楽しもうと思えば楽しい」
「スタンスの話だね、それは。あ、提灯だ」
 苦笑した板見が、気遣うように楽しげな声を上げる。指差された先には朱色の提灯がかかっている。道に人が溢れていて、賑わっているのが一目で分かった。
「そうそう、人混みだからスリとひったくりに気を付けて。普段より治安悪いから」
「わかった」
 注意を受けて、板見が神妙に頷く。教材などの入った重いトートバッグは予備校のロッカーに預けてきたが、財布やスマートフォンはポケットに入れたままだ。不安そうな表情に悪戯心が刺激され、秋内はエスコートするように手を差し向けた。
「なんならはぐれないように手でも繋ぐ?」
 からかうような問いに、板見はまじまじと秋内の手を表情を見比べ、顔をしかめた。
「女の子みたいな扱いはしなくていいよ、はぐれたら電話でもすればいいでしょ」
 そうだなと応えて秋内は手を引っ込め、通りへと板見を促した。

 世の中には食べ物系のイベントというものもあり、そうしたところは専門業者が相応の衛生管理を行なっているはずだ。しかし、いわゆる“縁日の的屋”はそうではない場合が著しく多い。全てが駄目とは言わないが、外から見て問題の有無を確認できないので、気になるならば全て一括で避けるのが精神衛生のためには良いという結論になる。そのあたりの線引きは個々人で異なり、衛生性の基準の他に、<ruby>穢れ<rp>(</rp><rt>ケガレ</rt><rp>)</rp></ruby>の感覚もあるように思えるが、専門家ではない秋内には断言はできない。ただ、生理的に気持ち悪いと感じることは、本能の拒絶だ。本能に抗ってまで無理をする必要は全くない。
 そういうわけで、秋内と板見は食べ物系の屋台には目もくれず、水ヨーヨーを釣っては返すことや、弱った金魚を掬っては返すことに精を出した。現在は、隅にひっそりと店を広げた、今時珍しい型抜きの屋台で、板見が作業に没頭している。秋内はそれを横目で確かめ、店主に頭を下げた。今夜何人目かの、知った相手だった。顎をしゃくる男に頷いて、板見に声を掛ける。
「ちょっと飲み物でも買いに行くわ。ここで待ってて」
「いってらっしゃい」
「秋内はお茶でいい?」
「うん。緑茶」
 顔を上げないまま応える彼の頭を撫でたい衝動を抑え込み、ベンチを離れる。店主は手伝いの青年に店番を頼むと告げて、秋内と共に屋台を離れた。
「どうも、お久しぶりです」
「ああ、見ないとは思ってたが、その様子だと真面目くんになっちまった感じだな」
 秋内が抜けた頃には既に“上”に引き抜かれていた男は、寂しげに言う。
「はい。この春先に」
「あの子は?」
「学校の友達っす」
「いい子っぽかったぞ」
「いい子が多い学校なんで」
 本当に上位の進学校は案外、面白い生徒も何割かいるらしいが、秋内の通う学校レベルだと真面目ではない生徒を探すほうが難しい。きちんと勉強しているから、今の学力を保てているという者ばかりだ。
 秋内の返答に、男は呻くような声を上げた。
「まじか……」
「まじっすよ、毎日勉強漬けで。なんで、今日は息抜きです」
「そうか、でもあれだろ、そうすると面倒も多いだろ」
「まあ、そうっすね。でも<ruby>通過儀礼<rp>(</rp><rt>ノルマ</rt><rp>)</rp></ruby>はこなしてるんで、大目に見てもらえんじゃないかと思ってんですけどね」
「だといいな」
 角を折れると、人の波が一気に減る。自動販売機は少し行った先にあるが、その手前のコンビニエンスストアのほうが品揃えが豊富だ。
「おまえはタケルに懐いてたから気になっちゃいたんだが、やめちまうとはな」
 唐突に出てきた懐かしい名前に、秋内は息を呑んだ。
「ええ……タケルさんは、今は」
「さて、足取りはさっぱり掴めてない」
 出奔した過去の仲間について言及する男は、さして口惜しそうでもない。そのことに安堵し、知られないように息を吐いた。理不尽な目に遭った人が、更に苦しんでいないならば、それに勝る吉報はない。
「今も探してるんですか?」
「体面上は一応な」
「見つけたら……」
「落とし前はつけさせなきゃならん。だからまあ、こんなこと言ったらまずいが、面倒だから出てこねえほうが楽だ」
 男はそう言って苦く笑う。彼にとっても、タケルという人物は親しい相手だった。だからこそ裏切りは厳しく断罪しなければならない。同時に、どこか遠くで生死不明でいてくれたほうが、精神には優しい。共同体にとっての義務と、個人的な感傷。人間は誰しも矛盾を抱え込んでいる。
 男は秋内にとっては先輩格に当たる。反社会的勢力――端的に表現すれば暴力団に引き抜かれた、暴走族のOBだ。タケルという人物も同じで、秋内にはそちらのほうが縁が深い。それなりに頭が良く、人当たりが良く、身体能力も高く、人望もあるという見所のある人物だったので、出世株だった。しかし彼は今、所在不明だ。
 タケルは初仕事で失敗した。末端の人間が何人か捕まり、新聞を騒がせるような事件になった。当然ながら準備資金の回収も出来ず、まるで見せしめのように身内を性風俗に沈められた。まるで筋が通っていないが、組織のごくごく末端の、暴力団と暴走族の間のような代物の倫理観などその程度だ。元より真っ当な世界ではない。
 不合理な展開に耐えきれず、タケルは姉と共に姿を消した。その一連の流れに嫌気が差して、秋内も暴走族を辞めた。辞めるのは簡単ではなかったが、清々した。しかし過去は時折、思い出したように顔を覗かせ、秋内を解放しようとしない。今日や、先日のように。
「俺はここが性に合ってるし、いい。だがまあ、迷い込んだガキが日の当たる場所に戻るのは自然の摂理でな、何人いなくなろうが、寂しいが、それだけだ」
 独り言のように男が言う。それは秋内のことだろうし、他の抜けた子供たちのことだろうし、もしかするとタケルのことでもあるのかもしれなかった。
 コンビニの前にはジャージ姿の中学生くらいの男女がたむろしていた。睨め付ける視線を無視して建物に入る。冷房の効きすぎた店内は、賢明な祭客で混雑していた。真っ直ぐ冷蔵ケースに向かい、飲み物のペットボトルを二本選ぶ。買い物カゴを手にした男が、当たり前のようにそれを自分のカゴに入れた。
「すみません」
「ま、餞別だ」
「ありがとうございます」
 厚意に素直に甘えて、緑茶を奢って貰う。もしまた屋台で出会っても、こうして話すことはないだろう。挨拶をするかどうか、その程度の関わり合いが正しい距離になる。住む世界が違うとお互いが認識すれば、それが自然で、必然だった。
 ビールと緑茶が入ったレジ袋を手に、狭い店を出る。身体に纏い付く熱気に、秋内は目を眇めた。別れは、春ばかりとは限らない。
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