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第一章 士官学校編
閑話 フロ・フロ・フロ!
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某日。
喜入銑十郎は飢えていた。
血に、ではなく、湯に、である。
少年が暮らすここプロシアントでは、湯船に浸かる習慣はなく、日々身体を洗い流すだけで済ませている。
温泉がいたるところに湧き出る国、薩摩で生まれ育った彼にとって、湯浴みのない生活はどうにも耐え難いものであった。
「こと風呂んは、薩摩ば、恋しくなりもすな」
郷愁に浸るよりも早く、少年の頭脳は激しく旋回を始めた。
--なければ、作ればよいではないか。
◇
「まずは、桶でごわすな。大きなのがあればよいがの」
小さな水汲み用の桶なら、目にしたことがある。しかし、人が入れるぐらいの--やや小柄な自分なら小さめでもよいが--大きさになると、見当がつかない。
思案を巡らすよりも、少年の足が動き始める。つくづく、熟考ができない性質なのである。
ふと、慣れ親しんだ厩に足を向けると、馬たちが競うように餌入れに首を突っ込んでいるのが目に入った。その餌入れ、飼馬桶は、まさに少年が必要としていたものであった。
「ちと小さいが、使えもすな」
厩舎の裏に使い古された飼馬桶を見つけ、水漏れがないか確認すると、少年はその小さな体をいっぱいに使って水場へと大桶を引きずっていく。
そして一心不乱に、貴人に献上する宝珠を磨くように、くすんだそれを清め続けるのだった。
「おう、キーレ。何してやがる」
馬上から、大男が声をかける。
「桶をば、磨いておる」
「桶……? まあ、桶ではあるが。明日になったらまた汚れちまうだけだぜ」
奇妙なことをするもんだ、とは思ったものの、無言で作業を続ける少年にそれ以上の興味をなくしたのか、肩幅の大きい男は蹄音とともに去っていった。
◇
湯船が確保できたとなれば、次は火の用意である。幸い、火のありかには心当たりがあった。
少年は足早に炊事場に赴くと、土間で鍋の具合を見ている中年の女性に声をかけた。
「湯ば、沸かごたいのじゃが。竈ば、借りるわけにはいかんじゃろか」
「別に構わないけど、沸かしてどうするのさ」
「煮て、風呂にば、しもす。よければ、こん大鍋もかっしゃったもんせ」
女性は怪訝な顔をしながらも、快く大きな鍋を少年に渡してくれた。
「あれま、少年。少年はもしかして料理とかしちゃう人?」
「料理はしもさんが、竈に用ばあっての」
「あたしもたまーにここを使わせてもらってるんだよねー。ほれ、頑張る少年にご褒美をやろう」
もごもご、と口の中に突き込まれた物体の予想だにしない甘さに、少年は驚きを隠せない。
思わぬ甘味に舌鼓を打ったのも束の間。手を振りながら去っていく姿に一礼を返し、少年はまた次の目標に向かう。
◇
残りは十分な水を確保するだけであった。井戸から調理場までは、数百歩の距離がある。
少年にとってこの面倒な、退屈な作業は苦にならないのか、小さな水桶に水を汲み、持てる限りそれを調理場に運んでは大鍋に注ぎ続ける。
それを横目に見ていた青年が一人。
「なあ、キーレ。これもジゲンの修行なのか?」
「修行では、なか。悦楽のためじゃ」
「なんだかよくわからんが、キーレのやることなら、俺もやる」
勤勉な運搬者が、二人に増えた。
少年は大鍋が一杯になっても満足せず、竈の横にはいくつもの水を張った小桶が、いつの間にか綺麗に整列していた。
ふう、と一息つく少年を見て、青年は満足したのかいなくなってしまった。
◇
隣の竈から火種を拝借し、薪に火をつける。
火が広まれば、湯が沸くのを待つ間に、手に入れた大桶を調理場の裏手の、人気の少ない場所へ移動させる。
ぐつぐつと湯が沸けば大鍋を持ち上げ、火傷に注意して隠した大桶に注ぐ。
空になった大鍋に、竈の側に並んだ小桶の水を入れ、再度、湯を沸かす。
手順を繰り返す度、疲労する体とは裏腹に、少年の目には興奮の色が浮かんでいた。
最後に大鍋を返すと、大きな桶から溢れた大量の蒸気があたりを包む。
風呂の、完成であった。
少年は人目も気にせず、はらりと身に付けた物を取り払うと、一息に体を投げ込んだ。
この世にこれ以上の快楽があるものか。ああ善哉、善哉。
◇ ◇ ◇
翌日。
「おはようございます、キーレ。おや--?」
相も変わらず無愛嬌に背筋を伸ばす少年だが、どこか様子が変わっている。
いつもは丁寧に櫛をいれ、きりりと後ろに結んだ黒髪が、今朝は樹上の鳥の巣のように絡まり合っていた。
知る由もないが、昨日少年が湯船に使った水は、彼の生まれ故郷のそれとは違い、入浴にすこぶる適さない硬水だったのである。
「キーレ、その髪はどうしたのです? 水浴びは済ませましたか?」
子どもを諭すような声に対し、少年は不機嫌そうにこう答えた。
「異国の風呂ば、ほんのこち、難儀なもんでごわ」
喜入銑十郎は飢えていた。
血に、ではなく、湯に、である。
少年が暮らすここプロシアントでは、湯船に浸かる習慣はなく、日々身体を洗い流すだけで済ませている。
温泉がいたるところに湧き出る国、薩摩で生まれ育った彼にとって、湯浴みのない生活はどうにも耐え難いものであった。
「こと風呂んは、薩摩ば、恋しくなりもすな」
郷愁に浸るよりも早く、少年の頭脳は激しく旋回を始めた。
--なければ、作ればよいではないか。
◇
「まずは、桶でごわすな。大きなのがあればよいがの」
小さな水汲み用の桶なら、目にしたことがある。しかし、人が入れるぐらいの--やや小柄な自分なら小さめでもよいが--大きさになると、見当がつかない。
思案を巡らすよりも、少年の足が動き始める。つくづく、熟考ができない性質なのである。
ふと、慣れ親しんだ厩に足を向けると、馬たちが競うように餌入れに首を突っ込んでいるのが目に入った。その餌入れ、飼馬桶は、まさに少年が必要としていたものであった。
「ちと小さいが、使えもすな」
厩舎の裏に使い古された飼馬桶を見つけ、水漏れがないか確認すると、少年はその小さな体をいっぱいに使って水場へと大桶を引きずっていく。
そして一心不乱に、貴人に献上する宝珠を磨くように、くすんだそれを清め続けるのだった。
「おう、キーレ。何してやがる」
馬上から、大男が声をかける。
「桶をば、磨いておる」
「桶……? まあ、桶ではあるが。明日になったらまた汚れちまうだけだぜ」
奇妙なことをするもんだ、とは思ったものの、無言で作業を続ける少年にそれ以上の興味をなくしたのか、肩幅の大きい男は蹄音とともに去っていった。
◇
湯船が確保できたとなれば、次は火の用意である。幸い、火のありかには心当たりがあった。
少年は足早に炊事場に赴くと、土間で鍋の具合を見ている中年の女性に声をかけた。
「湯ば、沸かごたいのじゃが。竈ば、借りるわけにはいかんじゃろか」
「別に構わないけど、沸かしてどうするのさ」
「煮て、風呂にば、しもす。よければ、こん大鍋もかっしゃったもんせ」
女性は怪訝な顔をしながらも、快く大きな鍋を少年に渡してくれた。
「あれま、少年。少年はもしかして料理とかしちゃう人?」
「料理はしもさんが、竈に用ばあっての」
「あたしもたまーにここを使わせてもらってるんだよねー。ほれ、頑張る少年にご褒美をやろう」
もごもご、と口の中に突き込まれた物体の予想だにしない甘さに、少年は驚きを隠せない。
思わぬ甘味に舌鼓を打ったのも束の間。手を振りながら去っていく姿に一礼を返し、少年はまた次の目標に向かう。
◇
残りは十分な水を確保するだけであった。井戸から調理場までは、数百歩の距離がある。
少年にとってこの面倒な、退屈な作業は苦にならないのか、小さな水桶に水を汲み、持てる限りそれを調理場に運んでは大鍋に注ぎ続ける。
それを横目に見ていた青年が一人。
「なあ、キーレ。これもジゲンの修行なのか?」
「修行では、なか。悦楽のためじゃ」
「なんだかよくわからんが、キーレのやることなら、俺もやる」
勤勉な運搬者が、二人に増えた。
少年は大鍋が一杯になっても満足せず、竈の横にはいくつもの水を張った小桶が、いつの間にか綺麗に整列していた。
ふう、と一息つく少年を見て、青年は満足したのかいなくなってしまった。
◇
隣の竈から火種を拝借し、薪に火をつける。
火が広まれば、湯が沸くのを待つ間に、手に入れた大桶を調理場の裏手の、人気の少ない場所へ移動させる。
ぐつぐつと湯が沸けば大鍋を持ち上げ、火傷に注意して隠した大桶に注ぐ。
空になった大鍋に、竈の側に並んだ小桶の水を入れ、再度、湯を沸かす。
手順を繰り返す度、疲労する体とは裏腹に、少年の目には興奮の色が浮かんでいた。
最後に大鍋を返すと、大きな桶から溢れた大量の蒸気があたりを包む。
風呂の、完成であった。
少年は人目も気にせず、はらりと身に付けた物を取り払うと、一息に体を投げ込んだ。
この世にこれ以上の快楽があるものか。ああ善哉、善哉。
◇ ◇ ◇
翌日。
「おはようございます、キーレ。おや--?」
相も変わらず無愛嬌に背筋を伸ばす少年だが、どこか様子が変わっている。
いつもは丁寧に櫛をいれ、きりりと後ろに結んだ黒髪が、今朝は樹上の鳥の巣のように絡まり合っていた。
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「キーレ、その髪はどうしたのです? 水浴びは済ませましたか?」
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