50 / 52
最終話 記憶の部屋
7
しおりを挟む
目覚めたときに真っ先に視界に入ったのは、小泉由宇の心配そうな顔だった。
「……相沢くん、大丈夫?」
社長机の横で倒れていた恭矢が体を起こし背伸びをすると、脳味噌が軽く、霧がかかったようなぼんやりとした気持ちの悪さがあった。
一緒に気を失ったはずの美緒子は遠藤が運んだのか、彼が見守る中ソファーで静かに眠っていた。
「……母の中にある母性や人としての感情は、再生できたの?」
由宇の問いかけに、恭矢は小さくかぶりを振った。
「再生じゃないよ。美緒子さんには俺の中にある……小泉や青葉と一緒に過ごした時間の記憶をあげてきたんだ」
「……え? ……待って。そんなこと、できるの……?」
由宇は顔を強張らせ、目に見えてわかるほどに狼狽していた。
「元々ないものはどうしたって再生できないってことは、小泉だって知っているだろ? だから、小泉と青葉――二人を大切に思う俺の記憶、俺の気持ちを与えてきたんだ。ひとの感情に触れることが、美緒子さんが変われるきっかけになると思って」
記憶に関わる能力者となった恭矢は『記憶を譲渡した』という事実だけは覚えているが、彼にはもう、由宇と過ごした時間の記憶はほぼなかった。恭矢が由宇について知っていることといえば、学校のクラスメイトであるということと、彼女の能力に対する必要最低限の知識だけだった。
きっと自分は、由宇のことをとても好いていたのだと思う。
だけど、彼女とどんな思い出を重ねて、どんな気持ちを抱いてきたのかは、もう思い出すことができなかった。恭矢が彼女に心を揺さぶられた大きな感情はすべて、美緒子に与えてきたからである。
「……相沢くん、どうして……? わたし、嫌だ。相沢くんがわたしを忘れてしまうなんて、わたしから離れていっちゃうなんて、嫌だよ……!」
「……大丈夫だよ。小泉との記憶を全部あげてしまったわけじゃないし、それに……忘れてしまった記憶は戻らなくても、思い出は積み重ねていくことができる。だから、美緒子さんが目を覚まして、母親の顔を見せたなら……小泉にお願いしたいことがあるんだ」
恭矢は今にも泣き出してしまいそうな由宇の手を握った。
「……お願い?」
「うん。辛いかもしれないけど……一生に一度だけと思って、どうか聞いてほしい」
由宇の耳元に口を近づけそれを告げると、彼女は少しだけ悩んだ後、小さく頷いた。
◇
目を覚ました美緒子は、俯いて眉間を抑えたまま顔を上げようとしなかった。
美緒子に近づいていく由宇を、恭矢は黙って目で追っていた。真っ直ぐに背筋を伸ばして歩く由宇の姿からは、緊張と覚悟が窺える。
「……お母さん」
美緒子は由宇の声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。そして何かを言おうと、口を開いては閉じることを何度か繰り返して、
「……由宇。あんたはもう、十七歳なんだね。いろんなことを考えるよね。……誰かを好きになったり……好きになってもらったり、するんだね」
娘の成長を噛み締めるように、言葉を丁寧に紡いでいた。
「……お母さん」
「……青葉が学校に行っていないなら、あんたが連れて行ってやりなさい。たとえ由宇が不登校のきっかけだったとしてもね、青葉の父親は甘い奴だから、誰かが厳しくしてあげないといけないよ」
「……うん」
由宇の瞳には涙が溜まっている。美緒子もまた、涙で声を詰まらせていた。
「……由宇。大きくなったね」
「……うん」
「あんたたちの成長を近くで見てこなかったことを、今更後悔するとは……恥ずかしい話だよ」
「……うん」
「でも、私はこんな風にしか生きられなかったから……これからどうすればいいのか、わからないんだよ」
ようやく胸の内を吐露した美緒子の肩を、由宇は優しく抱いた。
「大丈夫だよ。記憶は奪ったりあげたりするものじゃなく、積み重ねていくものだって……わたしも教えてもらったから」
二人はお互いの肩に顔を埋めて抱き合った。その遠慮のない、乱暴に思いのまま自分をさらけ出すような包容は間違いなく母娘のものであった。
しばらくして、何か言葉のやり取りを経たあと、由宇は美緒子の頬にキスをした。
光が集束していくさまは、今の恭矢から見れば初めての光景だった。そのあまりの美しさと神々しさに、光の中心にいる由宇がまるで女神のように見えた。
〈記憶の墓場〉と呼ばれてきた由宇だが、今の彼女を間近で見た人間は皆例外なくその呼称を撤回するだろう。
小泉由宇は人の記憶を司る、優しすぎる女神だ。
そんな気障なことを考えてしまうくらいに、彼女を美しいと思った。
「……相沢くん、大丈夫?」
社長机の横で倒れていた恭矢が体を起こし背伸びをすると、脳味噌が軽く、霧がかかったようなぼんやりとした気持ちの悪さがあった。
一緒に気を失ったはずの美緒子は遠藤が運んだのか、彼が見守る中ソファーで静かに眠っていた。
「……母の中にある母性や人としての感情は、再生できたの?」
由宇の問いかけに、恭矢は小さくかぶりを振った。
「再生じゃないよ。美緒子さんには俺の中にある……小泉や青葉と一緒に過ごした時間の記憶をあげてきたんだ」
「……え? ……待って。そんなこと、できるの……?」
由宇は顔を強張らせ、目に見えてわかるほどに狼狽していた。
「元々ないものはどうしたって再生できないってことは、小泉だって知っているだろ? だから、小泉と青葉――二人を大切に思う俺の記憶、俺の気持ちを与えてきたんだ。ひとの感情に触れることが、美緒子さんが変われるきっかけになると思って」
記憶に関わる能力者となった恭矢は『記憶を譲渡した』という事実だけは覚えているが、彼にはもう、由宇と過ごした時間の記憶はほぼなかった。恭矢が由宇について知っていることといえば、学校のクラスメイトであるということと、彼女の能力に対する必要最低限の知識だけだった。
きっと自分は、由宇のことをとても好いていたのだと思う。
だけど、彼女とどんな思い出を重ねて、どんな気持ちを抱いてきたのかは、もう思い出すことができなかった。恭矢が彼女に心を揺さぶられた大きな感情はすべて、美緒子に与えてきたからである。
「……相沢くん、どうして……? わたし、嫌だ。相沢くんがわたしを忘れてしまうなんて、わたしから離れていっちゃうなんて、嫌だよ……!」
「……大丈夫だよ。小泉との記憶を全部あげてしまったわけじゃないし、それに……忘れてしまった記憶は戻らなくても、思い出は積み重ねていくことができる。だから、美緒子さんが目を覚まして、母親の顔を見せたなら……小泉にお願いしたいことがあるんだ」
恭矢は今にも泣き出してしまいそうな由宇の手を握った。
「……お願い?」
「うん。辛いかもしれないけど……一生に一度だけと思って、どうか聞いてほしい」
由宇の耳元に口を近づけそれを告げると、彼女は少しだけ悩んだ後、小さく頷いた。
◇
目を覚ました美緒子は、俯いて眉間を抑えたまま顔を上げようとしなかった。
美緒子に近づいていく由宇を、恭矢は黙って目で追っていた。真っ直ぐに背筋を伸ばして歩く由宇の姿からは、緊張と覚悟が窺える。
「……お母さん」
美緒子は由宇の声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。そして何かを言おうと、口を開いては閉じることを何度か繰り返して、
「……由宇。あんたはもう、十七歳なんだね。いろんなことを考えるよね。……誰かを好きになったり……好きになってもらったり、するんだね」
娘の成長を噛み締めるように、言葉を丁寧に紡いでいた。
「……お母さん」
「……青葉が学校に行っていないなら、あんたが連れて行ってやりなさい。たとえ由宇が不登校のきっかけだったとしてもね、青葉の父親は甘い奴だから、誰かが厳しくしてあげないといけないよ」
「……うん」
由宇の瞳には涙が溜まっている。美緒子もまた、涙で声を詰まらせていた。
「……由宇。大きくなったね」
「……うん」
「あんたたちの成長を近くで見てこなかったことを、今更後悔するとは……恥ずかしい話だよ」
「……うん」
「でも、私はこんな風にしか生きられなかったから……これからどうすればいいのか、わからないんだよ」
ようやく胸の内を吐露した美緒子の肩を、由宇は優しく抱いた。
「大丈夫だよ。記憶は奪ったりあげたりするものじゃなく、積み重ねていくものだって……わたしも教えてもらったから」
二人はお互いの肩に顔を埋めて抱き合った。その遠慮のない、乱暴に思いのまま自分をさらけ出すような包容は間違いなく母娘のものであった。
しばらくして、何か言葉のやり取りを経たあと、由宇は美緒子の頬にキスをした。
光が集束していくさまは、今の恭矢から見れば初めての光景だった。そのあまりの美しさと神々しさに、光の中心にいる由宇がまるで女神のように見えた。
〈記憶の墓場〉と呼ばれてきた由宇だが、今の彼女を間近で見た人間は皆例外なくその呼称を撤回するだろう。
小泉由宇は人の記憶を司る、優しすぎる女神だ。
そんな気障なことを考えてしまうくらいに、彼女を美しいと思った。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
ヤマネ姫の幸福論
ふくろう
青春
秋の長野行き中央本線、特急あずさの座席に座る一組の男女。
一見、恋人同士に見えるが、これが最初で最後の二人の旅行になるかもしれない。
彼らは霧ヶ峰高原に、「森の妖精」と呼ばれる小動物の棲み家を訪ね、夢のように楽しい二日間を過ごす。
しかし、運命の時は、刻一刻と迫っていた。
主人公達の恋の行方、霧ヶ峰の生き物のお話に添えて、世界中で愛されてきた好編「幸福論」を交え、お読みいただける方に、少しでも清々しく、優しい気持ちになっていただけますよう、精一杯、書いてます!
どうぞ、よろしくお願いいたします!
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説
宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。
美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!!
【2022/6/11完結】
その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。
そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。
「制覇、今日は五時からだから。来てね」
隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。
担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。
◇
こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく……
――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――
鷹鷲高校執事科
三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。
東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。
物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。
各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。
表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)
「南風の頃に」~ノダケンとその仲間達~
kitamitio
青春
合格するはずのなかった札幌の超難関高に入学してしまった野球少年の野田賢治は、野球部員たちの執拗な勧誘を逃れ陸上部に入部する。北海道の海沿いの田舎町で育った彼は仲間たちの優秀さに引け目を感じる生活を送っていたが、長年続けて来た野球との違いに戸惑いながらも陸上競技にのめりこんでいく。「自主自律」を校訓とする私服の学校に敢えて詰襟の学生服を着ていくことで自分自身の存在を主張しようとしていた野田賢治。それでも新しい仲間が広がっていく中で少しずつ変わっていくものがあった。そして、隠していた野田賢治自身の過去について少しずつ知らされていく……。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】カワイイ子猫のつくり方
龍野ゆうき
青春
子猫を助けようとして樹から落下。それだけでも災難なのに、あれ?気が付いたら私…猫になってる!?そんな自分(猫)に手を差し伸べてくれたのは天敵のアイツだった。
無愛想毒舌眼鏡男と獣化主人公の間に生まれる恋?ちょっぴりファンタジーなラブコメ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる