きっと、忘れられない恋になる。

りっと

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最終話 記憶の部屋

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 目覚めたときに真っ先に視界に入ったのは、小泉由宇の心配そうな顔だった。

「……相沢くん、大丈夫?」

 社長机の横で倒れていた恭矢が体を起こし背伸びをすると、脳味噌が軽く、霧がかかったようなぼんやりとした気持ちの悪さがあった。

 一緒に気を失ったはずの美緒子は遠藤が運んだのか、彼が見守る中ソファーで静かに眠っていた。

「……母の中にある母性や人としての感情は、再生できたの?」

 由宇の問いかけに、恭矢は小さくかぶりを振った。

「再生じゃないよ。美緒子さんには俺の中にある……小泉や青葉と一緒に過ごした時間の記憶をあげてきたんだ」

「……え? ……待って。そんなこと、できるの……?」

 由宇は顔を強張らせ、目に見えてわかるほどに狼狽していた。

「元々ないものはどうしたって再生できないってことは、小泉だって知っているだろ? だから、小泉と青葉――二人を大切に思う俺の記憶、俺の気持ちを与えてきたんだ。ひとの感情に触れることが、美緒子さんが変われるきっかけになると思って」

 記憶に関わる能力者となった恭矢は『記憶を譲渡した』という事実だけは覚えているが、彼にはもう、由宇と過ごした時間の記憶はほぼなかった。恭矢が由宇について知っていることといえば、学校のクラスメイトであるということと、彼女の能力に対する必要最低限の知識だけだった。

 きっと自分は、由宇のことをとても好いていたのだと思う。

 だけど、彼女とどんな思い出を重ねて、どんな気持ちを抱いてきたのかは、もう思い出すことができなかった。恭矢が彼女に心を揺さぶられた大きな感情はすべて、美緒子に与えてきたからである。

「……相沢くん、どうして……? わたし、嫌だ。相沢くんがわたしを忘れてしまうなんて、わたしから離れていっちゃうなんて、嫌だよ……!」

「……大丈夫だよ。小泉との記憶を全部あげてしまったわけじゃないし、それに……忘れてしまった記憶は戻らなくても、思い出は積み重ねていくことができる。だから、美緒子さんが目を覚まして、母親の顔を見せたなら……小泉にお願いしたいことがあるんだ」

 恭矢は今にも泣き出してしまいそうな由宇の手を握った。

「……お願い?」

「うん。辛いかもしれないけど……一生に一度だけと思って、どうか聞いてほしい」

 由宇の耳元に口を近づけそれを告げると、彼女は少しだけ悩んだ後、小さく頷いた。

          ◇

 目を覚ました美緒子は、俯いて眉間を抑えたまま顔を上げようとしなかった。

 美緒子に近づいていく由宇を、恭矢は黙って目で追っていた。真っ直ぐに背筋を伸ばして歩く由宇の姿からは、緊張と覚悟が窺える。

「……お母さん」

 美緒子は由宇の声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。そして何かを言おうと、口を開いては閉じることを何度か繰り返して、

「……由宇。あんたはもう、十七歳なんだね。いろんなことを考えるよね。……誰かを好きになったり……好きになってもらったり、するんだね」

 娘の成長を噛み締めるように、言葉を丁寧に紡いでいた。

「……お母さん」

「……青葉が学校に行っていないなら、あんたが連れて行ってやりなさい。たとえ由宇が不登校のきっかけだったとしてもね、青葉の父親は甘い奴だから、誰かが厳しくしてあげないといけないよ」

「……うん」

 由宇の瞳には涙が溜まっている。美緒子もまた、涙で声を詰まらせていた。

「……由宇。大きくなったね」

「……うん」

「あんたたちの成長を近くで見てこなかったことを、今更後悔するとは……恥ずかしい話だよ」

「……うん」

「でも、私はこんな風にしか生きられなかったから……これからどうすればいいのか、わからないんだよ」

 ようやく胸の内を吐露した美緒子の肩を、由宇は優しく抱いた。

「大丈夫だよ。記憶は奪ったりあげたりするものじゃなく、積み重ねていくものだって……わたしも教えてもらったから」

 二人はお互いの肩に顔を埋めて抱き合った。その遠慮のない、乱暴に思いのまま自分をさらけ出すような包容は間違いなく母娘のものであった。

 しばらくして、何か言葉のやり取りを経たあと、由宇は美緒子の頬にキスをした。

 光が集束していくさまは、今の恭矢から見れば初めての光景だった。そのあまりの美しさと神々しさに、光の中心にいる由宇がまるで女神のように見えた。

〈記憶の墓場〉と呼ばれてきた由宇だが、今の彼女を間近で見た人間は皆例外なくその呼称を撤回するだろう。

 小泉由宇は人の記憶を司る、優しすぎる女神だ。

 そんな気障なことを考えてしまうくらいに、彼女を美しいと思った。
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