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第三話 記憶の選択
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自転車に跨った恭矢が時計を確認すると、二十三時前だった。普段よりすっかり遅くなってしまったので青葉が心配しているだろう。
「じゃあな、小泉。また明日」
「あ、あの」
雑貨屋の外まで送ってくれた由宇に別れを告げると、彼女は何か言いたそうに恭矢を引き止めた。
「どうした?」
「……わたし、コンビニに行く用事を思い出した。途中まで方向一緒だから……」
「じゃあ一緒に行こうか。後ろ、乗る?」
安心したように頷いた由宇を自転車の後ろに乗せ、恭矢は緩みそうになる頬を必死で抑えつつ、暖かな重みを感じながらペダルを回した。
星空の下、生ぬるい六月の風は頬に心地良い。恭矢は今が人生で一番幸せかもしれないと思った。
「……仕事をするときに誰かにそばにいてほしいって思ったのは、初めてだった。支倉さんが相沢くんを選んだ理由がわかった気がしたわ」
「え?」
「相沢くんって変なひとだけど、そばにいてくれると安心するから」
誰かの恋愛の記憶はたくさんもっているくせに、彼女はきっとわかっていない。由宇にこんなことを言われた恭矢が今、どれだけ嬉しいか。恭矢は前方を向いたまま、赤くなった顔を由宇に見られないよう気をつけながら自転車を漕いだ。
「……相沢くん。わたしに、少しだけ時間をください」
コンビニ近くの公立中学校の前を通ったとき、由宇は言った。恭矢が自転車を停めると由宇は荷台から降り、夜空の下で軽く背伸びをして恭矢の目を見つめた。
「ねえ、わたしの罪を聞いてくれる?」
恭矢は迷いなく頷いた。
「わたしは昨年、大切なひとの記憶を奪ったの。請け負ったんじゃなくて、奪った。この意味がわかる?」
「……わからない」
「相手が望んでいないのに、わたしが無理やり自分のものにした、ってこと」
由宇がいつもの穏やかな口調で喋るので、恭矢は彼女の言葉が意味する暴力性をすぐに理解することができなかった。
「そのひとは忘れることを嫌がっていた。それでもわたしは、自分の都合でそのひとにとって大切なことを忘れさせたの。そのひとが覚えているはずがないけれど、わたしは一生怨まれても文句の言えないことをしたの」
「……だからその分、誰かの辛い想いを引き受けようとしているの? 自分に罰を与えたくて?」
彼女は目を丸くした。
「……すごいね、相沢くん。だからわたしは、記憶を奪ったひとたちからお金を貰ったことはないわ」
「そうなんだ……仕事って言うから、てっきりお金が発生しているものだと思ってた」
「わたしが仕事をしているのは、あくまで贖罪のためだから。……でも、依頼主に〈記憶の墓場〉を紹介しているわたしの母は貰っているみたい」
「は……? 母親が娘を商売に使っているってことか⁉」
「母も記憶に関する能力を持っているから、仕事を分担しているといった方が正しいかな。……母親といっても一緒に暮らしているわけじゃないし、仕事上の付き合いしかしていない分、母親のあるべき姿とか期待していないから。怒りとか失望とかないし、平気」
由宇と母親との関係は恭矢にとって理解できるものではないし、彼女の家庭環境もまるでわからないが、小泉由宇の献身的な仕事ぶりの理由だけはわかった。
だが、彼女のやっていることは全部『そのひと』への贖罪の気持ちからきているのだと思うと、どこかやりきれない思いが胸の中に残った。
「……小泉の能力って生まれつきなの? もし俺にも使える可能性があるなら、小泉の力になりたいって思うんだ」
「わたしや母以外にもこういう能力を持っているひとはいるけれど……ある理由があって、相沢くんには使えないわ」
「……遺伝ってこと?」
「遺伝はあくまで原因の一つであって、すべてではないわ。……わたしも、詳しくは知らないけれど」
由宇が目を逸らして言葉を濁したため、あまり踏み込んでいいことではないと察した恭矢は、閉口した。
「……『そのひと』に対してしたことが許されるとは思っていないけれど、楽しい思いをしているよりは許されている気がするから。……結局、わたしは自分のことしか考えてないの。幻滅したでしょ?」
「……俺はいつだって小泉の味方でありたいって思っているけど、都合のいい男じゃないよ。小泉が自分を追い詰めることで楽になりたいって考えなら『逃げるな』って怒るし、『そんなことないよ』って慰めてほしいのなら『甘えるな』って言うよ」
由宇は少しの沈黙の後、ゆっくりと瞬きをしてから呟いた。
「……相沢くん、ありがとう」
由宇はそれ以上何も言わずに再び歩き出し、恭矢は自転車を押しながら彼女の横を歩いた。それからはいつものようにたわいのない話をして、雑貨屋まで由宇を送り届けてから帰途についた。
家に帰るといつも騒がしい家族がいて自分の時間がない恭矢にとって、一人の時間は自転車を漕いでいるときしかない。
だが、この僅かな時間で確信したことがある。
小泉由宇には絶対に幸せになってほしい。そのために自分にできることがあれば、なんでもしてあげたい。可能なことなら一人の男として、彼女のそばにいられる権利がほしいと思った。
「じゃあな、小泉。また明日」
「あ、あの」
雑貨屋の外まで送ってくれた由宇に別れを告げると、彼女は何か言いたそうに恭矢を引き止めた。
「どうした?」
「……わたし、コンビニに行く用事を思い出した。途中まで方向一緒だから……」
「じゃあ一緒に行こうか。後ろ、乗る?」
安心したように頷いた由宇を自転車の後ろに乗せ、恭矢は緩みそうになる頬を必死で抑えつつ、暖かな重みを感じながらペダルを回した。
星空の下、生ぬるい六月の風は頬に心地良い。恭矢は今が人生で一番幸せかもしれないと思った。
「……仕事をするときに誰かにそばにいてほしいって思ったのは、初めてだった。支倉さんが相沢くんを選んだ理由がわかった気がしたわ」
「え?」
「相沢くんって変なひとだけど、そばにいてくれると安心するから」
誰かの恋愛の記憶はたくさんもっているくせに、彼女はきっとわかっていない。由宇にこんなことを言われた恭矢が今、どれだけ嬉しいか。恭矢は前方を向いたまま、赤くなった顔を由宇に見られないよう気をつけながら自転車を漕いだ。
「……相沢くん。わたしに、少しだけ時間をください」
コンビニ近くの公立中学校の前を通ったとき、由宇は言った。恭矢が自転車を停めると由宇は荷台から降り、夜空の下で軽く背伸びをして恭矢の目を見つめた。
「ねえ、わたしの罪を聞いてくれる?」
恭矢は迷いなく頷いた。
「わたしは昨年、大切なひとの記憶を奪ったの。請け負ったんじゃなくて、奪った。この意味がわかる?」
「……わからない」
「相手が望んでいないのに、わたしが無理やり自分のものにした、ってこと」
由宇がいつもの穏やかな口調で喋るので、恭矢は彼女の言葉が意味する暴力性をすぐに理解することができなかった。
「そのひとは忘れることを嫌がっていた。それでもわたしは、自分の都合でそのひとにとって大切なことを忘れさせたの。そのひとが覚えているはずがないけれど、わたしは一生怨まれても文句の言えないことをしたの」
「……だからその分、誰かの辛い想いを引き受けようとしているの? 自分に罰を与えたくて?」
彼女は目を丸くした。
「……すごいね、相沢くん。だからわたしは、記憶を奪ったひとたちからお金を貰ったことはないわ」
「そうなんだ……仕事って言うから、てっきりお金が発生しているものだと思ってた」
「わたしが仕事をしているのは、あくまで贖罪のためだから。……でも、依頼主に〈記憶の墓場〉を紹介しているわたしの母は貰っているみたい」
「は……? 母親が娘を商売に使っているってことか⁉」
「母も記憶に関する能力を持っているから、仕事を分担しているといった方が正しいかな。……母親といっても一緒に暮らしているわけじゃないし、仕事上の付き合いしかしていない分、母親のあるべき姿とか期待していないから。怒りとか失望とかないし、平気」
由宇と母親との関係は恭矢にとって理解できるものではないし、彼女の家庭環境もまるでわからないが、小泉由宇の献身的な仕事ぶりの理由だけはわかった。
だが、彼女のやっていることは全部『そのひと』への贖罪の気持ちからきているのだと思うと、どこかやりきれない思いが胸の中に残った。
「……小泉の能力って生まれつきなの? もし俺にも使える可能性があるなら、小泉の力になりたいって思うんだ」
「わたしや母以外にもこういう能力を持っているひとはいるけれど……ある理由があって、相沢くんには使えないわ」
「……遺伝ってこと?」
「遺伝はあくまで原因の一つであって、すべてではないわ。……わたしも、詳しくは知らないけれど」
由宇が目を逸らして言葉を濁したため、あまり踏み込んでいいことではないと察した恭矢は、閉口した。
「……『そのひと』に対してしたことが許されるとは思っていないけれど、楽しい思いをしているよりは許されている気がするから。……結局、わたしは自分のことしか考えてないの。幻滅したでしょ?」
「……俺はいつだって小泉の味方でありたいって思っているけど、都合のいい男じゃないよ。小泉が自分を追い詰めることで楽になりたいって考えなら『逃げるな』って怒るし、『そんなことないよ』って慰めてほしいのなら『甘えるな』って言うよ」
由宇は少しの沈黙の後、ゆっくりと瞬きをしてから呟いた。
「……相沢くん、ありがとう」
由宇はそれ以上何も言わずに再び歩き出し、恭矢は自転車を押しながら彼女の横を歩いた。それからはいつものようにたわいのない話をして、雑貨屋まで由宇を送り届けてから帰途についた。
家に帰るといつも騒がしい家族がいて自分の時間がない恭矢にとって、一人の時間は自転車を漕いでいるときしかない。
だが、この僅かな時間で確信したことがある。
小泉由宇には絶対に幸せになってほしい。そのために自分にできることがあれば、なんでもしてあげたい。可能なことなら一人の男として、彼女のそばにいられる権利がほしいと思った。
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