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第二章 存在の証明

執着の理由

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「……あ、ありがとうございます」

 予想に反して真剣に返されたものだから、少したじろいでしまった。

 たとえ心が別の人のところにあっても、手を伸ばせば簡単に触れられる距離で好意を告げられれば照れ臭くなるのだと知った。

 ただ、脳は思春期の女として正常な反応を指示しているのに心臓だけはいつも通りのペースで脈を打っていることから、菫にとっては兄からの愛情表現など日常の一部に過ぎないのだろうと推測できる。

「ねえ。今って、心臓はドキドキしてるの?」

「え? していませんよ」

 言葉を選ばずに正直に言ってしまった。男心を傷つけてしまっただろうかとおそるおそる蓮の様子を窺ってみると、意外にも嬉しそうだった。

「ふーん、そっか。そうなんだね。やった、予想的中!」

「……もしかして、私を何かの実験台にしようとしてます? このままどこかの研究所に拉致されるとか?」

「あはは、しないよそんなこと。だって、晴陽ちゃんは妹みたいに大事だもん」

 口ではそう言いながらも、右折した車はそのまま大通りに入っていった。晴陽の家からはどんどん遠ざかって行くことになる。

「あのー、ちなみにどこへ行くつもりですか?」

「んー? イイところだよ?」

 会話の流れ的に何やら嫌な予感がして、冷や汗が流れた。

「……あの、冗談抜きで家に帰してもらえませんか?」

「ん? 今のオレは優しそうなお兄さんから誘拐犯にジョブチェンジしたんだ。犯人の言うことを聞かないと、どうなっても知らないからねー?」

 晴陽の抗議を無視してアクセルを踏み込む蓮の横顔を見て、言葉を呑み込んだ。軽い口調に反比例するかのごとく、彼の表情は真剣そのものだったからだ。

 菫という存在を盾に取られている以上、元々強い反論はできない。

 晴陽は流れに身を任せることに決め、車窓から見えるオレンジ色の街灯をぼんやりと眺めた。

 車はついに首都高速に乗り、どんどん都心に近づいていく。そうしてやって来たのは、晴陽のような平凡な高校生が「都会っぽい建物は何か」と問われたら真っ先に回答するくらい有名な『六本木ヒルズ』だった。

 森タワー屋上のスカイデッキへ行くと言う蓮に連れられ、上昇するエレベーターに運ばれてふたりは目的の場所に辿り着いた。

 冷たい冬の夜風を直に浴びながら、三六〇度を東京の光輝くネオンに囲まれるのは初めての経験だった。だがこの都心のど真ん中に立っている感覚には、不思議な懐かしさを覚えていた。

「晴陽ちゃんはここ来るの、初めて?」

 景色から目を離さないまま静かに頷いた。自宅からは距離もあるし、入館料はかかるし友人と気軽に遊びに来るような場所でもない。晴陽が覚えている限りでは家族で来たこともないはずなのに、どうして『懐かしさ』が込み上げてくるのだろうか。

「ほら、ここからだと東京タワーがよく見えるでしょ? あっちの方からだと、横浜とか富士山が見えるんだよ」

 平日の閉館時間間近という時間帯ゆえに、デッキにいる人数はそれほど多くない。だから余計に、子どものようにはしゃぐ蓮は目立って見えた。

「ここはね、菫が好きだった場所なんだよ。……ねえ晴陽ちゃん。ひょっとして、初めて見る景色への感動以外に、別の気持ちも抱いているんじゃないかな?」

「……はい。上手く言えないんですけど……なんか、私の意思とはまた別のところで、細胞が反応しているような気が、します……」

 正直に告白すると、蓮は慈しむような表情で静かに語り始めた。

「菫がここに来ていた理由はね、星や街のネオンからキラキラ光るエネルギーをもらえる気がするからなんだって。……なんて、わざわざオレが言わなくてもわかるよね。だって君は『菫』だから。オレよりもずっと、菫の気持ちがわかるはずだもんね」

 この瞬間、今までの蓮の言動がすべて腑に落ちた。

 そして同時に、蓮が自分に執着する本当の理由もようやく理解した。

 彼は晴陽を通して菫を感じているのではなく、

「……蓮さんは私に、菫さんの代わりになってほしいわけじゃない。私に、『菫さんそのもの』になってほしいんですね?」

 蓮は何も言わなかったが、真っすぐに晴陽を見つめる瞳が答えとなっていた。

「……菫さんがいなくなって寂しいのはわかりますし、私にできることはしてあげたいとも思います。でも、私は菫さんにはなれませんし、なるつもりもありません。それは心臓をくれた菫さんに対しても失礼な行為だと思います」

「……冷静に相手を詰める怒り方が菫に似てるって前に言ったよね? だけどね、菫は今の晴陽ちゃんみたいに、オレを否定するような説教はしなかったんだよ。やめてくれる?」

 同情したことがそもそも間違いだったのだろうか。手段を問わずに目的を果たそうとする蓮の執念に今すぐに逃げ出したい衝動に駆られたが、このまま彼を放っておくなんて無責任な真似はできなかった。

「蓮さん。現実から目を逸らさないでください。あなたの目の前にいるのは逢坂晴陽です。菫さんではないんです」

 蓮は耳を塞ぐかもしれないけれど、理解してもらえるまで何度も伝えるしかないのだろう。

 凌空に愛を告げるときと手段は同じだというのに、気持ちの面では比較にならないほど辛く、胸の痛む行動だった。

「そうだね。外見や経歴は晴陽ちゃんでしかないよね。でも、オレが言いたいのは中身というか、魂の話だから。――ねえ、凌空くんはどう考える?」

 そう口にした蓮の視線の先を追った晴陽は、目を見開いた。

 彼がここにいるなんて、まるで予想外だったのだ。
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