黒い泥

國灯闇一

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外来心了7

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 ――僕は池のふちで倒れていました。池には黒い女の姿もなければ、友人の死体もありませんでした。
 あの日を最後に、僕は黒い女を見なくなりました。でも、またあの黒い女が来るんじゃないかって。僕にはそう思えてならないんです――。

 彼は上の服の裾をめくる。お腹には、彼の言ったような黒い輪っかの痣が見えた。他の皮膚と比べると、痣の辺りだけ妙に変色していて、おうとつがある。

 ――いくら洗っても消えませんでした。皮膚を焼いても、その焼けた皮膚の上からまたできてしまうんです。あの女は、必ず僕の下へやってきます。逃げることなんて、できないんです。

 私が彼にかけるべき言葉は決まっている。
 ――――そうかもしれないね。でも、なんで君はまだ生きてるんだろうか?
 今日初めて、彼が私の目を見てくれた。私は手ごたえを掴んで続けた。
 ――――もしその女性が君も殺したいと思っているなら、なんで倒れている時に殺さなかったんだろう? 君は気を失っていた。絶好のチャンスをみすみす見逃そうと思うかな?
 彼は前のめりになった。
 ――僕には痣があります。きっとこの痣は、警告なんです。お前を殺しに行くって。呪ってやったって。
 ――――痣は一生残る物もある。けど皮膚移植をすれば、痣も消えるはずだよ。
 ――皮膚を焼いても、痣が残るんですか? こんなにくっきりと。 
 彼はまためくって見せてきた。まだ半々な様子だった。しかし救いのある半々だ。私は冷静な口調で優しく接した。
 ――――痣が細胞の深い組織層まで浸透していれば、残ってしまう可能性もある。焼かれた皮膚は体の治癒機能が働く。不完全だけどね。不完全だからこそ、痣の痕を完全に消すまでには至らなかった。そう思わないかい?
 彼は動揺していた。前傾姿勢のまま床を這わす視線が動揺を物語っている。今はそれでいいんだ。葛藤しながら、少しずつ前を向けることが、君の新しい人生の始まりになる。

 ――先生……。
 ――――うん。
 ――なぜあの日僕が過呼吸になってしまったか、分かりますか?
 ――――君には辛い話をさせてしまったね。でも、今は私たちがいる。過去は変わらないけど、未来は作れるんだ。
 ――未来は、作れる……。
 ――――きっと君を殺そうとした女性も、未来を作ってみたかった。館の主人と。だが結局叶わなかった。君たちを羨ましく思ってしまったんだよ。それくらい、君たちの姿は輝いていた。少し悪戯が過ぎて、悪い方向に事が運んでしまった。その女性も反省しているはずさ。生き残ろうとした君たちの姿もまた、彼女には眩し過ぎた。だから、君を殺すことをやめたんだよ。
 彼はまばたきをすると、スッと上体を起こした。私の見てきた中で、彼の顔が一番晴れやかに見えた。

 ――未来は作れる……。そうか……僕らは誘導されていたんだ。
 話が噛み合わってなかった。私は傾聴けいちょうする。
 ――――どういうことだい?
 ――僕と友人が池に行ったのは、偶然なんかじゃなかったんです……。あの女が、僕たちを招いたんです。あの池に。
 ――――彼女の遺体は見つかってるんだろ? なら池に招く理由はもうないんじゃないかな?
 ――ここに来て良かった。先生、ありがとうございます。
 彼はお礼を言った。息を吹き返したかのように満面の笑顔で。
 ――――待ってくれ。どうしたんだ? まさか、またその池に行くつもりかい?
 ――そうです。僕は彼女に呪われてしまった。呪いを解くには見つけるしかない。
 ――――見つける? 何を?
 ――指輪です。彼女は、館の主人と結婚の約束をしていた。きっと贈られていたんです! 結婚指輪を。だから信じたんです!
 彼はまくし立てるように言葉を連ねてきた。嬉しそうにソファーのアームレストを叩いて座ったまま飛び跳ねて、天井を仰いでいる。
 困惑してしまった。彼の勢いに押されて、私の方がカウンセリングを受けてる気分になってきた。どうやら私が思っているよりも重症らしい。できれば使いたくはなかったが、薬物療法に切り替えるしかないのかもしれない。

 ――――雁本かりもとさん。もし池に行くなら、私も同行させてもらえないか?
 彼の瞳が驚きを持って私に注がれた。間髪入れずに続ける。
 ――――二人の方が安心できるだろ? 私も君が心配だし。
 彼の表情に笑顔が躍った。
 ――はい!
 ――――予定を合わせたいから、行くのは待ってくれるかい?
 ――ええ、もちろん。彼女も
 ――――喜んでくれています?
 ――はい。
 私は耳を疑った。よく見れば、彼の喜びに満ちた視線は私を通り越している。
 その時、鈍い音が響いた。大きな音だった。とっさに右へ視線を振る。

 そこにはクリーム色の壁があった。
 また音が鳴る。
 何か重ったるい物を落としたような、ねっとりとした音が、壁の奥から鳴っている。その音は徐々に大きくなってきている。いや、近づいてきている。
 そう感じた瞬間、壁が変色し始めた。染み込むように、清潔な壁が汚れていく。私の目はどうかしてしまった。みるみる変わる壁の色は、意志が宿っているかのように形を成す。
 壁は黒い人の形を描いた。長い髪をした女の形を。
 黒い女はすぐそこにいたのだ。
 彼の笑い声が私の側で響く。無邪気に笑う彼の声が、私の耳の奥へ入り込んだ。
 すると、私の体が冷水に浸かったように寒気を覚えた。肌にべっとりと貼りついた感覚が腕を包み、私は腕を擦った。強く擦った拍子に、私の左手首が晒された。手首を返した時、違和感が目についた。手首の内側。そこに、黒いリングの痣が克明に刻まれていた。
 私も、呪われた。
 黒く染まった壁のシミに目をやる。
 壁に残ったシミは今も女の形にしか見えない。私は自身の頭に疑念を持たずにはいられなかった。長い髪を下ろした女をまじまじと見つめていると、彼女が笑いかけてきた気がした……。
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