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臆病宗瑞 前編
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一
臆病新九郎 また負けた
秀実和尚に また負けた
いつになったら 勝てるやら
年端もいかぬ童が、可笑しげに唄っている。
その可愛らしい声を、大道寺太郎は苦笑しながら聞いた。
童は、すれ違いざまにちらりと太郎を見た。
太郎の表情に滲み出た微妙な思いには、どうやら気づかなかったらしい。
童のことゆえ、その辺りは止むを得まい。
道端に転がる石ころの中から目ぼしいやつを探しては、所在なさげに蹴り上げながら、童はなおも唄うことをやめない。
臆病新九郎 また負けた
秀実和尚に また負けた
いつになったら 勝てるやら
背中越しに聞こえてくる声の無垢な朗らかさと、さっき見た石蹴りの所作の物憂げなさまが、どうにも不釣り合いだった。
「困ったものじゃな」
太郎はひとりごちる。
「まったく、あのような小唄を平然と口ずさむ童も童なら、唄のたねにされてしまうわが殿もわが殿じゃ。もう少し意気地を見せてくれればよいものを」
ふーっと大きな溜息を吐いた後、ふたたびひとり呟く。
「ああも負けてばかりでは、無理もないわのう」
ずいぶん渋い声である。少し掠れ気味だが、かえってそこによさがある。
曇天を見上げる面差しも重厚そのものだ。目尻の皺がいくらか濃いのが気にかかるが、それもまた年輪の深みを感じさせるという意味では、かえって魅力的といえた。
今、彼の脳裏にはひとりの中年男の顔が浮かんでいる。
鋭い切れ長の目を持ち、鼻筋もすっきり通ったなかなかの美男である。それでいて、どこか掴みどころのない茫洋さを持っている。中年というよりもむしろ初老に近いが、肌艶はひどくよい。痩せ細った体躯はその実、筋肉質で、十二分に鍛え上げられている。そのくせさほど健康的な印象を与えないのは、眉間の皺が些か深すぎるせいだろうか。
聡明なのか、愚鈍なのか。
それさえ、しかとはわからぬ。
そういう男だった。
男は太郎の主である。
名は、伊勢新九郎盛時。
元々は幕府の重臣伊勢氏の生まれであるという。となれば、歴とした名族の裔だ。
伊勢氏は代々足利将軍家に仕え、執事の重責を担ってきた。
名流の一葉である盛時はまた、同時にもうひとつの門閥を有している。彼は駿河守護今川氏の血縁者でもあるのだった。
駿河守護の当代は今川氏親。若いながらも文武に秀でた名将との評判である。盛時は、その氏親の母方の叔父に当たる。すなわち盛時の姉が氏親の生母なのである。そうした繋がりからか、あるいは武将としての能力を高く見込まれてのことか、ともかくいずれかの理由によって、盛時は外様ながら今川家政の中枢に身を置くようになり、ほどなく要衝のひとつである駿河興国寺城を任せられた。
ことほどさように武将として恵まれた人生を送ってきたであろう盛時はしかし、事ある毎に深い溜息を吐いては物憂げな顔をして、太郎らを困らせている。
元来、明朗闊達とはほど遠い気質の持ち主であったが、このところそうした傾向がいっそう顕著になってきた気がして、太郎は鬱陶しくて仕方がない。
――小鹿どのの一件を未だ気にしておられるのか。
だとしたら、愚かなことだと太郎は思う。
たしかにあのとき、盛時はほとんど悪辣といってもよい策謀を用いて政敵を破滅せしめた。世人がそんな彼を評して、
――佞姦なり
と、半ば畏怖し、半ば敬遠するようになったのは紛れもない事実である。しかし、
――そのおかげで今川家は安泰を保ち得た。氏親殿とてそのことをじゅうぶんわかっておいでだからこそ、わが殿を興国寺城の主に据え、伊豆攻略の先鋒を任されたのではないか。
この一事をもって盛時の側に正義があったことは証明されたのだと太郎は思っている。それなのに、いつまでもうじうじと過去を気に病む主が、たまらなくもどかしい。
――ああいう気の弱さはどこからくるのであろうか。
育ちのよさか、あるいは持って生まれた性格というものか。とすれば、これは死ぬまで変わらぬということか。
――あれほどの智略を持ちながら、繊細すぎる心根がその飛躍を妨げるようなことがあるとすれば、まことにもって惜しい。惜しすぎるではないか。
太郎はそんなことをつらつらと考えながら歩いている。
ふと顔を上げて、前方に視線を送る。
目を細めればようやく見えるぐらいの距離に、小さな寺が建っている。
太郎が目指すのは、その寺であった。
そこに太郎の主、伊勢新九郎盛時がいる。
「いやあ、また負けましたな」
小さな寺の本堂から、なんとも間の抜けた声が洩れてくる。
――やれやれ、またか。
それを聞いた太郎は、襖の外で呆れたような苦笑を浮かべる。
傍らには、少女がいる。
中に向かって声を掛けようとする少女を、太郎はそっと押し止めた。
武骨な顔を精一杯やわらげて、にっこりと微笑んでみせる。
――もう少し、中の会話を聞いていようではないか。
細めた目が悪戯っぽくそう言っている。
少女は同感したのか、かわいらしい微笑みを返してきた。
ふたりは並んで耳をそばだてる。
ボリボリと何かを掻くような音が聞こえる。
太郎には、それが何者の所為であるかわかっている。
むろん傍らの少女にもそのことはわかっているだろう。
伊勢新九郎盛時――太郎の主である。
彼はたぶん照れくさそうな顔をしているだろう。
太郎にはそんなことまでお見通しである。
事実、そのとおりだった。盛時はひどく面映げな顔をして、おのれの頭を――豊かな毛髪に包まれたその部分を掻いているのだった。
そんな彼の目の前には、碁盤が置かれている。
どうやら既に勝負はついた後らしい。
その盤面を挟んで向かい合う、もうひとりの男。
僧形である。
盛時よりもひと回りほど年嵩と思しきその老僧が、上品な顔に人のよさそうな笑みを浮かべて、盤面の碁石を片付けながら問いかける。
「盛時殿、なぜあの一手を躊躇われたのでございますか」
「あの一手?」
盛時はしばらく考えてから、ああ、と呟き、
「今ひとつ確信が持てませなんだゆえ」
至極恬淡とした口振りで言った。
「あえて危うき道を避けたのでございます」
「なるほど」
老僧は柔和に頷く。
「しかし、あの一手が勝負を分けたことについては、むろん気づいておいででございましょうな」
「むろん、気づいておりまするとも。あそこで攻めに転じておれば、この勝負は違った結果になっておったかもしれませぬな。もっとも、今さら後悔しても詮なきことではございましょうが」
「それは違いまするな」
ぴしゃりと言い切る老僧。
とはいえ、その口振りはどこまでも穏やかである。
相対している盛時が大国今川家の重臣であり、近接する興国寺城の主という身分だから――というわけではあるまい。
およそ人品卑しからざる老僧である。相手の地位や身分を見て媚を売るような真似をするとは考えにくい。
やはりここは、生来の人間性がにじみ出たものと見るべきだろう。
その老僧、あくまで春風のような声音でつづける。
「囲碁にても戦さにても同じことでございましょうが、敗れたるときこそが肝腎。敗因を真摯に検証し、それを今後に生かすことがいかに重要であるかは、優れた武将である盛時殿ならば、拙僧ごときが今さら指摘するまでもなく、重々ご承知のはず」
「いかにも仰せのとおり」
盛時は恭しく頭を下げる。
「されば、でございます」
ここで老僧は、不意に語調を強めて盛時に問いかける。
「そなたさまに今、もっとも欠けておるものは、なんでございましょうや」
「それがしに今、もっとも欠けておるもの……」
唐突な問いかけである。
盛時は腕組みをして、しばし考え込んだ。
「はて、なんでございましょうな。欠けておるものは、それこそ無数にありましょうが、その中でもっとも、ということになると、はてさて……」
「わかりませぬか」
老僧は笑い、
「しからば、少し角度を変えてみましょうか」
と、言った。
「角度を変える?」
「盛時殿は、ご自身のもっともよいところは、どこだとお考えですかな」
「それがしのもっともよいところ、でございますか」
これまたずいぶん難しい問いかけである。
盛時は、またしても考え込んだ後、
「おのれのことはよくわかりませぬが、強いて言えば、つねに冷静で、我を失わぬところでございましょうか」
そう言って、答えの成否を問うかのように、上目遣いで老僧の表情をうかがう。
わずかな間を置いて、
「で、ございましょうな」
老僧は満足げに頷いた。
「拙僧もそう思います」
重ねられた言葉に、盛時は安堵の色を浮かべる。
と――。
「しかし、盛時殿」
ふたたび老僧の、先程までよりも格段に鋭さを増した声が飛んだ。
「物事のよい面というのは、一歩間違えば、そのまま悪しき面に転化してしまいがちなものでございまする。そのことを、我等はつねに肝に銘じておかねばなりませぬ」
「なるほど」
盛時の表情がにわかに引き締まる。
長い付き合いである。老僧の口調から真剣さを感じ取り、その言葉を総身で受け止めるべく身構えたのだった。
「盛時殿。そなたさまはたしかにいつも冷静じゃ。こうして碁を打っておっても、およそ動ずることがない。どのような劣勢に立たされようとも、決して焦ったりなさらぬ。これはなかなか常人の真似できることではない、さすがは今川家にその人ありと謳われた知恵者じゃと、この秀実、心底より敬服しておりまする」
「お褒めの言葉、痛み入ります」
「しかしながら、盛時殿。その冷静さこそが、そなたさまの碁の腕前の上達を阻んでおることに気づいておいでですかな」
「ほう」
盛時はさも驚いたというふうに上体を反らせながら、
「それはまた、いかなるわけでございましょう」
と、問うた。
「冷静であることは美点でこそあれ、欠点になりうるとは思われませぬが」
どうやら納得が行かぬらしい。盛時の少し不服そうな顔を見て、秀実は小さく笑い、
「では、ひとつの例を挙げましょう」
と、またまた論法を変えた。
「たとえば先程の対局において、そなたさまは必勝の一手を躊躇われた。持ち前の冷静さで、十中十までの確信を得られなんだゆえに」
「……」
「あのとき、そなたさまにはどの程度、勝ちの目が見えておいででございましたか」
「されば、六分から七分」
「であれば、賭けに出てもよかった」
「それはしかし、和尚」
盛時は前のめりに、
「結果論に過ぎぬとそれがしは考えますが、いかに」
と、反駁した。
「この対局の場合、最終的に和尚が勝ちをおさめた。だから、それがしのあの一手が取り沙汰されることとなった。これは致し方なきこと。しかしながら、和尚。仮にこの対局、最後に勝ちをおさめたのが、それがしであったらいかがでございますか。それでもなお、それがしがあの一手を打たなんだことは責められるのでございましょうや」
些か気負い込んだ盛時の物言いに、秀実は含み笑いを浮かべながら二度、三度と頷き、
「なかなかおもしろい考えかたでござるな。しかし、盛時殿」
噛んで含めるような口振りで言った。
「残念ながら、その仮定は成り立ちませぬ」
「何故に」
すかさず盛時、反問。
「根拠をお示しいただきたい」
決して怒っているのではない。しかし、その語調には一種異様なまでの鋭さがある。穏やかな中にも、いい加減な返答は許さぬという気迫が込められていた。
盛時という人物が持つ雰囲気そのものの鋭さであろう。要するに彼は頭が切れる上に、あるいはそれゆえにこそ、誇り高い性格の持ち主で、余人から――それがたとえ敬愛する秀実和尚であったとしても、一刀両断に否定されることを絶対によしとはしないのだ。
そんな盛時に向かって、秀実は笑みを絶やすことなく、淡々と言ってのけた。
「我等の人生と同じように、碁の対局にも決して逃してはならぬ機というものがございます。あの一手を打たぬかぎり、そなたさまに勝ちの目はなかった。そのことは、はっきりと断言することができます。したがって、あそこは成算を度外視してでも賭けに出るべきでございました」
凛とした言葉に、
「そんなものですかな」
盛時、今度はあえて反論しない。
反論の余地など、まるでないのである。
微苦笑を浮かべながら、秀実をただじっと見詰めている。
――年齢の割に澄んだ目をしているな。
などと思いながら。
一方の秀実もまた、改めて今、相対している伊勢盛時という男のことを、とりわけその瞳を見ながら、あれこれ考えていた。
もとは室町幕府の執事を努める名族伊勢氏の御曹司だと聞いている。痩せぎすで決して恰幅のよいほうではないが、美男であることは疑いようもなく、どこか人品卑しからざる雰囲気をも漂わせているのは、やはりその出自によるところが大きいのであろう。鋭さと柔和さを奇妙に調和させた瞳は、相手を引き込むような吸引力、あるいは深みとでもいうべきものを備えており、
――一見して常人にあらず。
そんな印象を与えるのだった。
ふたりの男が互いの瞳を見詰めながら、対手のことを考えている。そんな、なんとも奇妙な空気をやさしく解きほぐすように、
「盛時さま、お迎えが参りました」
と、声がかかった。
襖の外でふたりの会話を聞いていた少女が、そう声をかけたのだ。
この寺で住み込みの小間使いとして働いている、楓という少女である。
傍らでは、大道寺太郎が笑いを堪えている。
彼は常日頃、とかく理屈っぽい主盛時に悩まされつづけていた。それだけに、その盛時がこうも見事に言い負かされるさまを聞いては、可笑しみを覚えずにいられなかったのである。
「迎えとな」
中から盛時の声が飛んでくる。
「誰が来たのだ」
「いつものようにまた、大道寺さまが」
そう答えた楓は、楚々たる魅力を総身から漂わせる美少女であった。色白の細面で、体つきなどは折れてしまいそうなほどにか細い。もとは近在の土豪の娘であったが、数年前に父親が戦死し、身寄りがなくなったため、この寺に引き取られていた。
「実は一刻ほど前からお待ちでございました。お呼びしましょうかと申したのですが、かまわぬと仰せられて」
告げる楓の後につづいて、
「盗み聞きさせていただきました」
太郎が言葉をつなげる。
「殿、なかなか見事な負けっぷりでございましたな。碁のほうも、口のほうも」
「申すわ」
盛時は拗ねたような調子で、
「いかな儂とて、和尚にはかなわぬよ」
そう言いながら、ゆっくりと腰を上げた。
「それでは和尚、お暇つかまつる」
「ああ」
秀実和尚は、はにかんだような笑顔で、
「次は、いつ」
と、問いかける。
「されば、明後日にでも」
「お待ちいたしておりまする」
秀実は深々と頭を下げた。
盛時もまた、一礼。
さすがは名流伊勢氏の御曹司。挙措はどこまでも典雅である。
「まいろうか」
声を掛けられ、太郎も慌てて礼をする。こちらはいかにも無骨な感じの所作だが、それがかえってこの男の素朴な人柄を表しているようで心地よい。
そんなふたりを、楓が微笑みながら見送った。
二
盛時は大道寺太郎と連れ立って帰路に着く。
寺の門を出ると、まだ先程の童がいて、例の小唄を唄っていた。
臆病盛時 また負けた
秀実和尚に また負けた
はて誰なれば 勝てるやら
よもや「臆病者」呼ばわりしている当の相手がすぐ目の前を歩いていようとは思ってもいないものだから、童は実に屈託のない表情で、愉しげに唄っているのだった。そんな童に苦々しげな目を向ける太郎の傍らで、盛時はあくまで温顔を崩さず、むしろ慈愛に満ちたやわらかな眼差しを童に注いでいる。
ちょうどこの童と同じぐらいの年恰好の息子が、盛時にはいた。
彼は、ずいぶん年を取ってから生まれたその息子が可愛くて仕方ない。もともと子ども好きな男なのである。
「いったい誰に教わったのじゃろうな」
あのような小唄を、と呑気な声で呟く盛時に、太郎は鋭い眼差しを向けて、
「口惜しゅうはないのでござるか」
と、喰って掛かった。
「あのような年端も行かぬ童に臆病者などと嗤われて」
「よいではないか、たかが碁打ちの話であろう」
盛時はそう言って、笑い飛ばす。
そうなのだ。
実をいうとこの小唄、盛時が碁敵の秀実和尚にいっこうに勝てぬことをからかっているのである。
これが戦に関することであれば、武将としての沽券に関わる。さすがの君子人盛時も黙ってはいられないだろう。しかし、今はたかだか碁の腕前のこと。いちいち目くじらを立てるほうが大人げないというものだ。
「で、あろうが」
理路整然とそんなふうに諭されれば、気短かな太郎も頷かざるを得ない。
――まあ、よいわ。こと戦にかけては、殿は決して臆病者などではないのじゃから。そのことは誰もが承知しておるはずじゃしの。
たしかに盛時は、およそ「臆病者」などと陰口を叩かれるべき武将ではなかった。
年若い今川氏親を助け、駿府の内乱を鎮めた手腕は見事のひとことに尽きた。その後も大小さまざまな戦を経てきたが、一度として敗れたことがない。
ただし、ここからが伊勢盛時という男が抱える大きな問題だと太郎などは考えているのだが、この盛時、負けない代わりになぜか大勝ちもしないのである。いつも智略による地味な勝利ばかりであり、しかも、どうやら本人が強くそれを求めているようなのだった。
彼はとにかく相手を根絶するような、徹底的な戦いを嫌う。それよりは持てる謀才を駆使して敵を骨抜きにし、自然消滅を見守るような戦いかたを好んだ。生来武張った働きが得意であり――というよりも、それしか取り柄のない太郎のような男には、不思議でならない。
なぜ華々しく勝とうとしないのか。
そのことを考えるたび、太郎はいつも、
――結局、慎重過ぎるのだな。
という結論に達する。
事実、慎重さこそは伊勢盛時という人物が持つ最大の特徴といってよかった。その慎重さ――それが、生来の心の優しさ、気質の穏やかさからきているのであろうことを太郎は看破していた――が、どうやら碁を打つ際にはことごとく裏目に出ているらしいことも、太郎にはおよそ察しがついている。
――勝負事には思い切りと非情さが肝要。果断なくして勝利は得られぬ。それは戦においても、むろん碁においても、そればかりでなく、人生のあらゆる局面においていえることじゃ。
これが太郎の信念である。
この点においてのみいえば、彼は盛時という主君に少なからぬ物足らなさを感じている。
智謀に優れ、教養も深い盛時に、果断あるいはそれをもたらす非情さといった要素が加われば、天下に並ぶものなき名将となれようものを――と、太郎はそのことが残念でならない。
「あれは」
不意に盛時が小さな声を上げた。
「堀越の若御所ではないか」
つられて顔を上げると、前方からひとりの青年が馬に乗ってこちらへ近づいてくる。
「なるほど、そのようで」
太郎の口振りに棘のようなものが含まれる。心なしか眼差しも鋭くなっているようだ。
距離が詰まるにつれて、馬に乗った青年の顔がはっきりと見えてくる。
ちょっと珍しいほど目鼻立ちの整った美青年である。だが、顔色が異常なまでに青白く、どこか病的なところが、それ以上に目を引く。切れ長の目が放つ光――その印象は、理知的というよりもむしろ酷薄といったほうが近い。細く尖った鼻や薄い唇が冷ややかな雰囲気をいっそう助長している。
「これは、これは、盛時殿」
向こうもどうやら気づいたらしい。口元だけをかすかに歪める下卑た笑いかたで、話しかけてきた。
「相変わらず勝てぬ碁を打ちにまいられたか」
開口一番、厭味から入ったところに、この男の人格が集約されているといえよう。傍らの太郎は唾棄したい気持ちを懸命に抑えながら、馬上の青年をきつく睨みつけた。
青年はその眼差しに気づきながら、あえてこれを黙殺し、
「ときに盛時殿、楓は寺におりましたかな」
盛時だけを見ながら、そうたずねた。
盛時、無言である。表情は穏やかなままだが、いっさい答えを返そうとしない。青年は焦れて、
「おりませなんだか」
先程よりも厳しい口調で、ふたたび問いかけた。
盛時、それでも無言。
「まあ、よいわ」
青年は憎々しげに、
「行ってみれば、わかることじゃ」
そう言い捨てて、盛時らの横を通って行った。
「虫の好かぬ奴。近ごろ調子に乗って、ますますのさばりおる」
聞こえよがしに呟いたのは太郎である。
「聞くところによれば、あの若御所、楓殿に懸想しておるとの噂」
「ほう」
盛時の返事が心なしか虚ろになる。
「楓殿はむろん、あのような男のことなど好いてはおられぬのでござるが、若御所め、どうにも諦めが悪い。日も開けずあの寺へ通い詰めては、親代わりの秀実和尚を脅しつけ、楓殿をわがものにせんと企んでおるよしにござる」
「和尚は、なんと申されておる」
「もとより首を縦に振るおつもりなどござるまい」
少しムッとしたような顔をして、太郎は盛時を見つめ、
「気にならぬのでござるか」
と、難詰口調で問うた。
「何がだ」
「楓殿のことでござるわ。いかに和尚が拒みつづけようとて、相手は堀越の若御所。いつまで頑張れるか、知れたものではござらぬぞ。あるいは心優しき楓殿が和尚の身の上を案じ、進んで人身御供となる道を選ばれれば、殿はなんとなさる」
「儂が、か」
とぼけてみせた盛時はしかし、こちらに向けられている太郎の目の真摯さに、すぐに表情を改め、
「そうじゃのう」
真顔になって空を仰いだ。
――太郎には、儂が楓殿に惚れておることなど、とうにお見通しなのであろうな。
そんなことを考えると、つい苦笑が洩れてしまう。慎重さが売りとはいえ、恋心の如き繊細な感情は、どんなに隠しておこうとしても、結局は迂闊なものである。あっさりと露見してしまっているのだった。
「堀越の若御所はこのところ荒れ気味だと聞くが」
「いかにも。病がちな父政知さまをはじめ、家中の皆が若御所の粗暴さを嫌い、異母弟の潤童子丸君を押し立てようとしておるよし。若御所はその動きを察知し、心穏やかならざる日々を送っておると聞き及びまする」
「心の平穏を、楓殿に求めようてか」
「まったく手前勝手な欲求でござるよ」
吐き捨てた太郎に、盛時は答えを返さず、もう一度、晴れ渡る青空を仰ぎ見た。
「人にはみな、おのれにしかわからぬ悩みというものがある。若御所は若御所で、人知れず懊悩しておるのであろう。ゆくゆくはわが敵となるかもしれぬ相手だが、その辺りは汲み取ってやらねばのう」
ひとり呟くように言った、この言葉にこそ、伊勢盛時という人物のすべてが盛り込まれているような気がして、太郎は嘆息した。
人並外れた思慮深さは驚嘆に値するし、彼の持つ最大の魅力でもある。楓はたぶんその辺りに魅かれているのだと、太郎は思っている。しかしながら、はたしてこの乱世において、それは美徳といえるのか。
――このようなことで、あの危険な男に太刀打ちできるのであろうか。
太郎は後ろを振り返り、既に見えなくなった先程の青年――「堀越の若御所」と呼ばれた青年の姿を脳裏に思い浮かべた。
今川氏親より伊豆攻略を命じられた伊勢盛時にとって、絶対に倒さなければならぬ存在である堀越公方家。
足利将軍家の流れを汲み、強い権勢によって一帯を支配する名門の御曹司こそ、あの青年――「堀越の若御所」こと足利茶々丸その人であった。
堀越公方家の起こりは、鎌倉公方として関東一円を支配していた足利持氏が永享の乱で滅び、その遺児成氏が下総国古河へ逃れて幕府に反抗したことによる。
幕府は成氏への対抗上、将軍義政の弟に当たる政知を新たな鎌倉公方として関東へ派遣したが、成氏の妨害に遭って鎌倉へ入れず、やむなく伊豆国堀越に館を構えた。これが堀越御所である。
以降、成氏の系統を「古河公方」と呼び、政知のほうは「堀越公方」と呼ばれることとなる。
政知には三人の男子がいた。長男が茶々丸、次男が清晃、そして三男が潤童子丸である。
清晃は京に出て出家しており、堀越には茶々丸と潤童子丸が残されていた。
茶々丸は適齢期を過ぎても元服せず、部屋住みの身であった。粗暴な性格を父政知に嫌われたためである。
政知は未だ幼児に過ぎぬ潤童子丸に期待を寄せ、ゆくゆくは茶々丸を廃嫡する肚積もりだという噂がまことしやかに囁かれ、茶々丸の心を千々に乱していた。
盛時は、駿河の太守である今川氏親から伊豆との国境近くに位置する興国寺城を与えられ、伊豆攻略の糸口を見出すことを期待されている。怜悧な頭脳とたしかな観察眼を持っていた盛時は、氏親の思いに応えるべく丹念に伊豆の国情を探り、やがてひとつの結論に達した。
――現在、伊豆を支配している堀越公方家は、政知一代限りであろう。
嗣子たる茶々丸、あるいは潤童子丸の器量云々ではない。むしろ、みずからの後継者を未だ両者のいずれとも決めかねているらしいことが、堀越公方家衰微の元凶であると盛時は見なしている。
盛時の見るところ、茶々丸という青年は決して庸人ではなかった。それどころか、優れた資質を持っているとさえ思う。もし順当に政知がこの長男を後継ぎの座に据えていれば、あるいは堀越公方家は安泰であったかもしれぬ。
しかし、もう遅い。
父に冷遇されたことで、茶々丸は完全に拗ねきってしまっている。家臣たちの心はことごとく彼から離れており、もはや当主としての求心力を得ることはかなわぬであろう。かといって、幼児である潤童子丸を後嗣とするわけにも行かず、政知は政知なりに悩んでいるのであろうと盛時は看破し、半ば同情もしていた。
――いずれにせよ、好機はほどなく訪れる。
盛時は国元の氏親に対して、そのように報告していた。
秀実の寺を訪れた足利茶々丸は、その足で秀実に会いに行くと、いつもどおり、
「楓殿を所望いたす」
強引なまでの姿勢で、威圧的な要求をぶつけてみせた。
「今すぐ館へ連れ帰り、わが妻としたい」
「楓は氏素姓とて定かならぬ身。若御所のもとへ召されましても、日陰者として一生を送らねばならぬことは明白でございましょう。拙僧はあれの親代わりとして、そのような辛き定めを強いることはできませぬ」
「辛い思いなどはさせぬ。なんなら、側妾などではなく、わが正室に迎えてもよいとさえ俺は思っている」
「お戯れを。そのようなこと、できるはずがございますまい」
「なぜだ」
「たとえ若御所がそのつもりであられましても、御父君が決してお許しにならぬからでございます」
「許さねば――」
茶々丸は眦を決して、よどみなく言いきった。
「親父を斬るまでだ」
「恐ろしいことを申される」
秀実は動ずるふうも見せず、至極淡々と、
「そのような方に楓を託すことはできませぬな」
そう切り返した。
「お引き取りくだされ、茶々丸殿。たとえ、どのようなことをなさろうとも、楓はそなたさまのものにはなりますまい。なぜならば、あれには想いを寄せておる御仁がおいでだからでございます」
「想いを寄せる男だと。いったい誰だ」
「申し上げられませぬ」
「楓が……、あいつ自身が、そう言ったのか。その男のことを好いておると」
「いいえ」
「では、なぜわかる」
「これまで何度も申し上げてきたように、拙僧は楓の親代わりでござりまする。わが娘の心のうちさえわからずして、どうして親がつとまりましょうや」
茶々丸は口惜しげに唇を噛んだ。伏せた目に深い哀しみの色を見て取った秀実は、
――拙いことを言ったかな。
と、即座に後悔した。
茶々丸は父政知から愛情を受けられず、そのためにひねくれてしまったのだ。いたずらに心の傷口を広げてしまったのではないかと気に病んでいると、
「帰る」
短く言って、茶々丸が立ち上がった。
「もう、頼まぬ」
茶々丸は憮然とした面持ちで、そう言い残して去って行った。
二日後、盛時は約束どおり秀実のもとを訪ねたが、応対に出た楓によれば、急用ができてしまい、あいにく留守にしているという。
「もうじき帰ってきますから、しばらく上がってお待ちになってはいかがですか」
そう言って引き止める楓を、
「いや、それでは申し訳ないゆえ」
振り切るようにして、盛時は踵を返す。
「あのう……」
背中越しに呼ぶ楓の声が妙に切羽詰った感じで、驚いた盛時はふたたび振り返り、
「どうしたのだ」
つとめて優しく声をかけた。
思えば、こうして面と向かって言葉を交し合うのは、初めてに近いことだった。これまでは秀実和尚を介してひとこと、ふたこと、ほとんど相槌程度の会話しかしたことがなかった。それは、盛時自身がそうした機会を作らぬよう努めていたせいでもある。
彼は、自分と楓とを隔てるであろう年齢差というものを、そうとう気にかけていた。
言葉を交し合い、近しい間柄になってしまえば、楓の中で自分というものがはっきりと位置づけられる。その際、楓は自分を父親のように仰ぎ見ることはあっても、恋慕の対象に組み入れることはあるまい。
そんなふうに確信した盛時は、数ある選択肢の中から、彼女との距離をこれ以上詰めない方法を選んだ。そうすれば、自分はこれからも楓に対して、遠く儚い――それでいて、ひどく甘美な夢を見つづけることができる。
「いいえ、なんでもありませぬ」
そのか細い躰に似合いの、消え入りそうな声で、楓は静かに首を振る。盛時はその様子をじっと見詰めていたが、不意に思い出したようにたずねた。
「堀越の若御所は、昨日もここへ?」
「いいえ、昨日は来られませんでした」
「そうか」
「和尚さまは言ってくださいました。あの方はもう二度とここへは来られぬゆえ、安心いたせと」
「なに、二度と来ぬとな」
「はい」
「和尚との間に何か諍いでもあったのであろうか」
「詳しいことはわかりませぬ。しかし、それがほんとうであれば嬉しゅうございます」
「楓殿は、若御所のことがお嫌いか」
盛時の問いかけに楓は答えず、ただ哀しげにそっと目を伏せた。
「私は……」
何かを言いかけて、上目遣いで盛時を見る。その視線を真っ直ぐに受け止められず、盛時はかすかに顔を背けながら、
「若御所はいうまでもなく堀越公方家の御曹司。いずれこの伊豆一国を治めることになるお人だ。その上、文武に秀で、見てくれも白面の美青年ときている。ひとりの男として、あれほど不足のないお人はなかなかないと私などは思うのだが」
自分で口にしながら、その言葉にまったく実のないことは、彼自身よくわかっていた。ほんとうは、もっと伝えたいことがあるはずなのだ。それでも、口を突いて出るのは空虚な――およそ心のうちとは裏腹な言葉ばかりであった。
「そのようなお人に妻にと所望されれば、多くの女子は一も二もなくなびくものと思うが、どうやら楓殿は違うらしい。変わり者だな、そなたは」
「あの方のものになることは、私にとって不幸でしかありませぬ」
「栄耀栄華は思いのままであってもか」
「そのようなもの……」
楓は蚊の鳴くような声で呟き、
「私は欲しいと思いませぬ。私が欲しいのは、ただ……」
そこまで言ったところで、今度は真っ直ぐに盛時の顔を見詰めてきた。
息を呑むほどの美しさである。茶々丸の酷薄な笑みが、この美しさを蹂躙するなど、とうてい耐え難いと盛時は思った。
おのれこそがこの清楚な美しさを守る男なのだと声を大にして叫びたい衝動に駆られつつも、やはりそれをはっきりと口にすることはできなかった。
楓の真摯な眼差しは、盛時の顔をしっかりと捉えている。その目は、
――今すぐにでも自分を奪い去って行って欲しい。
と、無言のうちに語りかけているようでさえある。しかし、
――万が一、おのれの思い過ごしであったならば、なんとする。
そんな思いが激情の噴出を妨げていた。
もしも自分の勘違いで、楓に慕情を打ち明け、決定的に否定されてしまったら……。
楓はそのとき、どんなふうに思うのだろうか。
彼女は若く、美しい。自分のような年の離れた、どこといっておもしろみもない男から恋情を打ち明けられても、嬉しくはないはずだ。むしろ驚き、困惑、衝撃、哀しみ……そういった感情のほうが勝るに違いない。
いや、そんなことよりも――。
そうなったとき自分は――この上なく惨めな中年男は、いったいどうすればよいのか。
「和尚には、また来ると伝えておいてくれ」
結局、盛時はそれだけを言い残して寺を後にした。
角を曲がり、自分の姿が寺から見えなくなるまで、彼は一度も後ろを振り返らなかった。
振り向けば、そこに楓が立っていることは明らかだった。
彼女がどのような表情で自分を見送っているのか、そのことをたしかめるのがひどく怖かったのである。
臆病新九郎 また負けた
秀実和尚に また負けた
いつになったら 勝てるやら
年端もいかぬ童が、可笑しげに唄っている。
その可愛らしい声を、大道寺太郎は苦笑しながら聞いた。
童は、すれ違いざまにちらりと太郎を見た。
太郎の表情に滲み出た微妙な思いには、どうやら気づかなかったらしい。
童のことゆえ、その辺りは止むを得まい。
道端に転がる石ころの中から目ぼしいやつを探しては、所在なさげに蹴り上げながら、童はなおも唄うことをやめない。
臆病新九郎 また負けた
秀実和尚に また負けた
いつになったら 勝てるやら
背中越しに聞こえてくる声の無垢な朗らかさと、さっき見た石蹴りの所作の物憂げなさまが、どうにも不釣り合いだった。
「困ったものじゃな」
太郎はひとりごちる。
「まったく、あのような小唄を平然と口ずさむ童も童なら、唄のたねにされてしまうわが殿もわが殿じゃ。もう少し意気地を見せてくれればよいものを」
ふーっと大きな溜息を吐いた後、ふたたびひとり呟く。
「ああも負けてばかりでは、無理もないわのう」
ずいぶん渋い声である。少し掠れ気味だが、かえってそこによさがある。
曇天を見上げる面差しも重厚そのものだ。目尻の皺がいくらか濃いのが気にかかるが、それもまた年輪の深みを感じさせるという意味では、かえって魅力的といえた。
今、彼の脳裏にはひとりの中年男の顔が浮かんでいる。
鋭い切れ長の目を持ち、鼻筋もすっきり通ったなかなかの美男である。それでいて、どこか掴みどころのない茫洋さを持っている。中年というよりもむしろ初老に近いが、肌艶はひどくよい。痩せ細った体躯はその実、筋肉質で、十二分に鍛え上げられている。そのくせさほど健康的な印象を与えないのは、眉間の皺が些か深すぎるせいだろうか。
聡明なのか、愚鈍なのか。
それさえ、しかとはわからぬ。
そういう男だった。
男は太郎の主である。
名は、伊勢新九郎盛時。
元々は幕府の重臣伊勢氏の生まれであるという。となれば、歴とした名族の裔だ。
伊勢氏は代々足利将軍家に仕え、執事の重責を担ってきた。
名流の一葉である盛時はまた、同時にもうひとつの門閥を有している。彼は駿河守護今川氏の血縁者でもあるのだった。
駿河守護の当代は今川氏親。若いながらも文武に秀でた名将との評判である。盛時は、その氏親の母方の叔父に当たる。すなわち盛時の姉が氏親の生母なのである。そうした繋がりからか、あるいは武将としての能力を高く見込まれてのことか、ともかくいずれかの理由によって、盛時は外様ながら今川家政の中枢に身を置くようになり、ほどなく要衝のひとつである駿河興国寺城を任せられた。
ことほどさように武将として恵まれた人生を送ってきたであろう盛時はしかし、事ある毎に深い溜息を吐いては物憂げな顔をして、太郎らを困らせている。
元来、明朗闊達とはほど遠い気質の持ち主であったが、このところそうした傾向がいっそう顕著になってきた気がして、太郎は鬱陶しくて仕方がない。
――小鹿どのの一件を未だ気にしておられるのか。
だとしたら、愚かなことだと太郎は思う。
たしかにあのとき、盛時はほとんど悪辣といってもよい策謀を用いて政敵を破滅せしめた。世人がそんな彼を評して、
――佞姦なり
と、半ば畏怖し、半ば敬遠するようになったのは紛れもない事実である。しかし、
――そのおかげで今川家は安泰を保ち得た。氏親殿とてそのことをじゅうぶんわかっておいでだからこそ、わが殿を興国寺城の主に据え、伊豆攻略の先鋒を任されたのではないか。
この一事をもって盛時の側に正義があったことは証明されたのだと太郎は思っている。それなのに、いつまでもうじうじと過去を気に病む主が、たまらなくもどかしい。
――ああいう気の弱さはどこからくるのであろうか。
育ちのよさか、あるいは持って生まれた性格というものか。とすれば、これは死ぬまで変わらぬということか。
――あれほどの智略を持ちながら、繊細すぎる心根がその飛躍を妨げるようなことがあるとすれば、まことにもって惜しい。惜しすぎるではないか。
太郎はそんなことをつらつらと考えながら歩いている。
ふと顔を上げて、前方に視線を送る。
目を細めればようやく見えるぐらいの距離に、小さな寺が建っている。
太郎が目指すのは、その寺であった。
そこに太郎の主、伊勢新九郎盛時がいる。
「いやあ、また負けましたな」
小さな寺の本堂から、なんとも間の抜けた声が洩れてくる。
――やれやれ、またか。
それを聞いた太郎は、襖の外で呆れたような苦笑を浮かべる。
傍らには、少女がいる。
中に向かって声を掛けようとする少女を、太郎はそっと押し止めた。
武骨な顔を精一杯やわらげて、にっこりと微笑んでみせる。
――もう少し、中の会話を聞いていようではないか。
細めた目が悪戯っぽくそう言っている。
少女は同感したのか、かわいらしい微笑みを返してきた。
ふたりは並んで耳をそばだてる。
ボリボリと何かを掻くような音が聞こえる。
太郎には、それが何者の所為であるかわかっている。
むろん傍らの少女にもそのことはわかっているだろう。
伊勢新九郎盛時――太郎の主である。
彼はたぶん照れくさそうな顔をしているだろう。
太郎にはそんなことまでお見通しである。
事実、そのとおりだった。盛時はひどく面映げな顔をして、おのれの頭を――豊かな毛髪に包まれたその部分を掻いているのだった。
そんな彼の目の前には、碁盤が置かれている。
どうやら既に勝負はついた後らしい。
その盤面を挟んで向かい合う、もうひとりの男。
僧形である。
盛時よりもひと回りほど年嵩と思しきその老僧が、上品な顔に人のよさそうな笑みを浮かべて、盤面の碁石を片付けながら問いかける。
「盛時殿、なぜあの一手を躊躇われたのでございますか」
「あの一手?」
盛時はしばらく考えてから、ああ、と呟き、
「今ひとつ確信が持てませなんだゆえ」
至極恬淡とした口振りで言った。
「あえて危うき道を避けたのでございます」
「なるほど」
老僧は柔和に頷く。
「しかし、あの一手が勝負を分けたことについては、むろん気づいておいででございましょうな」
「むろん、気づいておりまするとも。あそこで攻めに転じておれば、この勝負は違った結果になっておったかもしれませぬな。もっとも、今さら後悔しても詮なきことではございましょうが」
「それは違いまするな」
ぴしゃりと言い切る老僧。
とはいえ、その口振りはどこまでも穏やかである。
相対している盛時が大国今川家の重臣であり、近接する興国寺城の主という身分だから――というわけではあるまい。
およそ人品卑しからざる老僧である。相手の地位や身分を見て媚を売るような真似をするとは考えにくい。
やはりここは、生来の人間性がにじみ出たものと見るべきだろう。
その老僧、あくまで春風のような声音でつづける。
「囲碁にても戦さにても同じことでございましょうが、敗れたるときこそが肝腎。敗因を真摯に検証し、それを今後に生かすことがいかに重要であるかは、優れた武将である盛時殿ならば、拙僧ごときが今さら指摘するまでもなく、重々ご承知のはず」
「いかにも仰せのとおり」
盛時は恭しく頭を下げる。
「されば、でございます」
ここで老僧は、不意に語調を強めて盛時に問いかける。
「そなたさまに今、もっとも欠けておるものは、なんでございましょうや」
「それがしに今、もっとも欠けておるもの……」
唐突な問いかけである。
盛時は腕組みをして、しばし考え込んだ。
「はて、なんでございましょうな。欠けておるものは、それこそ無数にありましょうが、その中でもっとも、ということになると、はてさて……」
「わかりませぬか」
老僧は笑い、
「しからば、少し角度を変えてみましょうか」
と、言った。
「角度を変える?」
「盛時殿は、ご自身のもっともよいところは、どこだとお考えですかな」
「それがしのもっともよいところ、でございますか」
これまたずいぶん難しい問いかけである。
盛時は、またしても考え込んだ後、
「おのれのことはよくわかりませぬが、強いて言えば、つねに冷静で、我を失わぬところでございましょうか」
そう言って、答えの成否を問うかのように、上目遣いで老僧の表情をうかがう。
わずかな間を置いて、
「で、ございましょうな」
老僧は満足げに頷いた。
「拙僧もそう思います」
重ねられた言葉に、盛時は安堵の色を浮かべる。
と――。
「しかし、盛時殿」
ふたたび老僧の、先程までよりも格段に鋭さを増した声が飛んだ。
「物事のよい面というのは、一歩間違えば、そのまま悪しき面に転化してしまいがちなものでございまする。そのことを、我等はつねに肝に銘じておかねばなりませぬ」
「なるほど」
盛時の表情がにわかに引き締まる。
長い付き合いである。老僧の口調から真剣さを感じ取り、その言葉を総身で受け止めるべく身構えたのだった。
「盛時殿。そなたさまはたしかにいつも冷静じゃ。こうして碁を打っておっても、およそ動ずることがない。どのような劣勢に立たされようとも、決して焦ったりなさらぬ。これはなかなか常人の真似できることではない、さすがは今川家にその人ありと謳われた知恵者じゃと、この秀実、心底より敬服しておりまする」
「お褒めの言葉、痛み入ります」
「しかしながら、盛時殿。その冷静さこそが、そなたさまの碁の腕前の上達を阻んでおることに気づいておいでですかな」
「ほう」
盛時はさも驚いたというふうに上体を反らせながら、
「それはまた、いかなるわけでございましょう」
と、問うた。
「冷静であることは美点でこそあれ、欠点になりうるとは思われませぬが」
どうやら納得が行かぬらしい。盛時の少し不服そうな顔を見て、秀実は小さく笑い、
「では、ひとつの例を挙げましょう」
と、またまた論法を変えた。
「たとえば先程の対局において、そなたさまは必勝の一手を躊躇われた。持ち前の冷静さで、十中十までの確信を得られなんだゆえに」
「……」
「あのとき、そなたさまにはどの程度、勝ちの目が見えておいででございましたか」
「されば、六分から七分」
「であれば、賭けに出てもよかった」
「それはしかし、和尚」
盛時は前のめりに、
「結果論に過ぎぬとそれがしは考えますが、いかに」
と、反駁した。
「この対局の場合、最終的に和尚が勝ちをおさめた。だから、それがしのあの一手が取り沙汰されることとなった。これは致し方なきこと。しかしながら、和尚。仮にこの対局、最後に勝ちをおさめたのが、それがしであったらいかがでございますか。それでもなお、それがしがあの一手を打たなんだことは責められるのでございましょうや」
些か気負い込んだ盛時の物言いに、秀実は含み笑いを浮かべながら二度、三度と頷き、
「なかなかおもしろい考えかたでござるな。しかし、盛時殿」
噛んで含めるような口振りで言った。
「残念ながら、その仮定は成り立ちませぬ」
「何故に」
すかさず盛時、反問。
「根拠をお示しいただきたい」
決して怒っているのではない。しかし、その語調には一種異様なまでの鋭さがある。穏やかな中にも、いい加減な返答は許さぬという気迫が込められていた。
盛時という人物が持つ雰囲気そのものの鋭さであろう。要するに彼は頭が切れる上に、あるいはそれゆえにこそ、誇り高い性格の持ち主で、余人から――それがたとえ敬愛する秀実和尚であったとしても、一刀両断に否定されることを絶対によしとはしないのだ。
そんな盛時に向かって、秀実は笑みを絶やすことなく、淡々と言ってのけた。
「我等の人生と同じように、碁の対局にも決して逃してはならぬ機というものがございます。あの一手を打たぬかぎり、そなたさまに勝ちの目はなかった。そのことは、はっきりと断言することができます。したがって、あそこは成算を度外視してでも賭けに出るべきでございました」
凛とした言葉に、
「そんなものですかな」
盛時、今度はあえて反論しない。
反論の余地など、まるでないのである。
微苦笑を浮かべながら、秀実をただじっと見詰めている。
――年齢の割に澄んだ目をしているな。
などと思いながら。
一方の秀実もまた、改めて今、相対している伊勢盛時という男のことを、とりわけその瞳を見ながら、あれこれ考えていた。
もとは室町幕府の執事を努める名族伊勢氏の御曹司だと聞いている。痩せぎすで決して恰幅のよいほうではないが、美男であることは疑いようもなく、どこか人品卑しからざる雰囲気をも漂わせているのは、やはりその出自によるところが大きいのであろう。鋭さと柔和さを奇妙に調和させた瞳は、相手を引き込むような吸引力、あるいは深みとでもいうべきものを備えており、
――一見して常人にあらず。
そんな印象を与えるのだった。
ふたりの男が互いの瞳を見詰めながら、対手のことを考えている。そんな、なんとも奇妙な空気をやさしく解きほぐすように、
「盛時さま、お迎えが参りました」
と、声がかかった。
襖の外でふたりの会話を聞いていた少女が、そう声をかけたのだ。
この寺で住み込みの小間使いとして働いている、楓という少女である。
傍らでは、大道寺太郎が笑いを堪えている。
彼は常日頃、とかく理屈っぽい主盛時に悩まされつづけていた。それだけに、その盛時がこうも見事に言い負かされるさまを聞いては、可笑しみを覚えずにいられなかったのである。
「迎えとな」
中から盛時の声が飛んでくる。
「誰が来たのだ」
「いつものようにまた、大道寺さまが」
そう答えた楓は、楚々たる魅力を総身から漂わせる美少女であった。色白の細面で、体つきなどは折れてしまいそうなほどにか細い。もとは近在の土豪の娘であったが、数年前に父親が戦死し、身寄りがなくなったため、この寺に引き取られていた。
「実は一刻ほど前からお待ちでございました。お呼びしましょうかと申したのですが、かまわぬと仰せられて」
告げる楓の後につづいて、
「盗み聞きさせていただきました」
太郎が言葉をつなげる。
「殿、なかなか見事な負けっぷりでございましたな。碁のほうも、口のほうも」
「申すわ」
盛時は拗ねたような調子で、
「いかな儂とて、和尚にはかなわぬよ」
そう言いながら、ゆっくりと腰を上げた。
「それでは和尚、お暇つかまつる」
「ああ」
秀実和尚は、はにかんだような笑顔で、
「次は、いつ」
と、問いかける。
「されば、明後日にでも」
「お待ちいたしておりまする」
秀実は深々と頭を下げた。
盛時もまた、一礼。
さすがは名流伊勢氏の御曹司。挙措はどこまでも典雅である。
「まいろうか」
声を掛けられ、太郎も慌てて礼をする。こちらはいかにも無骨な感じの所作だが、それがかえってこの男の素朴な人柄を表しているようで心地よい。
そんなふたりを、楓が微笑みながら見送った。
二
盛時は大道寺太郎と連れ立って帰路に着く。
寺の門を出ると、まだ先程の童がいて、例の小唄を唄っていた。
臆病盛時 また負けた
秀実和尚に また負けた
はて誰なれば 勝てるやら
よもや「臆病者」呼ばわりしている当の相手がすぐ目の前を歩いていようとは思ってもいないものだから、童は実に屈託のない表情で、愉しげに唄っているのだった。そんな童に苦々しげな目を向ける太郎の傍らで、盛時はあくまで温顔を崩さず、むしろ慈愛に満ちたやわらかな眼差しを童に注いでいる。
ちょうどこの童と同じぐらいの年恰好の息子が、盛時にはいた。
彼は、ずいぶん年を取ってから生まれたその息子が可愛くて仕方ない。もともと子ども好きな男なのである。
「いったい誰に教わったのじゃろうな」
あのような小唄を、と呑気な声で呟く盛時に、太郎は鋭い眼差しを向けて、
「口惜しゅうはないのでござるか」
と、喰って掛かった。
「あのような年端も行かぬ童に臆病者などと嗤われて」
「よいではないか、たかが碁打ちの話であろう」
盛時はそう言って、笑い飛ばす。
そうなのだ。
実をいうとこの小唄、盛時が碁敵の秀実和尚にいっこうに勝てぬことをからかっているのである。
これが戦に関することであれば、武将としての沽券に関わる。さすがの君子人盛時も黙ってはいられないだろう。しかし、今はたかだか碁の腕前のこと。いちいち目くじらを立てるほうが大人げないというものだ。
「で、あろうが」
理路整然とそんなふうに諭されれば、気短かな太郎も頷かざるを得ない。
――まあ、よいわ。こと戦にかけては、殿は決して臆病者などではないのじゃから。そのことは誰もが承知しておるはずじゃしの。
たしかに盛時は、およそ「臆病者」などと陰口を叩かれるべき武将ではなかった。
年若い今川氏親を助け、駿府の内乱を鎮めた手腕は見事のひとことに尽きた。その後も大小さまざまな戦を経てきたが、一度として敗れたことがない。
ただし、ここからが伊勢盛時という男が抱える大きな問題だと太郎などは考えているのだが、この盛時、負けない代わりになぜか大勝ちもしないのである。いつも智略による地味な勝利ばかりであり、しかも、どうやら本人が強くそれを求めているようなのだった。
彼はとにかく相手を根絶するような、徹底的な戦いを嫌う。それよりは持てる謀才を駆使して敵を骨抜きにし、自然消滅を見守るような戦いかたを好んだ。生来武張った働きが得意であり――というよりも、それしか取り柄のない太郎のような男には、不思議でならない。
なぜ華々しく勝とうとしないのか。
そのことを考えるたび、太郎はいつも、
――結局、慎重過ぎるのだな。
という結論に達する。
事実、慎重さこそは伊勢盛時という人物が持つ最大の特徴といってよかった。その慎重さ――それが、生来の心の優しさ、気質の穏やかさからきているのであろうことを太郎は看破していた――が、どうやら碁を打つ際にはことごとく裏目に出ているらしいことも、太郎にはおよそ察しがついている。
――勝負事には思い切りと非情さが肝要。果断なくして勝利は得られぬ。それは戦においても、むろん碁においても、そればかりでなく、人生のあらゆる局面においていえることじゃ。
これが太郎の信念である。
この点においてのみいえば、彼は盛時という主君に少なからぬ物足らなさを感じている。
智謀に優れ、教養も深い盛時に、果断あるいはそれをもたらす非情さといった要素が加われば、天下に並ぶものなき名将となれようものを――と、太郎はそのことが残念でならない。
「あれは」
不意に盛時が小さな声を上げた。
「堀越の若御所ではないか」
つられて顔を上げると、前方からひとりの青年が馬に乗ってこちらへ近づいてくる。
「なるほど、そのようで」
太郎の口振りに棘のようなものが含まれる。心なしか眼差しも鋭くなっているようだ。
距離が詰まるにつれて、馬に乗った青年の顔がはっきりと見えてくる。
ちょっと珍しいほど目鼻立ちの整った美青年である。だが、顔色が異常なまでに青白く、どこか病的なところが、それ以上に目を引く。切れ長の目が放つ光――その印象は、理知的というよりもむしろ酷薄といったほうが近い。細く尖った鼻や薄い唇が冷ややかな雰囲気をいっそう助長している。
「これは、これは、盛時殿」
向こうもどうやら気づいたらしい。口元だけをかすかに歪める下卑た笑いかたで、話しかけてきた。
「相変わらず勝てぬ碁を打ちにまいられたか」
開口一番、厭味から入ったところに、この男の人格が集約されているといえよう。傍らの太郎は唾棄したい気持ちを懸命に抑えながら、馬上の青年をきつく睨みつけた。
青年はその眼差しに気づきながら、あえてこれを黙殺し、
「ときに盛時殿、楓は寺におりましたかな」
盛時だけを見ながら、そうたずねた。
盛時、無言である。表情は穏やかなままだが、いっさい答えを返そうとしない。青年は焦れて、
「おりませなんだか」
先程よりも厳しい口調で、ふたたび問いかけた。
盛時、それでも無言。
「まあ、よいわ」
青年は憎々しげに、
「行ってみれば、わかることじゃ」
そう言い捨てて、盛時らの横を通って行った。
「虫の好かぬ奴。近ごろ調子に乗って、ますますのさばりおる」
聞こえよがしに呟いたのは太郎である。
「聞くところによれば、あの若御所、楓殿に懸想しておるとの噂」
「ほう」
盛時の返事が心なしか虚ろになる。
「楓殿はむろん、あのような男のことなど好いてはおられぬのでござるが、若御所め、どうにも諦めが悪い。日も開けずあの寺へ通い詰めては、親代わりの秀実和尚を脅しつけ、楓殿をわがものにせんと企んでおるよしにござる」
「和尚は、なんと申されておる」
「もとより首を縦に振るおつもりなどござるまい」
少しムッとしたような顔をして、太郎は盛時を見つめ、
「気にならぬのでござるか」
と、難詰口調で問うた。
「何がだ」
「楓殿のことでござるわ。いかに和尚が拒みつづけようとて、相手は堀越の若御所。いつまで頑張れるか、知れたものではござらぬぞ。あるいは心優しき楓殿が和尚の身の上を案じ、進んで人身御供となる道を選ばれれば、殿はなんとなさる」
「儂が、か」
とぼけてみせた盛時はしかし、こちらに向けられている太郎の目の真摯さに、すぐに表情を改め、
「そうじゃのう」
真顔になって空を仰いだ。
――太郎には、儂が楓殿に惚れておることなど、とうにお見通しなのであろうな。
そんなことを考えると、つい苦笑が洩れてしまう。慎重さが売りとはいえ、恋心の如き繊細な感情は、どんなに隠しておこうとしても、結局は迂闊なものである。あっさりと露見してしまっているのだった。
「堀越の若御所はこのところ荒れ気味だと聞くが」
「いかにも。病がちな父政知さまをはじめ、家中の皆が若御所の粗暴さを嫌い、異母弟の潤童子丸君を押し立てようとしておるよし。若御所はその動きを察知し、心穏やかならざる日々を送っておると聞き及びまする」
「心の平穏を、楓殿に求めようてか」
「まったく手前勝手な欲求でござるよ」
吐き捨てた太郎に、盛時は答えを返さず、もう一度、晴れ渡る青空を仰ぎ見た。
「人にはみな、おのれにしかわからぬ悩みというものがある。若御所は若御所で、人知れず懊悩しておるのであろう。ゆくゆくはわが敵となるかもしれぬ相手だが、その辺りは汲み取ってやらねばのう」
ひとり呟くように言った、この言葉にこそ、伊勢盛時という人物のすべてが盛り込まれているような気がして、太郎は嘆息した。
人並外れた思慮深さは驚嘆に値するし、彼の持つ最大の魅力でもある。楓はたぶんその辺りに魅かれているのだと、太郎は思っている。しかしながら、はたしてこの乱世において、それは美徳といえるのか。
――このようなことで、あの危険な男に太刀打ちできるのであろうか。
太郎は後ろを振り返り、既に見えなくなった先程の青年――「堀越の若御所」と呼ばれた青年の姿を脳裏に思い浮かべた。
今川氏親より伊豆攻略を命じられた伊勢盛時にとって、絶対に倒さなければならぬ存在である堀越公方家。
足利将軍家の流れを汲み、強い権勢によって一帯を支配する名門の御曹司こそ、あの青年――「堀越の若御所」こと足利茶々丸その人であった。
堀越公方家の起こりは、鎌倉公方として関東一円を支配していた足利持氏が永享の乱で滅び、その遺児成氏が下総国古河へ逃れて幕府に反抗したことによる。
幕府は成氏への対抗上、将軍義政の弟に当たる政知を新たな鎌倉公方として関東へ派遣したが、成氏の妨害に遭って鎌倉へ入れず、やむなく伊豆国堀越に館を構えた。これが堀越御所である。
以降、成氏の系統を「古河公方」と呼び、政知のほうは「堀越公方」と呼ばれることとなる。
政知には三人の男子がいた。長男が茶々丸、次男が清晃、そして三男が潤童子丸である。
清晃は京に出て出家しており、堀越には茶々丸と潤童子丸が残されていた。
茶々丸は適齢期を過ぎても元服せず、部屋住みの身であった。粗暴な性格を父政知に嫌われたためである。
政知は未だ幼児に過ぎぬ潤童子丸に期待を寄せ、ゆくゆくは茶々丸を廃嫡する肚積もりだという噂がまことしやかに囁かれ、茶々丸の心を千々に乱していた。
盛時は、駿河の太守である今川氏親から伊豆との国境近くに位置する興国寺城を与えられ、伊豆攻略の糸口を見出すことを期待されている。怜悧な頭脳とたしかな観察眼を持っていた盛時は、氏親の思いに応えるべく丹念に伊豆の国情を探り、やがてひとつの結論に達した。
――現在、伊豆を支配している堀越公方家は、政知一代限りであろう。
嗣子たる茶々丸、あるいは潤童子丸の器量云々ではない。むしろ、みずからの後継者を未だ両者のいずれとも決めかねているらしいことが、堀越公方家衰微の元凶であると盛時は見なしている。
盛時の見るところ、茶々丸という青年は決して庸人ではなかった。それどころか、優れた資質を持っているとさえ思う。もし順当に政知がこの長男を後継ぎの座に据えていれば、あるいは堀越公方家は安泰であったかもしれぬ。
しかし、もう遅い。
父に冷遇されたことで、茶々丸は完全に拗ねきってしまっている。家臣たちの心はことごとく彼から離れており、もはや当主としての求心力を得ることはかなわぬであろう。かといって、幼児である潤童子丸を後嗣とするわけにも行かず、政知は政知なりに悩んでいるのであろうと盛時は看破し、半ば同情もしていた。
――いずれにせよ、好機はほどなく訪れる。
盛時は国元の氏親に対して、そのように報告していた。
秀実の寺を訪れた足利茶々丸は、その足で秀実に会いに行くと、いつもどおり、
「楓殿を所望いたす」
強引なまでの姿勢で、威圧的な要求をぶつけてみせた。
「今すぐ館へ連れ帰り、わが妻としたい」
「楓は氏素姓とて定かならぬ身。若御所のもとへ召されましても、日陰者として一生を送らねばならぬことは明白でございましょう。拙僧はあれの親代わりとして、そのような辛き定めを強いることはできませぬ」
「辛い思いなどはさせぬ。なんなら、側妾などではなく、わが正室に迎えてもよいとさえ俺は思っている」
「お戯れを。そのようなこと、できるはずがございますまい」
「なぜだ」
「たとえ若御所がそのつもりであられましても、御父君が決してお許しにならぬからでございます」
「許さねば――」
茶々丸は眦を決して、よどみなく言いきった。
「親父を斬るまでだ」
「恐ろしいことを申される」
秀実は動ずるふうも見せず、至極淡々と、
「そのような方に楓を託すことはできませぬな」
そう切り返した。
「お引き取りくだされ、茶々丸殿。たとえ、どのようなことをなさろうとも、楓はそなたさまのものにはなりますまい。なぜならば、あれには想いを寄せておる御仁がおいでだからでございます」
「想いを寄せる男だと。いったい誰だ」
「申し上げられませぬ」
「楓が……、あいつ自身が、そう言ったのか。その男のことを好いておると」
「いいえ」
「では、なぜわかる」
「これまで何度も申し上げてきたように、拙僧は楓の親代わりでござりまする。わが娘の心のうちさえわからずして、どうして親がつとまりましょうや」
茶々丸は口惜しげに唇を噛んだ。伏せた目に深い哀しみの色を見て取った秀実は、
――拙いことを言ったかな。
と、即座に後悔した。
茶々丸は父政知から愛情を受けられず、そのためにひねくれてしまったのだ。いたずらに心の傷口を広げてしまったのではないかと気に病んでいると、
「帰る」
短く言って、茶々丸が立ち上がった。
「もう、頼まぬ」
茶々丸は憮然とした面持ちで、そう言い残して去って行った。
二日後、盛時は約束どおり秀実のもとを訪ねたが、応対に出た楓によれば、急用ができてしまい、あいにく留守にしているという。
「もうじき帰ってきますから、しばらく上がってお待ちになってはいかがですか」
そう言って引き止める楓を、
「いや、それでは申し訳ないゆえ」
振り切るようにして、盛時は踵を返す。
「あのう……」
背中越しに呼ぶ楓の声が妙に切羽詰った感じで、驚いた盛時はふたたび振り返り、
「どうしたのだ」
つとめて優しく声をかけた。
思えば、こうして面と向かって言葉を交し合うのは、初めてに近いことだった。これまでは秀実和尚を介してひとこと、ふたこと、ほとんど相槌程度の会話しかしたことがなかった。それは、盛時自身がそうした機会を作らぬよう努めていたせいでもある。
彼は、自分と楓とを隔てるであろう年齢差というものを、そうとう気にかけていた。
言葉を交し合い、近しい間柄になってしまえば、楓の中で自分というものがはっきりと位置づけられる。その際、楓は自分を父親のように仰ぎ見ることはあっても、恋慕の対象に組み入れることはあるまい。
そんなふうに確信した盛時は、数ある選択肢の中から、彼女との距離をこれ以上詰めない方法を選んだ。そうすれば、自分はこれからも楓に対して、遠く儚い――それでいて、ひどく甘美な夢を見つづけることができる。
「いいえ、なんでもありませぬ」
そのか細い躰に似合いの、消え入りそうな声で、楓は静かに首を振る。盛時はその様子をじっと見詰めていたが、不意に思い出したようにたずねた。
「堀越の若御所は、昨日もここへ?」
「いいえ、昨日は来られませんでした」
「そうか」
「和尚さまは言ってくださいました。あの方はもう二度とここへは来られぬゆえ、安心いたせと」
「なに、二度と来ぬとな」
「はい」
「和尚との間に何か諍いでもあったのであろうか」
「詳しいことはわかりませぬ。しかし、それがほんとうであれば嬉しゅうございます」
「楓殿は、若御所のことがお嫌いか」
盛時の問いかけに楓は答えず、ただ哀しげにそっと目を伏せた。
「私は……」
何かを言いかけて、上目遣いで盛時を見る。その視線を真っ直ぐに受け止められず、盛時はかすかに顔を背けながら、
「若御所はいうまでもなく堀越公方家の御曹司。いずれこの伊豆一国を治めることになるお人だ。その上、文武に秀で、見てくれも白面の美青年ときている。ひとりの男として、あれほど不足のないお人はなかなかないと私などは思うのだが」
自分で口にしながら、その言葉にまったく実のないことは、彼自身よくわかっていた。ほんとうは、もっと伝えたいことがあるはずなのだ。それでも、口を突いて出るのは空虚な――およそ心のうちとは裏腹な言葉ばかりであった。
「そのようなお人に妻にと所望されれば、多くの女子は一も二もなくなびくものと思うが、どうやら楓殿は違うらしい。変わり者だな、そなたは」
「あの方のものになることは、私にとって不幸でしかありませぬ」
「栄耀栄華は思いのままであってもか」
「そのようなもの……」
楓は蚊の鳴くような声で呟き、
「私は欲しいと思いませぬ。私が欲しいのは、ただ……」
そこまで言ったところで、今度は真っ直ぐに盛時の顔を見詰めてきた。
息を呑むほどの美しさである。茶々丸の酷薄な笑みが、この美しさを蹂躙するなど、とうてい耐え難いと盛時は思った。
おのれこそがこの清楚な美しさを守る男なのだと声を大にして叫びたい衝動に駆られつつも、やはりそれをはっきりと口にすることはできなかった。
楓の真摯な眼差しは、盛時の顔をしっかりと捉えている。その目は、
――今すぐにでも自分を奪い去って行って欲しい。
と、無言のうちに語りかけているようでさえある。しかし、
――万が一、おのれの思い過ごしであったならば、なんとする。
そんな思いが激情の噴出を妨げていた。
もしも自分の勘違いで、楓に慕情を打ち明け、決定的に否定されてしまったら……。
楓はそのとき、どんなふうに思うのだろうか。
彼女は若く、美しい。自分のような年の離れた、どこといっておもしろみもない男から恋情を打ち明けられても、嬉しくはないはずだ。むしろ驚き、困惑、衝撃、哀しみ……そういった感情のほうが勝るに違いない。
いや、そんなことよりも――。
そうなったとき自分は――この上なく惨めな中年男は、いったいどうすればよいのか。
「和尚には、また来ると伝えておいてくれ」
結局、盛時はそれだけを言い残して寺を後にした。
角を曲がり、自分の姿が寺から見えなくなるまで、彼は一度も後ろを振り返らなかった。
振り向けば、そこに楓が立っていることは明らかだった。
彼女がどのような表情で自分を見送っているのか、そのことをたしかめるのがひどく怖かったのである。
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