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16 開戦
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開戦
それから半月ほど後――。
長崎円喜の屋敷は、不気味なほどの静けさに包まれていた。
その静けさの中で、円喜はひとり端座していた。
膝には、一匹の猫が抱かれている。
小柄な黒猫は、部屋に入ってきた貞将の姿を見ると、
――ニャア
とひと声、小さく鳴いて、ゆっくりと主の膝から降り、外へ出て行った。
その背中をぼんやりと見送りながら、
「どうなされた、金澤殿。この儂を殺しにまいられたか」
抑揚のない声音で、円喜は言った。
「太守さまの命か。いや、それはあるまいな。あのお方に儂を殺す度胸はない。とすれば、貴殿の一存か」
「円喜殿、違うのでず。それがしは貴殿と話を――」
「貴殿もついに思い切られたか。それはよきことじゃ。なれど、残念でござる。些か遅きに失しましたな」
「いや、ですから、それがしは――」
「金澤殿、せめてあと一年――いや、半年早くその決意をなされておれば、あるいは鎌倉の将来は違っていたかもしれませぬ。だが、もう遅い。今となっては、いかに貴殿がおのれの果たすべき使命に目覚められたところで、如何ともしがたいのでござるよ」
「円喜殿」
「しかし、あるいはこれが鎌倉の――我等が幕府の天命ということなのかもしれませぬなあ」
「円喜殿、おっしゃる意味がよくわかりませぬ。それがしは貴殿を殺しにまいったのではない。貴殿と話をするためにまいったのでござる」
「話? 今さら、なんの話を」
さも驚いたという表情の円喜に向かって、
「単刀直入に申し上げる。これより幕府の運営は執権の赤橋守時殿とそれがしとが担わせていただきまする。太守さまはもとより、円喜殿、貴殿にもこの後はまつりごとへの口出しをご遠慮いただきたい」
貞将は息も継がずに言い切った。
「むろん、ご子息の高資殿も同様に願いたい。大人しく我等の願いを聞き入れてくださるのならば、命まではお取りいたさぬ」
「ほほ」
円喜はおどけたように、
「これはこれは、ずいぶんとお優しい申されようじゃな」
「我等はあまりにも内輪で争い過ぎた。幕府開闢から百四十年あまり、ずっと争いつづけてきたのです。それによって強固な地盤を築いてきたのだと、かつて貴殿は申された。しかし、それがしはそうは思いませぬ。今の我等が断ち切らねばならぬものは、まさにそうした内輪の争いによる憎しみの連鎖でござる」
「ほう」
「それがしは六波羅探題として京を――主上と、それを慕う公卿衆の姿を目の当たりにして、つくづくそのことを思い知らされました。朝廷が何度敗れても屈せず起ち上がるのはなぜだと思われる」
「……」
「彼等はみな主上のもとで強く結束しているからでござる。みなが同じほうを向いているからでごさる」
「ようわかっておいでじゃ。儂とて同じ考えでござるぞ、金澤殿。だからこそ同じほうを向かぬ者を駆逐しなければならぬのではござらぬか」
「違うのだ、円喜殿。駆逐してはならぬのだ」
貞将の口吻が熱を帯びる。
「我等はもとより同じほうを向くようにはできていない。だからこそ話し合い、互いを尊重し合うことで、しぜんに同じほうを向くことができるよう努めなければならぬのだ。そのためには、争いは無意味――いや、むしろ悪でしかない。互いに争い合っていては、いつまで経っても同じほうを向くことなどできぬのだ」
「……」
「我等はまず幕府内の者たち同士が同じほうを向けるよう、全力を尽くすべきなのだ。それができてはじめて、朝廷に対しても同じ働きかけを行うことが可能になる。すべての者が同じほうを向いた、強き幕府として、朝廷にも同じほうを向くよう働きかけ、強き国を作るよう努めなければ――」
「相変わらず――」
円喜は静かに嗤って、
「目の眩むような綺麗事を申されますなあ、金澤殿は」
乾いた中にも凄味のある声で言った。
「よろしいか、金澤殿。話し合い、尊重し合う――そのようなことで人がすべて同じほうを向けるのならば、誰も苦労はせぬのでござるよ。たとえば元寇の折、時宗公が蒙古の皇帝フビライに対して、話し合いを持ちかけていたならば、蒙古は我等と同じほうを向いていたとお思いか」
「いや、それは些か……」
「異国の話は別だと申されるか。そんなことはござらぬぞ。異国の人とて、人は人。なんの違いがござろうや」
「……」
「元寇の折、時宗公は徹底的に戦うことを選択された。だからこそ、武士たちは同じほうを向き、蒙古の侵攻を二度までも撃退しえたのでござる。あの時、もしも時宗公が戦うことを選ばず、話し合いをしようとなされたならば、はたして武士たちはひとつにまとまれたであろうか。それがしには、とうていそうは思われませぬ」
今度は円喜の口調が熱くなった。
「敵とはな、金澤殿。倒さねばならぬものなのでござるよ。敵を倒すという明確な目的があってこそ、味方同士はまとまりを持ちえる。まつりごとを行う者には、それだけの覚悟が必要なのでござる」
「むろん、時には争わねばならぬこととてあろう。だが、それはあくまで最終手段ではないか。少なくとも内輪でそのような――」
「内輪、内輪と申されるが、金澤殿にとっての内輪とは、どこまでを差すのでござる」
舌鋒鋭く、円喜が切り込む。
「北条一門でござるか。あるいは鎌倉武士のすべてか。はたまた諸国の武士も含めて、でござるか」
「それは……」
「よろしいか、金澤殿。人にはそれぞれ守りたいものがある。そして、それは人ひとりひとりで異なるのでござる。ある者は国を、ある者は一族郎党を、ある者は家族を、またある者はただおのれのみを守ろうとする。そうした者同士が互いの意を探り合い、折り合うことで成り立っている。その折り合いを妨げる、いわば少数派の者たちを、世の人々は敵と見なす。おわかりか、金澤殿。折り合わぬから敵となった者を相手に、折り合うところを見つけようなど、どだいできぬ話でござろう。それが見つけられるようなら、はじめから敵にはなっておらぬのでござるよ」
「しかし、それは折り合う努力をいたさぬゆえ――」
「努力をしても、誠を尽くしても、ならぬものはならぬのでござる。それがこの世の定めであると、金澤殿の御歳であれば、そろそろおわかりにならねば」
「たしかに私の言っていることは、そなたから見れば甘い考えかたなのかもしれぬ。だが、私はどうしても諦めたくないのだ。なぜなら私は、それを可能にすることが今の鎌倉を救う唯一の方法だと信じているからだ」
貞将の双眸から涙が零れ落ちた。
「我等の祖先が血の涙を流して築き上げた武家の世を、私は終わらせたくない。もう一度、この幕府がまつりごとを行うのに相応しい存在として武士たちにも京の朝廷にも――、いや、それよりも天下万民に認められるようになるために、私はおのれの理想とするところを、信念に基づいて突き進みたい」
「なるほど、そのために我等が邪魔なのでござるな」
「違う、そうではない」
貞将は語気を強めた。
「私はそなたたちを排除しにまいったのではない。今一度、手を携えて幕府を立て直そうと声を掛けにまいったのだ。今ならばまだ間に合う。そなたの才覚を正しき方法で使ってほしい。我等とともに――いや、もう包み隠さずはっきりと言おう。新たに執権となる私の下で、その才を発揮してほしいのだ」
「ほう」
円喜は痩せて落ち窪んだ目を見開いて、
「ついに決心なされたのか」
と、驚きを口にした。
「むろん簒奪いたすのではないぞ。太守さまと赤橋殿とよくよく話し合ってのことだ」
「わかっており申す。そのような大それたことができる貴殿であれば、幕府はこうなる前に立て直すことができていたでしょう」
「申すな」
「才ある方が表に出ぬことは、それ自体が罪なのでござる。貴殿ももう少し早くそのことに思い至っていただくべきでしたな」
「円喜、過ぎたことを言うておっても何も生まれぬ。大切なのはこれからだ。どうなのだ、私に力を貸してくれるのか、くれぬのか」
貞将は円喜のもとへにじり寄る。
「私はそなたが誰よりも鎌倉の行く末を案じていたことを知っている。私のもとで、ともに鎌倉を立て直してほしいのだ。そなたにとっては、それこそが切なる願いであったはずだろう」
「さよう、憚りながらそれがしは他の何人よりもこの鎌倉を――」
円喜が掠れる声を懸命に張り上げようとした、その時である。
「申し上げますッ!」
長崎家の郎党が、声を上ずらせながら駈け込んできた。
かなり慌てている様子だ。
「いかがした」
円喜が問いかけても、呼吸が乱れて、すぐに答えられずにいる。
「落ち着くのだ」
円喜の叱責を受けて、郎党は大きくひとつ深呼吸をした。
それから、ちらりと貞将の顔を一瞥し、かすかに逡巡する素振りを見せた後、意を決したような表情で、早口にこう告げた。
「六波羅が……、落ちましてござりまする」
円喜も貞将も、思わず互いの顔を見合わせて、言葉を失った。
――六波羅探題が落ちた。
その報告は、鎌倉中を震撼させた。
――朝廷の軍勢が、それほどに強いとは。
――足利殿と名越殿はどうなされたのだ。よもや打ち負かされたというのではあるまいな。
口々に噂し合う人々のもとへ、さらに衝撃的な一報が届けられた。
――六波羅を襲ったのは、足利殿の軍勢らしい。
――足利殿、ご謀叛!
朝廷軍を鎮圧するために西上していた足利高氏が寝返ったというのである。
誰もが驚きと同時に、
――やはり足利殿は胸に一物抱えておいでであったか。
そんな納得の声も、そこかしこから聞こえてきた。
実際、足利家の鎌倉での立ち位置はきわめて微妙なところにあった。
元を正せば清和源氏の流れを汲む名族で、源頼朝の鎌倉開闢にも大いに軍功を挙げた。それが世の転変を経て、天下の権を北条氏が奪ったことにより、その立場は一変し、名誉ばかり与えられて、実をほとんど伴わぬ一御家人に成り果てた。それでいながら、やはり独自の存在感は坂東の――特に源氏ゆかりの武士たちから強い信望を集め、それゆえに北条氏からはつねに睨まれつづけることとなった。
高氏の祖父家時は、かつて家祖ともいうべき八幡太郎義家が残したという、
――わが子孫七代までの間に必ずや天下を取らせ給うべし。
との願文の重さに耐えかねて自害。自身の命を縮めることでさらに三代の猶予を神仏に願ったと伝えられる。その三代目こそが高氏だ。
この逸話がどこからともなく知れ渡り、世の人々の高氏を見る目は好奇に満ちたものとなったが、当の高氏はどこか茫洋として掴みどころのない若者に成長した。それでいて一種独特の風格を備えていて、周囲の者を自然に惹きつける魅力を持っていたことが、彼の印象をさらに大きくした。
北条氏は、そんな高氏をなんとか自家薬籠中に取り込もうと赤橋家から守時の妹登子を嫁がせて縁戚関係を結び、血のつながりを作る一方で、作事や戦働きには積極的に担ぎ出して、その財力、兵力を疲弊させようとした。高氏とてそれと知りつつ唯々諾々と従う姿は、
――名門足利の御曹司も所詮、北条の狗に過ぎぬか。
と、無責任な野次馬的大衆を失望させたが、
――その足利殿が、ついに起たれた!
――足利殿は、眠れる獅子でおわしたのだ。
北条氏によって肩身の狭い思いを味わっていた傍流の武家どもはもとより、専制的な政権というものを生理的に忌み嫌う群衆の喝采を浴びて、ここに足利高氏という人物は颯爽と歴史の表舞台に登場することとなったのである。
円喜の屋敷から戻った貞将は、すぐさま御所へと向かった。
息を切らして走る貞将の目に、幾多の鎧武者の姿が飛び込んでくる。
――はて。
面妖な、と貞将は訝しむ。
事が起きたのは西国であるはずだ。にもかかわらず、早くも鎌倉の武士たちは戦仕度を始めている。京へ上るべき軍令は未だ発せられていないはずだが――。
なおも駆ける貞将の前へ、やはり華麗な緋縅鎧を身にまとった赤橋守時が姿を現す。
「おお、これは赤橋殿」
声を掛けながらも、咄嗟にその胸中を慮り、心を痛める。
守時にしてみれば、妹婿の叛乱が六波羅探題を瓦解に追いやったのだ。心中穏やかであろうはずがない。みずから京へ攻め上って足利軍を制圧し、せめてもの罪滅ぼしをしようとの肚積もりであろうか。
だが、貞将は心優しい守時が、高氏に嫁がせた妹登子をことのほか慈しみ、愛していたことを知っている。いかに叛将とはいえ、その愛する妹の夫とこの清廉な鎌倉武士の鑑ともいうべき男を、戦場で相見えさせたくはなかった。
「赤橋殿、京へはそれがしがまいろう。六波羅には見知った者たちも大勢いる。それがしにその仇を取らせてほしい」
実際、彼は脳裏に六波羅の政庁にいた小者や雑士女たちの面影を思い浮かべていた。みな気のいい者たちだった。京のしきたりに慣れぬ貞将をよく助けてくれた。ある者は父貞顕と二代にわたって仕えることができたのを、
――わが誉れにござりまする。
とまで言って、喜んでくれた。
彼等は今、どうしているのだろうか。つい先程もたらされた報せによれば、探題北条仲時は郎党らを引き連れて京を離れ、近江へ向かったという。近江には佐々木道誉がいる。かつて高時からひとかたならぬ引き立てを受け、高時の出家に際しては、みずから追従して剃髪した佐々木道誉――行き場を失った六波羅勢にとっては最後の頼みの綱ともいうべき彼はしかし、裏で密かに足利高氏と通じているとの噂がしきりだった。つい先日まで幕府方に与して働き、北畠具行の処刑を執行した道誉であったが、皮肉なことに、旧知の友であった具行の見事な死にざまを目の当たりにしたことが、彼の心を幕府から引き離してしまったと、当の道誉自身が公言しているらしい。となれば、仲時らの運命はもはや風前の灯というべきであった。
だが、
――あの佐々木道誉ならば、話は通じるはずだ。既に居場所を失い、逃れることしかできなくなった者たちを、あえて嬲り殺しにはするまい。
そのためにも、西へ向かうのは自分でなければならぬと、貞将は思ったのだ。
しかし、
「金澤殿、我等の向かうべき戦場は京ではない」
赤橋守時は、胸の奥底から絞り出すような苦しげな声で告げた。
「この鎌倉なのだ」
「なに」
貞将が訊き咎める。
「鎌倉へ、何者かが攻め寄せてくると申されるか」
「口惜しきかぎりだ。わが妹婿の謀叛が、かかる大事を引き起こそうとは……。儂は執権として、みなに申し訳が立たぬ」
「何者でござるか、この鎌倉を攻めようとする不埒者は」
「新田義貞」
「なんと!」
驚愕のあまり、貞将は声を上ずらせた。
「たしかでござるか」
「間違いない。京で高氏が兵を挙げたのと時を同じくして、鎌倉からわが妹登子と、その息子千寿王の姿が消え申した。彼等は上野を出立してこの鎌倉へ向かう途上の新田軍と合流し、坂東に残った足利の兵たちの旗頭になっているそうな」
「信じられませぬ。あの新田が鎌倉に叛旗を翻すなど……」
「そうか、貴殿は新田とは親しき間柄であったな」
痛ましげな眼差しが向けられる。
「新田とて足利と同じ源氏。後れを取るわけにはいかなかったのであろう」
守時はそう言って、貞将の肩をポンと叩いた。
「とにかく着替えてまいられよ。これから戦評定だ」
「わかり申した」
胸に騒めくさまざまな感情を押し殺して、貞将は踵を返した。
広間には主立った者たちが集まり、喧々諤々の議論を戦わせていた。
「遅うなりました」
駈け込んできた貞将の姿を見止めて、
「おお、待ち侘びたぞ、早う、早う」
高時が慌ただしく手招きをする。
「聞いたであろう、謀叛じゃ。足利と新田めが、相通じて謀叛を起こしおったのじゃ」
「報せによれば――」
傍らからしわがれた声が割り込んでくる。長崎円喜だ。
「京は既に足利方の手に落ちたよしにござりまする。六波羅を脱出した仲時さまたちは近江まで逃げおおせたものの、そこで足利方に与した佐々木道誉に行く手を阻まれ、ことごとく自害して果てられたとか。もはや我等には、この鎌倉を守ることしか残されておりませぬ」
衝撃的な事実が、淡々と述べられる。
佐々木道誉が敵方に付いた――どこか予期していたこととはいえ、いざ現実になってみると、やはり口惜しさが込み上げてくる。
道誉の時勢を見る目はたしかだ。その道誉に見放されたということは、鎌倉幕府に先はないということであろう。認めたくはないが、それを突き付けられたような気がした。
「薄汚き裏切者どもめ。かかる仕儀を招いた元凶はなんぞ!」
長崎高資が癇癪を起こしたように喚き散らしている。
その様子を見る周囲の目は、冷ややかだ。
――元凶は、おまえであろう。
みなの顔が、そう言っている。しかし、高資はそれに気付いていないのか、ひとりの男のほうを睨みつけていた。
高資の視線の先には、赤橋守時がいた。
守時は何も言わず、ただ俯いたままである。その様子が、なんとも痛々しかった。そんな気まずさを打ち消すかのように、
「各々方、こちらをご覧くだされ」
床に広げられた鎌倉近郊の絵図面を指差しながら熱弁を振るうのは、大仏貞直だった。
「新田義貞は京で叛旗を翻した足利高氏と呼応し、五月八日に上野で挙兵。最初は百五十騎ほどの取るに足らぬ軍勢でござったが、近隣の武士たちを瞬く間に従わせ、五万とも六万ともいわれる大軍に膨れ上がったとの報せが届いておりまする」
「なに、六万だと」
高資が素っ頓狂な声を上げた。
「誇張に決まっておろう。新田ごとき貧乏御家人に、そのような大軍を集められるはずがない」
「いや」
すぐに高時の声が飛んだ。
「新田だけならばそうかもしれぬが、その背後には足利がおる。源氏所縁の武士たちがこぞって靡いておるとしても不思議はあるまい」
落ち着き払ったその声音は、かつて政権の頂点にありながらまつりごとのいっさいを放棄し、幕府衰退のきっかけを作った「暗愚な執権」と同じ人物とはとうてい思えなかった。
「源氏の棟梁たる足利が起ち、六波羅を滅ぼした。その事実が武士たちを突き動かしているのだ。六万はたしかに言いすぎかもしれぬが、そうとうな大軍であることはたしかだろう」
その場にいたみなが驚きのあまり言葉を失うほどに、高時の見立ては明晰で、説得力があった。これが田楽舞や闘犬にうつつを抜かしていた、あの高時なのかと、誰もがわが目と耳を疑った。
傍らでは、守時がまだ俯いたまま唇を噛み締めている。
彼にしてみれば、現職の執権でありながら、その妹婿たる足利高氏が謀叛の引き金となり、それを受けた新田義貞の軍勢によって、今まさに鎌倉の血が蹂躙されようとしているのだ。その心痛は図りがたく、周囲の同情の眼差しすら鋭い刃のように感じられることだろう。
――赤橋殿にとっては、この評定の場はまさに針の筵であろうな。
剛毅で実直ながら繊細な一面も持ち合わせている守時の心中を慮ると、貞将はいたたまれぬ思いがした。
「新田軍は怒涛の如き勢いで、この鎌倉へ向かっている。我等はいかになすべきか」
「申すまでもなきこと。ただちに武蔵へ兵を進め、迎え撃ちましょう」
威勢よく声を上げたのは、長崎高重。高資の嫡男である。
未だ二十歳にも届かぬ若者ながら、父に似ず気風の爽やかな青年で、周囲の受けもいい。
「それがしに兵をお与えくださりませ。累代の御恩を忘れ、謀叛人に与せし不埒者どもを成敗して御覧に入れまする」
気負った感じも若者らしく好もしい。
「よくぞ申した」
高時の大音声が評定の場に響き渡る。
「それでこそ内管領長崎家の惣領を継ぐ者ぞ。その心意気やよし」
称える声も凛然として、威厳に満ちている。この場の片隅で、特に話に加わるでもなく端座していた長崎円喜はこの瞬間、自身がまだ駆け出しの頃に仕えた北条貞時の英姿を思い出していた。
貞時は高時の父で、元寇に対処した名執権時宗の嫡男である。三十代半ばの若さで早世した時宗の後を継いで九代執権の座に着いた貞時は、はじめは有力御家人の安達泰盛を右腕として幕政の舵を取ったが、やがてその泰盛が力を持ち過ぎたと見るや方針を一転。本来は北条家の家政を取り仕切ることが役目であった内管領の平頼綱を重用して泰盛を牽制し、最終的には泰盛を挙兵に追い込んで、これを抹殺した。さらに今度はその頼綱が発言力を強めると、これを挑発して謀叛を起こさせ、討滅した。
容赦ないやりかたで邪魔者を葬り去った貞時はみずからの専制体制を強化した。苛烈な性格ながら、それを裏打ちするだけの能力を備えていた貞時の存命中は、幕府の基盤は強固なものとなったかに思われたが、やはり専制体制というものは個人の資質に拠るところがあまりにも大きい。ほどなく貞時が死ぬと、既にそれまでの合議による協調体制が崩れていた幕府は立て直しがきかなくなった。
そういう意味では、貞時のしたことは結果として幕府の命脈を縮めてしまったとも言えそうだが、少なくとも貞時自身が優れた資質と指導力を持った稀有な執権であったことはたしかである。円喜は若いながらにそんな主君を畏敬し、高時にも同じように成長してほしいと願っていた。
長年にわたって叶えられず、自身が専横の悪名をあえて被るきっかけともなったその願いが、今ここへきて叶えられようとしている――。
なんたる皮肉かと、円喜は湧き上がる苦い思いに我知らず顔をしかめた。
それから半月ほど後――。
長崎円喜の屋敷は、不気味なほどの静けさに包まれていた。
その静けさの中で、円喜はひとり端座していた。
膝には、一匹の猫が抱かれている。
小柄な黒猫は、部屋に入ってきた貞将の姿を見ると、
――ニャア
とひと声、小さく鳴いて、ゆっくりと主の膝から降り、外へ出て行った。
その背中をぼんやりと見送りながら、
「どうなされた、金澤殿。この儂を殺しにまいられたか」
抑揚のない声音で、円喜は言った。
「太守さまの命か。いや、それはあるまいな。あのお方に儂を殺す度胸はない。とすれば、貴殿の一存か」
「円喜殿、違うのでず。それがしは貴殿と話を――」
「貴殿もついに思い切られたか。それはよきことじゃ。なれど、残念でござる。些か遅きに失しましたな」
「いや、ですから、それがしは――」
「金澤殿、せめてあと一年――いや、半年早くその決意をなされておれば、あるいは鎌倉の将来は違っていたかもしれませぬ。だが、もう遅い。今となっては、いかに貴殿がおのれの果たすべき使命に目覚められたところで、如何ともしがたいのでござるよ」
「円喜殿」
「しかし、あるいはこれが鎌倉の――我等が幕府の天命ということなのかもしれませぬなあ」
「円喜殿、おっしゃる意味がよくわかりませぬ。それがしは貴殿を殺しにまいったのではない。貴殿と話をするためにまいったのでござる」
「話? 今さら、なんの話を」
さも驚いたという表情の円喜に向かって、
「単刀直入に申し上げる。これより幕府の運営は執権の赤橋守時殿とそれがしとが担わせていただきまする。太守さまはもとより、円喜殿、貴殿にもこの後はまつりごとへの口出しをご遠慮いただきたい」
貞将は息も継がずに言い切った。
「むろん、ご子息の高資殿も同様に願いたい。大人しく我等の願いを聞き入れてくださるのならば、命まではお取りいたさぬ」
「ほほ」
円喜はおどけたように、
「これはこれは、ずいぶんとお優しい申されようじゃな」
「我等はあまりにも内輪で争い過ぎた。幕府開闢から百四十年あまり、ずっと争いつづけてきたのです。それによって強固な地盤を築いてきたのだと、かつて貴殿は申された。しかし、それがしはそうは思いませぬ。今の我等が断ち切らねばならぬものは、まさにそうした内輪の争いによる憎しみの連鎖でござる」
「ほう」
「それがしは六波羅探題として京を――主上と、それを慕う公卿衆の姿を目の当たりにして、つくづくそのことを思い知らされました。朝廷が何度敗れても屈せず起ち上がるのはなぜだと思われる」
「……」
「彼等はみな主上のもとで強く結束しているからでござる。みなが同じほうを向いているからでごさる」
「ようわかっておいでじゃ。儂とて同じ考えでござるぞ、金澤殿。だからこそ同じほうを向かぬ者を駆逐しなければならぬのではござらぬか」
「違うのだ、円喜殿。駆逐してはならぬのだ」
貞将の口吻が熱を帯びる。
「我等はもとより同じほうを向くようにはできていない。だからこそ話し合い、互いを尊重し合うことで、しぜんに同じほうを向くことができるよう努めなければならぬのだ。そのためには、争いは無意味――いや、むしろ悪でしかない。互いに争い合っていては、いつまで経っても同じほうを向くことなどできぬのだ」
「……」
「我等はまず幕府内の者たち同士が同じほうを向けるよう、全力を尽くすべきなのだ。それができてはじめて、朝廷に対しても同じ働きかけを行うことが可能になる。すべての者が同じほうを向いた、強き幕府として、朝廷にも同じほうを向くよう働きかけ、強き国を作るよう努めなければ――」
「相変わらず――」
円喜は静かに嗤って、
「目の眩むような綺麗事を申されますなあ、金澤殿は」
乾いた中にも凄味のある声で言った。
「よろしいか、金澤殿。話し合い、尊重し合う――そのようなことで人がすべて同じほうを向けるのならば、誰も苦労はせぬのでござるよ。たとえば元寇の折、時宗公が蒙古の皇帝フビライに対して、話し合いを持ちかけていたならば、蒙古は我等と同じほうを向いていたとお思いか」
「いや、それは些か……」
「異国の話は別だと申されるか。そんなことはござらぬぞ。異国の人とて、人は人。なんの違いがござろうや」
「……」
「元寇の折、時宗公は徹底的に戦うことを選択された。だからこそ、武士たちは同じほうを向き、蒙古の侵攻を二度までも撃退しえたのでござる。あの時、もしも時宗公が戦うことを選ばず、話し合いをしようとなされたならば、はたして武士たちはひとつにまとまれたであろうか。それがしには、とうていそうは思われませぬ」
今度は円喜の口調が熱くなった。
「敵とはな、金澤殿。倒さねばならぬものなのでござるよ。敵を倒すという明確な目的があってこそ、味方同士はまとまりを持ちえる。まつりごとを行う者には、それだけの覚悟が必要なのでござる」
「むろん、時には争わねばならぬこととてあろう。だが、それはあくまで最終手段ではないか。少なくとも内輪でそのような――」
「内輪、内輪と申されるが、金澤殿にとっての内輪とは、どこまでを差すのでござる」
舌鋒鋭く、円喜が切り込む。
「北条一門でござるか。あるいは鎌倉武士のすべてか。はたまた諸国の武士も含めて、でござるか」
「それは……」
「よろしいか、金澤殿。人にはそれぞれ守りたいものがある。そして、それは人ひとりひとりで異なるのでござる。ある者は国を、ある者は一族郎党を、ある者は家族を、またある者はただおのれのみを守ろうとする。そうした者同士が互いの意を探り合い、折り合うことで成り立っている。その折り合いを妨げる、いわば少数派の者たちを、世の人々は敵と見なす。おわかりか、金澤殿。折り合わぬから敵となった者を相手に、折り合うところを見つけようなど、どだいできぬ話でござろう。それが見つけられるようなら、はじめから敵にはなっておらぬのでござるよ」
「しかし、それは折り合う努力をいたさぬゆえ――」
「努力をしても、誠を尽くしても、ならぬものはならぬのでござる。それがこの世の定めであると、金澤殿の御歳であれば、そろそろおわかりにならねば」
「たしかに私の言っていることは、そなたから見れば甘い考えかたなのかもしれぬ。だが、私はどうしても諦めたくないのだ。なぜなら私は、それを可能にすることが今の鎌倉を救う唯一の方法だと信じているからだ」
貞将の双眸から涙が零れ落ちた。
「我等の祖先が血の涙を流して築き上げた武家の世を、私は終わらせたくない。もう一度、この幕府がまつりごとを行うのに相応しい存在として武士たちにも京の朝廷にも――、いや、それよりも天下万民に認められるようになるために、私はおのれの理想とするところを、信念に基づいて突き進みたい」
「なるほど、そのために我等が邪魔なのでござるな」
「違う、そうではない」
貞将は語気を強めた。
「私はそなたたちを排除しにまいったのではない。今一度、手を携えて幕府を立て直そうと声を掛けにまいったのだ。今ならばまだ間に合う。そなたの才覚を正しき方法で使ってほしい。我等とともに――いや、もう包み隠さずはっきりと言おう。新たに執権となる私の下で、その才を発揮してほしいのだ」
「ほう」
円喜は痩せて落ち窪んだ目を見開いて、
「ついに決心なされたのか」
と、驚きを口にした。
「むろん簒奪いたすのではないぞ。太守さまと赤橋殿とよくよく話し合ってのことだ」
「わかっており申す。そのような大それたことができる貴殿であれば、幕府はこうなる前に立て直すことができていたでしょう」
「申すな」
「才ある方が表に出ぬことは、それ自体が罪なのでござる。貴殿ももう少し早くそのことに思い至っていただくべきでしたな」
「円喜、過ぎたことを言うておっても何も生まれぬ。大切なのはこれからだ。どうなのだ、私に力を貸してくれるのか、くれぬのか」
貞将は円喜のもとへにじり寄る。
「私はそなたが誰よりも鎌倉の行く末を案じていたことを知っている。私のもとで、ともに鎌倉を立て直してほしいのだ。そなたにとっては、それこそが切なる願いであったはずだろう」
「さよう、憚りながらそれがしは他の何人よりもこの鎌倉を――」
円喜が掠れる声を懸命に張り上げようとした、その時である。
「申し上げますッ!」
長崎家の郎党が、声を上ずらせながら駈け込んできた。
かなり慌てている様子だ。
「いかがした」
円喜が問いかけても、呼吸が乱れて、すぐに答えられずにいる。
「落ち着くのだ」
円喜の叱責を受けて、郎党は大きくひとつ深呼吸をした。
それから、ちらりと貞将の顔を一瞥し、かすかに逡巡する素振りを見せた後、意を決したような表情で、早口にこう告げた。
「六波羅が……、落ちましてござりまする」
円喜も貞将も、思わず互いの顔を見合わせて、言葉を失った。
――六波羅探題が落ちた。
その報告は、鎌倉中を震撼させた。
――朝廷の軍勢が、それほどに強いとは。
――足利殿と名越殿はどうなされたのだ。よもや打ち負かされたというのではあるまいな。
口々に噂し合う人々のもとへ、さらに衝撃的な一報が届けられた。
――六波羅を襲ったのは、足利殿の軍勢らしい。
――足利殿、ご謀叛!
朝廷軍を鎮圧するために西上していた足利高氏が寝返ったというのである。
誰もが驚きと同時に、
――やはり足利殿は胸に一物抱えておいでであったか。
そんな納得の声も、そこかしこから聞こえてきた。
実際、足利家の鎌倉での立ち位置はきわめて微妙なところにあった。
元を正せば清和源氏の流れを汲む名族で、源頼朝の鎌倉開闢にも大いに軍功を挙げた。それが世の転変を経て、天下の権を北条氏が奪ったことにより、その立場は一変し、名誉ばかり与えられて、実をほとんど伴わぬ一御家人に成り果てた。それでいながら、やはり独自の存在感は坂東の――特に源氏ゆかりの武士たちから強い信望を集め、それゆえに北条氏からはつねに睨まれつづけることとなった。
高氏の祖父家時は、かつて家祖ともいうべき八幡太郎義家が残したという、
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この逸話がどこからともなく知れ渡り、世の人々の高氏を見る目は好奇に満ちたものとなったが、当の高氏はどこか茫洋として掴みどころのない若者に成長した。それでいて一種独特の風格を備えていて、周囲の者を自然に惹きつける魅力を持っていたことが、彼の印象をさらに大きくした。
北条氏は、そんな高氏をなんとか自家薬籠中に取り込もうと赤橋家から守時の妹登子を嫁がせて縁戚関係を結び、血のつながりを作る一方で、作事や戦働きには積極的に担ぎ出して、その財力、兵力を疲弊させようとした。高氏とてそれと知りつつ唯々諾々と従う姿は、
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――その足利殿が、ついに起たれた!
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円喜の屋敷から戻った貞将は、すぐさま御所へと向かった。
息を切らして走る貞将の目に、幾多の鎧武者の姿が飛び込んでくる。
――はて。
面妖な、と貞将は訝しむ。
事が起きたのは西国であるはずだ。にもかかわらず、早くも鎌倉の武士たちは戦仕度を始めている。京へ上るべき軍令は未だ発せられていないはずだが――。
なおも駆ける貞将の前へ、やはり華麗な緋縅鎧を身にまとった赤橋守時が姿を現す。
「おお、これは赤橋殿」
声を掛けながらも、咄嗟にその胸中を慮り、心を痛める。
守時にしてみれば、妹婿の叛乱が六波羅探題を瓦解に追いやったのだ。心中穏やかであろうはずがない。みずから京へ攻め上って足利軍を制圧し、せめてもの罪滅ぼしをしようとの肚積もりであろうか。
だが、貞将は心優しい守時が、高氏に嫁がせた妹登子をことのほか慈しみ、愛していたことを知っている。いかに叛将とはいえ、その愛する妹の夫とこの清廉な鎌倉武士の鑑ともいうべき男を、戦場で相見えさせたくはなかった。
「赤橋殿、京へはそれがしがまいろう。六波羅には見知った者たちも大勢いる。それがしにその仇を取らせてほしい」
実際、彼は脳裏に六波羅の政庁にいた小者や雑士女たちの面影を思い浮かべていた。みな気のいい者たちだった。京のしきたりに慣れぬ貞将をよく助けてくれた。ある者は父貞顕と二代にわたって仕えることができたのを、
――わが誉れにござりまする。
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彼等は今、どうしているのだろうか。つい先程もたらされた報せによれば、探題北条仲時は郎党らを引き連れて京を離れ、近江へ向かったという。近江には佐々木道誉がいる。かつて高時からひとかたならぬ引き立てを受け、高時の出家に際しては、みずから追従して剃髪した佐々木道誉――行き場を失った六波羅勢にとっては最後の頼みの綱ともいうべき彼はしかし、裏で密かに足利高氏と通じているとの噂がしきりだった。つい先日まで幕府方に与して働き、北畠具行の処刑を執行した道誉であったが、皮肉なことに、旧知の友であった具行の見事な死にざまを目の当たりにしたことが、彼の心を幕府から引き離してしまったと、当の道誉自身が公言しているらしい。となれば、仲時らの運命はもはや風前の灯というべきであった。
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――あの佐々木道誉ならば、話は通じるはずだ。既に居場所を失い、逃れることしかできなくなった者たちを、あえて嬲り殺しにはするまい。
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痛ましげな眼差しが向けられる。
「新田とて足利と同じ源氏。後れを取るわけにはいかなかったのであろう」
守時はそう言って、貞将の肩をポンと叩いた。
「とにかく着替えてまいられよ。これから戦評定だ」
「わかり申した」
胸に騒めくさまざまな感情を押し殺して、貞将は踵を返した。
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駈け込んできた貞将の姿を見止めて、
「おお、待ち侘びたぞ、早う、早う」
高時が慌ただしく手招きをする。
「聞いたであろう、謀叛じゃ。足利と新田めが、相通じて謀叛を起こしおったのじゃ」
「報せによれば――」
傍らからしわがれた声が割り込んでくる。長崎円喜だ。
「京は既に足利方の手に落ちたよしにござりまする。六波羅を脱出した仲時さまたちは近江まで逃げおおせたものの、そこで足利方に与した佐々木道誉に行く手を阻まれ、ことごとく自害して果てられたとか。もはや我等には、この鎌倉を守ることしか残されておりませぬ」
衝撃的な事実が、淡々と述べられる。
佐々木道誉が敵方に付いた――どこか予期していたこととはいえ、いざ現実になってみると、やはり口惜しさが込み上げてくる。
道誉の時勢を見る目はたしかだ。その道誉に見放されたということは、鎌倉幕府に先はないということであろう。認めたくはないが、それを突き付けられたような気がした。
「薄汚き裏切者どもめ。かかる仕儀を招いた元凶はなんぞ!」
長崎高資が癇癪を起こしたように喚き散らしている。
その様子を見る周囲の目は、冷ややかだ。
――元凶は、おまえであろう。
みなの顔が、そう言っている。しかし、高資はそれに気付いていないのか、ひとりの男のほうを睨みつけていた。
高資の視線の先には、赤橋守時がいた。
守時は何も言わず、ただ俯いたままである。その様子が、なんとも痛々しかった。そんな気まずさを打ち消すかのように、
「各々方、こちらをご覧くだされ」
床に広げられた鎌倉近郊の絵図面を指差しながら熱弁を振るうのは、大仏貞直だった。
「新田義貞は京で叛旗を翻した足利高氏と呼応し、五月八日に上野で挙兵。最初は百五十騎ほどの取るに足らぬ軍勢でござったが、近隣の武士たちを瞬く間に従わせ、五万とも六万ともいわれる大軍に膨れ上がったとの報せが届いておりまする」
「なに、六万だと」
高資が素っ頓狂な声を上げた。
「誇張に決まっておろう。新田ごとき貧乏御家人に、そのような大軍を集められるはずがない」
「いや」
すぐに高時の声が飛んだ。
「新田だけならばそうかもしれぬが、その背後には足利がおる。源氏所縁の武士たちがこぞって靡いておるとしても不思議はあるまい」
落ち着き払ったその声音は、かつて政権の頂点にありながらまつりごとのいっさいを放棄し、幕府衰退のきっかけを作った「暗愚な執権」と同じ人物とはとうてい思えなかった。
「源氏の棟梁たる足利が起ち、六波羅を滅ぼした。その事実が武士たちを突き動かしているのだ。六万はたしかに言いすぎかもしれぬが、そうとうな大軍であることはたしかだろう」
その場にいたみなが驚きのあまり言葉を失うほどに、高時の見立ては明晰で、説得力があった。これが田楽舞や闘犬にうつつを抜かしていた、あの高時なのかと、誰もがわが目と耳を疑った。
傍らでは、守時がまだ俯いたまま唇を噛み締めている。
彼にしてみれば、現職の執権でありながら、その妹婿たる足利高氏が謀叛の引き金となり、それを受けた新田義貞の軍勢によって、今まさに鎌倉の血が蹂躙されようとしているのだ。その心痛は図りがたく、周囲の同情の眼差しすら鋭い刃のように感じられることだろう。
――赤橋殿にとっては、この評定の場はまさに針の筵であろうな。
剛毅で実直ながら繊細な一面も持ち合わせている守時の心中を慮ると、貞将はいたたまれぬ思いがした。
「新田軍は怒涛の如き勢いで、この鎌倉へ向かっている。我等はいかになすべきか」
「申すまでもなきこと。ただちに武蔵へ兵を進め、迎え撃ちましょう」
威勢よく声を上げたのは、長崎高重。高資の嫡男である。
未だ二十歳にも届かぬ若者ながら、父に似ず気風の爽やかな青年で、周囲の受けもいい。
「それがしに兵をお与えくださりませ。累代の御恩を忘れ、謀叛人に与せし不埒者どもを成敗して御覧に入れまする」
気負った感じも若者らしく好もしい。
「よくぞ申した」
高時の大音声が評定の場に響き渡る。
「それでこそ内管領長崎家の惣領を継ぐ者ぞ。その心意気やよし」
称える声も凛然として、威厳に満ちている。この場の片隅で、特に話に加わるでもなく端座していた長崎円喜はこの瞬間、自身がまだ駆け出しの頃に仕えた北条貞時の英姿を思い出していた。
貞時は高時の父で、元寇に対処した名執権時宗の嫡男である。三十代半ばの若さで早世した時宗の後を継いで九代執権の座に着いた貞時は、はじめは有力御家人の安達泰盛を右腕として幕政の舵を取ったが、やがてその泰盛が力を持ち過ぎたと見るや方針を一転。本来は北条家の家政を取り仕切ることが役目であった内管領の平頼綱を重用して泰盛を牽制し、最終的には泰盛を挙兵に追い込んで、これを抹殺した。さらに今度はその頼綱が発言力を強めると、これを挑発して謀叛を起こさせ、討滅した。
容赦ないやりかたで邪魔者を葬り去った貞時はみずからの専制体制を強化した。苛烈な性格ながら、それを裏打ちするだけの能力を備えていた貞時の存命中は、幕府の基盤は強固なものとなったかに思われたが、やはり専制体制というものは個人の資質に拠るところがあまりにも大きい。ほどなく貞時が死ぬと、既にそれまでの合議による協調体制が崩れていた幕府は立て直しがきかなくなった。
そういう意味では、貞時のしたことは結果として幕府の命脈を縮めてしまったとも言えそうだが、少なくとも貞時自身が優れた資質と指導力を持った稀有な執権であったことはたしかである。円喜は若いながらにそんな主君を畏敬し、高時にも同じように成長してほしいと願っていた。
長年にわたって叶えられず、自身が専横の悪名をあえて被るきっかけともなったその願いが、今ここへきて叶えられようとしている――。
なんたる皮肉かと、円喜は湧き上がる苦い思いに我知らず顔をしかめた。
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