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1 田楽舞
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田楽舞
ぴい、ひゃらり。
笛の音が軽妙に弾む。
とん、とん。
調子を合わせる鼓の音も軽やかだ。
風流笠を頭に乗せた男女が、体をくねらせながら舞う。
優美でいて、そこはかとなく洒脱。
その中に仄かな色気を漂わせているのは、彼等が熟練の踊り子たちだからだろう。
老若男女、総勢十人余。
それぞれの動きは必ずしも合っておらず、むしろバラバラといってよかったが、かえってそのことが興趣を生み出している。
ところは鎌倉幕府執権、北条相模守高時の館。
武家政権の事実上の頂点に君臨しながら、政治向きのことにはまるで興味を示さず、田楽舞や闘犬見物にうつつを抜かしている高時は、
――稀代の暗君
という印象を世のあらゆる人々に与えていた。しかし、当の本人はそのような風評など意にも介さぬふうで、評判のよい田楽一座が鎌倉に来ていると聞きつけるや、ただちに御家人たちを集め、こうして一席をもうけるのがつねであった。
御家人たちの中には田楽舞などまったく好まぬ武骨者も少なくなかったが、何しろ将軍をも凌駕する権勢を持つ高時の呼び掛けとなれば応じぬわけにもいかず、
――これもお勤めのひとつよ。
と、割り切って席に加わり、美味くもない酒を呑んでいるのだった。
そんな彼等を尻目に、主賓として上座に鎮座する高時の頬は緩みっぱなしである。
「よいぞ、よいぞ」
とりわけ目の前を若い女の踊り子が通り過ぎる時、彼は政権の頂点に君臨する権力者とは思えぬほどに間の抜けた声で囃し立てる。
高時の声に応じて、女が微笑んだ。
「おおっ」
瞬間、高時のみならず周囲にいた取り巻き連中も感嘆の声を洩らす。
それほどに女の笑顔は可憐で美しかった。おそらくかなり年若で、少女といったほうがよいぐらいだろうが、その表情や仕種はどこか大人びていて、艶麗な雰囲気さえ感じさせた。
「うほーっ」
高時が奇矯な叫び声を上げる。
「そもじ、愛いぞ、愛い」
こうなると、もう恥も外聞もなかった。完全に興奮しきって我を失っている。
女は微笑みを浮かべたまま、くるりと踵を返して、ふたたび踊り出す。
「うむ、うむ」
しきりに頷く高時を、取り巻きたちが酒と追従笑いでもてなす。
既に場は乱れきっていた。
酔い潰れて寝転ぶ者、給仕の女官を抱きすくめようとする者、何やら口論の末に取っ組み合いの喧嘩を始める者……。
混沌と化した観客たちの醜態を物ともせずに、踊り子たちは舞いつづける。まるで、そうすることが自分たちの矜持だといわんばかりに――。
そんな中、ひとりの若者が座の端に腰を下ろして、先程から浮かぬ顔で壁のほうを見詰めている。
「どうした、貞将」
不意に高時が声を掛けた。
「浮かぬ顔をしておるな。もそっと楽しめ」
薄い唇の端から酒の雫が滴り落ちる。
――下卑た表情だ。
口には出さぬものの、唾棄したいような衝動に駆られながら、若者は無言のまま小さく会釈を返した。
「太守さま、金澤さまは田楽舞がお好きではないご様子」
取り巻きの美少年が、小馬鹿にしたような口調で言う。たしか、どこぞの有力御家人の倅だったと思うが、名は忘れた。衆道も嗜む高時の寵愛を受けていると、噂には聞いている。それを鼻にかけてのことか、とかく傲岸無礼な物言いが目立ち、評判はすこぶるよくない。
「ほう」
「見れば、酒もあまり進んでおられませぬ。はて、金澤さまは下戸でおわしたかな」
今度は傍らにいる僧形の中年男だ。こちらも名は忘れたが、何やら怪しげな説法を売り込みにきたところを高時に気に入られ、そのまま側近くに置かれるようになったという、得体の知れぬ坊主である。一時期、高時の母が病に伏していたことがあったが、その時にもっともらしい薬を処方して差し出したところ、母の病が快癒し、それ以来、高時のゆるぎない信頼を得ることになったというが、はたして彼の薬が効いたゆえかどうかは疑わしい、というのがもっぱらの風聞であった。
「なんと、酒も嗜まず、田楽舞も楽しまず、おもしろみのない男よのう。貞将よ、そなたはいったい何を楽しみにこの現し世を生きておるのじゃ」
揶揄するような高時の言葉に合わせて、
「まこと、まこと」
「お堅い、お堅い」
ふたりは哄笑してみせる。
耳障りな笑い声から逃げるようにして、その若者――金澤貞将はまた壁のほうを向いた。
貞将が高時の館を出たのは、亥の刻(午後十時)過ぎのことである。
鎌倉の街は、既に漆黒の闇に包まれている。
人の話し声はおろか、虫の鳴き声すら聞こえない。
身の引き締まるような静寂の中を、冷涼な風が吹き抜けていく。
貞将は、その風を肺腑の奥底まで吸い込もうとするかのように、大きくひとつ深呼吸をした。
そうすることで、おのれに染み付いた不愉快なものを洗い流そうとしている。
二度、三度と同じことを繰り返しているうちに、強張っていた表情が少しずつ緩んでいくのが、自分でもよくわかった。
――つくづく俺はああいう場には向いておらぬ。
脳裏に高時とその取り巻きたちの嘲笑が蘇る。
おもしろみのない男だと、彼等は貞将を嗤った。
たしかに自分でも生真面目な性格だと思う。だが、
――あの場で行われているのは、おもしろくもなんともない、ただの乱痴気騒ぎではないか。
思い返すだに胸糞が悪くなる。あのような愚劣な振舞いに同調するほどおのれは低等ではないと自負している。連中のなかには時の権力者たる高時に媚びへつらうためにおのれを偽り、上っ面の笑顔を浮かべている者とているだろう。彼等に言わせれば、それが「賢い世渡り」というものなのかもしれない。だが、
――俺は真っ平御免だ。
今の鎌倉幕府を事実上、牛耳っているのは北条家の中でも、
――得宗家
と呼ばれる一族だ。名執権の誉れ高かった二代義時、三代泰時の流れを汲む、いわば直系の家柄で、その後も五代時頼、八代時宗、九代貞時など優れた人物を多く輩出し、鎌倉武家政権の礎を支えてきた。
同じ北条一門といっても、この得宗家以外の血筋は、いってみれば傍系である。その権勢、幕政への影響力は、得宗家とは比べ物にならぬほどに低い。時に執権職を手にすることがあっても、それは得宗家の当主が幼い場合のつなぎに過ぎず、その存在感はきわめて稀薄であった。
そういう意味では、幕府内での地位はむしろ得宗家の直臣筆頭格である内管領あたりのほうがよほど高かったといえるだろう。現に今、若年で経験の浅い高時を支えている内管領長崎円喜の権力は凄まじいものであり、ほとんど事実上の執権といってよかった。
高時と取り巻きたちが無遠慮な言葉を貞将に投げかけ、囃し立てているさまを横目に眺める円喜の表情は、どこか苦々し気であった。老練な政治家である円喜には、この乱痴気騒ぎの愚劣さがよくわかっているのだろう。それでもあえて咎めようとしないのは、主君として高時を立てているわけではなく、むしろ、
――執権など飾り物でよい。田楽舞や闘犬にうつつを抜かしていてくれるほうが、儂が意のままに幕政を動かしていけるぶん、かえって好都合というものじゃ。
そう思っているからだろう。長崎円喜という男は、それだけしたたかな野心家であった。
――このままでは、幕府は奸臣どもの思うままとなってしまう。しかし、高時殿にはそのことがわかっておらぬ。
同じ北条一門として、貞将にはそのことが歯痒かった。
殊更に家柄や血筋を誇るつもりはない。むしろ、そうしたものにとらわれず優れた人材を登用していくことこそ、まつりごとにおいては肝要なのだと理解している。だが、
――それでもやはり鎌倉幕府は我等、北条家が引っ張っていかねばならぬ。
それが北条という家に生まれた者が等しく持つべき矜持なのだと、貞将は思っている。
鎌倉に幕府を開いた源頼朝――その創業を支えたのは岳父の北条時政であり、その子義時、そして頼朝の御台所となった政子である。
頼朝の死後、頼家・実朝と相次いでふたりの息子が悲運に斃れ、源氏将軍の血筋は絶えた。これを好機とばかり朝廷の復権を目指した後鳥羽上皇の蜂起――世にいう承久の乱を乗り越えたのも政子であり、義時であり、そして義時の子泰時であった。泰時は「御成敗式目」を制定して武家政治の道理を明らかにし、幕府の礎を築いた。以後、藤原摂関家や宮家から招かれた将軍を補弼し、政権の安定を維持しつづけたのは、紛れもなく北条一門なのだった。
むろん、その道は平坦なものではなかった。時には政敵となった有力御家人と血みどろの抗争を繰り広げ、あまつさえ蒙古という強大な外国勢力に国家の存立を脅かされさえした。それらの荒波を乗り越えてきたのもまた、歴代の執権たちの果断と英慮の賜物であった。
二度にわたる蒙古の襲来を撃破して以来、国内外を動揺させるような大乱は起きていない。しかしながら、北条得宗家が強大さを増していく裏側では、いっそう激烈化した内紛や地方武士の叛乱が後を絶たず、近頃では旧来の荘園領主らに敢然と立ち向かい、その所領を掠め取る「悪党」と呼ばれる猛き者たちが跳梁する有様である。
決して世は平らかではない。
だが、この鎌倉の地に身を置いているかぎり、それらはすべてはるか異国の出来事のような現実味のなさを帯びていた。執権高時をはじめとする幕府首脳は日夜酒宴に明け暮れ、田楽舞や闘犬の喧騒の中に没入している。
爛熟が生み出す頽廃。
貞将には、その空気が疎ましくてならない。
地方で小競り合いが起きているうちは、まだよかった。
だが――。
今、幕府が直面している危機は、これまでとは明らかに事情が違う。
主上の謀叛なのだ。
当今のみかどが、幕府に敢然と戦いを挑んできたのである。承久の乱以来、久しく起きていなかった幕府と朝廷の真っ向からの対立――天下の安寧を根底から揺るがす一大事が起きようとしているのだ。
にもかかわらず、田楽舞に興じ、怠惰な美酒に酔う執権高時。
――おもしろみのない奴
と、おのれを揶揄した取り巻きの軽薄才子ども。
――愚劣きわまる。
思い出すだに腸の煮え繰り返る心持ちがした。
夜風が冷ややかさを増していく。
秋の深まりをしみじみと感じている貞将の耳に突然、女の悲鳴が届いた。
振り返ると、暗闇の向こうからひとりの女がこちらへ向かって駆けてくる。
ずいぶん若いようだ。しかとは見えぬが、未だ十五、六といったところではないか。
――何事ならん、かような夜更けに。
訝しんでいると、女は貞将の袖口をしかと掴んで、
「お助けを」
小さく叫んだ。
「いかがした」
顔を上げると、四、五人の武士が走ってくる。
どうやら、この女を追ってきたものらしい。
「卒爾ながら」
先頭に立つ年嵩の男が語り掛ける。
「その女性をお引き渡し願いたい」
丁寧な口振りだが、吐く息はひどく酒臭い。
貞将はしばしその男の様子を眺めてから、
「わけを申せ」
と、鋭く言った。
「昨今、世情も騒がしくなっている。かようにうら若き女性を、理由もわからずむくつけき男の手に渡すのは躊躇われる」
「余計なことを申されるな」
男の声が棘を含む。
「我等は太守さまの近臣ぞ。大人しくその女性をこちらへ渡されよ」
太守とは、執権高時の呼称である。
瞬間、貞将の中で何かが、ぷつりと切れた。
「断る」
「なに」
「大の男が寄ってたかって、か弱き女性ひとりを追い回すとは、鎌倉武士の名を汚す振舞いであろう。恥を知るがいい」
「金澤殿、そのお言葉は太守さまに向かって吐かれたものと受け取ってよろしいな」
対手の男が居丈高に言い放つ。
「いかようにも」
貞将は、口辺にかすかな笑みを浮かべた。
「この金澤貞将、逃げも隠れもいたさぬ。文句があるならおんみずから堂々とおいであるべしとお伝え願おう。もっとも、その度胸がないゆえ、こうしてそこもとらを遣わしたのであろうがな」
「貴様、太守さまを愚弄いたすかッ!」
一団の中から、少年の匂いを残した男が飛び掛かってきた。
勢いよく振り下ろされた拳を、軽々といなしてみせる。
「うおっ」
蹈鞴を踏んでよろめく男。
「おのれ」
激昂して、腰の刀を抜き放つ。
「よせ」
年嵩の男が、些か慌てた調子で止めに入る。
「やめておけ、さすがに相手が悪い」
「どけっ」
少年はそれを払い除けて、貞将を挑発するように切っ先を向けてきた。
「抜け。太守さまに成り代わって、この俺が成敗してやる」
暗闇ゆえしかとは見えぬが、ほっそりとした体躯に整った面差し――おそらくこれも高時の寵童のひとりだろう。
「抜けッ!」
甲高い声が、未熟な精神を露わにしている。
「やむをえぬ」
貞将は苦笑しながら、ゆっくりと刀を抜いた。
「まいれ」
「おおッ!」
闇夜に少年の叫び声が響いた。
次の瞬間――。
少年はおのれの腕を押さえながら、地に這って悶絶していた。
手にしていた刀は、二間(約三、六メートル)ほども弾き飛ばされている。
何が起きたかわからない。
そんな顔をしている年嵩の男の後ろから、
「よくも」
やや小太りの男が貞将に襲い掛かった。
貞将の眼が鋭く光る。
そして、一閃――。
「ぐおっ」
くぐもった呻き声が洩れた。
小太りの男が膝から崩れ落ち、ゆっくりと倒れ伏す。
「き、斬ったのか……」
「安心しろ。斬ってはいない」
声を震わせる年嵩の男に、貞将は凄絶な笑みを浮かべてみせた。
「失神しているだけだ。そいつも一緒に館へ連れ帰って手当てしてやれ」
「あ、ああ」
苦悶してのたうち回っている少年と小太りの男を抱えるようにして、刺客たちはそそくさとその場から逃げ去っていった。
ふーっと大きく息を吐いて、貞将は刀をおさめる。
「ありがとうございます」
路傍に身を潜めていた女が、近付いてきた。
「申し訳ありません。このようなことに巻き込んでしまって」
深々と頭を下げる。
「大したことではない。それより、いったいどういうわけで、あの者たちに追われていたのだ」
「それは……」
女が口籠る。可憐な面上にさっと憂色が浮かんだ。
「ああ、かまわぬ。無理に聞く必要はない」
貞将は慌てて手を振った。
「家はどこだ。夜道は危ないゆえ、私が送ってまいろう」
「とんでもありません。助けていただいた上に、そのような面倒までおかけするわけには――」
「気にすることはない。どうせ私も酔い醒ましに少し歩きたいと思っていたところだ」
「いいえ、本当に大丈夫なのです。どうぞ、お気になさらず」
「……そうか」
貞将は頷いてみせた。少女が示した意外な頑なさに、これ以上、無理押しするべきではないと判断したのだ。
「鎌倉は決して物騒な街ではないが、時折ああした馬鹿者たちが現れる。気をつけて行かれよ」
「ありがとうございます」
女はくるりと踵を返し、小走りに駆け出していった。
なんとも心地よい花のような香りを残して――。
――それにしても。
しばらくぼんやりとしていた貞将が我に返り、ふーっと深く息を吐いたのは、女の後姿が闇に消えて見えなくなった後のことだった。
――美しい女子であったな。
溜息が、夜の静寂に溶けた。
ぴい、ひゃらり。
笛の音が軽妙に弾む。
とん、とん。
調子を合わせる鼓の音も軽やかだ。
風流笠を頭に乗せた男女が、体をくねらせながら舞う。
優美でいて、そこはかとなく洒脱。
その中に仄かな色気を漂わせているのは、彼等が熟練の踊り子たちだからだろう。
老若男女、総勢十人余。
それぞれの動きは必ずしも合っておらず、むしろバラバラといってよかったが、かえってそのことが興趣を生み出している。
ところは鎌倉幕府執権、北条相模守高時の館。
武家政権の事実上の頂点に君臨しながら、政治向きのことにはまるで興味を示さず、田楽舞や闘犬見物にうつつを抜かしている高時は、
――稀代の暗君
という印象を世のあらゆる人々に与えていた。しかし、当の本人はそのような風評など意にも介さぬふうで、評判のよい田楽一座が鎌倉に来ていると聞きつけるや、ただちに御家人たちを集め、こうして一席をもうけるのがつねであった。
御家人たちの中には田楽舞などまったく好まぬ武骨者も少なくなかったが、何しろ将軍をも凌駕する権勢を持つ高時の呼び掛けとなれば応じぬわけにもいかず、
――これもお勤めのひとつよ。
と、割り切って席に加わり、美味くもない酒を呑んでいるのだった。
そんな彼等を尻目に、主賓として上座に鎮座する高時の頬は緩みっぱなしである。
「よいぞ、よいぞ」
とりわけ目の前を若い女の踊り子が通り過ぎる時、彼は政権の頂点に君臨する権力者とは思えぬほどに間の抜けた声で囃し立てる。
高時の声に応じて、女が微笑んだ。
「おおっ」
瞬間、高時のみならず周囲にいた取り巻き連中も感嘆の声を洩らす。
それほどに女の笑顔は可憐で美しかった。おそらくかなり年若で、少女といったほうがよいぐらいだろうが、その表情や仕種はどこか大人びていて、艶麗な雰囲気さえ感じさせた。
「うほーっ」
高時が奇矯な叫び声を上げる。
「そもじ、愛いぞ、愛い」
こうなると、もう恥も外聞もなかった。完全に興奮しきって我を失っている。
女は微笑みを浮かべたまま、くるりと踵を返して、ふたたび踊り出す。
「うむ、うむ」
しきりに頷く高時を、取り巻きたちが酒と追従笑いでもてなす。
既に場は乱れきっていた。
酔い潰れて寝転ぶ者、給仕の女官を抱きすくめようとする者、何やら口論の末に取っ組み合いの喧嘩を始める者……。
混沌と化した観客たちの醜態を物ともせずに、踊り子たちは舞いつづける。まるで、そうすることが自分たちの矜持だといわんばかりに――。
そんな中、ひとりの若者が座の端に腰を下ろして、先程から浮かぬ顔で壁のほうを見詰めている。
「どうした、貞将」
不意に高時が声を掛けた。
「浮かぬ顔をしておるな。もそっと楽しめ」
薄い唇の端から酒の雫が滴り落ちる。
――下卑た表情だ。
口には出さぬものの、唾棄したいような衝動に駆られながら、若者は無言のまま小さく会釈を返した。
「太守さま、金澤さまは田楽舞がお好きではないご様子」
取り巻きの美少年が、小馬鹿にしたような口調で言う。たしか、どこぞの有力御家人の倅だったと思うが、名は忘れた。衆道も嗜む高時の寵愛を受けていると、噂には聞いている。それを鼻にかけてのことか、とかく傲岸無礼な物言いが目立ち、評判はすこぶるよくない。
「ほう」
「見れば、酒もあまり進んでおられませぬ。はて、金澤さまは下戸でおわしたかな」
今度は傍らにいる僧形の中年男だ。こちらも名は忘れたが、何やら怪しげな説法を売り込みにきたところを高時に気に入られ、そのまま側近くに置かれるようになったという、得体の知れぬ坊主である。一時期、高時の母が病に伏していたことがあったが、その時にもっともらしい薬を処方して差し出したところ、母の病が快癒し、それ以来、高時のゆるぎない信頼を得ることになったというが、はたして彼の薬が効いたゆえかどうかは疑わしい、というのがもっぱらの風聞であった。
「なんと、酒も嗜まず、田楽舞も楽しまず、おもしろみのない男よのう。貞将よ、そなたはいったい何を楽しみにこの現し世を生きておるのじゃ」
揶揄するような高時の言葉に合わせて、
「まこと、まこと」
「お堅い、お堅い」
ふたりは哄笑してみせる。
耳障りな笑い声から逃げるようにして、その若者――金澤貞将はまた壁のほうを向いた。
貞将が高時の館を出たのは、亥の刻(午後十時)過ぎのことである。
鎌倉の街は、既に漆黒の闇に包まれている。
人の話し声はおろか、虫の鳴き声すら聞こえない。
身の引き締まるような静寂の中を、冷涼な風が吹き抜けていく。
貞将は、その風を肺腑の奥底まで吸い込もうとするかのように、大きくひとつ深呼吸をした。
そうすることで、おのれに染み付いた不愉快なものを洗い流そうとしている。
二度、三度と同じことを繰り返しているうちに、強張っていた表情が少しずつ緩んでいくのが、自分でもよくわかった。
――つくづく俺はああいう場には向いておらぬ。
脳裏に高時とその取り巻きたちの嘲笑が蘇る。
おもしろみのない男だと、彼等は貞将を嗤った。
たしかに自分でも生真面目な性格だと思う。だが、
――あの場で行われているのは、おもしろくもなんともない、ただの乱痴気騒ぎではないか。
思い返すだに胸糞が悪くなる。あのような愚劣な振舞いに同調するほどおのれは低等ではないと自負している。連中のなかには時の権力者たる高時に媚びへつらうためにおのれを偽り、上っ面の笑顔を浮かべている者とているだろう。彼等に言わせれば、それが「賢い世渡り」というものなのかもしれない。だが、
――俺は真っ平御免だ。
今の鎌倉幕府を事実上、牛耳っているのは北条家の中でも、
――得宗家
と呼ばれる一族だ。名執権の誉れ高かった二代義時、三代泰時の流れを汲む、いわば直系の家柄で、その後も五代時頼、八代時宗、九代貞時など優れた人物を多く輩出し、鎌倉武家政権の礎を支えてきた。
同じ北条一門といっても、この得宗家以外の血筋は、いってみれば傍系である。その権勢、幕政への影響力は、得宗家とは比べ物にならぬほどに低い。時に執権職を手にすることがあっても、それは得宗家の当主が幼い場合のつなぎに過ぎず、その存在感はきわめて稀薄であった。
そういう意味では、幕府内での地位はむしろ得宗家の直臣筆頭格である内管領あたりのほうがよほど高かったといえるだろう。現に今、若年で経験の浅い高時を支えている内管領長崎円喜の権力は凄まじいものであり、ほとんど事実上の執権といってよかった。
高時と取り巻きたちが無遠慮な言葉を貞将に投げかけ、囃し立てているさまを横目に眺める円喜の表情は、どこか苦々し気であった。老練な政治家である円喜には、この乱痴気騒ぎの愚劣さがよくわかっているのだろう。それでもあえて咎めようとしないのは、主君として高時を立てているわけではなく、むしろ、
――執権など飾り物でよい。田楽舞や闘犬にうつつを抜かしていてくれるほうが、儂が意のままに幕政を動かしていけるぶん、かえって好都合というものじゃ。
そう思っているからだろう。長崎円喜という男は、それだけしたたかな野心家であった。
――このままでは、幕府は奸臣どもの思うままとなってしまう。しかし、高時殿にはそのことがわかっておらぬ。
同じ北条一門として、貞将にはそのことが歯痒かった。
殊更に家柄や血筋を誇るつもりはない。むしろ、そうしたものにとらわれず優れた人材を登用していくことこそ、まつりごとにおいては肝要なのだと理解している。だが、
――それでもやはり鎌倉幕府は我等、北条家が引っ張っていかねばならぬ。
それが北条という家に生まれた者が等しく持つべき矜持なのだと、貞将は思っている。
鎌倉に幕府を開いた源頼朝――その創業を支えたのは岳父の北条時政であり、その子義時、そして頼朝の御台所となった政子である。
頼朝の死後、頼家・実朝と相次いでふたりの息子が悲運に斃れ、源氏将軍の血筋は絶えた。これを好機とばかり朝廷の復権を目指した後鳥羽上皇の蜂起――世にいう承久の乱を乗り越えたのも政子であり、義時であり、そして義時の子泰時であった。泰時は「御成敗式目」を制定して武家政治の道理を明らかにし、幕府の礎を築いた。以後、藤原摂関家や宮家から招かれた将軍を補弼し、政権の安定を維持しつづけたのは、紛れもなく北条一門なのだった。
むろん、その道は平坦なものではなかった。時には政敵となった有力御家人と血みどろの抗争を繰り広げ、あまつさえ蒙古という強大な外国勢力に国家の存立を脅かされさえした。それらの荒波を乗り越えてきたのもまた、歴代の執権たちの果断と英慮の賜物であった。
二度にわたる蒙古の襲来を撃破して以来、国内外を動揺させるような大乱は起きていない。しかしながら、北条得宗家が強大さを増していく裏側では、いっそう激烈化した内紛や地方武士の叛乱が後を絶たず、近頃では旧来の荘園領主らに敢然と立ち向かい、その所領を掠め取る「悪党」と呼ばれる猛き者たちが跳梁する有様である。
決して世は平らかではない。
だが、この鎌倉の地に身を置いているかぎり、それらはすべてはるか異国の出来事のような現実味のなさを帯びていた。執権高時をはじめとする幕府首脳は日夜酒宴に明け暮れ、田楽舞や闘犬の喧騒の中に没入している。
爛熟が生み出す頽廃。
貞将には、その空気が疎ましくてならない。
地方で小競り合いが起きているうちは、まだよかった。
だが――。
今、幕府が直面している危機は、これまでとは明らかに事情が違う。
主上の謀叛なのだ。
当今のみかどが、幕府に敢然と戦いを挑んできたのである。承久の乱以来、久しく起きていなかった幕府と朝廷の真っ向からの対立――天下の安寧を根底から揺るがす一大事が起きようとしているのだ。
にもかかわらず、田楽舞に興じ、怠惰な美酒に酔う執権高時。
――おもしろみのない奴
と、おのれを揶揄した取り巻きの軽薄才子ども。
――愚劣きわまる。
思い出すだに腸の煮え繰り返る心持ちがした。
夜風が冷ややかさを増していく。
秋の深まりをしみじみと感じている貞将の耳に突然、女の悲鳴が届いた。
振り返ると、暗闇の向こうからひとりの女がこちらへ向かって駆けてくる。
ずいぶん若いようだ。しかとは見えぬが、未だ十五、六といったところではないか。
――何事ならん、かような夜更けに。
訝しんでいると、女は貞将の袖口をしかと掴んで、
「お助けを」
小さく叫んだ。
「いかがした」
顔を上げると、四、五人の武士が走ってくる。
どうやら、この女を追ってきたものらしい。
「卒爾ながら」
先頭に立つ年嵩の男が語り掛ける。
「その女性をお引き渡し願いたい」
丁寧な口振りだが、吐く息はひどく酒臭い。
貞将はしばしその男の様子を眺めてから、
「わけを申せ」
と、鋭く言った。
「昨今、世情も騒がしくなっている。かようにうら若き女性を、理由もわからずむくつけき男の手に渡すのは躊躇われる」
「余計なことを申されるな」
男の声が棘を含む。
「我等は太守さまの近臣ぞ。大人しくその女性をこちらへ渡されよ」
太守とは、執権高時の呼称である。
瞬間、貞将の中で何かが、ぷつりと切れた。
「断る」
「なに」
「大の男が寄ってたかって、か弱き女性ひとりを追い回すとは、鎌倉武士の名を汚す振舞いであろう。恥を知るがいい」
「金澤殿、そのお言葉は太守さまに向かって吐かれたものと受け取ってよろしいな」
対手の男が居丈高に言い放つ。
「いかようにも」
貞将は、口辺にかすかな笑みを浮かべた。
「この金澤貞将、逃げも隠れもいたさぬ。文句があるならおんみずから堂々とおいであるべしとお伝え願おう。もっとも、その度胸がないゆえ、こうしてそこもとらを遣わしたのであろうがな」
「貴様、太守さまを愚弄いたすかッ!」
一団の中から、少年の匂いを残した男が飛び掛かってきた。
勢いよく振り下ろされた拳を、軽々といなしてみせる。
「うおっ」
蹈鞴を踏んでよろめく男。
「おのれ」
激昂して、腰の刀を抜き放つ。
「よせ」
年嵩の男が、些か慌てた調子で止めに入る。
「やめておけ、さすがに相手が悪い」
「どけっ」
少年はそれを払い除けて、貞将を挑発するように切っ先を向けてきた。
「抜け。太守さまに成り代わって、この俺が成敗してやる」
暗闇ゆえしかとは見えぬが、ほっそりとした体躯に整った面差し――おそらくこれも高時の寵童のひとりだろう。
「抜けッ!」
甲高い声が、未熟な精神を露わにしている。
「やむをえぬ」
貞将は苦笑しながら、ゆっくりと刀を抜いた。
「まいれ」
「おおッ!」
闇夜に少年の叫び声が響いた。
次の瞬間――。
少年はおのれの腕を押さえながら、地に這って悶絶していた。
手にしていた刀は、二間(約三、六メートル)ほども弾き飛ばされている。
何が起きたかわからない。
そんな顔をしている年嵩の男の後ろから、
「よくも」
やや小太りの男が貞将に襲い掛かった。
貞将の眼が鋭く光る。
そして、一閃――。
「ぐおっ」
くぐもった呻き声が洩れた。
小太りの男が膝から崩れ落ち、ゆっくりと倒れ伏す。
「き、斬ったのか……」
「安心しろ。斬ってはいない」
声を震わせる年嵩の男に、貞将は凄絶な笑みを浮かべてみせた。
「失神しているだけだ。そいつも一緒に館へ連れ帰って手当てしてやれ」
「あ、ああ」
苦悶してのたうち回っている少年と小太りの男を抱えるようにして、刺客たちはそそくさとその場から逃げ去っていった。
ふーっと大きく息を吐いて、貞将は刀をおさめる。
「ありがとうございます」
路傍に身を潜めていた女が、近付いてきた。
「申し訳ありません。このようなことに巻き込んでしまって」
深々と頭を下げる。
「大したことではない。それより、いったいどういうわけで、あの者たちに追われていたのだ」
「それは……」
女が口籠る。可憐な面上にさっと憂色が浮かんだ。
「ああ、かまわぬ。無理に聞く必要はない」
貞将は慌てて手を振った。
「家はどこだ。夜道は危ないゆえ、私が送ってまいろう」
「とんでもありません。助けていただいた上に、そのような面倒までおかけするわけには――」
「気にすることはない。どうせ私も酔い醒ましに少し歩きたいと思っていたところだ」
「いいえ、本当に大丈夫なのです。どうぞ、お気になさらず」
「……そうか」
貞将は頷いてみせた。少女が示した意外な頑なさに、これ以上、無理押しするべきではないと判断したのだ。
「鎌倉は決して物騒な街ではないが、時折ああした馬鹿者たちが現れる。気をつけて行かれよ」
「ありがとうございます」
女はくるりと踵を返し、小走りに駆け出していった。
なんとも心地よい花のような香りを残して――。
――それにしても。
しばらくぼんやりとしていた貞将が我に返り、ふーっと深く息を吐いたのは、女の後姿が闇に消えて見えなくなった後のことだった。
――美しい女子であったな。
溜息が、夜の静寂に溶けた。
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