風の声 森の唄

古紫汐桜

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忘れ去られた名前は……

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「はぁ……」
美咲は大きな溜め息を吐き、真っ青な青空を見上げた。
 あの後、恭介は廊下に出るとすぐに美咲の手を離し
「巻き込んで悪かった」
とだけ言い残すと、部屋にこもってしまった。
恭介に掴まれた腕に触れて、美咲は二人の会話を思い出していた。
恭介には「妻と子供」が居て、その子供が風太だと話していた。
しかも、恭介の妻が他界していると話していたのを聞いて、風太の母親が空では無い事にも驚いていた。
あの二人には、互いに何かを感じながらも隠している雰囲気が漂っていた。
美咲は大学生活4年間、ずっと恭介を見つめて来たけれど、あんなに感情をあらわにした恭介は初めてだった。
いつだって、冷めた目をしてくうを見ているようだった。
誰もその瞳には映さず、興味も持たない。
無関心の塊だった恭介が、ここで少しずつ素の姿を見せてくれているのが嬉しかった。でも……、そうさせたのは風太と座敷童子。そして空の存在だったのにも、美咲は気付いていた。
(こんな時、空気読めちゃう自分が恨めしいよ……)
洗濯物を干しながら、美咲は空の事を考えた。空の恭介に対する眼差しは、確かに好意を持った視線なのに、何故、あんなにも恭介を拒否するのか分からなかった。
もしかして、恭介の亡くなった奥さんと関係があるのかもしれない……と考えていると
「美咲」
修治が残りの洗濯物を持って現れた。
「あれ? 修治も洗濯物干してくれるの?」
空が洗ってくれたらしい洗濯物が、物干し場に置いてあったのを見つけ、美咲が干して居た所に、修治が偶然、河原で洗濯をしていた空と会って持って来たのだと話していた。
2人で洗濯物を干しながら
「ねぇ……修治。好きな人が死んじゃうのって……どんな気持ちなんだろうね」
ぽつりと呟いた美咲に
「え? まさか……教授が死んじゃうのか?」
と、ショックを受けた顔をしている。
「違うわよ! 万が一の話。暫く会わないうちに、好きな人が死んでいたら……辛いよね」
そう美咲がぽつりと呟いたその時だった。
「ですから!何度も同じ事を言わせないで下さい!」
「それは俺も同じだ! あんたなら、知っているんだろう?頼むから、教えてくれないか?」
洗濯物を抱えた空の腕を掴み、恭介が叫んだ。
「あんたは何を知っていて、何を隠している?」
真剣に見つめられ、空は視線を逸らすと
「知らなくて良い事もあるのです!」
そう答えた。
「それはあんたが決める事じゃなくて、俺が決める事だ!あんたに分かるか?ぽっかり二年間空白の時間がある奴の気持ちが!」
「思い出さない方が良い記憶だと言っているのです!」
「それでも俺は知りたいね! 俺の記憶をどうしたいのかは、他人のあんたじゃなくて俺が決める」
肩を掴まれ、詰め寄られる空の姿から美咲は視線を逸らした。
恭介は、空を責めているのでは無い。
多分、自分の奥さんは空さんじゃないのか?と疑って、それを必死に隠そうとする空さんに怒っているのだ。
「修治……、私……この話を聞きたくない……」
震える美咲に修治が視線を向けた時だった。
「……分かりました。事実をお話するので、もう私に付き纏わないでください」
溜め息混じりに呟いた空の声に、美咲は耳を塞いだ。
「恭介様は5年前、この龍神の里で暮らしていました」
「やっぱり……」
塞いだ耳には、少し遠く聞こえる会話が耳に届いた。
「恭介様はここで、大龍神様の娘であるタツ様と暮らしていらしたのです」
空の言葉に、美咲は思わず塞いでいた手を離した。
(え……?空さんじゃ……無い?)
すると、恭介は頭を抱えて
「……そうだ。俺は、此処で……大龍神の娘のタツと暮らしていたんだ。なんで、俺はあいつの名前を忘れていたんだろう?」
ぼんやりと呟く恭介は、空の顔を見ると
「じゃあ……あんたは一体何者なんだ?」
そう言って、空の顔を見つめた。
「私は……タツ様に仕えていた龍神の一人です。恭介様はタツ様しか目に入っておりませんでしたが、何度かお会いしておりますよ」
小さく微笑む空に、恭介が混乱している顔をしている。
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