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忘却故の悲劇
忘却と残滓
しおりを挟む目を覚ましたニュクスは「多くの事を忘れている」ことを除けば問題なかった。
忘れていることが問題だった。
私の事はおろか、自分の名前も、家族の事も、忘れていた。
忘れている事を除けば、私が「壊れている」時に出会ったニュクスだった。
今、忘れてしまっているニュクスを手放せば、ニュクスは二度と苦しむことはないのではないかと思った。
でも、駄目だった、できない、いやだ、傍にいてくれ。
「……俺は、この……えっと王子、様? 王子様の、何なの?」
リアンに抱きしめられたまま、リアンの妻はそう問いかけた。
私の事は忘れている、それどころか家族の事や、自分の事すら忘れ果てていた。
家族の事も覚えておらず、自分の性別も男か女か分からないと答えた。
追いつめた結果か、それとも生きる辛さに耐えかねての結果か、私には分からぬ。
それでも、忘れていようとも、リアンから引き離すことはできぬ、無理に引き離せばリアンは壊れる。
「……ニュクス、其方は我が子リアンの伴侶であり、同時に世話をする者であった」
「……どゆこと?」
リアンの伴侶の言葉に、私は深い息を吐きながら、説明をしようとすると、後ろに控えていたアルゴスが近づいてきた。
「陛下私が――」
「――お前くんな!!」
アルゴスの顔を見た途端リアンの妻は何処か間の抜けた、何とも言えない表情をしていたのが明らかに敵意と嫌悪をもった顔になったのだ。
「ニュクス、其方アルゴスの事を――」
「わかんねぇ、わかんねぇけどソイツを見てると苛立つ、顔を見ていたくない、声も聞きたくな――」
リアンの妻は突如口を押えた、顔は真っ青になっている。
「……吐きそう」
マイラが慌てて、桶をもってリアンの妻の所に行くと、リアンの伴侶はそれに液体を吐き出した。
アルゴスの事を確認していなかったが故に起きたことだった、これは反省するべきだった。
だが、分かったことがある、リアンの伴侶は、ニュクスは完全には忘却していない。
アルゴスへの態度がそれだ、ニュクスは最初の頃アルゴスにされた事を「覚えている」のが分かった。
そうなるとリアンへの態度が疑問に残る。
リアンを鬱陶しがる様子はない、だがリアンの事は何も覚えていない、リアンに対して思うことはあるかと聞いたら「王子様は何で俺に抱き着くの?」と逆に聞かれた。
リアンへの態度が私達の前だからそうなのか、それともリアンの前でもそうか分からない。
その上、家族の元へ戻すこともできない、引き離せばリアンが何をしでかすか分からないし、精神が一気に不安定になり、最悪私ですら手に負えぬ状態になりかねない。
「――という訳だ、普通に見えるが、我が子リアンは精神を病んでいる、其方がいないとロクに自分のことも出来ぬし、私以外の者とも会話することも困難に近い」
「……はぁ」
リアンの妻は理解できているかできていないのか把握するのが分かりづらい表情を浮かべている。
「……んー……説明されてもなーんも思い出せねぇ。さっきの奴見た時はすっげぇ嫌な感じになって『コイツは大嫌いだ!』って感情が出たんだけど――他のはいまいち……うーん……」
首をかしげている。
「というか、俺自分の名前も覚えてなかったのに、そんな奴に王子様の世話任せて任せていいの? 王様、本気?」
「……リアンが其方を離さないのだ、仕方あるまい」
「そんなもんでいいのかよ……」
呆れたような表情をしている。
リアンの伴侶――ニュクスを見て思った。
ニュクスが愚王から受けた「呪い」がないのが今の状態なのではないかと。
性別は全く覚えていない、自分が両性であることを知らない。
つまり――
ニュクスと関わってきた全てがニュクスを蝕む「呪い」であり、それから逃れる為ニュクスは「忘却」したのではないかと思った。
「……何かあったら、私かマイラを呼ぶといい、部屋の扉を開ける仕草をすれば伝わる」
「ああ、うん」
私はリアンとニュクスを残して部屋を出た。
「陛下、リアン様とニュクス様を二人っきりにしてもよろしいのですか?」
「それがどうなるか確かめるために二人にしたのだ、何かあったらすぐ向かう。マイラ、お前もすぐ対応できるようにしておけ」
「畏まりました」
不安はないわけではない、リアンとニュクスの関係に関しては私がまだ知らぬところもある。
だが、歪であったことだけは分かる、アルゴスの顔を見てあの態度を取ったのだ、リアンも、もしかしたらと思わなくもないが、リアンは甘んじて受け入れるだろう。
自分がしたことだと。
そう決めた我が子を止めることなど私にはできない。
神は何故自分の御子さえもお救いになられないのか――
嘆けども、神は答えてはくださらぬだろう。
父達がいなくなり、ニュクスと二人きりの状態になる。
怖かった。
アルゴスの顔を見てあの反応をしたのだ。
もしかしたら、私の事も――
「王子様?」
ニュクスが私の事を呼ぶ、忘れているのが分かる。
恐る恐る声に反応して、ニュクスを見ると、ニュクスは不思議そうな顔をしていた。
「おい、顔色悪いぞ、大丈夫か? 誰か呼ぶか?」
私は首を振った。
「……本当に俺が世話というか妻……でいいのか王子様。すげぇ顔色悪いし……」
ニュクスの言葉と表情は心配しているものだった。
「……だめ、なんだ、君じゃなきゃ、だめ、なんだ」
言葉を絞り出す。
『あんなことをしたのに?』
「?!」
咎める冷たい君の声が聞こえた、体が震える。
「おい、大丈夫か?」
ニュクスは困惑した表情を浮かべながら私を抱きしめる。
『俺の事「見て」くれなかったくせに?』
咎める声、冷たい君の声に唇が震える、体が震える。
事実だ。
私は君を追いつめた。
君をちゃんと「見よう」としなかった。
結果君は多くの事を忘れた、自分の事もほとんど。
「おい、王子様、大丈夫か?」
ああ、このニュクスは私の事を知らない、名前を呼んではくれない。
うつむき、酷い喪失感と恐怖に苛まれる。
抱えていた「歪」を全て忘れ去った。
ニュクスを苦しめていた「もの」を忘却した。
家族も、この世界の事も、私達の事も、自分の事も。
唯一、アルゴスに反応を示した、嫌悪の反応を。
だから、私は怖くて仕方ない。
ニュクスに拒絶されるのが、怖い。
背中をさすられるのを感じた。
恐る恐る顔を上げると、心配しているらしい表情をニュクスはしていた。
「大丈夫かよ、王子様……」
今まで「生きる事が苦しくて死にたがっていた」のが嘘のような表情。
これが救いなのだろうか、君に――ニュクスにとっての救いなのだろうかとふと思ってしまう。
辛い過去、罪悪感、抱え込んでいたものを忘れた今が、ニュクスにとって幸せなのだろうか。
私へ語った「愛」すらも、君にとっては負担だったのだろうか。
もう開放した方がいいのではないか、という考えは浮かぶ。
でも、できない。
お願いだ、ニュクスから突き放して、私はニュクスを――君を解放できない、手放せない。
傍にいて、お願いだから。
ニュクスに幾度も声をかけられても、言葉がうまく出なくて、頷くか首を振る位しか返せない。
時折聞こえる私を責める君の「声」が心を締め付ける。
私の罪意識からくる幻聴か、それともニュクス――君の本心だったものか、判断することが恐ろしい。
『愛してるよ、リアン、だからさ、ずっとずっと――苦しんでよ』
冷たい、声。
すまない、許さないで、すまない、憎んでくれ。
「おいこら王子様!!」
ニュクスの声に、はっと目を開ける。
「おい、大丈夫か本当? 気を失ってたぞ?」
どうやら、意識が一時的に飛んでいたらしい、ニュクスに抱き着いたまま。
そのせいで、まだ体が本調子ではないニュクスは助けを呼べなかったらしい。
「……何が理由かはわかんないが、そんなに自分を責めるなよ、王子様」
「……」
「俺が記憶喪失なった理由はわかんねぇよ、けどなっちまったなら仕方ない。それを受け入れてやってくしかないんだよ。俺は自分が何者なのかさっぱりわかんねぇし、ニュクスって名前だって言われてもピンとこないけど――」
「王子様――いや、リアンか、なんかアンタの事は気になるんだよ。いやさっきの顔見たなりぶん殴りたくなった上吐き気した奴とは別な。おっかしいなぁ、俺とリアンの関係はまぁその夫婦? なんだろ? ……ん? てことは女か俺? でも胸ねぇしな……まぁそれはともかく」
ニュクスが私の頭を撫でて笑った。
「なんだろう、放置できないし、傍にいなきゃダメだとか、そんな気持ちになるんだよ、どうしてだろうな」
困ったように首を傾げたまま、ニュクスは笑う。
目から、涙が零れた。
ああ、ああ、君は、私の事を、まだ――
想っていて、くれてるんだね。
多くの事を忘れてしまっているのに――
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