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第52話 だれよりもやさしく、どこまでも悲しく

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 ああ、やっちまった。とんでもねえ状況になっちまった。

 目の前の魔族ゲーリィは間違いなくおれより強え。気迫だけでわかる。

 しかもおれは空手だ。そもそも戦えねえ。
 せめて剣さえありゃあ、防御しながらクソを漏らせるものを……

 ちくしょう! どうしておれァこうケンカっ早いんだ!

「ベンデルー!」

「ベンデルさーん!」

 ふと、遠く背後からカレーノとキレジィの声が聞こえた。

「来るな!」

 おれは前を向いたまま叫んだ。
 うしろを振り向けなかった。
 いまわずかでも気を抜けば、その瞬間やられちまう。
 ゲーリィが手を出してこねえのは、おそらくスキルを警戒してのことだ。
 決して目を逸らすことはできねえ。

「なにしてるの! なにが起こってるの!」

「来るなっつってんだろ! 死ぬぞ!」

「死ぬって……あっ! 魔族!」

 カレーノの声が止まった。どうやらゲーリィに気づいたらしい。

 だが、もうひとつの足音はかまわず走り続けた。

「ゲーリィ! あなたなにしてるの!」

「姉さん……」

 ゲーリィの視線がスッとおれからズレた。
 キレジィの登場で隙が生まれた。

 よし、いまだ!

「うおお——」

 とりきもうとした。瞬間、

 ——ゴッ!

 と硬い音を立て、左ほほに衝撃が走った。

「スキルを使おうとしたな!」

 ゲーリィはまばたきにも満たない一瞬で近寄り、拳を振るっていた。

「くそっ!」

「させん!」

 おれは、なおも漏らそうとした。
 だが、おれがケツに集中しようとすれば、すぐに次の拳が飛んできた。

「ぐおっ! ぐ!」

 二発、三発、四発。

 顔を殴られた。腹を打たれた。

 とんでもなく速い打撃だった。
 一撃必殺とまでは言わねえが、そこそこに重い。
 剣ばかりで、殴り合いの経験がねえんだろう。
 動きは素人だし、ただ当ててるだけのガキンチョパンチだ。
 だが、肉体の練度が半端じゃねえ。
 スピードの桁が違う。

 ガードが間に合わねえ。
 痛みで気が散って、肛門に意識がいかねえ。
 このままじゃなぶり殺しだ。

「やめてーー! ゲーリィーー!」

 そうだ、やめてくれ。姉ちゃんもそう言ってるじゃねえか。
 まずは話し合おうぜ。
 酒でも飲みながら、今後のこととか、非暴力のすばらしさを語り合おうじゃねえか。

「来るな姉さん!」

 ゲーリィはおれを殴りながら叫んだ。

「男と男の勝負だ! 来ないでくれ!」

「だめーー! 殺しちゃだめえーー!」

「そうはいかない! おれはこの男を倒さなければならないんだ!」

「だめえーーーー!」

 金切り声を上げながら、キレジィがゲーリィに飛び込み、押さえ込んだ。

 ありがてえ……おかげで打撃が止まった。
 ちくしょう、ボコボコ殴りやがって。
 おかげでうまく力が入らねえ。立ってるのがやっとだ。

「離せ姉さん!」

「お願いやめて! ベンデルさんが死んだらもう魔王は止まらないのよ!」

「これはおれの使命なんだ! 人類を滅ぼすのに必要なことなんだ!」

 おれがフラフラしてる前で、ふたりは揉み合っていた。
 見た感じ、力じゃどうやってもゲーリィが勝ちそうだが、こいつは腕を押さえられたまま押し返さねえ。
 たぶんシスコンだから反撃しねえんだろう。

 そこでなんと、

「バカぁ!」

 キレジィがビンタを放った。

「な、なにを……」

「ママがどんな想いでいたかわからないの!?」

「……!」

「ママはつらかったはずよ! きっと苦しい思いをしてたはずよ! 魔王に手籠てごめにされて、自分の子供たちが人間をたくさん殺して、だから……だから死んじゃったんじゃない!」

 キレジィは叩きつけるように叫び、ボロボロと涙をこぼした。ゲーリィは声を失い、息の潰れるような顔をしていた。

「なにが使命よ! なんであんなヤツの味方なんかするのよ! ママがかわいそうだと思わないの!?」

「言うな!」

「きゃっ!」

 ゲーリィはキレジィの肩を押し出した。
 そして、尻餅をつく姉を、細く潤む目で見下ろし、静かに言った。

「おれだって……この十年、母さんの気持ちをずっと考えてきた。だけど……父さんの苦しみを考えれば、もう、こうするしかないじゃないか……」

 父さんの苦しみ……か。そういや魔王もつらい目にあったんだっけな。
 家族同然の野良犬を殺されそうになって、恨み爆発しちまって、スキルが発動してよお。

「父さんは……魔王様はいまだに復讐に狂っている。だれもあのひとを救うことはできない。なら、母さんがいなくなったいま、おれのやるべきことはひとつだ」

「でもきっとだれも救われないわ! 人間がすべていなくなって、わたしたちだけになって、それでどうなってしまうのよ!」

「それは……」

 ふたりはなにやら深刻な話をしていた。おれにゃあ難しくてよくわかんねえや。

 けど、おかげで時間が稼げた。痛みは引かねえが、クソ漏らす余裕はできた。

 キレジィには悪いが、こいつを生かしておくわけにはいかねえ。
 これほどの強敵を残せば、間違いなく負けにつながる。

 ふたりが会話に夢中になっているうちにスキルを発動しよう。
 うまいことズボンが膨らまねえ程度の少量のクソを漏らし、無敵の力でゲーリィを灰にしてしまおう。

 う~ん……ゆっくり、ゆっくり、ドバッといかないように……

「はっ!」

 ゲーリィがおれに振り向いた。
 やべえ! 力んでるのに気づかれた! 早くちょいグソを……

「させるか!」

 直後、おれの体が宙を舞った。
 目にも止まらぬ高速タックルに吹っ飛ばされ、草の大地に投げ出された。

「うぐっ!」

 おー、痛え。三十メーターは飛んだかな? 飛距離の分、ダメージもしっかり入ってらあ。

「ベンデルさーん!」

 キレジィが駆け寄り、おれの肩を支えた。
 同時に、近くにいたオンジーも傍に寄り、

「大丈夫かベンデル!」

 と顔を覗き込んできた。

「離れてろ……」

 おれは弱々しく言った。
 全身ボロボロで、正直大丈夫じゃなかったが、くしくもチャンスだった。

 おれはいま仰向けで倒れている。
 これならクソを漏らしてもバレやしねえ。
 叫べばきっと音も隠せる。
 距離ができたおかげで、もう止められることもねえ。

 あとはタイミングだ。ヤツがおれを叩きに来た瞬間を狙う。

「スキルを使う……だから離れろ」

 おれは上半身を起こし、小声で言った。
 するとオンジーは「そうか!」とうなずき、離れてくれた。
 しかしキレジィは、

「お願いやめて! あの子はいい子なの! きっと戦わずに済むはずよ! だから!」

 そう言って離れようとしなかった。

「オンジー……キレジィを頼む」

「ああ! 巻き込むわけにはいかない!」

 オンジーはおれからキレジィを引き剥がしてくれた。
 魔族は不死身でも、肉体は人間並だ。
「離して!」と、わめいちゃいるが、勇者の腕力には抵抗しようがねえ。

 さーて、お膳立ては整ったぜ。
 あとはゲーリィ、てめえが近づいてくるのを待つだけだ! 

 ゲーリィはかがみ込み、地面に突き刺した二本の剣を引き抜いた。
 そして、おれの方を向き、ゆっくりと歩きはじめた。

 そうだ! そのままこっちに来い!
 あと二十メーター!
 あと十五メーター!
 そのまま! そのまま! そのま……

 ピタリ、と足が止まった。

 ゲーリィは燃えるような瞳で言った。

「おまえ、スキルを使うつもりだな?」

 ギクリ! と、おれの全身がこわばった。

「絶体絶命なのに、口元が妙に笑って見えた。それに、姉さんを遠ざけた。姉さんがいれば、むしろ盾になっておれが困るだろうに。それでも仲間に引き剥がさせたのは、スキルに巻き込まないためだな。おれがうかうか近寄って、攻撃しようとした瞬間、カウンターを決めるつもりだな」

「うっ……!」

 なんてことだ……この一瞬ですべて見抜きやがった。

「その手には乗らん!」

 ゲーリィは右の大剣を大きくうしろに引き、ギラリと男のまなざしを向けた。

 ——ハッ!

 まずい! いますぐクソを——!

「これで終わりだ!」

 右腕がブンと振られた。
 分厚い大剣が、斜めの回転をともなって、一直線に飛んできた。

 ……だめだ、間に合わねえ。
 地面が肛門に圧をかけて、いつものように漏らせねえ。
 三年間、毎日漏らしてた、立ちクソ漏らしが出きねえ。

 おれは呼吸を忘れた。

 時間がゆっくりに感じた。

 死の訪れに思考を失い、策を見破られたことも、クソを漏らそうという意識も、そしてもう決して間に合わないことも頭から消え去り、ただ呆然とした。

 ——やられた。やられちまった。

 それだけしか浮かばなかった。

 そのとき——

「だめええええーーーーーーッ!」

 黒いマントが舞った。

 視界から剣を隠すように、人影が飛び込んだ。

 それは、姉さんのようなひとだった。

 クロをなだめる姿は、死んだ姉さんを思い起こさせた。

 白いドレスに憧れるところなんか、まんま姉さんといっしょだった。

 やさしくて、あったかくて、実際、弟がいて、だから姉さんみたいなのかなあって思うような、そんなひとだった。

 その細い胴体を、鋼の刃が襲った。

 悲鳴は聞こえなかった。

 音が消えていた。

 おれの視界は極端にゆっくりになり、すべてがモノクロに見えた。

 紙に書いた絵のような景色の中で、キレジィだけがくっきりとしていた。

 その体が、倒れていく。

 ゆっくりと、ゆっくりと、倒れていく。

 ゆっくりと、ゆっくりと、時間をぶつ切りに進めながら、ゆっくりと、力なく、倒れていく。

 真っ白な世界でだたひとり、まるで、体重を失ってしまったかのように、ふわりと、草の大地へ、

 ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと………………

 ——————倒れていく。

「キレジィーーーーーーーーーーッ!」
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