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第十六話 愛は喜怒にて結び、縄解き難し
愛は喜怒にて結び、縄解き難し 三
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「入るぞ」
そう言ってレオは扉を開け、応接間に顔を出した。
応接間——寒い時期や天候の悪い日にレオが客を案内する部屋だ。そこそこ狭く、中央に背の低いテーブル、入り口側に客の座る安物ソファ、奥にはレオとぼくの座る高級ソファが置かれている。左右の壁面やサイドボードには、レオの亡き父の趣味であるアンティークが並び、シックで落ち着いた雰囲気の、客と懇談するのにふさわしい環境だ。
その客用ソファに、ひとりの女が座っていた。見たところ二十歳そこそこ。化粧もせず、服は寝巻きのようなスタイルだ。女が外に出る格好じゃない。
しかしパッと見ただけでこれはと思うほどかわいらしい顔立ちをしており、もしこの子がひとり夜道を歩いていたら暴漢が黙っていないだろうという、そんな華奢な容貌だ。
なんとなく肩を縮ませ、怯えているように見える。おそらくひとを食う”魔の森”の、だれも知らない館に住む”魂売り”に会いに来た恐怖があるのだろう。
しかしレオはそんなことで気を遣うことはない。むしろ威圧するかのような態度で、側面に佇むアルテルフを通り過ぎ、ぼくらは奥のソファに座った。
そしてレオはのけ反るようにして背もたれに寄りかかり、テーブルの上で脚をクロスさせ、言った。
「わたしが魂売りのレオだ」
すると、女は言った。
「はじめまして。わたしはサイウルスという名で歌劇団に所属していたキャメロといいます」
「む……」
キャメロの自己紹介を聞いた瞬間、レオの眉がほんのり曇った。
「サイウルス……」
「あ、ご存じですか?」
キャメロは少しだけ明るく、しかし不安げに言った。
「わたしは演劇好きでな……」
「あ、それなら聞いたことくらいはあるかもしれませんね」
「……いや、よく知っている。好みではないから追いかけなかったが、アイドル歌劇だろう」
「そうですそうです! あはは、知ってくれてるなんて、うれしいです!」
キャメロはパッと明るく言った。未知の場で会った魔の商人が自分を知っているというだけで安心したのだろう。
だけどぼくは凍りついていた。そしてアルテルフも、おそらくおなじ感情で、ぼくに苦笑いを向けた。
レオは昨夜アイドルのことで大荒れしたばかりだ。まずいい感情は持たないだろう。そう思って顔色を覗くと、はっきりとは見せないが、どこか不機嫌な気配を漂わせていた。
「……それで、そのアイドル風情がなんの用だ」
レオはあからさまに苛立って言った。するとキャメロはハッと空気の重さを感じ、再び縮こまって、
「あ、はい……その……話すと長くなるんですが……ファンに追われてまして……」
「ほう?」
「わたし、もう歌劇はやめて遠くに行くんですが、引っ越すまでいろいろありまして……そのあいだになにかされたり、次の住所を特定されそうで怖くて……」
「それで、どうしてほしいんだ?」
「あの……その……どうすればいいかわからないんですが、解決してほしいんです」
はぁ、とレオは両腕を背もたれに伸ばし、どこでもない方向を向いた。
「客がどうしてほしいかもわからんのに仕事ができるか」
「ご、ごめんなさい……」
「なんだ? 追っかけを皆殺しにすればいいのか?」
「いえ、そんな恐ろしいことではなく、もっと穏便に解決してほしいというか……」
「なら追っかけがストーキングしないようにすればいいのか?」
「えっと、はい! それです! そうしてください! あはは!」
チッ、とレオが舌打ちを聞かせた。あーあ、せっかく機嫌直ったのにまたイラついちゃった。この子、もうちょっとしっかりしてくれないかなぁ。まあ、気質だからしょうがないんだろうけどね。
見たところ根はすごく明るそうだ。すぐ笑うし、あまり物事を深く考えなさそうな感じがする。顔立ちもやわらかくてかわいいし、男受けすること間違いなしだろう。いまもレオがこわい目をしてるのに、目的が伝わったことをよろこんで、ニコニコ微笑んでいる。
「で、なぜ追っかけられてるんだ?」
「結婚するからですね」
「なに!?」
レオの体がガバッと起き上がった。ぼくもアルテルフも思わず「げっ」と声を上げ、体がこわばってしまった。
「えっと……わたしなにか変なこと言いました?」
変なことは言ってない。けど、あまりにもドンピシャ過ぎて目玉が飛び出そうだ!
「いや……最近おまえと似た境遇の事件があってな……少々驚いてしまった」
レオは力を抜くように背もたれに背中を預け直した。さすがはプロの魂売り。ふつうなら荒れてしまいそうなところだが、決して仕事に私情を持ち込まない。
「まあ、とにかく中身を深く知りたい。くわしく話せ」
「は、はい……」
キャメロは小さくうなずくと、ひと呼吸置き、これまでの経緯を話しはじめた。
キャメロが地方都市に来たのは彼女が十三歳のころだった。
元々は田舎で親兄弟と暮らしていたが、些細な問題で村八分となり、一家は村にいられなくなった。
そのとき親の下した決断は、いっそのこと都会に出てみようという冒険じみたものだった。
彼女の家の家業は、この国で最も盛んな職人、裁縫家である。どこに行っても仕事はできるし、腕があれば職にあぶれることはない。
しかし、その腕が足りなかった。
田舎では十二分に活躍できた。しかし、都会となれば職人のレベルが違う。
両親の腕は決して悪いものではない。だが、数にあぶれた都市部では、ただ一流ではろくに商売にならず、一歩抜きん出た趣向や、ほかにない個性を求められた。
息子娘もつたないながらアイデアを出したり、裁縫を覚えようと努力した。
しかしやはり、一流を超える極上とは決してならなかった。
彼女らはやむなく都会を去ることにした。まだ金のあるうちに、という冷静な判断だった。
しかし、父に未練があった。母は再びどこかの田舎へ降ろうと考えたが、父は男特有の挑戦心がくすぶっていた。
そうして選んだのが、レオのよく遊びに行く地方都市だった。
都会ほどの腕は求められない。しかし田舎ほどレベルは低くない。
ここなら戦える。そう思い、父は街じゅうを回って、やっと雇ってくれる店を見つけた。
そこで出会ったのが、キャメロの運命のひとであった。
キャメロは不器用だった。
針を持てばかならず指を刺し、はさみを使えばジグザグに切る。
そんな彼女は裁縫をすることなく、家事手伝いと品物の受け渡しに専念していた。
だが彼女にはそれが合っていた。生まれついての明るさはひと当たりがよく、雇い主や同業からの評判もよかった。
しかし、キャメロ自身は納得していなかった。
家族はみんな金を稼いでいる。ここに来るまでで財産はほとんど失い、その最後の一滴もアパートの小さなひと間を借りるのに使ってしまった。
都市部は物価が高く、金は貯まらない。せめて自分も金を稼げればと思うが、できることなどない。定住して五年になるというのに、いまだ家畜小屋のような暮らしをしている。
そんな苦悩を、ある日雇い主の息子の前で見せてしまった。ふたりは金品のやり取りの中で、半ば恋愛感情のようなものが生まれており、互いの信頼も濃かった。
すると、こう言われた。
「歌劇役者をやってみないかい?」
彼はいつだったか、キャメロの歌声を聞いたことがあった。決して高い歌唱力ではないが、どこか舌足らずでたどたどしく、その容貌と相まって、なんとも男心をくすぐるかわいらしい声だった。
ある種、一流よりも味がある。
それを覚えていた彼は、友人の演劇プロデューサーが、昨今流行りのアイドル歌劇を作ってみたいと言っていたのを思い出し、提案した。
本心としては、うちの妻になってくれと言いたかったが、それ以上に彼女の家族を助けたい想いを応援したかった。
もっとも、プロポーズの勇気がなかったせいかもしれない。ただ、彼が彼女をめとったところで、家族の家計までは救えなかった。
キャメロの答えは即答でイエスだった。
家族を救いたい——というより、なにも助けになれない自分がいやだった。
彼の紹介で、キャメロはアイドルになった。
このとき十八歳。女の魅力が最高潮を示す時期である。
芸名「サイウルス」とし売り出した彼女はかなりの人気を博した。
まだアイドルというものが生まれて間もない時期で、硬派な歌劇ファンからはひどく厭われたが、一部男性ファンからは熱烈な支持を得た。
明るく不器用、そしてがんばり屋な面が受けたのだろう。歌声も狙い通りだったに違いない。
たちまち金が流れ込んだ。
はじめ疑問に思っていた家族も、それを見て大いによろこび、一切の口出しをしなくなった。
サイウルスは両親よりはるかに稼いだ。
ひと前で歌って踊り、ファンとの交流ではあまり好印象ではない男性との握手などもするが、サイウルスは努めて笑顔を見せた。
不器用とばかり思っていたが、どうやら自分は演技ができるらしい。サイウルスになれば、にせものの言葉が出せる。
ただ、こころの底には”彼”がいる。
あの日、家族を救う手助けを求めると同時に、本当は連れ去ってほしいと思ったあのひとがいる。
だから、サイウルスは”もうひとりの自分”だと決めた。
家に帰ればキャメロとして本心のままに生きる。だが一歩家を出ればサイウルスに徹する。
そんな暮らしを続けること、およそ七年。
最近めっきりファンが少なくなった。
仕方のないことだろう。いくら晩婚化が進んだとはいえ、二十歳で未婚は遅いと言われる時代だ。二十五歳の彼女は、一部のファンからは「そろそろだれかもらってやれよ」などと言われる始末である。
当然、実入りも悪くなった。
とはいえ、隆盛だったころに稼いでいたおかげで、家族が広いアパートに引っ越すことはできた。
できれば一軒家を借りたい——そう思って努力をしてきたが、もはやここまでなのは明らかだった。
そこで、キャメロは愛するひとに想いを告げた。
彼はいい年してまだ独身だった。
しかしなぜそうしていたか、キャメロは知っていた。耳に聞いたわけではないが、目を見ればお互いのこころはわかっていた。
その日、生まれてはじめて男女の愛を知った。
痛みよりも、よろこびが勝り、涙を流した。
翌日、サイウルスは劇団と話し、引退を発表した。
関係者や、それまで支えてくれたファンのほとんどが拍手で送ってくれた。
しかし全員ではなかった。
女は婚期を過ぎたからといって美貌を失うわけではない。三十を過ぎれば一層の魅力を持ち、ひとによっては四十を過ぎてもまだ男をとりこにする。
サイウルスの結婚を認めない男が数人いた。
はじめはいたずら程度のことだった。
劇場に抗議文を貼りつけたり、怒鳴り込んだりと、単なる迷惑行為に過ぎなかった。
だが、そのうち彼女の身辺を嗅ぎ回るようになった。
道を歩いていると、だれかがつけているのがわかった。
わざとおなじルートをぐるぐる回ってみたら、特定の男が遠巻きにあとを追ってくるのが見えた。
彼女は恐怖した。
役人に助けを求め、ストーカーを呼び止めるも、男は偶然だと言ってシラを切った。
明確に罪人だと証明できなければ役人も手を出せない。さいわい住み家はバレていないようだが、このままでは恐ろしいことになる気がしてならない。
キャメロは泣いた。
家から一歩も出ず、身を隠した。
そんなある日、夫となった彼から、どこか遠くの街に行こうと提案された。
それならもう、だれかに追われることもない。職を失い、その後どうなるかわからないが、このままではいられない。
そうふたりは納得し、決断した。
ただ、夫が実家ともめた。彼は跡取りオーナーだった。
なかなか話はうまくいかない。おもてへ出られない日々はなおも続く。
そんなある夜、キャメロは不思議な夢を見た。
彼女は明け方、まだ日が昇る前のだれも起きていない時分に、外から猫の鳴き声に呼ばれた。
にゃあ、としか聞こえないのに、
「こちらです」
と呼んでいるのがわかった。
彼女は起き上がり、カーテンの隙間を覗いた。
すると、外から一匹の黒猫がはっきりと彼女を見上げていた。
黒猫は言った。
「男の執念に困っているのでしょう。それならこちらです」
こんどは明確に人間の声だった。しかし、同時に「にゃあ」でもあった。
黒猫は続けた。
「わたしについてきてください。わたしは”魔の森”に住む”魂売りのレオ”様の飼い猫です。少々お金はかかりますが、レオ様ならどんな悩みも解決してくださいます」
さあ、こちらへ——そう聞こえた瞬間、目が覚めた。
明け方、まだ日が昇る前の時分であった。
そこに、
「にゃあ」
窓の外から猫の鳴き声が聞こえた。
夢とおなじだ。
彼女は恐怖とは違う、しかし恐ろしいなにかを感じた。
まだ夢が続いているのかとさえ思った。
ただ、少し違う。
夢とは違い、猫の声は「にゃあ」でしかない。
彼女は恐る恐るカーテンの外を覗いた。
すると、そこには一匹の黒猫がはっきりと彼女を見上げていた。
「にゃあ」
単なる猫の鳴き声。しかし、気まぐれに鳴いているのではない。
まっすぐな視線から、たしかな意思を感じる。
キャメロはごくりと息をのみ、アパートの扉を開けた。
すると、黒猫はピッタリと扉の前で待っていた。
そして、
「にゃあ」
そうひと鳴きして、ゆっくりと歩き出した。
まるでついて来いと言っているようだった。
そう言ってレオは扉を開け、応接間に顔を出した。
応接間——寒い時期や天候の悪い日にレオが客を案内する部屋だ。そこそこ狭く、中央に背の低いテーブル、入り口側に客の座る安物ソファ、奥にはレオとぼくの座る高級ソファが置かれている。左右の壁面やサイドボードには、レオの亡き父の趣味であるアンティークが並び、シックで落ち着いた雰囲気の、客と懇談するのにふさわしい環境だ。
その客用ソファに、ひとりの女が座っていた。見たところ二十歳そこそこ。化粧もせず、服は寝巻きのようなスタイルだ。女が外に出る格好じゃない。
しかしパッと見ただけでこれはと思うほどかわいらしい顔立ちをしており、もしこの子がひとり夜道を歩いていたら暴漢が黙っていないだろうという、そんな華奢な容貌だ。
なんとなく肩を縮ませ、怯えているように見える。おそらくひとを食う”魔の森”の、だれも知らない館に住む”魂売り”に会いに来た恐怖があるのだろう。
しかしレオはそんなことで気を遣うことはない。むしろ威圧するかのような態度で、側面に佇むアルテルフを通り過ぎ、ぼくらは奥のソファに座った。
そしてレオはのけ反るようにして背もたれに寄りかかり、テーブルの上で脚をクロスさせ、言った。
「わたしが魂売りのレオだ」
すると、女は言った。
「はじめまして。わたしはサイウルスという名で歌劇団に所属していたキャメロといいます」
「む……」
キャメロの自己紹介を聞いた瞬間、レオの眉がほんのり曇った。
「サイウルス……」
「あ、ご存じですか?」
キャメロは少しだけ明るく、しかし不安げに言った。
「わたしは演劇好きでな……」
「あ、それなら聞いたことくらいはあるかもしれませんね」
「……いや、よく知っている。好みではないから追いかけなかったが、アイドル歌劇だろう」
「そうですそうです! あはは、知ってくれてるなんて、うれしいです!」
キャメロはパッと明るく言った。未知の場で会った魔の商人が自分を知っているというだけで安心したのだろう。
だけどぼくは凍りついていた。そしてアルテルフも、おそらくおなじ感情で、ぼくに苦笑いを向けた。
レオは昨夜アイドルのことで大荒れしたばかりだ。まずいい感情は持たないだろう。そう思って顔色を覗くと、はっきりとは見せないが、どこか不機嫌な気配を漂わせていた。
「……それで、そのアイドル風情がなんの用だ」
レオはあからさまに苛立って言った。するとキャメロはハッと空気の重さを感じ、再び縮こまって、
「あ、はい……その……話すと長くなるんですが……ファンに追われてまして……」
「ほう?」
「わたし、もう歌劇はやめて遠くに行くんですが、引っ越すまでいろいろありまして……そのあいだになにかされたり、次の住所を特定されそうで怖くて……」
「それで、どうしてほしいんだ?」
「あの……その……どうすればいいかわからないんですが、解決してほしいんです」
はぁ、とレオは両腕を背もたれに伸ばし、どこでもない方向を向いた。
「客がどうしてほしいかもわからんのに仕事ができるか」
「ご、ごめんなさい……」
「なんだ? 追っかけを皆殺しにすればいいのか?」
「いえ、そんな恐ろしいことではなく、もっと穏便に解決してほしいというか……」
「なら追っかけがストーキングしないようにすればいいのか?」
「えっと、はい! それです! そうしてください! あはは!」
チッ、とレオが舌打ちを聞かせた。あーあ、せっかく機嫌直ったのにまたイラついちゃった。この子、もうちょっとしっかりしてくれないかなぁ。まあ、気質だからしょうがないんだろうけどね。
見たところ根はすごく明るそうだ。すぐ笑うし、あまり物事を深く考えなさそうな感じがする。顔立ちもやわらかくてかわいいし、男受けすること間違いなしだろう。いまもレオがこわい目をしてるのに、目的が伝わったことをよろこんで、ニコニコ微笑んでいる。
「で、なぜ追っかけられてるんだ?」
「結婚するからですね」
「なに!?」
レオの体がガバッと起き上がった。ぼくもアルテルフも思わず「げっ」と声を上げ、体がこわばってしまった。
「えっと……わたしなにか変なこと言いました?」
変なことは言ってない。けど、あまりにもドンピシャ過ぎて目玉が飛び出そうだ!
「いや……最近おまえと似た境遇の事件があってな……少々驚いてしまった」
レオは力を抜くように背もたれに背中を預け直した。さすがはプロの魂売り。ふつうなら荒れてしまいそうなところだが、決して仕事に私情を持ち込まない。
「まあ、とにかく中身を深く知りたい。くわしく話せ」
「は、はい……」
キャメロは小さくうなずくと、ひと呼吸置き、これまでの経緯を話しはじめた。
キャメロが地方都市に来たのは彼女が十三歳のころだった。
元々は田舎で親兄弟と暮らしていたが、些細な問題で村八分となり、一家は村にいられなくなった。
そのとき親の下した決断は、いっそのこと都会に出てみようという冒険じみたものだった。
彼女の家の家業は、この国で最も盛んな職人、裁縫家である。どこに行っても仕事はできるし、腕があれば職にあぶれることはない。
しかし、その腕が足りなかった。
田舎では十二分に活躍できた。しかし、都会となれば職人のレベルが違う。
両親の腕は決して悪いものではない。だが、数にあぶれた都市部では、ただ一流ではろくに商売にならず、一歩抜きん出た趣向や、ほかにない個性を求められた。
息子娘もつたないながらアイデアを出したり、裁縫を覚えようと努力した。
しかしやはり、一流を超える極上とは決してならなかった。
彼女らはやむなく都会を去ることにした。まだ金のあるうちに、という冷静な判断だった。
しかし、父に未練があった。母は再びどこかの田舎へ降ろうと考えたが、父は男特有の挑戦心がくすぶっていた。
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都会ほどの腕は求められない。しかし田舎ほどレベルは低くない。
ここなら戦える。そう思い、父は街じゅうを回って、やっと雇ってくれる店を見つけた。
そこで出会ったのが、キャメロの運命のひとであった。
キャメロは不器用だった。
針を持てばかならず指を刺し、はさみを使えばジグザグに切る。
そんな彼女は裁縫をすることなく、家事手伝いと品物の受け渡しに専念していた。
だが彼女にはそれが合っていた。生まれついての明るさはひと当たりがよく、雇い主や同業からの評判もよかった。
しかし、キャメロ自身は納得していなかった。
家族はみんな金を稼いでいる。ここに来るまでで財産はほとんど失い、その最後の一滴もアパートの小さなひと間を借りるのに使ってしまった。
都市部は物価が高く、金は貯まらない。せめて自分も金を稼げればと思うが、できることなどない。定住して五年になるというのに、いまだ家畜小屋のような暮らしをしている。
そんな苦悩を、ある日雇い主の息子の前で見せてしまった。ふたりは金品のやり取りの中で、半ば恋愛感情のようなものが生まれており、互いの信頼も濃かった。
すると、こう言われた。
「歌劇役者をやってみないかい?」
彼はいつだったか、キャメロの歌声を聞いたことがあった。決して高い歌唱力ではないが、どこか舌足らずでたどたどしく、その容貌と相まって、なんとも男心をくすぐるかわいらしい声だった。
ある種、一流よりも味がある。
それを覚えていた彼は、友人の演劇プロデューサーが、昨今流行りのアイドル歌劇を作ってみたいと言っていたのを思い出し、提案した。
本心としては、うちの妻になってくれと言いたかったが、それ以上に彼女の家族を助けたい想いを応援したかった。
もっとも、プロポーズの勇気がなかったせいかもしれない。ただ、彼が彼女をめとったところで、家族の家計までは救えなかった。
キャメロの答えは即答でイエスだった。
家族を救いたい——というより、なにも助けになれない自分がいやだった。
彼の紹介で、キャメロはアイドルになった。
このとき十八歳。女の魅力が最高潮を示す時期である。
芸名「サイウルス」とし売り出した彼女はかなりの人気を博した。
まだアイドルというものが生まれて間もない時期で、硬派な歌劇ファンからはひどく厭われたが、一部男性ファンからは熱烈な支持を得た。
明るく不器用、そしてがんばり屋な面が受けたのだろう。歌声も狙い通りだったに違いない。
たちまち金が流れ込んだ。
はじめ疑問に思っていた家族も、それを見て大いによろこび、一切の口出しをしなくなった。
サイウルスは両親よりはるかに稼いだ。
ひと前で歌って踊り、ファンとの交流ではあまり好印象ではない男性との握手などもするが、サイウルスは努めて笑顔を見せた。
不器用とばかり思っていたが、どうやら自分は演技ができるらしい。サイウルスになれば、にせものの言葉が出せる。
ただ、こころの底には”彼”がいる。
あの日、家族を救う手助けを求めると同時に、本当は連れ去ってほしいと思ったあのひとがいる。
だから、サイウルスは”もうひとりの自分”だと決めた。
家に帰ればキャメロとして本心のままに生きる。だが一歩家を出ればサイウルスに徹する。
そんな暮らしを続けること、およそ七年。
最近めっきりファンが少なくなった。
仕方のないことだろう。いくら晩婚化が進んだとはいえ、二十歳で未婚は遅いと言われる時代だ。二十五歳の彼女は、一部のファンからは「そろそろだれかもらってやれよ」などと言われる始末である。
当然、実入りも悪くなった。
とはいえ、隆盛だったころに稼いでいたおかげで、家族が広いアパートに引っ越すことはできた。
できれば一軒家を借りたい——そう思って努力をしてきたが、もはやここまでなのは明らかだった。
そこで、キャメロは愛するひとに想いを告げた。
彼はいい年してまだ独身だった。
しかしなぜそうしていたか、キャメロは知っていた。耳に聞いたわけではないが、目を見ればお互いのこころはわかっていた。
その日、生まれてはじめて男女の愛を知った。
痛みよりも、よろこびが勝り、涙を流した。
翌日、サイウルスは劇団と話し、引退を発表した。
関係者や、それまで支えてくれたファンのほとんどが拍手で送ってくれた。
しかし全員ではなかった。
女は婚期を過ぎたからといって美貌を失うわけではない。三十を過ぎれば一層の魅力を持ち、ひとによっては四十を過ぎてもまだ男をとりこにする。
サイウルスの結婚を認めない男が数人いた。
はじめはいたずら程度のことだった。
劇場に抗議文を貼りつけたり、怒鳴り込んだりと、単なる迷惑行為に過ぎなかった。
だが、そのうち彼女の身辺を嗅ぎ回るようになった。
道を歩いていると、だれかがつけているのがわかった。
わざとおなじルートをぐるぐる回ってみたら、特定の男が遠巻きにあとを追ってくるのが見えた。
彼女は恐怖した。
役人に助けを求め、ストーカーを呼び止めるも、男は偶然だと言ってシラを切った。
明確に罪人だと証明できなければ役人も手を出せない。さいわい住み家はバレていないようだが、このままでは恐ろしいことになる気がしてならない。
キャメロは泣いた。
家から一歩も出ず、身を隠した。
そんなある日、夫となった彼から、どこか遠くの街に行こうと提案された。
それならもう、だれかに追われることもない。職を失い、その後どうなるかわからないが、このままではいられない。
そうふたりは納得し、決断した。
ただ、夫が実家ともめた。彼は跡取りオーナーだった。
なかなか話はうまくいかない。おもてへ出られない日々はなおも続く。
そんなある夜、キャメロは不思議な夢を見た。
彼女は明け方、まだ日が昇る前のだれも起きていない時分に、外から猫の鳴き声に呼ばれた。
にゃあ、としか聞こえないのに、
「こちらです」
と呼んでいるのがわかった。
彼女は起き上がり、カーテンの隙間を覗いた。
すると、外から一匹の黒猫がはっきりと彼女を見上げていた。
黒猫は言った。
「男の執念に困っているのでしょう。それならこちらです」
こんどは明確に人間の声だった。しかし、同時に「にゃあ」でもあった。
黒猫は続けた。
「わたしについてきてください。わたしは”魔の森”に住む”魂売りのレオ”様の飼い猫です。少々お金はかかりますが、レオ様ならどんな悩みも解決してくださいます」
さあ、こちらへ——そう聞こえた瞬間、目が覚めた。
明け方、まだ日が昇る前の時分であった。
そこに、
「にゃあ」
窓の外から猫の鳴き声が聞こえた。
夢とおなじだ。
彼女は恐怖とは違う、しかし恐ろしいなにかを感じた。
まだ夢が続いているのかとさえ思った。
ただ、少し違う。
夢とは違い、猫の声は「にゃあ」でしかない。
彼女は恐る恐るカーテンの外を覗いた。
すると、そこには一匹の黒猫がはっきりと彼女を見上げていた。
「にゃあ」
単なる猫の鳴き声。しかし、気まぐれに鳴いているのではない。
まっすぐな視線から、たしかな意思を感じる。
キャメロはごくりと息をのみ、アパートの扉を開けた。
すると、黒猫はピッタリと扉の前で待っていた。
そして、
「にゃあ」
そうひと鳴きして、ゆっくりと歩き出した。
まるでついて来いと言っているようだった。
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