まま恋。

美木いち佳

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私を見て

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 カチャン。自宅の門を開いたら、制服の中にまで滑り込んでくる冷えた空気。坂のずっと下に広がる、黒い街並みを浮かび上がらせた茜色を目に留めて、私は深呼吸した。
「きれい…」
 二月十四日の朝日は、なめらかなグラデーションを空に羽織らせた。こうして日の出を見ることなんて私は滅多に無いものだから、手にした紙袋がスカートを擦ってくれなければ、危うく早起きした目的を忘れるところだった。
「あれ」
 そうして思い出したところに、爪先を交互にトントン、目当ての人の登場だ。
「おはよう湊人」
「おお…はよ。何してんだ、こんな朝早く」
「これ、渡しとこうと思って」
「え?」
「はい」
 門を越えようとまっすぐ両手を伸ばしたら、鼻先に突きつけるかたちになった。
「ああ、そっか、今日…ん?」
 湊人は、私の差し出した手に提げられた紙袋の中身を二度見する。
「なんで二つ…?」
「…緑のほうは、お姉ちゃんから」
「えっ?寧々さん…なんで?」
 お姉ちゃんも中学生くらいまでは毎年湊人にチョコをあげていた。交遊関係の広い人だから、とにかくいつも数を作っては余らせて、そのひとつとして。もちろんそんな裏事情、湊人に知らせてはいないけど。ただ高校に入ってからはまったくで、今年はそれ以来久々のバレンタインとなる。
「でも、嬉しいでしょ?」
「まあ…」
 口をすぼめつつも、否定はなし。お姉ちゃんの包みから視線を外さないところを見ると、
「良かったね」
 やっぱり、まだ好きなんだ。
 だから、いつもは学校から帰って来てから渡すところ、早く喜ばせてあげたくてこの時間に待ち伏せていたのだ。
「朝練あるんでしょ?ほら、いってらっしゃい!」
「お?おお…サンキューな」
「どういたしまして」
 これで練習にも身が入ることだろう。大きな鞄へ無造作に詰められてしまうのはちょっとなぁ、と思うけど、湊人の性格からしたら無理もないので、私は特に何も言わない。
「じゃ」
「うん」
 朝焼けの空に向かう背中を少しだけ見送って、開け放しの自宅の門へ足を向ける。私は胸に手を当て、もう一度長めに深呼吸した。

 あの後、明けてクリスマスの朝。日に照らされて溶け行く雪を見て、鷹矢くんはいつもと変わらずに笑っていた。辛そうな表情を見せることはあれから一度もない。彼が元気ならそれでいいとは思いつつ、私の心の靄はずっとここにくすぶっていた。
 伏せながら苦しそうに切れ切れの言葉を呟いていた彼の姿を見て、最初は悪い夢にうなされていたのかと思っていた。けれど今思い返してみればなんとなく、言い争っていたようにも感じる。鷹矢くんとタカヤくんが。彼らが同時に出てくるのは、告白のとき――あの中庭以来のことだ。仲良くしているように見えたのに、どうして。
 心当たりと言えばひとつだけ。「出てこないようにしてる」という鷹矢くんの言葉。無関係とは思えないけど、そう言ったときの彼の様子を考えたら、踏み込んでいくことは憚られた。

「それに…」
 私の頬は、この空から掬い取った色を撫で付けたようになる。思い出したから。あの後のことを、あの時の眩暈を。
 切ない目、強い腕、彼のすべての熱が私に流れ込んだかと思うほどの数分間。タカヤくんは何故、急にあんな――。
 浮くような心地で玄関前の階段に右足を乗せたまま、私は固まる。
 ――ハルカさんに会いたい気持ちが、止められなかった――?
「…」
 出てこないようにと、抑え込まれていたのならなおさら。
 そう思いたくなくても、それが一番自然で当然で、頭に思い浮かんだが最後、こびりついて離れない。追い討ちをかけるように、この澄んだ空気は一層凛冽として身体中を刺す。
「…私じゃ、ないんだもんね…」
 冷たい石の階段に呟きを落としたら、そこから薄い氷が広がっていくよう。
 あの時も今も、私の心を占めているのは、そんな脆いものに覆われた私自身の感情。くらくら、ぐらぐら、激しく揺さぶられた高波が、中でうねって飛沫を散らす。危うくて、触れられない。そっとしておかないと、割れそうで。
 ひびひとつさえ怖い。こんな勢いで噴き出してきたら、きっと自分でもコントロールできない。
 私は、しばらくここから動けなかった。



 本来、学校に不必要な物を持ってくれば、没収の対象になる。とは言え先生たちも無闇に無粋なことはしないので、こちら側が慎ましくこっそりしていればある程度は黙認してくれる。
 ある程度は。
「王子のクラス、チョコ回収だってさっ」
 鷹矢くんのクラスである一年六組は、朝からすでに甘い香りに包まれていた。一体送り主は何時から忍ばせたのか、彼の机、ロッカー、どこからか調達してきたボールカゴ、その全てからあぶれてこぼれ落ちる程のバレンタインチョコが原因であることは疑いようがない。
「ていうか、部の備品、勝手に持ち出さないで欲しいわ」
 紗奈ちゃんがそう口を曲げるのは、鷹矢くんへのチョコで満杯になっていたそのボールカゴが、本来体育倉庫にあったはずの、女子バレー部のものだったからだ。内部犯に違いないと、紗奈ちゃんは肩をいからせている。
「遥も、彼女としての威厳、見せといたほうがいいんじゃないっ?」
「い、威厳…?」
「そうよ、おおむね友好的に手を引いてくれたけど、あのチョコの数が即ち敵対勢力の数なのよ」
「敵対…?」
 そして指差された先、廊下に列をなすのは風紀委員の先輩方と生徒指導の先生。段ボールに山盛りの綺麗な包みを乗せた台車を押して、次々引き上げていく。それは私の想像を超える、ものすごい数だった。
「今回ではっきりしたようね、まだ王子を狙ってる輩が多いこと」
「輩って…」
「のんびりしてるけど、遥、意味分かってるっ?王子、とられちゃうかもしれないんだよっ?」
「え?うーん…」
 私の知る限り、この高校に私に似ている女の子はいない。ということは、ハルカさんに似ているのも私だけのはずだ。だから、
「それはない…よ」
 当然の帰結だった。語尾が弱々しくなる理由を、私は胸にずきんと刻み直す。
「あれ、意外と自信家なのね、遥」
「えっ?」
「負ける気がしないとはっ、これぞ高みの見物だねっ」
「いや、そういう意味じゃ…」
 そこでチャイムと同時に、時間に正確な数学の益江先生が直角にターンしながら教室へ入ってくる。その足音に遮られるかたちで、私の弁明は宙を舞った。
「起立!」
 ――だって、彼が好きなのは、私じゃない。
「礼!」
 ハルカさんだもの。
 そんな大前提を、少しずつ、都合よく、忘れそうになっていた。あの眼差しがいつも、私自身に向けられていると勝手に感じていた。
 そうじゃないのに。
 折り畳んだ体を戻しながら、通学鞄に忍ばせてきたチョコを見つめて。私は、キュウ、と心が冷たく締め上げられる感覚に、いつまでも追い立てられた。




 冬になると、花壇ではパンジーが健気に彩りを見せていた。遠くからでも目を引く赤、白、青、それから黄色。寒々しさを跳ね返すくらいに元気な色の取り合わせ。今の時期、ここの主役は彼女たちを置いて他にない。
「今日は思いの外あったかいね」
「うん」
 お昼休み。この季節だから、いつもはコートを持ち出してくるけれど、ちょっぴり春が見え隠れする陽気に、今日はカーディガンだけ。それに、鷹矢くんの穏やかな笑顔の隣は、一層あたたかい特等席だから。
「今朝はすごかったね」
「あはは…忘れてたよ、日本はチョコを贈る習慣が根付いてるんだよね」
 いつもの場所に着くと、はみだしたパンジーを気遣いながら二人、並んで腰かける。足元はやっぱり寒いので、通学時に巻いている白いマフラーをブランケット代わりに広げて膝へ。
「ドイツは違うの?」
「うん、チョコはあんまり、かな?それにどちらかというと、贈り物をするのは男性のほうだね」
「そうなんだ」
「うん。だから、はい」
「えっ?」
 脇に荷物を置いて振り返ったら、どこから取り出されたのか突然、目の前に。
「プレゼント」
「…私に?」
「うん」
 鷹矢くんが促すように両手をくいと持ち上げると、その赤いリボンがふわり、揺れた。
「ありがとう、開けてもいい?」
「もちろん」
 丁寧にほどいていくと、
「あ…!」
 透明なケースの中に寝かされていたネックレス。まっすぐ伸びた細いピンクゴールドのチェーン、その先の、華奢なチャームは。
「もしかして…」
「ガラスの靴みたいだろう?ほら、文化祭のときの」
 美冬ちゃんが作ってくれたあの靴によく似ている。
「うん!本当!可愛い!」
「前に、シンデレラの絵本が好きって言ってたから」
「…私の話、憶えて…?」
 イブのとき、夕食を摂りながら確かにそんな話もした。誰でもない、私の話を鷹矢くんは心に留めてくれていたのだ。
「ありがとう…嬉しい…!」
 ケースを胸に抱きながら、声は震えていたかもしれない。
 荒れた波は穏やかに。その水面にはにかんだ笑顔が映るほど。私が私でいられる、素直に気持ちを表せる。大前提を忘れたわけじゃない。けど、だってこれは、私自身へのプレゼントに違いないもの。
 だから今だけは本当に、心から喜んで良いんだ。
「すごく嬉しい…」
 自然と顔は綻んで、あまつさえ涙も出そうなほど。久しぶりに私、気負わず笑えているみたい。
「…良かった」
 こぼれる陽射しに溶けそうな呟き。私が顔を上げると、鷹矢くんはもっと笑顔を深くしていた。
「やっとハルカの、いい顔が見れた」
 ぽつりとそう言うと、握りしめる私の手からネックレスのケースを優しく抜き取る。
「え…?」
 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だったけど、確かにそう聞こえた。いつも通り過ごしてきたつもりだけど、もしかして鷹矢くん、私の様子に気付いていたのかな。
「つけてあげるよ」
 言うなり、ケースからさらりとそれを取り出した。ガラスの靴が目の前で跳ねて揺れる。金具を外して、それぞれ端を持った彼の手はそのまま私の左右へ消えて。
「…わ」
 急な接近に思考は止まる。
 迫る笑顔は髪を掠めて、両腕にすっぽり、おさまってしまった上体。ゆるく、包み込まれた。動けない。
「た、鷹矢くん…!」
「ごめん、もう少し…」
 もどかしさに似た気持ちに項垂れて私は、されるがまま。目を瞑ってじっと、震えることすらできずに。だって、少しでも揺れたら、頬が触れちゃう。
 首の後ろ、彼の手が動くたびそわそわ、髪を伝ってくすぐったい。
「はい、できた」
 ネックレスに囲われた髪をゆっくり解き放つ鷹矢くんの腕が、顔が、離れていく気配。でも顔を上げられない。ふわっと髪。首を一周、ひんやりした金属の感触。それを見つめる振りして赤い頬を隠せたら。
「あ、ありが…わっ」

 瞼を開くと同時、急に突き上げるような冷たい風。
 さっきまでゆるやかだったはずの空気が騒ぎ出した。花壇の青い匂いが巻き上がる。膝を離れ大きくあおられたマフラーを追う私の腕は、
「…あ」
 とん、と隣の胸におさまった。その先で、マフラーは見事、彼にキャッチされている。
「ほら」
 短くぶっきらぼうなその声は、少し低く、そして強い。
「…!」
 ゆっくり視線を上げたら、さっきまでにこやかに笑っていた彼の唇が下向きに弧を描いて、近く。
 すぐに分かった。真っ直ぐ私を見下ろす彼のこと。
「タカヤくん…!」
 瞳はもう、捕まっていた。
「あいつ、最近うるさくって」
 また、逃げられない。
「…え…?」
 見つめる先にいるのが、私じゃないことを思い出すまで。
「…出るなって」

 ――出てこないように、してるからね。

「…うん…」
「…それ」
「?」
 タカヤくんは、私の首もとを刺すように見つめる。反射的に私も目を落としたら、指先でネックレスのチャームに触れた。
「これ…?」
 私には答える間もない。ひとつ忌々しそうに息を吐くとタカヤくんは、ガラスの靴から引き剥がすように、私の手を掴む。
「えっ」
 そして引き寄せる。
「わっ…」
 吐息が額を撫でていった。瞳の中の私まで、見える。
 肌寒いはずなのに内からはくらりと熱。急激に甦ってくる、あの時の眩暈、感触、それから。
「顔赤くない?」
「えっ、あ!違っ…」
「風邪でも引いた?それとも、照れてる?」
「…!」
 息苦しさ。あの夜みたいに、軋むくらい抱き締められている訳じゃなくても。だって、この眼差しは否が応にも突きつけてくる。だんだん、迫り来るほど。
「ハルカ?」
 私を見ていないことを。
「…あの、」
 それでも逸らせずにいる自分が情けなくてもどかしかった。すぐにでも離れられるのにそうしない私は、また――。
「…っ」
 再び暴れだした波が決壊しそうで、私は息を噛む。無理にでも、視線を剥がせと言い聞かせて、言い聞かせて。
「…チョコレート」
 さっと後方に顔を向ける。でも一向に楽にならない。私は深呼吸をしてから、ランチボックスの影に隠しきれないでいる包みを目で指した。
「うん?」
「今日、バレンタインだから」
 取られたままの手から、体温が侵食してくる。手首をねじっても抜け出ることはできそうにない。諦めた私は腕を思い切り伸ばし、彼から距離をとった。
「作ってきたの。どうぞ」
 捕まっていないほうの手で、それをなんとか掴んだ。少しの間不思議そうに、私の手のひらに乗るオーロラ色の包みを見てタカヤくんは、やがて瞳を和らげる。
「…ありがと」
 ようやく手を離して、チョコを受け取ってくれた。惑わせるような熱はそれでふっと消えたとしても、胸を四方八方から押さえつけてくる、この圧迫感は無くなってはくれない。
「うん…」
 割れそう。「ハルカ」を纏うほどにこんなにも。

 そんな私を前にして、自らの手に収まるオーロラ色をじっと見つめながら彼が口にしたは、予想だにしない一言だった。
「でも、これ、ちゃんと食べれんの?」
「えっ?」
 私は気の抜けた声を出す。
「いや、ハルカの料理って言ったらさ…」
 いつも自信たっぷりな表情を崩したことのないタカヤくんの、珍しく泳いだ目。
「ほら、芸術は爆発、みたいな…」
 これってもしかして、けなされている?
「な…これでも私…!」
 自慢じゃないけど、料理はそこそこできるほうだ。お隣のおばさんには遠く及ばないけど、お姉ちゃんよりは上手なはず。
 それでも彼は、私にそれを言わせない。疑り深く、チョコを見つめて更に言い放つ。
「保健室って、胃薬置いてんのかな?」
「し、失礼ね!」
 極めつきのその一言に、私もつい憤慨する。大真面目な顔でよくもそこまで。息苦しさなんかまとめて一気に吹き飛んでしまった。
「そんなに言うなら食べてみてよ!」
「え…」
「いいから!」
 いつもとは逆に、私のほうが強引に迫る。だって、ここまで言われたらプライドが許さない。これでも、湊人からは毎年「美味かった」と上々の評価を貰っているのだ。
「…」
 渋々包みを広げるタカヤくんだけど、現れたブラウニーをそっと摘まんで、意外そうな顔をする。
「これ、本当にハルカが作った?」
「もちろん。なんで?」
「いや、見た目上手だから」
「もー!まだ言う気?いいから早く食べてよ!」
 一体何度、人のことを貶めたら気が済むのだろう。鷹矢くんなら絶対そんなこと言わないのに。
 タカヤくんは、ひと思いに、という魂胆が見え見えの表情で口へ放り込む。両目と口を同時にぐっと閉じたら、一度、二度と咀嚼。次第に、瞼はゆるやかに開いていく。
 私は祈るようにその先を待ち、
「ん、美味い!」
「本当!?」
 欲しかった一言に、胸を撫で下ろした。
 味見もして、美味しくないはずはなかったけど、好みとかもあるし。プライドがどうとか思いながらも実は、やっぱり不安だったから。美味しいって、言ってもらえるかなって。
「本当」
 見上げたらそこに、
「…!」
 屈託なく笑う、タカヤくんの顔。焼き付くようだった。彼がこんな風に笑うところ、初めて見た。いつも不機嫌そうな口元も、強さとその奥に切なさを湛えている瞳も今は、すうっと晴れて眩しくて。
 季節外れの灼熱の太陽みたい。
 それは鮮やかなパンジーたちを容易く凌駕する。光の溢れてやまない笑顔を、私は息を忘れるほど見つめた。彼以外の景色が白く溶けていく。
 生まれて初めての感覚だった。
「…良かった…」
 心の真ん中から、瞬く間に張り巡らせていくこの気持ち。
「うん、」
 嬉しい。
「ハルカ、」
 本当に、嬉しい――。
「随分上達したな、別人みたい」
 そこで、私の嬉々とした表情は、作りかけのまま凍る。
「…えっ…?」
 だからどうして、私は大切なことを、また――。
 「別人」。
 そんなの当たり前。
 上達も何も、手作りのお菓子をプレゼントしたのは今日が初めてで、だから話は噛み合わない。頭から全部。タカヤくんは私に言ったわけじゃない。だったら誰にと問わなくてももう、答えは明らか。
 ハルカさんしかいない。彼は今も、今までもずっと、ハルカさんと会話しているんだ。
 私じゃない。

 ――…ハルカは、いつもこっちだろ?

 ――ハルカはそんなの着ないだろ。

 ――ハルカの料理って言ったらさ…。

 ハルカは、ハルカは。
 タカヤくんはいつだってそう。
 私じゃない。
 最初から分かっていることなのに、思い知ったはずなのに。舞い上がってはこんな風に、突き落とされてを繰り返す。なんてばかな、私。
「…そう?」
 天国から地獄ってこのことだ。私は役に過ぎない。きちんと演りきらなきゃって、思ったばかりだったのに。
「うん、本当に美味いよ。ありがとな、」
 役《ハルカ》を振りほどこうと、私《遥》がもがく。気づけば私の感情が動いている。
「ハルカ」
 あの夜と同じ。それが私の名前であったなら。
「…」
 ああ。タカヤくんは、本当に私を見ていないんだ。皮肉っぽくもやさしい笑顔、それも私へ宛てられたものじゃない。

 ――いつか傷つける。

 ねえ鷹矢くん。言っていたのは、こういうこと?
「…どうした?ハルカ」
「え?」
「体調悪い?」
 その表情は、本気で心配している顔。でもそれだって、ハルカさんに向けたものなんでしょう?
 また吹き始めた風に、犇めくパンジーの声がする。すすり泣きのようだと思ったら、失われたはずの甘い香りが微かに鼻をつついていった。そんな気がした。
「…」
 私を見て。今、そう言えば、うんと言ってくれるの?
「…ううん、」
 そんな訳、ないよね。だから言えないよ。
「なんでもない…」
 切なくて苦しい、なんて。
 言えない。



 夜は、晩御飯のあとで湊人のお母さんお手製のチョコケーキを頂いた。毎年恒例のことらしく、今年からは私も加わったので思いきって五号サイズを焼いたということだったのだけど、案の定食べきれず明日に持ち越しとなった。
 そういうわけで、帰りが遅くなった。そろそろお姉ちゃんが帰宅する頃だ。早くお風呂の用意を整えておかないと。
 立って歩けば紅茶とケーキをどっしり、感じはじめた。美味しいからって食べ過ぎちゃったかな。あたたかな安らぎで一杯のお腹を抱えながら、私は林堂家の門を出るところだった。
「はる」
「…?」
 いつもは見送りなんてしない湊人が、サンダルを引っ掛けて腕を擦りこすり、玄関から出てくる。
「どうしたの?」
 自分が呼んだ癖に湊人は何も言わず、代わりに白い息をふたつ作った。それが完全に闇に溶けてから、やっと小さく口を開く。
「何かあった?」
「え…?」
「…蓮未と」
 反射的に吸い込んだ夜の空気はつんと、私の鼻を苛める。
「昼飯から帰って来てから、ずっとそんな感じだろ」
 その声色からは確信が滲み出ていた。湊人はこれでいて鋭い。誤魔化すのは至難の業だ。
「そんなって、どんなよ…」
「ぼーっとしてるし、いつも以上に」
「…いつも以上には余計でしょ」
「見てたら分かんだよ、それくらい」
「…別に、何もないよ」
 でも話す訳にはいかない。タカヤくんのことを伏せては語れないし、言ったところで湊人のことだ、今から鷹矢くんの自宅まで特攻さながらに押し掛けかねない。
「嘘だな」
「嘘じゃない」
「…」
「…」
 お互いが寒さに身をかばう音だけが聞こえる。合間に、これ見よがしな湊人のため息。
「もう、寒いし、私帰るから…」
 じゃあね、と身を翻したところで、ちょっと強めに呼び止められる。
「待てって」
「…」
「もう一個」
 仕方なく振り返ったら、ぱっとセンサーライトに照らされ、
「…今朝貰った寧々さんのチョコにさ…」
 私は眩しさに目を細め、
「『イブの時は妹がありがとう』って手紙入ってたんだけど、」
 そしてすぐに開く。
「…あれ、どーいうこと?」
 遠くから、厳しい風が走ってくる。
「…」
 イブの夜、私は鷹矢くんのお家にお世話になった。でも、たぶん、お姉ちゃんは湊人の家に泊まったと思い込んでいるのだ。あれからお姉ちゃんの仕事も忙しくなり、あまり話せていなかったから、そんな誤解をされていることにすら気づけなかった。
 私に託したチョコレートは、そのお礼も兼ねてのものだったんだ。
「はる、うちになんか泊まってねーじゃん」
 びゅっと真横に投げられた髪を、集める。それを俯く口実にした。
「うん…」
「どうせ蓮未んトコだろ」
 唇に張り付く一本一本を薬指で引っ掻く。
「…それは…」
「彼氏ん家泊まるってそりゃ、寧々さんには言いづらかったんだろうけどさ、なんつーか…」
 湊人は湊人で、私が鷹矢くんと過ごしたいがために、お姉ちゃんに言い逃れをしたと思っている風だ。違う。けど、本当の理由なんて言えないし。
「オレん家隠れ蓑にするんはいいけど、黙ってやられると気分悪いっつーか」
「…ごめんね」
 だから私は謝るしかない。不愉快な思いをさせたことには変わりないのだし。
「…まぁ、話は合わせとくから。…ほどほどにしとけよ」
「…うん」
 風が矛をおさめてくれた。木々も鎮まり、シンとまた、静かな夜が横たわろうとしている。
「じゃな」
「あ…」
 けれどそれは、私のか細い言葉もろとも、木っ端微塵に吹き飛ばされた。
「あーっ!遥ぁー!ただいまー!」
 突如飛んできたその賑やかな声に。
「えっ?」
「…?」
 湊人と私は同じ方向に顔を向ける。いやにテンションが高いけど、これは紛れもなく。
「お姉ちゃん!?」
 街灯に照らされて、坂をふらふらふらっと上ってくる姿が見える。それもふたつ。
「あ、妹さん?こんばんは…」
 誰だろう。少し疲れた様子で、ネクタイも外して眉を下げたその人に、私は見覚えはなかった。
「…こんばんは…?」
 一応会釈は返したけど、怪訝な視線もそのままついていってしまった。その後で気づく。腕を回して撓垂れかかるお姉ちゃんを支えているところを見ると、この人がもしかして。
「今日はねー、泊まってくるつもりだったのにー、ショウくんが帰れってー」
「…ご覧の通り、会社の飲み会で飲み過ぎちゃって…僕がついていながら面目ない」
「あ…いえ…」
「あっれー!湊人くん久しぶりい!クッキー食べてくれたー?」
 門の内側で呆気に取られていた湊人は、なんの脈絡もなく呼ばれて肩を跳ねさせた。
「あ、はい、あざっした…」
「よろしー!これからも遥のこと頼むねー!」
 手をひらひらさせようとするたび、足元がふらつく。それを支える「ショウくん」と呼ばれた男性は、歯を食い縛って耐えていた。
「よぉーし、帰ろーっ!」
 声量だけは立派だけど、お姉ちゃんは軟体動物みたいに脚も腕もくにゃくにゃ。そしてどこまでも陽気に、気の弱そうなと言ったら失礼かな、優しそうなショウさんに絡み付いたまま、我が家に入って行ってしまった。
「…」
 ガチャンとドアの閉まる音が響けば、今度こそ辺りは静けさに包まれる。台風一過。でもこれは、決定的な瞬間になってしまったに違いない。
 ばれた、湊人に。お姉ちゃんに彼氏がいること。
 ライトはとっくに消えていた。夜闇に湊人の表情は見えない。
「…久々に会ったけど寧々さん、ああいうところは変わってないな」
「え?」
「はる、本当にあの人の妹かよ?」
 気のせいかな。湊人、すごく、普段通りだ。
「あの、ショックじゃないの?」
「何が?」
「何がって…」
 いや、気づいていないなら言わない方が良いのかも、と口を手で押さえたときにはすでに、湊人の追及の圧をびりびり感じていた。
「なんだよ?」
 苛立ち混じりに湊人が沈黙を切る。もう遅い。私は覚悟を決めて、唇を舐めた。
「…あのね、あの人…たぶん、お姉ちゃんの彼氏」
「見りゃ分かるよ」
「え?」
「で、何にオレがショックを受けなきゃなんないわけ?」
「だって、湊人、ずっとお姉ちゃんのこと…」
「寧々さんを?」
「…好き…だったでしょ?」
「はあ!?」
 やっと夜らしくなった住宅街に、湊人のひっくり返った声がこだまする。
「何言ってんだよ、誰がいつそんなこと…」
「えっ、だって、うちに来てた頃いつも…」
 私は小さい時の記憶について話した。お姉ちゃんと言葉を交わす湊人の様子は、そうとしか見えなかったと。
 そうしたら盛大に溜め息を吐いて、湊人は後ろ頭を掻き回す。
「いつの話してんだよ。ってか、はるさぁ、オレがあの頃、寧々さんにどんな目に遭わされてたか覚えてねーの?」
「え?」
「妹のおまえが大人しくて物足りないからって、その矛先がオレに向いてさ。いっつも容赦なくて、乱暴で…」
「そうなの?」
「そうだよ。あの人、オレのことおもちゃか何かだと思ってただろ」
「…そうなの?」
 知らない。いや、忘れてしまっているだけなのかな。何せ私のあの頃の記憶って、それくらいしか残ってないもの。
「あの人、はるに言うのもなんだけど、豪快で男みたいだったじゃん。腕っぷしも、あの頃は体格だって敵わなくてやられっぱなしでさ」
 その頃を思い出しているのか、いつになくぼそぼそと喋る。あ、この感じは、私の記憶と一致するところがあるかも。
「だからそんなんありえねー。寧々さんは恐怖の対象でしかねーよ」
「そう、なんだ…」
 どうやら私は、多大なる思い違いをしたまま、今に至るらしい。あれ、じゃあ、あの時私――。
「ていうか、オレ今まで一人しか好きって思ったことねーし…」
「え?」
 湊人はつばを摘まんで引き下ろすような仕草をする。帽子なんて被ってないのに、変なの。
「…なんでもねーよ。じゃな」
「あ、うん、おやすみ…」
 そんな私の返事を聞いたかどうかは分からない。湊人は吐き捨てるようにするなり、踵を返してしまったから。
「…あとさ」
 けれど、思い出したように一瞬だけ、立ち止まる。
「うん?」
 私も踏み出しかけた足を戻して、その背中を見た。
「はるのやつ、美味かったから」
 その一言だけを地面に落とすや否や、足早に玄関へ向かってしまう。その足音もドアの音も、ちょっと不機嫌そうに響くから。再び冬の暗闇に、目を丸くしたまま私は一人残された。
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