よろず怪事相談所

衣更月

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「もう無理!」
 そう叫び声をあげたのは、僕の甥っ子、岡澤まさきだ。
 降参とばかりに両手を上げ、地面にへたり込んでいる。肩で息をして、汗だくの額をシャツの袖で拭い、「この犬、エグい」と落胆する。
 この犬というのは、脱走癖をもつ茶々丸。黒い柴犬である。
 うちのお得意さんである茶々丸は、飼い主の創意工夫を打破して姿を眩ますことに長けている。ただし、逃走ルートは決まっている。雌犬のいる家を順繰りと見回り、その途中でマーキングを済ませ、この公園でひと暴れするのだ。
 茶々丸が見回り途中に御用となる時もあるが、それが叶わない時は僕にお鉢が回る。迷子ペットの捕獲というよりは、茶々丸の遊び相手としての指名だ。
 茶々丸の飼い主は高齢夫妻なので、若い茶々丸にはゆったりとした散歩が物足りないのだろう。
「おじさん!なんなのこの犬!」
 叫ぶ柾の周りを、茶々丸は尻尾をふりふりして走り回っている。
「がんばれ、高校生」
 僕は涼やかな木陰のベンチから手を振る。
 今日は柾がいて助かった。
 正直、走るのが苦手な僕では、茶々丸の相手には不充分なのだ。現役高校生がへたるほどの体力を持て余す柴犬など敵うはずもない。ということで、ペットの事案に関しては、ヘルプとして柾を呼ぶことが多い。
 前回はグレートピレニーズとニューファンドランドのミックス犬、武蔵に、柾は「犬じゃない!熊だよ!」と悲鳴を上げながら潰されていた。
 見ている方は癒されるのだが、甥っ子はそうではないらしい。
 キャンキャンと吠え続ける茶々丸に、柾は苛ついたように吠え返している。
 完全に白旗のようだ。
 僕はため息を嚥下して、左手の親指と人差し指で輪を作った。輪を軽く唇で挟んで息を吹くと、甲高い口笛が興奮ぎみの茶々丸の脚を止めた。
 僕がズボンのポケットに手を突っ込めば、茶々丸は茶色い麿眉を跳ね上げ、笑顔で駆けて来る。
 茶々丸は僕のポケットに何が入っているのか知っているのだ。
 砂埃をあげながら走って来た茶々丸は、僕の前で行儀よくお座りをする。涎が垂れそうな口からは、「はやく!はやく!」と催促が聞こえてきそうだ。
 柾に視線を向ければ、間の抜けた顔で僕を見ている。
 それが面白い。
 茶々丸の首輪にリードをつけ、ジャーキーを鼻先にぶら下げれば、勢いよくジャーキーに噛みついた。「ガウガウガウ」と唸るのは、茶々丸によるところの「美味い美味い美味い」の意味らしい。
「追いかけなくても呼べるじゃん」
 柾が肩で息をしつつ、不満顔でこちらに歩いて来る。
 僕は苦笑した。
「犬は追いかけると逃げる。覚えとくといいよ。でも、茶々丸はその逆なんだ。公園で遊んでほしいから逃げては行かない。柾を遊び相手と認めてたしね」
 リードを柾に向けると、膨れっ面で受け取る。
 初めて仕事を手伝わせた時は、犬が怖くて腰が引けていたのに、今では堂々としたものだ。ジャーキーを食べ終えた茶々丸の頭を撫で、「もう脱走するなよ」と説教を垂れる余裕まである。
「最近、ペットシッターとか散歩代行とかの話もあるんだけど、勉強の妨げにならない程度にバイト時間増やすか?」
 笑顔で柾を見れば、苦虫を噛み潰したような顔で僕を見る。
「時給のアップは?」
「お前は息抜きが出来る上に癒される。僕は他の仕事にも取り掛かれる。ウィンウィンだろ?」
「高校生を舐めると痛い目に遭うよ」
 なんて可愛くない甥っ子だろうか。
「そんなに動物が好きならペット専用にしたら?それか田舎で広い土地買って、色んな動物を飼えばいんじゃない?移動動物園とかもアリかもよ?」
 言われなくても考えたことはある。
 子供の頃はムツゴロウ王国が夢だったが、大人になると現実を知り、夢は萎むものだ。
 僕は長時間動物と一緒にはいられない。
 人には見えなくても、動物にはハクが見えるからだ。特に猫なんかはハクを見るとパニックになるし、ハムスターは猛スピードで逃げて行く。
「ヤマアラシのジレンマって知ってるか?」
「何それ?」と、柾と茶々丸が首を傾げる。
 茶々丸は僕の言葉に疑問を呈するというより、僕のポケット中が気になって右に左に首を傾げているにすぎない。そうと分かってはいても可愛いので頬が緩んでしまう。
「これで最後だぞ」
 ジャーキーをもう一本取り出す。
 茶々丸の目が輝き、尻尾が千切れんばかりに振られる。僕の手を噛まないようにジャーキーを口にした茶々丸は、本当に可愛いと思う。
 頭を撫でる僕を見て、柾が嘆息する。
「母さんが心配してたよ。おじさんのそういうところ」
 そう言って、隣に腰を下ろす。
「じいちゃんは諦めてたけど、ばあちゃんも心配してた」
「甥っ子に説教される筋合いはないぞ」
 じっとりと柾を睨んだところで、僕に迫力なんて出ない。
 柾は肩を竦めた。
「どうせ結婚話か、仕事のことなんだろ」
「結婚のことを心配してたのはばあちゃん。孫は諦めてるけど、結婚だけはしてほしいんだって。このままじゃ孤独死するんじゃないかって心配してる」
「それは結婚じゃなくて、孤独死を心配してるんだろ。ほっといてくれ」
「母さんはおじさんのコミュ障の心配してた」
 それこそ余計なお世話だ。
「仕事はちゃんとしてる」
「不愛想に接客してるんじゃないの?」と、頬杖をつく。
「おじさんってアレだろ?仕事内容以外の会話とかになると頭がフリーズするタイプじゃない?依頼人とかと話してるの見てるとさ、たまに挙動不審になってるもん」
 図星に頬が熱くなる。
 確かに、仕事で話す分には問題はない。繰り返し脳内シミュレーションしている成果だ。だが、依頼人が依頼内容とは無関係の世間話を始めると、途端に返答に詰まる。
 それが原因で、サラリーマン時代は地獄を見た。
 ストレスで胃カメラも経験し、仕事を辞めた。
「しんどい」
 両手で顔を覆って塞ぎ込んでしまう。
「俺で良かったら話くらい聞くよ?」
「止めろ。余計惨めになる」
 嘆息して両手を下ろす。
 隣を見れば、柾が生暖かい目で僕を見ている。
 可愛げがない、と柾の頭を鷲掴みにした瞬間、ポケットの中でスマートフォンが小刻みに震えた。
 手に取って画面を見る。
 見知らぬ番号からの着信だ。
 御機嫌斜めに前髪を整える柾を一瞥し、「はい」と電話に出る。
 素っ気ない応対に、柾が目玉を回して空を仰ぐ。柾の足元で横になった茶々丸までも、ちらりと僕を見上げた。
『あの…立花さんのお電話でしょうか?私は及川と申します』
 及川と聞いて、「ああ」と頷く。
「人形の」
『はい。及川真希です』
 呪いの人形の依頼を受けてから5日が経っている。
 明日までに連絡がなければ、こちらから連絡を取ろうかと思案していたところだ。
 人形が見つかったのか、はたまた人形が見つからずに契約のキャンセルなのか。
「契約のキャンセルなら、契約書はこちらで処分しておきますので大丈夫ですよ。今回は特別何かの下準備をした訳でもないので、キャンセル料も発生しません。事務所に領収書の控えをお持ち頂ければ前金の返金となります」
『ち、違います!』
 彼女の叫びに、思わずスマートフォンを遠ざける。
 その叫びは柾にも聞こえたのだろう。眉間に皺を刻み、何事だと探るように僕を見る。
『人形が見つかったんです。姉の家に戻って来てて、姉も鈴原さんも精神的に参ってしまって。どうしたらいいのか分からなくて助けてほしいんです。出張費用は出すので今から来くれませんか?』
 早口に捲し立てる彼女に、僕は僅かに首を窄める。
「えっと…その…どこに行けばいいんでしょうか?」
『姉の家に来てもらえると嬉しいです。SMSで住所を送ります』
「あ…その…今、別件の対処をしているので、少し時間がかかりますが大丈夫そうですか?」
『あ、仕事中だったんですね』
 途端に、彼女は声のトーンを落とした。
『済みません…』
 消沈した声に、なぜか僕が申し訳なく思ってしまう。
「いえ、大丈夫です。なるべく急ぎますので、住所の送信お願いします」
 そう言って、電話を切る。
 ほっと息を吐くと、柾が呆れたように僕を見ていた。
「しどろもどろし過ぎ。もう少し自信もって喋れば?」
「一気に喋られるのが苦手なんだ」
 情けなく眉尻を下げると、柾が嘆息する。
「それで、なんの依頼?人形とか聞こえたけど、失くし物捜索?」
「いや」と、頭を振る。
「呪いの人形」
 ため息混じりに言えば、柾は生唾を嚥下した。
 それも仕方ない。家族の中で唯一、僕と同じ景色を見るを有するのが柾だ。素質があるというは、常に見えているという意味ではなく、可能性を秘めているという意味だ。現時点では、見えるにはコンディションによるところが大きいために、能力としては不安定。
 結果、見慣れることがない。
 霊感は0か100かの方が良かったのだと、本人が零していた。
 不確かなものへの畏れが、ありありと顔に出ている。
「そんな顔するな」
 整えたばかりの頭を撫でても、今度は非難めいた目をすることもない。しおらしい表情で茶々丸に視線を落とした。
「呪いの人形って語感がめちゃくちゃヤバいよ」
「まぁね。でも、僕は実物を見ていないんだ。受け取りに行ったら人形が消えててね。今のは、それが出てきたから助けてくれっていう電話」
「うげぇ」と、柾は舌を出す。
「姉さんに言うなよ」
「言わないよ。おじさんが呪いの人形と格闘してるなんて言ったら、俺の頭まで疑われるよ」
 柾の言葉に、僕は苦笑する。
 僕の家族はみんなリアリストだ。
 そんな中で育った僕は当然のように内に籠った。実家を出てからは、最低限のやり取りしかしていない。そのせいで、両親に心配をかけているのだから親不孝なのだろう。
 それを思うと、柾は器用だ。何事も適度に頑張り、適度に力を抜いている。
「何か手伝う?」
「いや」と頭を振った僕の手の中で、スマートフォンがメッセージ受信の音を鳴らした。
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