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鬼哭(PG12)
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「いやはや、驚いた。早々に若さんから連絡が来るとは」
泰心が豪快に笑いながら青砥家の門を潜ったのは、日も傾く時分だ。
例のオンボロスクーターは見当たらない。
急いで来いと言ったからだろう。
天狗らしく、空を飛ぶ勢いで急行したといったところか。実際には、驚異的な跳躍なのだが、人間の目には飛んでいるように映る。
生臭坊主ながら、泰心は散財癖がなければ天狗の長になれたほどの男だ。どれほどの距離を急いだかは知らないが、息の乱れも、法衣の乱れもない。
「悪いな」
「なんの。若さんに売る恩は多い方が良い」
泰心は言って、ぐるりと周囲を見渡すと眉宇を顰めた。貧相な口髭を撫で、「これは…」と口籠る。剣呑な目つきで正面の家を見据え、その先の澱を見つけるや否や顔を強張らせた。
「真に恐ろしきは人間よ」
峻厳な表情に、望海が驚いたように跳ね上がった。
初見のエロ坊主が、一瞬にして鳴りを潜めたのだ。徳の高さを察したのだろう。泰心の一挙一動を見逃すまいと、じっと泰心を見据えている。
泰心は望海に注目されてもおちゃらけない。ぎょろぎょろとした目玉で隈なく周囲を探った後、ようやく青砥夫妻に向き直った。
「依頼主の青砥さんで間違いないかな?」
「はい。青砥真治郎と申します。こっちが妻の香澄です」
と、青砥夫妻は泰心の貫禄に呑まれたように、緊張に顔を強張らせた。
「依頼は供養と聞いたが、あの夥しい魂に何の念仏も捧げなかったか?」
怒気を孕んだ口調に、青砥夫妻が委縮する。
顔面蒼白で、溺死寸前の金魚と言った感じだ。
相手は単なる坊主ではない。高位の天狗なのだ。そんなものに凄まれれば、望海のような特異な人間でなくとも気圧される。
それを不憫に思ったのか、新が泰心と青砥夫妻の間に立った。
「泰心さん。今は説教ではなく、お仕事の方をお願いします。夜になれば、活発化するかも知れません」
「するかも知れないとは、これまた曖昧な」
「今までアレを牽制していた物が、今はない。お前に依頼した箱に封じたからだ。まぁ、その封が効けば…という嫌味が、表現を曖昧にしている」
にやりと口角を吊り上げれば、泰心もにやりと笑う。
「なるほどなるほど。では、直に憐れな亡霊が湧いて出ることだろうて。誰そ彼。または逢魔時は、人ならざるモノが蠢く刻だからな」
これに望海は怯み、僕の腕にしがみついた。
青砥夫妻も互いの手を取り、びくびくと周囲を見渡している。蔵で新が嘔吐し、望海がパニックになっていた光景が、恐怖として脳裏に焼き付いているのだろう。いつ、何処から、ナニが出て来るか知れないと、鬼胎を抱いている。
青砥家の子供たちは、早々に親戚宅に預けられたらしい。特に騒動を目の当たりにした長女は、今回の件が片付くまで、家に帰って来たくはないと喚いていた。
結果、青砥家には僕たちしかいない。
それが一層、非日常の異様さを青砥夫妻に印象付けているのかもしれない。
泰心はぐるりと周囲を見渡し、僕たちのワンボックスカーに目を止めた。
「ありゃ酷いな」
「一級品だろ?」
僕が笑えば、泰心は「参った」と禿頭を叩く。
「しかし、儂は例の物が諸悪の根源だと思うていたんだが……。この様子だと違うようだ」
泰心はワンボックスカーから、家を見据える。
「真治郎さんと、香澄さん…でしたか?」
問いかけに、2人は「はい…」と上擦った声を出す。
「今まで怪異は起きなかったのか?幽霊を見たり、物が勝手に動いたり、声が聞こえたり」
「い、いえ…。夜、鬼が来て………でも、門の前から内には入ってません。家の中では何もありませんでした」
「鬼とは奇怪な」
そう嘯き、新に視線を向ける。
新は眉尻を下げ、自分の頭に指を三本立てた。それで意味は通じる。
泰心もまた、悲痛な表情で息を吐いた。
「では、案内を頼もうか」
「あ…はい。こちらです」
青砥夫妻がそわそわと歩き出す。
その後を新が続き、僕も歩こうとしたところで、泰心が卑猥な笑みを浮かべた。
視線の先は、僕の腕を掴む望海に向けられている。
「娘御、娘御。何やら恐怖体験をしたと聞いた」
「は…はい…」
望海が警戒心を漲らせて頷く。
「御守りは効かなかったか?」
「あ…いえ…。直接的な害はなかったんですけど、恐ろしいモノを見てしまって…。」
例の首吊りのことだ。
望海はそれを思い出したのか、ぶるり、と大きく身震いした。
「御守りだけでは心許なかろう。見えるものを見えなくするのは難しいが、御守り以上に効果覿面。禍々しいモノを撥ね退ける奥義を教えてやろう」
「そんなこと出来るんですか?」
「幽霊や小物妖怪ていどなら効果は絶大」と、泰心は胸を張った。
「なぁに簡単だ。若さんに注いで貰えばいい」
「何を?」
きょとんと目を丸めた望海に、泰心は「そんなの決まっておろう」と、左手で拳を握り、右手の人差し指を突っ込んだ。
ずぼずぼと人差し指を抜き差ししながら、「精液だ」と言い放つ。
望海は真っ赤な顔だ。
この赤は、恥じらいよりも怒りの方だろう。急な下ネタに驚きも隠せていない。
「若さんのを注いで貰えば、数日は若さんのニオイが付こう。そうすれば小物は寄って来まいて。子を孕めば、十月十日は安泰だ」
泰心は拳に人差し指を突っ込んだまま豪快に笑う。
「ゴムは使うな。あれはどうにも好きになれん。あんなのを若さんに使わせるな」
いいな、と泰心は笑いながら歩いて行く。
途中で足を止めていた新が、苦い表情でこちらを見ている。会話は聞こえなくても、泰心の手を動きを見ていれば、セクハラなのだと容易に想像できる。
「さ…さ、最低……あのエロ坊主……」
怒りに眉を吊り上げ、なぜか僕の腕に爪を立てる。
「お前とセックスしたところで、見えるモノは見える。ただ、害を為そうとするモノが減るというだけだ」
「セッ!」
望海は耳まで真っ赤になった。
「まぁ、お前がして欲しいなら、してやるよ」
ふぅ、と耳元に息を吹きかけてやれば、望海は「変態!」と悲鳴を上げて走り去って行く。
なんとも色気がない。
だが、それが面白くもある。
思わず綻びそうになる口元を正し、僕も裏庭へと足を進める。
裏庭へと回り込めば、望海は新の腕を掴み、泰心の動向を見守っている。青砥夫妻も同じく、緊張の面持ちで泰心を見る。
泰心は4人と離れた、敷地の奥でぽつんと佇んでいる。火災で焼失した平屋があったという場所だ。
僕の足は迷いなく泰心へと向かう。
「実に憐れ」
泰心は言って、僕へと向き直った。
「ここに家があったはずだ。そこに憐れな子たちが閉じ込められておったろ?」
「昭和の頃に焼失したらしい」
泰心は神妙な面持ちで頷き、足元に散るガラス片を見下ろす。
焼失した家があった名残は、ガラス片だけではない。煤けた瓦の欠片や、黒ずんだ礎石が随所に見て取れる。
「精神にも肉体にも障害のある子らが閉じ込められておったようだ。最低限の世話しかされない。障害はあっても性欲はある。食欲、睡眠欲、性欲。純然たる生理的欲求だ。結果として、望まれぬ子がぽろぽろ産まれる。流れた子も、数日で死んだ子も多かったようだな。死ねば腐る。腐ると臭うから、床下に穴を掘って棄てる。その繰り返しだ。大人まで生き残った子は何人いたか…」
思わず顔を顰める。
蹈鞴の村を思い出したからだ。
「若さんの目には、如何程の魂が見えておる?」
「それほど多くはない。隠れているモノを察するほど、僕は優秀なレーダーを持っていない。それに関しては、望海の方が優秀だろう」
僕が嘆息すれば、泰心は笑顔で頷く。
「若さんや新のような強者は、そうなのだろう。脅威となり得るモノが殆どない。強者の特権だ。だが、儂は昔取った杵柄というやつだ」
よぉく見える、と泰心は僅かに薄い眉を八の字にした。
「それ故に、深き罪業が分かる」
「消せるか?」
「消すのではない。救うのだ」
正直、違いが良く分からない。
そんな顔をしていたのだろう。泰心の手が、徐に僕の胸を小突いた。
「ここの加減だ」
「まるで徳の高い坊さんだ」
僕の言葉に泰心は瞠目し、呵々と笑った。
「では、始めるかな」
泰心が青砥夫妻に目を向ける。
「頼んでおいた薪は何処ですかな?」
「しゃ、車庫の方に」
「ここで火を焚くので、用意を頼みたい」
泰心の言葉に、青砥真治郎は背筋をまっすぐに伸ばして「はい」と一礼し、駆けだして行った。
続けて、泰心は青砥香澄に目を向ける。
「線香と香炉、リン。あと子供が好きそうなジュースや菓子があると好ましい。ここには子供が多い」
そう指示を出せば、青砥香澄は「分かりました!」と、北の間の窓から家の中へと駆け込んで行った。
「若さん。遺骨は何処だ?」
「必要か?」
「人間とは、自分の体に執着するものだ。肉体から抜けて尚、己が体を欲する」
なるほど、と頷く。
「新、遺骨をここまで運び出す。手伝えるか?」
「分かった」
ごめんね、と新は望海の頭を撫でる。
望海は名残惜しげに手を離すと、不安げな目を僕に向ける。
「お前は青砥真治郎を手伝ってろ。バケツに水を汲んでおくのも忘れるな」
そう言えば、望海は小さく頷き、躊躇いながらも車庫の方へと走って行った。
「泰心。望海は見えるタイプだ。何かあれば守ってくれ」
「セクハラ禁止だよ」
泰心は心外だとばかりに腕を組む。
「何度も言うが、儂は若さんの女に手を出すほど莫迦ではない。例え、珍しい目の持ち主でもな。何より儂の好みは、尻のデカい、エロめの女子だ」
これまた下品に笑う。
新は困ったように眉尻を下げ、僕は泰心を無視して踵を返した。
新と共に蔵へと向かう。
蔵の鍵は開けたままだ。3つの扉を順に開ければ、真っ暗な中に遺骨を納めた段ボール箱が4箱並んでいる。その箱の奥に、男が首を吊っていた。
新は男を見上げ、哀憐の情を向ける。
「ずっと首を吊り続けてるのかな?」
「ずっとじゃないだろ」
僕の言葉に従うように、ロープが千切れて男が落下する。
それの繰り返しだ。
2階の暗がりを見上げれば、ふー、ふー、と息が聞こえる。
ふーふー。
ふーふー。
何だろうかと注視していると、女の絶叫が上がった。それから再び、ふー、ふー、と息を荒げ、息み、また悲鳴を上げる。
子を産んでいるのだ。
産婆などはいないのだろう。励ましの言葉など1つとして聞こえない。
女はひたすら絶叫し、腹の子を引き摺り出してくれと懇願する。懇願する相手は「ととさん」だ。気狂いに泣いて、息む。
そんな女の懇願を、八市の怒声が叱り飛ばした。「侘助かも知れんだろうが!」と、「早く産め!」と怒鳴り散らす。
女は泣き、ふー、ふー、と息を吐き、「金屋子様!」と叫んだ。
何度目かの首吊り男が床に落下したのと同時に、火が付いたように赤ん坊が泣きだした。
女が出産したのだろうに、誰も歓喜の声を上げない。慌ただしく産湯を用意する音もなく、赤ん坊の泣き声は潰えた。
濃厚な血の臭いに、新が慌てて鼻を抑える。
顔色が見る間に悪くなる。
「新。外で待つか?」
「大丈夫……」
血の臭いに胸を悪くしている。
今にも嘔吐きそうな顔で、段ボール箱を抱えて外に出る。
最後の段ボール箱を外に運び出し、蔵の扉を閉めようとした時、僕の前に女が現れた。
座敷牢で犯されていた女とは、別の女だ。それでも、その風貌は良く似ている。
子供かと思うほどに小柄で、赤い襦袢を羽織っている。前を閉じていないので、貧相な体が丸見えだ。張りがなく垂れた乳房に、繁った陰毛。首筋や乳房に歯形を付け、下腹部には紫色の痣が広がる。股座から血を垂らし、女は虚ろな目で「許せぬ…」と憎悪を呟いた。
よくよく見れば、手には草刈鎌を持っている。
女は黒々とした目を見開き、「息子を連れ込もうとしたな!」と激昂した。「約束を破ったな!」と、「甚太には手を出さぬとの約束を違うか!」と、女が草刈鎌を振り被った。
「惟親くん!」
新が叫んで、僕のジャケットを掴んだ。
渾身の力で引っ張られた僕は、後ろの新へと激突する。間髪入れずに振り下ろされた草刈鎌が、僕が立っていた場所に現れた老人の胸に首元に突き刺さった。
野良着姿の老人の絶叫が上がる。
噴き出した血は、塵となって消え失せた。老人も、草刈鎌を振り上げた女も、風に流されるように消えた。
僕と新は地面に尻餅を吐きながら、同時に唾を嚥下した。
「あれは…」
「恐らく…八市だ。日記を書き遺したのが甚太と言ったな」
八市の死因には触れられていなかったが、ここで母親によって殺されていたのだ。
「やりきれないね…」
「八市らしい死に様だがな」
そう言えば、新は少しばかり眉間に皺を寄せた。それから段ボール箱に目を向け、「遺骨って…これだけ?」と指さす。
あの後、新は蔵に入ることはなかった。
望海と一緒にブルーシートを片付け、荷物を車へと運んでいたのだ。忌み物を回収し、遺骨を段ボール箱に詰め込んだのは僕だ。
「全部の骨は見た?」
「大人の…八市たちの骨はあったのかという答えならノーだ。殆どが子供。あとは年齢不詳の骨の欠片だった」
青砥勝甚は蔵の床板も剥がし、捜索したのだろうか。
僕の目には、床板を剥がした跡は見当たらなかった。
「まぁ、僕たちには関係ないな」
ゆっくりと立ち上がり、ズボンの汚れを叩き落とす。
新も立ち上がり、キャスケットの位置を正すと、情けない顔つきで蔵を見上げた。
「泰心さんじゃないけど…人間と言うのは怖いね…」
「怖いんじゃない。弱いんだよ。弱いから、些細なことで頭がイカれる。善行を積むより、全てを誰かのせいにして、恨み、妬み、快楽を貪る方が楽だからな。結果、近親交配によって頭のイカれた子供や孫の量産だ」
蔵の扉を閉める。
「それを断ち切ったのが、勝甚だ」
泰心の方へと目を向ける。
泰心は一斗缶に薪を放り投げ、新聞紙に火を点けている。その少し離れた場所に、望海がバケツ3つを用意し、青砥真治郎が薪を山積みにする。青砥香澄は何処だと探せば、畑の方から現れた。
ホースリールを抱え、ホースを伸ばしながら歩いて来る。
畑の傍らに水道があるらしい。
空を仰げば、東の空に幾つかの星が瞬き始めている。西の空の赤みが、急速に夜へと呑まれている。
「急ごうか」
僕たちは段ボール箱を抱え、泰心の指示に従って段ボール箱を配置していく。
家屋跡の中心部に段ボール箱を据え、その前にジュースや菓子を並べる。玄関だったと目される場所では、一斗缶が炎を上げる。その手前に敷かれたピクニックシートの上で、泰心が胡坐を組んだ。座布団は邪魔なのだろう。硬い表情で、それを後ろに退けた。
泰心の傍らには、金箔を貼った上卓がある。上卓に、香炉とりんだ。りんは法要用の、少し大ぶりだ。
泰心は香炉に線香を数本立てた。
線香の細い煙りが風に揺らぐのを確認し、両手に数珠を巻き付ける。
手を擦り合わせ、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱えた。
「望海ちゃんは…ちょっとキツイんじゃないかな?」
新が、自分の腕にしがみ付く望海の顔を覗き込む。
望海は下唇を噛みしめ、不安げだ。
「今回は望海だけじゃないだろ」と、青砥夫妻に目を向ける。
2人はびくりと肩を跳ね上げ、泰心から僕たちへと向き直った。
「特に青砥真治郎さん。あなたには辛いかもしれません」
「わ、私は………」
青砥真治郎は口籠り、炎に視線を向けて俯く。
浅い息を繰り返す顔色は、今にも卒倒しそうなほど青い。
「青砥さんは、炎にも耐えなければならない。さらに、先祖が犯した業と向き合うという試練がある。青砥さんに罪はありませんが、先祖の業が深すぎる。人間と言うのは、死んでも尚、逆恨みを正当化させようと生者に当たり散らすんです」
これには妻の香澄の顔からも、見る間に血の気が失せる。
互いに手を取り合い、震える足をなんとか踏ん張っているといった具合だ。気を抜けば、そのまま地面に倒れ込んでしまいそうなほど危なっかしい。
「まぁ、亡霊に生きている者をどうこうできる力はありません。気を張り、内に侵入されないようにしていれば大丈夫です。万一にでも憑依されても、あの坊主が祓ってくれますよ」
と、泰心を指さす。
「腕は保証します」
「心の中で、念仏を唱えてると良いですよ。幽霊が触れて来ても、助けを求められても、同情せずに無心で念仏です。怖ければ、目を伏せ、耳を塞ぐのも手かもしれません」
新が微笑む。
青砥夫婦は怯えながらも頷き、よたよたと泰心の後方に座した。
「さて、お前だな。忌み物を封じた今、残念ながら青砥家に安全地帯はなくなった。裏は青砥家の先祖の亡霊、表は昨夜の鬼が忌み物を探し求めているだろうよ」
「惟親くんから離れないようにするしかないよね。あとは自衛として目を閉じておくとかかな?」
「鬼が…入って来るんですか?」
「恐らくな。あれは忌み物を取り戻したいが、鬼となって触れることが叶わない。そのジレンマが境界線を作っていたんだ」
仮にも金屋子神の加護を受けた鉧だ。その効力は失われていたとしても、鬼と化したモノの手には余る。
望海は顔面蒼白だ。新に抱きついていた腕は、怖々と僕に移動する。
ぎゅっと目を瞑って、チワワのように震えている。その様子が、新の父性を擽るらしい。「可愛いね」と頭を撫で、望海を挟むように横に並んだ。
ちーん…と澄んだりんの音が響いた。
途端に、裏庭の空気が張り詰める。
気温が急激に下がり、真冬ほどの寒さの中、息が白む。その中、雪かと見紛うほどの無数のオーブが舞い始めた。
ちーん…。
余韻を残しながらりんが静まると、泰心の読経が始まる。
普段は酒焼けしたような濁声だというのに、読経になると声に重厚感が生じる。人間の坊主が法要時に読むのとは段違いに洗練されている。
人間ではないのだから当然だが、泰心は500年前は修験者だったのだ。150年ほど前に山間の荒れ寺に住み着き、和尚の真似事をしているのだから、その法力は折り紙付きだ。
癪だが、泰心の読経は心地が良い。望海も感嘆のため息を漏らしている。
ただ、オーブの数が異常だ。其処彼処に蟠る気配にも気が抜けない。
気付けば頭上には星空が広がっている。
「なかなか出て来ないね」
新が囁く。
「体力、根気とも、こちらに分がある。焦ることはない」
現に、泰心の声に衰えはない。滔々と経を唱え、合間に薪を火に焼べる。
禿頭に汗が光っている。
片や人間は寒さに震え、緊張感を高めている。
と、一斗缶の中で炎が爆ぜ、盛大に火の粉が舞い上がった。それに驚いた青砥夫妻が小さく悲鳴を上げる。手を擦り合わせ、無心に念仏を唱え始めた。
望海は丸々と目を瞠り、唇を噛んだ。
僕たちには気づき辛い些細な変化を察したようだ。少しばかり、情が湧いた表情に見える。あまり良い兆候とは言えない。
「惟親くん」
新に促され、視線を泰心へと戻す。
泰心を赤々と照らす炎の奥に、暗い影が幾つか揺らいでいる。目を眇めて見守っていれば、その影は子供へと変貌した。
歪な顔、関節を患った手足、知的な問題を抱えた子供もいるようだ。数は8つ。背丈から推察すれば、2歳から14、5歳と言ったところだ。全裸だったり、襤褸布を纏っていたりと、様々な装いで、家屋が建っていた場所をうろうろとしている。
こちらに来ないのは、彼らの目には昔と同じ家の中というイメージが固定されているからだ。ない壁に進路を阻まれ、同じ場所を彷徨っている。
子供の一人がジュースや菓子に気付けば、獣のような叫びを上げた。
それに青砥夫妻の肩が跳ね。
青砥香澄が両手で耳を塞ぎ、蹲った。その背中に青砥真治郎の手が添えられる。
「言葉を話す知能すらなかったんだろうな。あれでは経も意味はなさい」
「成仏…出来ないんですか?」
ぎゅっと僕の腕を握りしめ、望海が震える唇を噛んで僕を仰ぐ。
唇が震えているのは、恐怖ではなく寒さ。瞳の奥に宿るのは、憐憫の情だ。
「時間がかかるだけだよ」
僕に代わって新が答える。
「あの子たちは、世話をされていなかったんだろうね」
甲高く叫ぶ子供たちは、全員がぼさぼさの髪をしている。爪は噛んで千切るのか、指先には血が滲む。きっと口の中も虫歯だらけだったに違いない。
愛情を知らぬままに死んだ子供は、ジュースや菓子が何なのか理解できていない。手に取り、玩具のように投げたり、ぶつけたりしている。
と、最年少と思える子供が、四つん這いで泰心に近づいた。
泰心の膝を叩き、唸り声をあげ、数珠を絡ませた手を掴もうとしている。
そんな子供に、泰心は一瞥すらくれない。読経の声を上げ続け、一斗缶に薪を放り込んだ。その手は流れるような自然な動きでりん棒を持ち、りんを鳴らす。
ちーん、ちーん…、と清廉とした音に、泰心にまとわりついていた子供が離れて行く。
外に出たのだ。
物珍しげに土に触れ、草に触れ、そして、黒々とした目玉は青砥真治郎を認めた。
1人が気づけば、他も次々に気付く。外へ出る道筋を知り、続々と炎の横をすり抜け、今はない玄関を飛び出した。2人が泰心の背中に乗り、3人が青砥夫妻の前に這って行き、2人が裏庭の真ん中で雄叫びを上げ、残りの1人が僕たちの前に歩んで来た。
望海が身を竦ませる。
小さな手が、望海のズボンの裾を掴んだ。
目を潤ませるほど同情していたというのに、今の顔は青を通り越して白い。
それも無理はない。愛らしい姿の子供ではないのだ。黒々とした目と口。カサついた土気色の肌。怒りや恨むという感情すら分からず、ひたすら寂しさや母恋しさを募らせている。それは、母となりそうな者を見繕い、自分たちの側に据えようという殺意でもある。
新が子供の手を払い、僕は望海を両腕で抱え上げた。
望海が慌てて僕の首に腕を回して抱きつき、爪先で空を蹴るように足を跳ね上げる。
「新。青砥夫妻を助けてやれ。連れて逝かれると、依頼料が飛ぶ」
「そうだね」
新が子供を手で払いながら、身を竦ませた2人へと駆け寄って行く。
「連れて…逝くって?幽霊にどうこうできる力はないんですよね?」
「嘘も方便。だから新も警告したろ?同情せずに念仏を唱えてろと。同情すると付け入られる。お前は同情していたからな。だから勘付かれた」
「そ、そんな…。同情したらどうなるんですか?」
「よく心霊スポットで自殺者や交通事故が多いと聞くだろ?仲間になろうと誘い込まれるんだ」
望海が顔を強張らせ、足元で手を伸ばす子供を見下ろす。
「こいつらは、親が恋しい。だから親を作ろうとしている。親になりそうなのを、連れて逝くってことだな」
新がよろめく2人を小脇に抱え、北の間へと運び入れた。
冷静に考えれば人間離れした怪力だが、精神的に疲弊した2人は、新の正体など気にも留めない。必死に念仏を唱え、涙を流して噎せている。土足のままというのも忘れて、2人は抱き合うように竦み上がった。
泰心が声を張り上げた。
呼応するように、並ぶ段ボール箱の下から赤子が次々に這い出して来る。
火が付いたように泣き、母親を求めるように小さな手を空に突き出す。それに感化され、全ての子供が泣き出した。
その泣き声が共振を起こしたように、窓ガラスを震わせる。
耳鳴りも酷い。頭が痛くなる。
望海が両手で耳を抑えてすり寄って来る。青砥夫妻も耳を抑え、丸く蹲った。
僕と新は眉宇を顰め、泰心は読経の声を更に強めた。
赤子の泣き声が弱まった隙をついて、泰心が器用に片手で線香を追加する。薪を焼べ、りんを奏で、再び両手に数珠を巻いて読経に専念する。
泰心は汗だくだ。
炎に照らされた禿頭を、幾筋もの汗が流れている。
鬼気迫る眼力に気圧されるように、赤子たちの体が透け、白い球体となって舞い上がった。オーブとなった魂が、逝き場を求めるように乱舞する。
子供たちが縋りつくのは泰心だ。
望海が恐る恐ると耳から両手を下ろし、ぼろぼろと零れる涙を乱暴に拭う。その感情は恐怖なのか、憐憫なのかは判別できない。
「おい。同情するなよ」
注意すれば、望海は小さく頷きながら僕の肩に顔を埋める。嗚咽を零し、洟を啜り上げると、新が「大丈夫」と頭を撫でる。その甘さと優しさが、望海の涙に拍車をかける。
「シンクロしてるな」
「仕方ないよ。望海ちゃんは見える子なんだから。元々の感受性が強いんだよ」
望海の頭を撫でて、「いっぱい泣いて大丈夫だよ」と甘やかす。
考えたくもないが、僕のジャケットは涙と鼻水が染み込んでいるに違いない。
「来た…」
新が硬い声を出す。
「あれ」と指さす方向へ目を向ければ、畑の方角から青白い炎を纏う鬼がこちらに向かって来ている。
ゾンビ映画のように、体を左右に揺らし、のそり、のそりと亀の歩みだ。
鬼の目的地は何処だろうか。
僕たちが注視する中、鬼はあれほど忌避していた青砥家の敷地を、呆気なく踏み越えた。それからくるりと右手へ曲がると、蔵の前で止まった。
「例の長持にニオイが付いているのかも」
新が囁く。
可能性は高い。
「アレの気配は立ち消えたが、ニオイがするのが不思議なんだろう」
「ああいうのを、執念とか執着とか言うんだろ?怖いよね」
妖怪にも執念や執着というものはあるが、人間のものとは少し違うように思う。
あの鬼は、鉧を見つけてどうするつもりなのか。村は疾うの昔に滅んでいるだろうに。
「惟親くん…」と、新が呟いた。
促されるように泰心に視線を戻せば、泰心の前に、6、7才ほどの少年が立っている。少年の手には燐寸だ。少年は泣きながら丸めた新聞紙に火を点け、家の中に放り投げた。
と、ひと際大きな破裂音が鼓膜を劈いた。
一斗缶には収まりきれない大きな炎が、ごぅごぅと火柱を上げている。
ごぅごぅ、ごぅごぅ。
炎が爆ぜ、緋色の火の粉が舞う。なのに、黒煙は上がらない。
微かに鼻孔を掠めたのは、何かの燃料の臭いだ。
ばきばき、と柱が倒壊する音が聞こえて来る。ガラスが割れ、瓦が落ち、炎が辺りを嘗め尽くす。
「これは記憶だ」
青砥勝甚が火を点けた。
あの家の中に子供がいたのかは分からない。それでも、青砥勝甚は自分の手でケジメをつけ、業を背負う覚悟をしたのだ。
もしかすると、先祖の霊に乞われたのかもしれない。
僕たちが見守る中、少年の姿は消えた。
其処彼処で親を探していた子供たちが、次々とオーブへと姿を変え始めた。僕の足元に纏わりついた子供も、オーブとなって空に舞う。
「同発菩提心 往生安楽国」
ちーん…。
ちーん…。
ちーん…。
りんの音に、火柱の勢いが揺らいだ。
酷く焦げ臭い。
火柱が消えると、オーブの姿も見えなくなっていた。いつの間にか一斗缶の炎も消え、灰色の煙が上がっている。
鬼へと目を向ければ、戸をすり抜け、蔵の中に消えて行った。
気温が上がって行く。上がると言っても11月だ。10度を下回る気温は、人間には寒いはずだ。
「とりあえず終わったか」
ふぅ、と息を吐く。
泰心は禿頭の汗を拭い、「やれやれ」と立ち上がった。
「お疲れ」と新が声をかければ、札束を弾く手つきでにたりと笑う。
それは青砥家に請求してほしい。
「梃子摺ったね」
「何を言うか。まだ終わっとらんだろ」
と、泰心の目は蔵を見ている。
「厄介なのが入りよったわ。例のもんを探しておるんだろうな」
「ああ。泰心の封印が完璧だという証拠だ」
「当然だ」
泰心はにやりと笑い、僕が抱きかかえた望海を見る。
「それにしても娘御」
泰心が口髭を撫でながら歩み寄る。
望海は手の甲で涙を拭い、洟を啜り上げて泰心を見る。
「だから言うただろ。若さんに抱いて貰え。それが一番、手っ取り早い。所詮は人間。だが、女子はここがある」
と、泰心が自身の腹を撫でる。
「ここに取り込める。子を成す種という意味だけではないぞ。種の相手が優れた雄なら、片鱗だけでも、その雄の力の加護に授かれる。儂ら男にはない、羨むべき器官だ」
がはははっ、と泰心は豪快に笑った。
望海は苦虫を噛み潰した表情のままだ。罵詈雑言を飛ばさないのは、泰心の徳の高さを目の当たりしてしまったせいだ。場の雰囲気も相俟って、望海は唇を噛んで沈黙を選んだ。
泰心はにたりと笑い、放心状態の青砥夫妻の下へと足を向ける。泰心にとって、あの2人は大切な金蔓だ。坊主らしく、祓ったモノ、祓えなかったモノの説明をしている。蔵の怪異の始末についても、少しばかり色を付け、諸悪の根源と切って捨てた。
頭の中で算盤を弾く泰心は坊主というより商人だ。
「僕たちはお役御免だろう」
望海を下ろし、緩慢に伸びをする。
「何時だ?」と、新に目を向ければ、新はズボンのポケットからスマホを取り出した。
「もうすぐ1時だね」
「帰るか」
僕の言葉に、望海は深々と安堵の息を吐く。
新は苦笑し、「人魚探しはまた今度だね」と星空を仰いだ。
泰心が豪快に笑いながら青砥家の門を潜ったのは、日も傾く時分だ。
例のオンボロスクーターは見当たらない。
急いで来いと言ったからだろう。
天狗らしく、空を飛ぶ勢いで急行したといったところか。実際には、驚異的な跳躍なのだが、人間の目には飛んでいるように映る。
生臭坊主ながら、泰心は散財癖がなければ天狗の長になれたほどの男だ。どれほどの距離を急いだかは知らないが、息の乱れも、法衣の乱れもない。
「悪いな」
「なんの。若さんに売る恩は多い方が良い」
泰心は言って、ぐるりと周囲を見渡すと眉宇を顰めた。貧相な口髭を撫で、「これは…」と口籠る。剣呑な目つきで正面の家を見据え、その先の澱を見つけるや否や顔を強張らせた。
「真に恐ろしきは人間よ」
峻厳な表情に、望海が驚いたように跳ね上がった。
初見のエロ坊主が、一瞬にして鳴りを潜めたのだ。徳の高さを察したのだろう。泰心の一挙一動を見逃すまいと、じっと泰心を見据えている。
泰心は望海に注目されてもおちゃらけない。ぎょろぎょろとした目玉で隈なく周囲を探った後、ようやく青砥夫妻に向き直った。
「依頼主の青砥さんで間違いないかな?」
「はい。青砥真治郎と申します。こっちが妻の香澄です」
と、青砥夫妻は泰心の貫禄に呑まれたように、緊張に顔を強張らせた。
「依頼は供養と聞いたが、あの夥しい魂に何の念仏も捧げなかったか?」
怒気を孕んだ口調に、青砥夫妻が委縮する。
顔面蒼白で、溺死寸前の金魚と言った感じだ。
相手は単なる坊主ではない。高位の天狗なのだ。そんなものに凄まれれば、望海のような特異な人間でなくとも気圧される。
それを不憫に思ったのか、新が泰心と青砥夫妻の間に立った。
「泰心さん。今は説教ではなく、お仕事の方をお願いします。夜になれば、活発化するかも知れません」
「するかも知れないとは、これまた曖昧な」
「今までアレを牽制していた物が、今はない。お前に依頼した箱に封じたからだ。まぁ、その封が効けば…という嫌味が、表現を曖昧にしている」
にやりと口角を吊り上げれば、泰心もにやりと笑う。
「なるほどなるほど。では、直に憐れな亡霊が湧いて出ることだろうて。誰そ彼。または逢魔時は、人ならざるモノが蠢く刻だからな」
これに望海は怯み、僕の腕にしがみついた。
青砥夫妻も互いの手を取り、びくびくと周囲を見渡している。蔵で新が嘔吐し、望海がパニックになっていた光景が、恐怖として脳裏に焼き付いているのだろう。いつ、何処から、ナニが出て来るか知れないと、鬼胎を抱いている。
青砥家の子供たちは、早々に親戚宅に預けられたらしい。特に騒動を目の当たりにした長女は、今回の件が片付くまで、家に帰って来たくはないと喚いていた。
結果、青砥家には僕たちしかいない。
それが一層、非日常の異様さを青砥夫妻に印象付けているのかもしれない。
泰心はぐるりと周囲を見渡し、僕たちのワンボックスカーに目を止めた。
「ありゃ酷いな」
「一級品だろ?」
僕が笑えば、泰心は「参った」と禿頭を叩く。
「しかし、儂は例の物が諸悪の根源だと思うていたんだが……。この様子だと違うようだ」
泰心はワンボックスカーから、家を見据える。
「真治郎さんと、香澄さん…でしたか?」
問いかけに、2人は「はい…」と上擦った声を出す。
「今まで怪異は起きなかったのか?幽霊を見たり、物が勝手に動いたり、声が聞こえたり」
「い、いえ…。夜、鬼が来て………でも、門の前から内には入ってません。家の中では何もありませんでした」
「鬼とは奇怪な」
そう嘯き、新に視線を向ける。
新は眉尻を下げ、自分の頭に指を三本立てた。それで意味は通じる。
泰心もまた、悲痛な表情で息を吐いた。
「では、案内を頼もうか」
「あ…はい。こちらです」
青砥夫妻がそわそわと歩き出す。
その後を新が続き、僕も歩こうとしたところで、泰心が卑猥な笑みを浮かべた。
視線の先は、僕の腕を掴む望海に向けられている。
「娘御、娘御。何やら恐怖体験をしたと聞いた」
「は…はい…」
望海が警戒心を漲らせて頷く。
「御守りは効かなかったか?」
「あ…いえ…。直接的な害はなかったんですけど、恐ろしいモノを見てしまって…。」
例の首吊りのことだ。
望海はそれを思い出したのか、ぶるり、と大きく身震いした。
「御守りだけでは心許なかろう。見えるものを見えなくするのは難しいが、御守り以上に効果覿面。禍々しいモノを撥ね退ける奥義を教えてやろう」
「そんなこと出来るんですか?」
「幽霊や小物妖怪ていどなら効果は絶大」と、泰心は胸を張った。
「なぁに簡単だ。若さんに注いで貰えばいい」
「何を?」
きょとんと目を丸めた望海に、泰心は「そんなの決まっておろう」と、左手で拳を握り、右手の人差し指を突っ込んだ。
ずぼずぼと人差し指を抜き差ししながら、「精液だ」と言い放つ。
望海は真っ赤な顔だ。
この赤は、恥じらいよりも怒りの方だろう。急な下ネタに驚きも隠せていない。
「若さんのを注いで貰えば、数日は若さんのニオイが付こう。そうすれば小物は寄って来まいて。子を孕めば、十月十日は安泰だ」
泰心は拳に人差し指を突っ込んだまま豪快に笑う。
「ゴムは使うな。あれはどうにも好きになれん。あんなのを若さんに使わせるな」
いいな、と泰心は笑いながら歩いて行く。
途中で足を止めていた新が、苦い表情でこちらを見ている。会話は聞こえなくても、泰心の手を動きを見ていれば、セクハラなのだと容易に想像できる。
「さ…さ、最低……あのエロ坊主……」
怒りに眉を吊り上げ、なぜか僕の腕に爪を立てる。
「お前とセックスしたところで、見えるモノは見える。ただ、害を為そうとするモノが減るというだけだ」
「セッ!」
望海は耳まで真っ赤になった。
「まぁ、お前がして欲しいなら、してやるよ」
ふぅ、と耳元に息を吹きかけてやれば、望海は「変態!」と悲鳴を上げて走り去って行く。
なんとも色気がない。
だが、それが面白くもある。
思わず綻びそうになる口元を正し、僕も裏庭へと足を進める。
裏庭へと回り込めば、望海は新の腕を掴み、泰心の動向を見守っている。青砥夫妻も同じく、緊張の面持ちで泰心を見る。
泰心は4人と離れた、敷地の奥でぽつんと佇んでいる。火災で焼失した平屋があったという場所だ。
僕の足は迷いなく泰心へと向かう。
「実に憐れ」
泰心は言って、僕へと向き直った。
「ここに家があったはずだ。そこに憐れな子たちが閉じ込められておったろ?」
「昭和の頃に焼失したらしい」
泰心は神妙な面持ちで頷き、足元に散るガラス片を見下ろす。
焼失した家があった名残は、ガラス片だけではない。煤けた瓦の欠片や、黒ずんだ礎石が随所に見て取れる。
「精神にも肉体にも障害のある子らが閉じ込められておったようだ。最低限の世話しかされない。障害はあっても性欲はある。食欲、睡眠欲、性欲。純然たる生理的欲求だ。結果として、望まれぬ子がぽろぽろ産まれる。流れた子も、数日で死んだ子も多かったようだな。死ねば腐る。腐ると臭うから、床下に穴を掘って棄てる。その繰り返しだ。大人まで生き残った子は何人いたか…」
思わず顔を顰める。
蹈鞴の村を思い出したからだ。
「若さんの目には、如何程の魂が見えておる?」
「それほど多くはない。隠れているモノを察するほど、僕は優秀なレーダーを持っていない。それに関しては、望海の方が優秀だろう」
僕が嘆息すれば、泰心は笑顔で頷く。
「若さんや新のような強者は、そうなのだろう。脅威となり得るモノが殆どない。強者の特権だ。だが、儂は昔取った杵柄というやつだ」
よぉく見える、と泰心は僅かに薄い眉を八の字にした。
「それ故に、深き罪業が分かる」
「消せるか?」
「消すのではない。救うのだ」
正直、違いが良く分からない。
そんな顔をしていたのだろう。泰心の手が、徐に僕の胸を小突いた。
「ここの加減だ」
「まるで徳の高い坊さんだ」
僕の言葉に泰心は瞠目し、呵々と笑った。
「では、始めるかな」
泰心が青砥夫妻に目を向ける。
「頼んでおいた薪は何処ですかな?」
「しゃ、車庫の方に」
「ここで火を焚くので、用意を頼みたい」
泰心の言葉に、青砥真治郎は背筋をまっすぐに伸ばして「はい」と一礼し、駆けだして行った。
続けて、泰心は青砥香澄に目を向ける。
「線香と香炉、リン。あと子供が好きそうなジュースや菓子があると好ましい。ここには子供が多い」
そう指示を出せば、青砥香澄は「分かりました!」と、北の間の窓から家の中へと駆け込んで行った。
「若さん。遺骨は何処だ?」
「必要か?」
「人間とは、自分の体に執着するものだ。肉体から抜けて尚、己が体を欲する」
なるほど、と頷く。
「新、遺骨をここまで運び出す。手伝えるか?」
「分かった」
ごめんね、と新は望海の頭を撫でる。
望海は名残惜しげに手を離すと、不安げな目を僕に向ける。
「お前は青砥真治郎を手伝ってろ。バケツに水を汲んでおくのも忘れるな」
そう言えば、望海は小さく頷き、躊躇いながらも車庫の方へと走って行った。
「泰心。望海は見えるタイプだ。何かあれば守ってくれ」
「セクハラ禁止だよ」
泰心は心外だとばかりに腕を組む。
「何度も言うが、儂は若さんの女に手を出すほど莫迦ではない。例え、珍しい目の持ち主でもな。何より儂の好みは、尻のデカい、エロめの女子だ」
これまた下品に笑う。
新は困ったように眉尻を下げ、僕は泰心を無視して踵を返した。
新と共に蔵へと向かう。
蔵の鍵は開けたままだ。3つの扉を順に開ければ、真っ暗な中に遺骨を納めた段ボール箱が4箱並んでいる。その箱の奥に、男が首を吊っていた。
新は男を見上げ、哀憐の情を向ける。
「ずっと首を吊り続けてるのかな?」
「ずっとじゃないだろ」
僕の言葉に従うように、ロープが千切れて男が落下する。
それの繰り返しだ。
2階の暗がりを見上げれば、ふー、ふー、と息が聞こえる。
ふーふー。
ふーふー。
何だろうかと注視していると、女の絶叫が上がった。それから再び、ふー、ふー、と息を荒げ、息み、また悲鳴を上げる。
子を産んでいるのだ。
産婆などはいないのだろう。励ましの言葉など1つとして聞こえない。
女はひたすら絶叫し、腹の子を引き摺り出してくれと懇願する。懇願する相手は「ととさん」だ。気狂いに泣いて、息む。
そんな女の懇願を、八市の怒声が叱り飛ばした。「侘助かも知れんだろうが!」と、「早く産め!」と怒鳴り散らす。
女は泣き、ふー、ふー、と息を吐き、「金屋子様!」と叫んだ。
何度目かの首吊り男が床に落下したのと同時に、火が付いたように赤ん坊が泣きだした。
女が出産したのだろうに、誰も歓喜の声を上げない。慌ただしく産湯を用意する音もなく、赤ん坊の泣き声は潰えた。
濃厚な血の臭いに、新が慌てて鼻を抑える。
顔色が見る間に悪くなる。
「新。外で待つか?」
「大丈夫……」
血の臭いに胸を悪くしている。
今にも嘔吐きそうな顔で、段ボール箱を抱えて外に出る。
最後の段ボール箱を外に運び出し、蔵の扉を閉めようとした時、僕の前に女が現れた。
座敷牢で犯されていた女とは、別の女だ。それでも、その風貌は良く似ている。
子供かと思うほどに小柄で、赤い襦袢を羽織っている。前を閉じていないので、貧相な体が丸見えだ。張りがなく垂れた乳房に、繁った陰毛。首筋や乳房に歯形を付け、下腹部には紫色の痣が広がる。股座から血を垂らし、女は虚ろな目で「許せぬ…」と憎悪を呟いた。
よくよく見れば、手には草刈鎌を持っている。
女は黒々とした目を見開き、「息子を連れ込もうとしたな!」と激昂した。「約束を破ったな!」と、「甚太には手を出さぬとの約束を違うか!」と、女が草刈鎌を振り被った。
「惟親くん!」
新が叫んで、僕のジャケットを掴んだ。
渾身の力で引っ張られた僕は、後ろの新へと激突する。間髪入れずに振り下ろされた草刈鎌が、僕が立っていた場所に現れた老人の胸に首元に突き刺さった。
野良着姿の老人の絶叫が上がる。
噴き出した血は、塵となって消え失せた。老人も、草刈鎌を振り上げた女も、風に流されるように消えた。
僕と新は地面に尻餅を吐きながら、同時に唾を嚥下した。
「あれは…」
「恐らく…八市だ。日記を書き遺したのが甚太と言ったな」
八市の死因には触れられていなかったが、ここで母親によって殺されていたのだ。
「やりきれないね…」
「八市らしい死に様だがな」
そう言えば、新は少しばかり眉間に皺を寄せた。それから段ボール箱に目を向け、「遺骨って…これだけ?」と指さす。
あの後、新は蔵に入ることはなかった。
望海と一緒にブルーシートを片付け、荷物を車へと運んでいたのだ。忌み物を回収し、遺骨を段ボール箱に詰め込んだのは僕だ。
「全部の骨は見た?」
「大人の…八市たちの骨はあったのかという答えならノーだ。殆どが子供。あとは年齢不詳の骨の欠片だった」
青砥勝甚は蔵の床板も剥がし、捜索したのだろうか。
僕の目には、床板を剥がした跡は見当たらなかった。
「まぁ、僕たちには関係ないな」
ゆっくりと立ち上がり、ズボンの汚れを叩き落とす。
新も立ち上がり、キャスケットの位置を正すと、情けない顔つきで蔵を見上げた。
「泰心さんじゃないけど…人間と言うのは怖いね…」
「怖いんじゃない。弱いんだよ。弱いから、些細なことで頭がイカれる。善行を積むより、全てを誰かのせいにして、恨み、妬み、快楽を貪る方が楽だからな。結果、近親交配によって頭のイカれた子供や孫の量産だ」
蔵の扉を閉める。
「それを断ち切ったのが、勝甚だ」
泰心の方へと目を向ける。
泰心は一斗缶に薪を放り投げ、新聞紙に火を点けている。その少し離れた場所に、望海がバケツ3つを用意し、青砥真治郎が薪を山積みにする。青砥香澄は何処だと探せば、畑の方から現れた。
ホースリールを抱え、ホースを伸ばしながら歩いて来る。
畑の傍らに水道があるらしい。
空を仰げば、東の空に幾つかの星が瞬き始めている。西の空の赤みが、急速に夜へと呑まれている。
「急ごうか」
僕たちは段ボール箱を抱え、泰心の指示に従って段ボール箱を配置していく。
家屋跡の中心部に段ボール箱を据え、その前にジュースや菓子を並べる。玄関だったと目される場所では、一斗缶が炎を上げる。その手前に敷かれたピクニックシートの上で、泰心が胡坐を組んだ。座布団は邪魔なのだろう。硬い表情で、それを後ろに退けた。
泰心の傍らには、金箔を貼った上卓がある。上卓に、香炉とりんだ。りんは法要用の、少し大ぶりだ。
泰心は香炉に線香を数本立てた。
線香の細い煙りが風に揺らぐのを確認し、両手に数珠を巻き付ける。
手を擦り合わせ、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と唱えた。
「望海ちゃんは…ちょっとキツイんじゃないかな?」
新が、自分の腕にしがみ付く望海の顔を覗き込む。
望海は下唇を噛みしめ、不安げだ。
「今回は望海だけじゃないだろ」と、青砥夫妻に目を向ける。
2人はびくりと肩を跳ね上げ、泰心から僕たちへと向き直った。
「特に青砥真治郎さん。あなたには辛いかもしれません」
「わ、私は………」
青砥真治郎は口籠り、炎に視線を向けて俯く。
浅い息を繰り返す顔色は、今にも卒倒しそうなほど青い。
「青砥さんは、炎にも耐えなければならない。さらに、先祖が犯した業と向き合うという試練がある。青砥さんに罪はありませんが、先祖の業が深すぎる。人間と言うのは、死んでも尚、逆恨みを正当化させようと生者に当たり散らすんです」
これには妻の香澄の顔からも、見る間に血の気が失せる。
互いに手を取り合い、震える足をなんとか踏ん張っているといった具合だ。気を抜けば、そのまま地面に倒れ込んでしまいそうなほど危なっかしい。
「まぁ、亡霊に生きている者をどうこうできる力はありません。気を張り、内に侵入されないようにしていれば大丈夫です。万一にでも憑依されても、あの坊主が祓ってくれますよ」
と、泰心を指さす。
「腕は保証します」
「心の中で、念仏を唱えてると良いですよ。幽霊が触れて来ても、助けを求められても、同情せずに無心で念仏です。怖ければ、目を伏せ、耳を塞ぐのも手かもしれません」
新が微笑む。
青砥夫婦は怯えながらも頷き、よたよたと泰心の後方に座した。
「さて、お前だな。忌み物を封じた今、残念ながら青砥家に安全地帯はなくなった。裏は青砥家の先祖の亡霊、表は昨夜の鬼が忌み物を探し求めているだろうよ」
「惟親くんから離れないようにするしかないよね。あとは自衛として目を閉じておくとかかな?」
「鬼が…入って来るんですか?」
「恐らくな。あれは忌み物を取り戻したいが、鬼となって触れることが叶わない。そのジレンマが境界線を作っていたんだ」
仮にも金屋子神の加護を受けた鉧だ。その効力は失われていたとしても、鬼と化したモノの手には余る。
望海は顔面蒼白だ。新に抱きついていた腕は、怖々と僕に移動する。
ぎゅっと目を瞑って、チワワのように震えている。その様子が、新の父性を擽るらしい。「可愛いね」と頭を撫で、望海を挟むように横に並んだ。
ちーん…と澄んだりんの音が響いた。
途端に、裏庭の空気が張り詰める。
気温が急激に下がり、真冬ほどの寒さの中、息が白む。その中、雪かと見紛うほどの無数のオーブが舞い始めた。
ちーん…。
余韻を残しながらりんが静まると、泰心の読経が始まる。
普段は酒焼けしたような濁声だというのに、読経になると声に重厚感が生じる。人間の坊主が法要時に読むのとは段違いに洗練されている。
人間ではないのだから当然だが、泰心は500年前は修験者だったのだ。150年ほど前に山間の荒れ寺に住み着き、和尚の真似事をしているのだから、その法力は折り紙付きだ。
癪だが、泰心の読経は心地が良い。望海も感嘆のため息を漏らしている。
ただ、オーブの数が異常だ。其処彼処に蟠る気配にも気が抜けない。
気付けば頭上には星空が広がっている。
「なかなか出て来ないね」
新が囁く。
「体力、根気とも、こちらに分がある。焦ることはない」
現に、泰心の声に衰えはない。滔々と経を唱え、合間に薪を火に焼べる。
禿頭に汗が光っている。
片や人間は寒さに震え、緊張感を高めている。
と、一斗缶の中で炎が爆ぜ、盛大に火の粉が舞い上がった。それに驚いた青砥夫妻が小さく悲鳴を上げる。手を擦り合わせ、無心に念仏を唱え始めた。
望海は丸々と目を瞠り、唇を噛んだ。
僕たちには気づき辛い些細な変化を察したようだ。少しばかり、情が湧いた表情に見える。あまり良い兆候とは言えない。
「惟親くん」
新に促され、視線を泰心へと戻す。
泰心を赤々と照らす炎の奥に、暗い影が幾つか揺らいでいる。目を眇めて見守っていれば、その影は子供へと変貌した。
歪な顔、関節を患った手足、知的な問題を抱えた子供もいるようだ。数は8つ。背丈から推察すれば、2歳から14、5歳と言ったところだ。全裸だったり、襤褸布を纏っていたりと、様々な装いで、家屋が建っていた場所をうろうろとしている。
こちらに来ないのは、彼らの目には昔と同じ家の中というイメージが固定されているからだ。ない壁に進路を阻まれ、同じ場所を彷徨っている。
子供の一人がジュースや菓子に気付けば、獣のような叫びを上げた。
それに青砥夫妻の肩が跳ね。
青砥香澄が両手で耳を塞ぎ、蹲った。その背中に青砥真治郎の手が添えられる。
「言葉を話す知能すらなかったんだろうな。あれでは経も意味はなさい」
「成仏…出来ないんですか?」
ぎゅっと僕の腕を握りしめ、望海が震える唇を噛んで僕を仰ぐ。
唇が震えているのは、恐怖ではなく寒さ。瞳の奥に宿るのは、憐憫の情だ。
「時間がかかるだけだよ」
僕に代わって新が答える。
「あの子たちは、世話をされていなかったんだろうね」
甲高く叫ぶ子供たちは、全員がぼさぼさの髪をしている。爪は噛んで千切るのか、指先には血が滲む。きっと口の中も虫歯だらけだったに違いない。
愛情を知らぬままに死んだ子供は、ジュースや菓子が何なのか理解できていない。手に取り、玩具のように投げたり、ぶつけたりしている。
と、最年少と思える子供が、四つん這いで泰心に近づいた。
泰心の膝を叩き、唸り声をあげ、数珠を絡ませた手を掴もうとしている。
そんな子供に、泰心は一瞥すらくれない。読経の声を上げ続け、一斗缶に薪を放り込んだ。その手は流れるような自然な動きでりん棒を持ち、りんを鳴らす。
ちーん、ちーん…、と清廉とした音に、泰心にまとわりついていた子供が離れて行く。
外に出たのだ。
物珍しげに土に触れ、草に触れ、そして、黒々とした目玉は青砥真治郎を認めた。
1人が気づけば、他も次々に気付く。外へ出る道筋を知り、続々と炎の横をすり抜け、今はない玄関を飛び出した。2人が泰心の背中に乗り、3人が青砥夫妻の前に這って行き、2人が裏庭の真ん中で雄叫びを上げ、残りの1人が僕たちの前に歩んで来た。
望海が身を竦ませる。
小さな手が、望海のズボンの裾を掴んだ。
目を潤ませるほど同情していたというのに、今の顔は青を通り越して白い。
それも無理はない。愛らしい姿の子供ではないのだ。黒々とした目と口。カサついた土気色の肌。怒りや恨むという感情すら分からず、ひたすら寂しさや母恋しさを募らせている。それは、母となりそうな者を見繕い、自分たちの側に据えようという殺意でもある。
新が子供の手を払い、僕は望海を両腕で抱え上げた。
望海が慌てて僕の首に腕を回して抱きつき、爪先で空を蹴るように足を跳ね上げる。
「新。青砥夫妻を助けてやれ。連れて逝かれると、依頼料が飛ぶ」
「そうだね」
新が子供を手で払いながら、身を竦ませた2人へと駆け寄って行く。
「連れて…逝くって?幽霊にどうこうできる力はないんですよね?」
「嘘も方便。だから新も警告したろ?同情せずに念仏を唱えてろと。同情すると付け入られる。お前は同情していたからな。だから勘付かれた」
「そ、そんな…。同情したらどうなるんですか?」
「よく心霊スポットで自殺者や交通事故が多いと聞くだろ?仲間になろうと誘い込まれるんだ」
望海が顔を強張らせ、足元で手を伸ばす子供を見下ろす。
「こいつらは、親が恋しい。だから親を作ろうとしている。親になりそうなのを、連れて逝くってことだな」
新がよろめく2人を小脇に抱え、北の間へと運び入れた。
冷静に考えれば人間離れした怪力だが、精神的に疲弊した2人は、新の正体など気にも留めない。必死に念仏を唱え、涙を流して噎せている。土足のままというのも忘れて、2人は抱き合うように竦み上がった。
泰心が声を張り上げた。
呼応するように、並ぶ段ボール箱の下から赤子が次々に這い出して来る。
火が付いたように泣き、母親を求めるように小さな手を空に突き出す。それに感化され、全ての子供が泣き出した。
その泣き声が共振を起こしたように、窓ガラスを震わせる。
耳鳴りも酷い。頭が痛くなる。
望海が両手で耳を抑えてすり寄って来る。青砥夫妻も耳を抑え、丸く蹲った。
僕と新は眉宇を顰め、泰心は読経の声を更に強めた。
赤子の泣き声が弱まった隙をついて、泰心が器用に片手で線香を追加する。薪を焼べ、りんを奏で、再び両手に数珠を巻いて読経に専念する。
泰心は汗だくだ。
炎に照らされた禿頭を、幾筋もの汗が流れている。
鬼気迫る眼力に気圧されるように、赤子たちの体が透け、白い球体となって舞い上がった。オーブとなった魂が、逝き場を求めるように乱舞する。
子供たちが縋りつくのは泰心だ。
望海が恐る恐ると耳から両手を下ろし、ぼろぼろと零れる涙を乱暴に拭う。その感情は恐怖なのか、憐憫なのかは判別できない。
「おい。同情するなよ」
注意すれば、望海は小さく頷きながら僕の肩に顔を埋める。嗚咽を零し、洟を啜り上げると、新が「大丈夫」と頭を撫でる。その甘さと優しさが、望海の涙に拍車をかける。
「シンクロしてるな」
「仕方ないよ。望海ちゃんは見える子なんだから。元々の感受性が強いんだよ」
望海の頭を撫でて、「いっぱい泣いて大丈夫だよ」と甘やかす。
考えたくもないが、僕のジャケットは涙と鼻水が染み込んでいるに違いない。
「来た…」
新が硬い声を出す。
「あれ」と指さす方向へ目を向ければ、畑の方角から青白い炎を纏う鬼がこちらに向かって来ている。
ゾンビ映画のように、体を左右に揺らし、のそり、のそりと亀の歩みだ。
鬼の目的地は何処だろうか。
僕たちが注視する中、鬼はあれほど忌避していた青砥家の敷地を、呆気なく踏み越えた。それからくるりと右手へ曲がると、蔵の前で止まった。
「例の長持にニオイが付いているのかも」
新が囁く。
可能性は高い。
「アレの気配は立ち消えたが、ニオイがするのが不思議なんだろう」
「ああいうのを、執念とか執着とか言うんだろ?怖いよね」
妖怪にも執念や執着というものはあるが、人間のものとは少し違うように思う。
あの鬼は、鉧を見つけてどうするつもりなのか。村は疾うの昔に滅んでいるだろうに。
「惟親くん…」と、新が呟いた。
促されるように泰心に視線を戻せば、泰心の前に、6、7才ほどの少年が立っている。少年の手には燐寸だ。少年は泣きながら丸めた新聞紙に火を点け、家の中に放り投げた。
と、ひと際大きな破裂音が鼓膜を劈いた。
一斗缶には収まりきれない大きな炎が、ごぅごぅと火柱を上げている。
ごぅごぅ、ごぅごぅ。
炎が爆ぜ、緋色の火の粉が舞う。なのに、黒煙は上がらない。
微かに鼻孔を掠めたのは、何かの燃料の臭いだ。
ばきばき、と柱が倒壊する音が聞こえて来る。ガラスが割れ、瓦が落ち、炎が辺りを嘗め尽くす。
「これは記憶だ」
青砥勝甚が火を点けた。
あの家の中に子供がいたのかは分からない。それでも、青砥勝甚は自分の手でケジメをつけ、業を背負う覚悟をしたのだ。
もしかすると、先祖の霊に乞われたのかもしれない。
僕たちが見守る中、少年の姿は消えた。
其処彼処で親を探していた子供たちが、次々とオーブへと姿を変え始めた。僕の足元に纏わりついた子供も、オーブとなって空に舞う。
「同発菩提心 往生安楽国」
ちーん…。
ちーん…。
ちーん…。
りんの音に、火柱の勢いが揺らいだ。
酷く焦げ臭い。
火柱が消えると、オーブの姿も見えなくなっていた。いつの間にか一斗缶の炎も消え、灰色の煙が上がっている。
鬼へと目を向ければ、戸をすり抜け、蔵の中に消えて行った。
気温が上がって行く。上がると言っても11月だ。10度を下回る気温は、人間には寒いはずだ。
「とりあえず終わったか」
ふぅ、と息を吐く。
泰心は禿頭の汗を拭い、「やれやれ」と立ち上がった。
「お疲れ」と新が声をかければ、札束を弾く手つきでにたりと笑う。
それは青砥家に請求してほしい。
「梃子摺ったね」
「何を言うか。まだ終わっとらんだろ」
と、泰心の目は蔵を見ている。
「厄介なのが入りよったわ。例のもんを探しておるんだろうな」
「ああ。泰心の封印が完璧だという証拠だ」
「当然だ」
泰心はにやりと笑い、僕が抱きかかえた望海を見る。
「それにしても娘御」
泰心が口髭を撫でながら歩み寄る。
望海は手の甲で涙を拭い、洟を啜り上げて泰心を見る。
「だから言うただろ。若さんに抱いて貰え。それが一番、手っ取り早い。所詮は人間。だが、女子はここがある」
と、泰心が自身の腹を撫でる。
「ここに取り込める。子を成す種という意味だけではないぞ。種の相手が優れた雄なら、片鱗だけでも、その雄の力の加護に授かれる。儂ら男にはない、羨むべき器官だ」
がはははっ、と泰心は豪快に笑った。
望海は苦虫を噛み潰した表情のままだ。罵詈雑言を飛ばさないのは、泰心の徳の高さを目の当たりしてしまったせいだ。場の雰囲気も相俟って、望海は唇を噛んで沈黙を選んだ。
泰心はにたりと笑い、放心状態の青砥夫妻の下へと足を向ける。泰心にとって、あの2人は大切な金蔓だ。坊主らしく、祓ったモノ、祓えなかったモノの説明をしている。蔵の怪異の始末についても、少しばかり色を付け、諸悪の根源と切って捨てた。
頭の中で算盤を弾く泰心は坊主というより商人だ。
「僕たちはお役御免だろう」
望海を下ろし、緩慢に伸びをする。
「何時だ?」と、新に目を向ければ、新はズボンのポケットからスマホを取り出した。
「もうすぐ1時だね」
「帰るか」
僕の言葉に、望海は深々と安堵の息を吐く。
新は苦笑し、「人魚探しはまた今度だね」と星空を仰いだ。
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