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狂気(R15)
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虫籠窓が開けられれば、風が流れ、埃っぽさが軽減したかもしれない。
残念なことに、虫籠窓は格子が邪魔で開くことが出来ない固定窓だ。しかも、ここの虫籠窓は小さく、追加で格子を設けているので閉塞感を煽る。
さらに2階は座敷牢のレイアウトだ。
1階は入り口があったから幾分マシだったが、上は格子が邪魔で明かりが届かない。微々たる風も流れず、埃と黴臭さが際立つ。
「ここは空気が腐ってるな」
鼻をひくつかせ、足元を見下ろす。
歪な悪臭の原因は、原型を留めていない畳かもしれない。そう思うと、床が抜けないか心配になる。
片や新は、くしゃみを連発している。
「鼻のむずむずが止まらないよ…」
鼻声で弱音を吐きつつも、片手で軽々と10キロ近い長持の蓋を持ち上げた。薄目を開き、蓋を置く場所を確認しならが、「べくちょ!」と鬼らしからぬくしゃみをする。
壁に蓋を立て掛け、「マスクを用意しとくんだった」と、なんとも情けない顔だ。
「鬼のくせに鼻炎持ちじゃないだろうな?」
「くせにって差別だよ。こんなに空気が悪ければ、くしゃみくらい出るよ」
新はぐずぐずと洟を啜り上げ、ちょん、と桐箪笥を指さす。
「私は箪笥を片付けるから、惟親くんは長持を頼むね」
「まぁ、手分けをした方が早いか」
嘆息して、「頼む」と頷く。
長持には子供の衣類が詰まっている。丁寧に麻紐で括り、黄ばんだ半紙に子供の名が記される。寛一、真治郎とあるから青砥兄弟の子供時代のものなのだろう。
小さな制服に制帽。丹前。七五三で着たのか、着物もある。衣類の他には通知表、作文、両親の似顔絵、拉げたランドセルなども保管されている。
やはり、青砥勝甚は物を捨てられない性格のようだ。
「こっちは着物だね」
新は言って、畳紙に納まった着物を4着ほど抱え上げた。
「さすがに着物を段ボール箱には詰め込めないから、このまま持って行くよ」
何往復するつもりだろうか。
人間らしくを心掛けてはいるようだが、覗いた引き出しには着物がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
乱暴な保存方法だ。きっと殆どの着物は虫食いや染みで駄目になっているだろうに、新は律儀に着物を抱えて蔵を出て行った。
僕も段ボール箱に衣類を投げ込む。ランドセルに作文などの雑多な物を入れ、衣類の上に積み上げると、下へと運ぶ。入り口に段ボール箱を置いておけば、戻って来た新が持って行くだろう。
面倒なことは新に任せ、新しく段ボール箱を組み立て、2階へと運ぶ。
再び衣類を投げ込み、長持が空になると蓋を元に戻す。次いで2棹目の長持の蓋を持ち上げ、舞い上がった埃に息を止める。
新ではないが、懐中電灯の光にきらきらと踊る埃を見ると、マスクくらいはしておけばよかったと後悔してしまう。慎重に蓋を床に置くと同時に、盛大なくしゃみが飛び出した。
「惟親くん、大丈夫かい?」
入り口から新が見上げている。
鼻をぐずつかせながら手を振ると、新は黙って僕が置いた段ボール箱を持って行った。
長持の中を覗けば、黴とアンモニア臭、酸っぱい悪臭がこびり付いた子供の着物が納まっている。なんとも不快な臭いに、思わず鼻を抓む。
黄ばみ、紙魚に喰われた半紙には、勝甚、さよ子、真千子、祥子、潔子と書かれている。先ほどの長持は依頼人の兄弟のものばかりだったが、こっちは違う。3個目の段ボール箱に衣類を投げ込む頃には、別の名前が出て来た。
甚護、幸子、やよい、塔子。その次は、甚市、貞子、キヨ、ネネ子…だ。女児の名が多い。そして、男児の名前には”甚”が付いている。
「服が多そうだね」
階段を軋ませ、新が戻って来た。
「古いのは虫食いが酷そうだがな」
「まぁ、仕方ないね」
新は手早く着物を抱えると、下へと下りて行き、直ぐに戻って来た。
「蔵の前で望海ちゃんが待っててくれてるんだ」
僕の顔に疑問でも張り付いていたのだろうか。訊いてもいないのに、新が答える。
「お守りがあるとはいえ、中に入れるなよ」
「そこは十分に注意してるよ」
新は苦笑し、着物を抱えて忙しなく下へ上へと行き来する。
ついでに段ボール箱を組み立て、持って来る。空の段ボール箱を置くと、衣類を詰め終えた段ボール箱を運び出して行くから、僕としては楽だ。
最後の長持を残し、箪笥の中のものを段ボール箱に投げ込む。足袋に襦袢が多い。草臥れ、黒ずんだ帯に帯留めもある。衣装とは別の、古い手紙や年賀状の束の他、領収書までが出て来た。
もう何もないかと探っていると、抽斗の底板の裏に、和綴の本が挟まっているのを見つけた。何度も抽斗を開け閉めしたのだろう。向こう板と背板で潰され、拉げている。破れや紙魚も酷い。
埃を手で叩き落とし、慎重に折れを伸ばす。
「日記か?」
年号は明治元年とある。
辛うじて、祖父八市回顧録と読めた。
「八市…」
胸の奥にムズムズとした不快感が込み上げる。
ゆっくりとページを捲る。
明治元年なので、まだ青砥の姓は出て来ない。庶民が苗字を許可されたのは、明治3年からだ。
書いたのは八市の孫、甚太とある。
また甚だ。自ずと甚之助を思い出す。
甚太は農民の子でありながら、多少の学があったようだ。字は雑だし、誤字も目立つが、文章として読める。
日記は、甚太が生前の八市から聞いた懺悔と、子々孫々に遺してしまった罪過への謝罪から始まる。
八市は甚太に、蹈鞴場のことも告白したようだ。刀持ちをし、多くの罪人を罰し、村に復讐すべく行った非道までも語っている。
途中、甚太の苦悩が綴られ、八市と父への罵倒の言葉が挟まれる。
甚太は特別八市を嫌っている。
途切れ途切れの文章から、八市が息子を犯していたことが暗喩されている。そのせいで父がイカれたのだと、父への憐憫と嫌悪が書き殴られる。
父親の名前は、甚之助。
「吐き気がするな」
顔を顰め、日記を読み進める。
一頻り八市と父の呪いの言葉が綴られると、再び、八市の過去に触れる。
御神体を盗み、村から逃げた八市は、しばらくは陰間と行動を共にしていたようだ。陰間の名は侘助。侘助は八市との関係を続けながら、稼ぎの為にと客を取り、長門國で客の男に刺殺されている。
「惟親くん?」
ぽん、と肩に手を置かれて、僕は詰めていた息を吐いた。
日記を閉じ、段ボール箱に投げ入れる。
「向こうの進捗状況は?」
「順調だよ」
「そうか。その段ボール箱を持って行ってくれ。で、泰心から受け取った箱を頼む」
新は顔を強張らせ、最後の長持へと目を向ける。
ごくり、と唾を嚥下する音が聞こえた。
「大丈夫か?」
「大丈夫…。段ボール箱も追加で持って来るよ」
新は言って、段ボール箱を抱え上げる。
気のせいか、先程よりも足取りは重く、のろのろしている。
「仕方ないか…」
ため息を吐いて、邪魔な長持を少しだけ移動させる。本来なら、隅に積み上げたいところだが、そんな場面を青砥家の人間に見られては厄介だ。
長持の重さは30キロ以上ある。
それを1人で積み上げていたら、何と言われるか知れない。不審に思われぬ程度に、2棹の長持の間に道を作る。窮屈だが、せいぜい1メートルほどだ。間をすり抜けると、不自然なスペースがある。まるで2棹の長持はバリケードで、このスペースは3棹目の長持には近づくなという警告にも見える。
と、蔵の気温が急激に下がり始めた。
吐き出す息が白く濁り、其処彼処で空気が爆ぜる。最後の1棹を残し、他の長持が消え失せた。足下を見れば、毛羽立っていた畳が修復されている。そこに1組の煎餅布団が現れた。部屋の隅には、無造作に木桶のおまるがある。
まさに座敷牢だ。
「今まで静かだったのに、急なアピールだな」
失笑してしまう。
それが癪に障ったのか、長持の影に女が姿を現した。
丈足らずの粗末な着物に、痩せた手足。髪は梳いているようだが、湯浴みはしていないのだろう。ハリもコシもない黒髪に、白い虱が目立つ。目は虚ろ。肌は荒れ、粉を吹いている。
膝を抱え、老耄として見えるが、実際は20代半ばほどだろう。
もしかすると、もっと若いかもしれない。
僕がしげしげと女を見ていると、かたり、と足下で音がした。
がらがら…、と何かを引っ張り出し、それを固定する音が続く。次いで、とん、とん、とん…、とナニかが階段を上って来る気配に、女が怯えたように身を竦める。ぎょろりとした目玉が、僕の後方を見ている。
その視線を辿れば、鍵を解錠する音がした。
ぎぃ…、と木戸が持ち上がる。
ふー、ふー、と興奮した呼吸で、薄い頭髪で髷を結った男が姿を見せた。継ぎ接ぎの目立つ粗末な着物は、昔の農民そのものだが、小柄な体躯は筋肉質だ。首も太く、手燭を持つ腕もしっかりしている。
日に焼けた浅黒い肌には染みが浮き、狂気を帯びた双眸には、邪欲な光が宿る。
「八市か」
僕は八市の顔を知らない。
あの村に鏡はなかったし、自身の顔を水面に映して身嗜みを整えるタイプでもなかった。それでも、刀身に映った歪な姿を見たことはある。
角ばった顎をした、無骨な顔つきだった。
目の前に現れた八市は、あれから20年は年を経て見える。
相応の皺や染み、白髪が目立つ。畑仕事に精を出しているのか、厳つい手は節くれ立っている。
八市は僕の横をすり抜けると、下卑た目で女を一瞥し、長持の前で足を止めた。蓋に手をかけ、「ふん!」と唸りを上げて蓋をずらした。そうして中から取り出したのは、夏蔦に巻かれた鉧だ。
八市は鉧を床に置くと、女の前で腰を下ろした。
「とく。元気だったか?」
くつくつと喉を震わせ、「そんな顔をするな」と八市は卑しく目を細める。
「なぁ、とく。お前は、再び俺に息子を授けてくれるのかもしれん」
八市の無骨な手が、娘――とくの太腿の撫で、股座に忍ぶ。
とくは抵抗しない。善い反応も見せない。怯えた体を震わせ、ひび割れた唇を血が滲むほど噛んでいる。
「妻に娘が5人。4人の娘と交わっても男が産まれず、流れた子もみんな女だった。娘たちも産後の肥立ちが悪く死んでしまった。だが、最後のお前が、子を為してくれた。可愛い、可愛い甚之助だ」
ああ、八市は壊れたままだ。
村を出てから、さらにイカれ具合が増している。
「甚之助は元気にしている」
とくは泣いている。
「仕方なかろう?」
八市は言って、乱暴にとくの着物を剥く。
小さな乳房に張りはなく、年寄りのように垂れる。手足も細く、肌も粉を拭き、ひび割れている。女は震えているが、八市は躊躇うことなく乳房にしゃぶり付いた。
痛みがあるのか、とくが「いやいや」と抵抗する。それでも、栄養不足の細い手足では、筋骨逞しい八市を払い除けることはできない。
その抵抗が面白いとばかりに、八市は着物の前を払い、とくの股座に体を捻じ込んだ。片手でとくの両手を拘束し、片手で自身の一物を掴んで腰を揺らしている。とくが足をばたつかせているから、上手く挿入できないのだろう。
それでも強引に穿たれた熱に、「痛い!」と、とくは涙を流した。
性急に腰を打ち鳴らす音と、八市の獣じみた呼気。とくの悲鳴に似た喘ぎ声に、狂気の連鎖を感じる。
悍ましいばかりだが、昔は近親相姦は珍しくなかった。父娘、兄妹といった具合だ。
それでも、御神体だったものの前で娘を犯し、生まれた子に昔の男の名前を付けるなど、常軌を逸している。
甚太の遺した日記を思い出せば、異常性は明白だ。
八市は甚之助に執着していたのだ。
妻も娘たちも、甚之助を産ませるための道具でしかなかった。なかなか男児が産まれなかったのは、金屋子神の嫉妬と思ったに違いない。それで、醜い女神の嫉妬を煽るように、この場で娘をレイプし、男児を産ませることに成功した。
恐らく、息子も12で組み敷かれるのだろうが、甚太がいることから、世間体で嫁を貰っているのが分かる。
蔵を建てるくらいだ。
八市は村で一目置かれていたに違いない。下手をすると、世話役のようなこともやっていたかもしれない。
だというのに、八市は壊れたように笑っている。
「侘助も…産ませなければな…」
八市はとくに覆いかぶさり、着物を脱ぎ捨てた。
体中のあちこちに切り傷がある。痣もある。その背中に、とくが爪を立てる。
「まだまだ…お前を孕ませねばならん。だが……鬼が来る……」
八市がとくの肩に噛みついた。
「侘助も…産ませなければならぬと言うのに……夜な夜な鬼が来る。御神体を返せと、怨讐に取り憑かれている。村など疾うに滅びただろうに!神の加護があると言うなら、鬼を祓え…!」
叫び、八市は鉧を一瞥した。
「あれは由左衛門と玄だ…」と、呼吸を整えるように腰の動きを止めた。
とくは両手で顔を覆い、八市が果てるのを待っている。
八市が腰を動かす度、喘ぎ、身を捩り、下腹部に手を伸ばす。
「とくよ。もう女児は要らぬ」
八市がぎょろりと目玉を回し、名案とばかりに鉧を見た。
「そうだ。女児は神にくれてやろう。金屋子よ。血が足りぬなら、次に生まれた女児をやる!だから…鬼を…鬼を祓ってくれ!」
なんという狂気だろうか。
八市は呵々と笑い、とくの胸に吸いついた。
その悍ましい光景を掻き消したのは、「うお!」という新の野太い声だ。
息が白濁するほどの冷気は静まり、長持の上の鉧が消えた。八市ととくの姿も煙の如く消え、敷かれた煎餅布団に変わり、長持と桐箪笥が戻った。
胸糞が悪い。
小さく息を吐いて、ゆっくりと新を見下ろす。
新が段ボール箱を抱えたまま、入り口に突っ立っている。
それから一点を注視しながら、蔵に入って来た。何を見ているのかは知らないが、興味と怖気の入り混じった表情が、視線を逸らさぬままに階段を上がって来る。
「どうしたんだ?」
「それがね。1階の物は全て運び出したと思うんだけど…」
段ボール箱を床に下ろして、「あそこ」と真下を指さす。
格子に額をくっつけるようにして、新の指さす先を覗き込む。
目を眇めば、無造作に投げ置かれたように縄が落ちている。
「惟親くん、落とした?」
「いや」
頭を振り、ゆっくりと頭上に目を向ける。
暗い天井に、一本の立派な丸太梁がある。そこに、短く千切れたロープが揺らぐ。
「首でも括ったってこと?でも、縄なんてぶら下がってた?」
ごくり、と新が息を呑む。
「そういえば、裏庭が広い理由に、昔もう1棟建っていたと言っていたな」
「ああ、そうだね。そう言ってたよ。田舎は農業で人手がいるだろうし、大家族で頑張ってたんだね。昔は、どこもそんな感じじゃなかった?」
「とても嫌な予感がする」
「…え?」
新はぱちくりと瞬いて、僕の視線を追うように梁に垂れ下がるロープを仰ぐ。
「古いんだから、首吊りが1人くらいいても珍しくないんだろうけど…。私の記憶では、ロープがぶら下がっていたようには思えないんだ。それが関係しているのかな?」
「この蔵。何のためだと思う?」
「牢屋…と言っていたね」
新は渋面を作り、格子をひと撫でする。
「でも、それは惟親くんの憶測だろ?蔵は蔵だよ。農具なんかもあったしね」
「これだけ敷地があるのに?車庫も立派だ。昔は車庫に農機具が揃ってたんだろう。裏庭には離れもあった」
何を察したのか、新が怯んだように首を窄める。
「僕はね、新。八市の記憶を見たからこそ言えるんだが、ここは八市のヤり場だったんだ」
「やりば?」
「八市は近親相姦を繰り返してた。其処に盗んだ御神体を置き、娘たちを犯し、孕ませていたんだ」
其処、と床を指さす。
「娘たちを犯した理由は、妻が女児しか生まなかったからだ。見切りをつけた。そして、次は成熟した娘を犯し続けた」
「なぜ?確かに男児は跡継ぎだから必要だろうけど………」
「欲しかったのは跡継ぎじゃない。八市は、死んでしまった幼馴染の甚之助が産まれると信じていたんだ。だから、男児が産まれることに固執した。妻は娘しか産まず、その娘たちも女児しか産まなかったが、ようやく男児を授かり、名前を幼馴染と同じ甚之助にしている」
さすがの新も怖気を感じたように身震いした。
「それでも八市は娘たちを犯している。次は侘助を産ませなければならないとね」
「侘助?」
「御神体を盗んだ時の共犯の陰間だ。後に長門で死んでいるが、それまでは八市との関係を続けた。青砥家の先祖を振り返れば、近親相姦の子がわんさか出て来るだろうな。だが、血が濃いと遺伝的な欠陥が出て来る。だから人目に付かせぬように、別の隔離棟が必要だった」
「………もしかして」
僕は頷く。
「八市は完全にイカれていた」
とん、と僕は自分の頭を指さす。
「イカれた八市に犯され続けた息子も、同様にイカれてたはずだ。さらに孫、甚太がいることから、息子の甚之助は嫁を貰っていたようだが、その嫁の名前は知らない。出生地も知らない。八市の娘の可能性がある。祖父の手によりイカれた父親もまた、近親相姦を繰り返していたのだと、孫の甚太は遺していた」
「ん?遺す?」
新は眉宇を顰め、ゆっくりと首を傾げた。
僕はブルーシートを広げて作業しているだろう方角を指さした。
「甚太が遺した日記が出て来たからな。それを段ボール箱に入れた」
「あれか!」と、新が飛び上がる。
「なんてものを入れるんだ!だ、ダメだよ!精神的ダメージが大きすぎるだろ!」
「問題ない。虫食いだらけだし、昔の文字なんて、今の人間には早々読めはしないだろ」
「で、でも…鑑定とかに出したらどうするの…」
そこまでは考えていなかった。
「まぁ、青砥家の先祖のイカれ具合が世に出た所で興味もないな」
少なくとも、甚太は祖父や父を嫌っていたので、男色も近親相姦もしなかっただろう。
ただ、昭和の頃まで離れがあったというから、その行為は受け継がれていたのかもしれない。
青砥家の暗い歴史を断ち切ったのは、青砥勝甚だ。青砥勝甚は、息子たちに”甚”を受け継がせず、この家に憤怒していた。
「蔵に入るな、蔵を燃やせ。得体の知れないコレクションは、家族を蔵から引き離すためのカモフラージュだったのかもな」
「それほど御神体が危険ということかな?」
「結局、真に恐ろしいのは神ではなく人間なんだよ」
にやり、と口角を吊り上げ、ゆっくりと最後の長持へと歩み寄る。
及び腰の新が、びくびくとしながら後に続く。
勿体つけているわけじゃない。埃を立てないように、そろりと長持の蓋を持ち上げる。埃と黴の臭いが宙に舞った。
新に蓋をパスすれば、新はそれを壁に立て掛けた。
「……御神体は?」
「般若心経だ」
「え?」と、新が横に並んだ。
長持に詰め込まれた荷物の上に、黄ばんだ写経用紙に長々と般若心経が書かれている。その写経が、長持の隅から隅まで広げられている。
「狂気を感じるね…」
「それほどの畏れが下にあるんだろ」
一枚一枚、写経を拾い上げる。
新に手渡すと、新は箪笥の上に写経の束を置いた。
写経がなくなれば、今度は大小様々な箱がぎゅうぎゅうに詰められている。新が箱を一つ拾い上げた。大きさとしては、靴の収納箱と同程度だ。
軽く振れば、カタカタと音がする。
「物が入っているような重さではないね」
首を傾げながら蓋を開け、新は苦い表情で目を伏せた。
箱の中を覗き込めば、子供と思しき骨が入っている。掘り返したのか、乾いた土の付いた小さな骨だ。全ての骨を拾えなかったのは、その少ない量で分かる。
他の箱を開けても、骨ばかりが出て来る。
「青砥勝甚が燃やせと言ったのは、これを見られたくはなかったんだろう」
「じゃあ…勝甚さんが?」
「この下か…昔あったという離れの下に、遺棄する穴があったのかもな。それを掘り起こして、ここに隠したんだろ。墓を作るには、骨の存在を告げる必要がある。かと言って、捨て置くこともできない。青砥勝甚が見えていた人間であれば、この中の誰かしらが、恨みや供養を訴えても不思議じゃない」
箱の数は10や20じゃ済みそうにない。
間引かれ、贄にされたのか、遺伝的欠陥で死んだのかは分からない。
厄介な遺品だ。
渋面を作る僕の横で、唐突に新が肩を跳ね上げた。丸々と目を瞠り、きょろきょろと周囲を見渡したかと思うと、両手で口を押えた。「うっ…」と嘔吐いた声を漏らし、騒々しい靴音を鳴らしながら階段を駆け下りて行く。
蔵を飛び出て、「おぇ!うぇ!」と嘔吐の声が聞こえて来る。
何があったのか分からない。
格子に手を置き、蔵の入り口を見下ろしていると、目の前に影が下りて来た。
「戦争の頃にでも、燃料をぶっかけて燃やせば良かったんだ。なのに、あの子は離れに付け火するのが精一杯だった…。ごぅごぅ…ごぅごぅ…燃えてしまえ…」
冷然と、梁にぶら下がる男が僕を見ている。
首を吊っているせいで、青黒い顔が風船のように膨らんでいる。八市ではないが、角ばった顔立ちに八市の面影がある。甚之助か、もしくは侘助が産まれているなら侘助か…。
ロープが千切れ、男は鈍い音を立てて落下した。
それを見てしまったのか、外で悲鳴が上がる。
戸口を見れば、新の背中を摩る望海がヒステリックに悲鳴を上げている。新は新で嘔吐の最中だ。望海が暴れているから、さらに具合が悪くなっているのかもしれない。
いつもの父性が出て来ない。
僕は仕方なしに1階に駆け下りた。
蔵から出れば、望海の悲鳴に駆けて来る青砥夫妻がいる。その後ろで、手伝いに駆り出された長女が、戦々恐々とした顔でこちらを見ている。
新が「血の臭い」と呻いた。
僕には嗅ぎ取れない臭いが、新には感じたらしい。それも嘔吐するほど強烈なものだ。
「おおお大神さん!大神さん!」
望海が涙をぼろぼろ零しながら蔵の中を指さす。
血の気の失せた青白い顔で、体を小刻みに震わせ、今にも卒倒し兼ねない様相だ。
「落ち着け!」
望海を抱き寄せ、「大丈夫だ。問題ない」と背中を摩る。
「大神さん!何があったんですか!?」
怖々と青砥真治郎が蔵の中を覗き込む。
がらんどうとした蔵内には、懐中電灯が立て掛けているだけで何もない。だからこその恐怖があるのか、青砥香澄が青い顔で何度も腕を摩り上げている。
僕は望海の背中を軽く叩き、体を離した。
ゆっくりと立ち上がり、青砥真治郎に向き直る。
「鬼を含めた今回の惨事を招いた遺物は、上にあります」
蔵の2階を指さす。
「今回はそれを回収して終了となります」
「それが無くなれば、鬼は出なくなるのですか?」
「欲する物がないと分かれば、出なくなるでしょう。ただ、青砥さんの火への恐怖心は分かりません」
ゆるりと頭を振れば、青砥真治郎は愕然と目を見開く。
「あとは青砥さんが考えて下さい」
「どういう…ことですか?」
「上に、青砥家の先祖がいます。遺骨です」
この報告は予想外だったのか、青砥真治郎の顔が青褪めた。妻の香澄は両手で口を覆い、その場に蹲る。
「ま…まさか…さ、さ、さ殺…人ですか?」
「どうでしょうか。ただ、数は多いので、殺された者もいるかもしれない。お父さんから、何も聞かされてないのですよね?」
青砥真治郎は小さく頷いたが、父親の「燃やせ」という言葉の意味を悟ったのだろう。
頭を抱え、呻き声を上げながら蹲った。
「あの段ボール箱の中に古い日記が入ってます。明治の頃の日記です。それを読めば、先祖のことが分かりますよ。ただ、お勧めはしません」
僕がブルーシートの方を指を差したので、青砥真麻が震え上がった。
あちこちに視線を馳せながら、慌てたようにブルーシートから逃げ出す。長女は祖父から叱られた過去がある。幼い頃、何かしらの昔話を聞かされている可能性もある。記憶になくとも、擦り込まれた警告は今も尚健在だ。
「新。休むなら離れた所にしろ。望海も連れて行け」
「だ…大丈夫。ごめん」と、新は口元を拭う。
「とにかく、望海を連れて行け。僕は忌み物を回収して来る」
僕は言って、再び蔵の中へと足を踏み込んだ。
※蔦
金屋子神は犬に追わた際、蔦を使って逃げようとしたが、蔦が切れて転落して犬に襲われたので犬と蔦が嫌い。
残念なことに、虫籠窓は格子が邪魔で開くことが出来ない固定窓だ。しかも、ここの虫籠窓は小さく、追加で格子を設けているので閉塞感を煽る。
さらに2階は座敷牢のレイアウトだ。
1階は入り口があったから幾分マシだったが、上は格子が邪魔で明かりが届かない。微々たる風も流れず、埃と黴臭さが際立つ。
「ここは空気が腐ってるな」
鼻をひくつかせ、足元を見下ろす。
歪な悪臭の原因は、原型を留めていない畳かもしれない。そう思うと、床が抜けないか心配になる。
片や新は、くしゃみを連発している。
「鼻のむずむずが止まらないよ…」
鼻声で弱音を吐きつつも、片手で軽々と10キロ近い長持の蓋を持ち上げた。薄目を開き、蓋を置く場所を確認しならが、「べくちょ!」と鬼らしからぬくしゃみをする。
壁に蓋を立て掛け、「マスクを用意しとくんだった」と、なんとも情けない顔だ。
「鬼のくせに鼻炎持ちじゃないだろうな?」
「くせにって差別だよ。こんなに空気が悪ければ、くしゃみくらい出るよ」
新はぐずぐずと洟を啜り上げ、ちょん、と桐箪笥を指さす。
「私は箪笥を片付けるから、惟親くんは長持を頼むね」
「まぁ、手分けをした方が早いか」
嘆息して、「頼む」と頷く。
長持には子供の衣類が詰まっている。丁寧に麻紐で括り、黄ばんだ半紙に子供の名が記される。寛一、真治郎とあるから青砥兄弟の子供時代のものなのだろう。
小さな制服に制帽。丹前。七五三で着たのか、着物もある。衣類の他には通知表、作文、両親の似顔絵、拉げたランドセルなども保管されている。
やはり、青砥勝甚は物を捨てられない性格のようだ。
「こっちは着物だね」
新は言って、畳紙に納まった着物を4着ほど抱え上げた。
「さすがに着物を段ボール箱には詰め込めないから、このまま持って行くよ」
何往復するつもりだろうか。
人間らしくを心掛けてはいるようだが、覗いた引き出しには着物がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
乱暴な保存方法だ。きっと殆どの着物は虫食いや染みで駄目になっているだろうに、新は律儀に着物を抱えて蔵を出て行った。
僕も段ボール箱に衣類を投げ込む。ランドセルに作文などの雑多な物を入れ、衣類の上に積み上げると、下へと運ぶ。入り口に段ボール箱を置いておけば、戻って来た新が持って行くだろう。
面倒なことは新に任せ、新しく段ボール箱を組み立て、2階へと運ぶ。
再び衣類を投げ込み、長持が空になると蓋を元に戻す。次いで2棹目の長持の蓋を持ち上げ、舞い上がった埃に息を止める。
新ではないが、懐中電灯の光にきらきらと踊る埃を見ると、マスクくらいはしておけばよかったと後悔してしまう。慎重に蓋を床に置くと同時に、盛大なくしゃみが飛び出した。
「惟親くん、大丈夫かい?」
入り口から新が見上げている。
鼻をぐずつかせながら手を振ると、新は黙って僕が置いた段ボール箱を持って行った。
長持の中を覗けば、黴とアンモニア臭、酸っぱい悪臭がこびり付いた子供の着物が納まっている。なんとも不快な臭いに、思わず鼻を抓む。
黄ばみ、紙魚に喰われた半紙には、勝甚、さよ子、真千子、祥子、潔子と書かれている。先ほどの長持は依頼人の兄弟のものばかりだったが、こっちは違う。3個目の段ボール箱に衣類を投げ込む頃には、別の名前が出て来た。
甚護、幸子、やよい、塔子。その次は、甚市、貞子、キヨ、ネネ子…だ。女児の名が多い。そして、男児の名前には”甚”が付いている。
「服が多そうだね」
階段を軋ませ、新が戻って来た。
「古いのは虫食いが酷そうだがな」
「まぁ、仕方ないね」
新は手早く着物を抱えると、下へと下りて行き、直ぐに戻って来た。
「蔵の前で望海ちゃんが待っててくれてるんだ」
僕の顔に疑問でも張り付いていたのだろうか。訊いてもいないのに、新が答える。
「お守りがあるとはいえ、中に入れるなよ」
「そこは十分に注意してるよ」
新は苦笑し、着物を抱えて忙しなく下へ上へと行き来する。
ついでに段ボール箱を組み立て、持って来る。空の段ボール箱を置くと、衣類を詰め終えた段ボール箱を運び出して行くから、僕としては楽だ。
最後の長持を残し、箪笥の中のものを段ボール箱に投げ込む。足袋に襦袢が多い。草臥れ、黒ずんだ帯に帯留めもある。衣装とは別の、古い手紙や年賀状の束の他、領収書までが出て来た。
もう何もないかと探っていると、抽斗の底板の裏に、和綴の本が挟まっているのを見つけた。何度も抽斗を開け閉めしたのだろう。向こう板と背板で潰され、拉げている。破れや紙魚も酷い。
埃を手で叩き落とし、慎重に折れを伸ばす。
「日記か?」
年号は明治元年とある。
辛うじて、祖父八市回顧録と読めた。
「八市…」
胸の奥にムズムズとした不快感が込み上げる。
ゆっくりとページを捲る。
明治元年なので、まだ青砥の姓は出て来ない。庶民が苗字を許可されたのは、明治3年からだ。
書いたのは八市の孫、甚太とある。
また甚だ。自ずと甚之助を思い出す。
甚太は農民の子でありながら、多少の学があったようだ。字は雑だし、誤字も目立つが、文章として読める。
日記は、甚太が生前の八市から聞いた懺悔と、子々孫々に遺してしまった罪過への謝罪から始まる。
八市は甚太に、蹈鞴場のことも告白したようだ。刀持ちをし、多くの罪人を罰し、村に復讐すべく行った非道までも語っている。
途中、甚太の苦悩が綴られ、八市と父への罵倒の言葉が挟まれる。
甚太は特別八市を嫌っている。
途切れ途切れの文章から、八市が息子を犯していたことが暗喩されている。そのせいで父がイカれたのだと、父への憐憫と嫌悪が書き殴られる。
父親の名前は、甚之助。
「吐き気がするな」
顔を顰め、日記を読み進める。
一頻り八市と父の呪いの言葉が綴られると、再び、八市の過去に触れる。
御神体を盗み、村から逃げた八市は、しばらくは陰間と行動を共にしていたようだ。陰間の名は侘助。侘助は八市との関係を続けながら、稼ぎの為にと客を取り、長門國で客の男に刺殺されている。
「惟親くん?」
ぽん、と肩に手を置かれて、僕は詰めていた息を吐いた。
日記を閉じ、段ボール箱に投げ入れる。
「向こうの進捗状況は?」
「順調だよ」
「そうか。その段ボール箱を持って行ってくれ。で、泰心から受け取った箱を頼む」
新は顔を強張らせ、最後の長持へと目を向ける。
ごくり、と唾を嚥下する音が聞こえた。
「大丈夫か?」
「大丈夫…。段ボール箱も追加で持って来るよ」
新は言って、段ボール箱を抱え上げる。
気のせいか、先程よりも足取りは重く、のろのろしている。
「仕方ないか…」
ため息を吐いて、邪魔な長持を少しだけ移動させる。本来なら、隅に積み上げたいところだが、そんな場面を青砥家の人間に見られては厄介だ。
長持の重さは30キロ以上ある。
それを1人で積み上げていたら、何と言われるか知れない。不審に思われぬ程度に、2棹の長持の間に道を作る。窮屈だが、せいぜい1メートルほどだ。間をすり抜けると、不自然なスペースがある。まるで2棹の長持はバリケードで、このスペースは3棹目の長持には近づくなという警告にも見える。
と、蔵の気温が急激に下がり始めた。
吐き出す息が白く濁り、其処彼処で空気が爆ぜる。最後の1棹を残し、他の長持が消え失せた。足下を見れば、毛羽立っていた畳が修復されている。そこに1組の煎餅布団が現れた。部屋の隅には、無造作に木桶のおまるがある。
まさに座敷牢だ。
「今まで静かだったのに、急なアピールだな」
失笑してしまう。
それが癪に障ったのか、長持の影に女が姿を現した。
丈足らずの粗末な着物に、痩せた手足。髪は梳いているようだが、湯浴みはしていないのだろう。ハリもコシもない黒髪に、白い虱が目立つ。目は虚ろ。肌は荒れ、粉を吹いている。
膝を抱え、老耄として見えるが、実際は20代半ばほどだろう。
もしかすると、もっと若いかもしれない。
僕がしげしげと女を見ていると、かたり、と足下で音がした。
がらがら…、と何かを引っ張り出し、それを固定する音が続く。次いで、とん、とん、とん…、とナニかが階段を上って来る気配に、女が怯えたように身を竦める。ぎょろりとした目玉が、僕の後方を見ている。
その視線を辿れば、鍵を解錠する音がした。
ぎぃ…、と木戸が持ち上がる。
ふー、ふー、と興奮した呼吸で、薄い頭髪で髷を結った男が姿を見せた。継ぎ接ぎの目立つ粗末な着物は、昔の農民そのものだが、小柄な体躯は筋肉質だ。首も太く、手燭を持つ腕もしっかりしている。
日に焼けた浅黒い肌には染みが浮き、狂気を帯びた双眸には、邪欲な光が宿る。
「八市か」
僕は八市の顔を知らない。
あの村に鏡はなかったし、自身の顔を水面に映して身嗜みを整えるタイプでもなかった。それでも、刀身に映った歪な姿を見たことはある。
角ばった顎をした、無骨な顔つきだった。
目の前に現れた八市は、あれから20年は年を経て見える。
相応の皺や染み、白髪が目立つ。畑仕事に精を出しているのか、厳つい手は節くれ立っている。
八市は僕の横をすり抜けると、下卑た目で女を一瞥し、長持の前で足を止めた。蓋に手をかけ、「ふん!」と唸りを上げて蓋をずらした。そうして中から取り出したのは、夏蔦に巻かれた鉧だ。
八市は鉧を床に置くと、女の前で腰を下ろした。
「とく。元気だったか?」
くつくつと喉を震わせ、「そんな顔をするな」と八市は卑しく目を細める。
「なぁ、とく。お前は、再び俺に息子を授けてくれるのかもしれん」
八市の無骨な手が、娘――とくの太腿の撫で、股座に忍ぶ。
とくは抵抗しない。善い反応も見せない。怯えた体を震わせ、ひび割れた唇を血が滲むほど噛んでいる。
「妻に娘が5人。4人の娘と交わっても男が産まれず、流れた子もみんな女だった。娘たちも産後の肥立ちが悪く死んでしまった。だが、最後のお前が、子を為してくれた。可愛い、可愛い甚之助だ」
ああ、八市は壊れたままだ。
村を出てから、さらにイカれ具合が増している。
「甚之助は元気にしている」
とくは泣いている。
「仕方なかろう?」
八市は言って、乱暴にとくの着物を剥く。
小さな乳房に張りはなく、年寄りのように垂れる。手足も細く、肌も粉を拭き、ひび割れている。女は震えているが、八市は躊躇うことなく乳房にしゃぶり付いた。
痛みがあるのか、とくが「いやいや」と抵抗する。それでも、栄養不足の細い手足では、筋骨逞しい八市を払い除けることはできない。
その抵抗が面白いとばかりに、八市は着物の前を払い、とくの股座に体を捻じ込んだ。片手でとくの両手を拘束し、片手で自身の一物を掴んで腰を揺らしている。とくが足をばたつかせているから、上手く挿入できないのだろう。
それでも強引に穿たれた熱に、「痛い!」と、とくは涙を流した。
性急に腰を打ち鳴らす音と、八市の獣じみた呼気。とくの悲鳴に似た喘ぎ声に、狂気の連鎖を感じる。
悍ましいばかりだが、昔は近親相姦は珍しくなかった。父娘、兄妹といった具合だ。
それでも、御神体だったものの前で娘を犯し、生まれた子に昔の男の名前を付けるなど、常軌を逸している。
甚太の遺した日記を思い出せば、異常性は明白だ。
八市は甚之助に執着していたのだ。
妻も娘たちも、甚之助を産ませるための道具でしかなかった。なかなか男児が産まれなかったのは、金屋子神の嫉妬と思ったに違いない。それで、醜い女神の嫉妬を煽るように、この場で娘をレイプし、男児を産ませることに成功した。
恐らく、息子も12で組み敷かれるのだろうが、甚太がいることから、世間体で嫁を貰っているのが分かる。
蔵を建てるくらいだ。
八市は村で一目置かれていたに違いない。下手をすると、世話役のようなこともやっていたかもしれない。
だというのに、八市は壊れたように笑っている。
「侘助も…産ませなければな…」
八市はとくに覆いかぶさり、着物を脱ぎ捨てた。
体中のあちこちに切り傷がある。痣もある。その背中に、とくが爪を立てる。
「まだまだ…お前を孕ませねばならん。だが……鬼が来る……」
八市がとくの肩に噛みついた。
「侘助も…産ませなければならぬと言うのに……夜な夜な鬼が来る。御神体を返せと、怨讐に取り憑かれている。村など疾うに滅びただろうに!神の加護があると言うなら、鬼を祓え…!」
叫び、八市は鉧を一瞥した。
「あれは由左衛門と玄だ…」と、呼吸を整えるように腰の動きを止めた。
とくは両手で顔を覆い、八市が果てるのを待っている。
八市が腰を動かす度、喘ぎ、身を捩り、下腹部に手を伸ばす。
「とくよ。もう女児は要らぬ」
八市がぎょろりと目玉を回し、名案とばかりに鉧を見た。
「そうだ。女児は神にくれてやろう。金屋子よ。血が足りぬなら、次に生まれた女児をやる!だから…鬼を…鬼を祓ってくれ!」
なんという狂気だろうか。
八市は呵々と笑い、とくの胸に吸いついた。
その悍ましい光景を掻き消したのは、「うお!」という新の野太い声だ。
息が白濁するほどの冷気は静まり、長持の上の鉧が消えた。八市ととくの姿も煙の如く消え、敷かれた煎餅布団に変わり、長持と桐箪笥が戻った。
胸糞が悪い。
小さく息を吐いて、ゆっくりと新を見下ろす。
新が段ボール箱を抱えたまま、入り口に突っ立っている。
それから一点を注視しながら、蔵に入って来た。何を見ているのかは知らないが、興味と怖気の入り混じった表情が、視線を逸らさぬままに階段を上がって来る。
「どうしたんだ?」
「それがね。1階の物は全て運び出したと思うんだけど…」
段ボール箱を床に下ろして、「あそこ」と真下を指さす。
格子に額をくっつけるようにして、新の指さす先を覗き込む。
目を眇めば、無造作に投げ置かれたように縄が落ちている。
「惟親くん、落とした?」
「いや」
頭を振り、ゆっくりと頭上に目を向ける。
暗い天井に、一本の立派な丸太梁がある。そこに、短く千切れたロープが揺らぐ。
「首でも括ったってこと?でも、縄なんてぶら下がってた?」
ごくり、と新が息を呑む。
「そういえば、裏庭が広い理由に、昔もう1棟建っていたと言っていたな」
「ああ、そうだね。そう言ってたよ。田舎は農業で人手がいるだろうし、大家族で頑張ってたんだね。昔は、どこもそんな感じじゃなかった?」
「とても嫌な予感がする」
「…え?」
新はぱちくりと瞬いて、僕の視線を追うように梁に垂れ下がるロープを仰ぐ。
「古いんだから、首吊りが1人くらいいても珍しくないんだろうけど…。私の記憶では、ロープがぶら下がっていたようには思えないんだ。それが関係しているのかな?」
「この蔵。何のためだと思う?」
「牢屋…と言っていたね」
新は渋面を作り、格子をひと撫でする。
「でも、それは惟親くんの憶測だろ?蔵は蔵だよ。農具なんかもあったしね」
「これだけ敷地があるのに?車庫も立派だ。昔は車庫に農機具が揃ってたんだろう。裏庭には離れもあった」
何を察したのか、新が怯んだように首を窄める。
「僕はね、新。八市の記憶を見たからこそ言えるんだが、ここは八市のヤり場だったんだ」
「やりば?」
「八市は近親相姦を繰り返してた。其処に盗んだ御神体を置き、娘たちを犯し、孕ませていたんだ」
其処、と床を指さす。
「娘たちを犯した理由は、妻が女児しか生まなかったからだ。見切りをつけた。そして、次は成熟した娘を犯し続けた」
「なぜ?確かに男児は跡継ぎだから必要だろうけど………」
「欲しかったのは跡継ぎじゃない。八市は、死んでしまった幼馴染の甚之助が産まれると信じていたんだ。だから、男児が産まれることに固執した。妻は娘しか産まず、その娘たちも女児しか産まなかったが、ようやく男児を授かり、名前を幼馴染と同じ甚之助にしている」
さすがの新も怖気を感じたように身震いした。
「それでも八市は娘たちを犯している。次は侘助を産ませなければならないとね」
「侘助?」
「御神体を盗んだ時の共犯の陰間だ。後に長門で死んでいるが、それまでは八市との関係を続けた。青砥家の先祖を振り返れば、近親相姦の子がわんさか出て来るだろうな。だが、血が濃いと遺伝的な欠陥が出て来る。だから人目に付かせぬように、別の隔離棟が必要だった」
「………もしかして」
僕は頷く。
「八市は完全にイカれていた」
とん、と僕は自分の頭を指さす。
「イカれた八市に犯され続けた息子も、同様にイカれてたはずだ。さらに孫、甚太がいることから、息子の甚之助は嫁を貰っていたようだが、その嫁の名前は知らない。出生地も知らない。八市の娘の可能性がある。祖父の手によりイカれた父親もまた、近親相姦を繰り返していたのだと、孫の甚太は遺していた」
「ん?遺す?」
新は眉宇を顰め、ゆっくりと首を傾げた。
僕はブルーシートを広げて作業しているだろう方角を指さした。
「甚太が遺した日記が出て来たからな。それを段ボール箱に入れた」
「あれか!」と、新が飛び上がる。
「なんてものを入れるんだ!だ、ダメだよ!精神的ダメージが大きすぎるだろ!」
「問題ない。虫食いだらけだし、昔の文字なんて、今の人間には早々読めはしないだろ」
「で、でも…鑑定とかに出したらどうするの…」
そこまでは考えていなかった。
「まぁ、青砥家の先祖のイカれ具合が世に出た所で興味もないな」
少なくとも、甚太は祖父や父を嫌っていたので、男色も近親相姦もしなかっただろう。
ただ、昭和の頃まで離れがあったというから、その行為は受け継がれていたのかもしれない。
青砥家の暗い歴史を断ち切ったのは、青砥勝甚だ。青砥勝甚は、息子たちに”甚”を受け継がせず、この家に憤怒していた。
「蔵に入るな、蔵を燃やせ。得体の知れないコレクションは、家族を蔵から引き離すためのカモフラージュだったのかもな」
「それほど御神体が危険ということかな?」
「結局、真に恐ろしいのは神ではなく人間なんだよ」
にやり、と口角を吊り上げ、ゆっくりと最後の長持へと歩み寄る。
及び腰の新が、びくびくとしながら後に続く。
勿体つけているわけじゃない。埃を立てないように、そろりと長持の蓋を持ち上げる。埃と黴の臭いが宙に舞った。
新に蓋をパスすれば、新はそれを壁に立て掛けた。
「……御神体は?」
「般若心経だ」
「え?」と、新が横に並んだ。
長持に詰め込まれた荷物の上に、黄ばんだ写経用紙に長々と般若心経が書かれている。その写経が、長持の隅から隅まで広げられている。
「狂気を感じるね…」
「それほどの畏れが下にあるんだろ」
一枚一枚、写経を拾い上げる。
新に手渡すと、新は箪笥の上に写経の束を置いた。
写経がなくなれば、今度は大小様々な箱がぎゅうぎゅうに詰められている。新が箱を一つ拾い上げた。大きさとしては、靴の収納箱と同程度だ。
軽く振れば、カタカタと音がする。
「物が入っているような重さではないね」
首を傾げながら蓋を開け、新は苦い表情で目を伏せた。
箱の中を覗き込めば、子供と思しき骨が入っている。掘り返したのか、乾いた土の付いた小さな骨だ。全ての骨を拾えなかったのは、その少ない量で分かる。
他の箱を開けても、骨ばかりが出て来る。
「青砥勝甚が燃やせと言ったのは、これを見られたくはなかったんだろう」
「じゃあ…勝甚さんが?」
「この下か…昔あったという離れの下に、遺棄する穴があったのかもな。それを掘り起こして、ここに隠したんだろ。墓を作るには、骨の存在を告げる必要がある。かと言って、捨て置くこともできない。青砥勝甚が見えていた人間であれば、この中の誰かしらが、恨みや供養を訴えても不思議じゃない」
箱の数は10や20じゃ済みそうにない。
間引かれ、贄にされたのか、遺伝的欠陥で死んだのかは分からない。
厄介な遺品だ。
渋面を作る僕の横で、唐突に新が肩を跳ね上げた。丸々と目を瞠り、きょろきょろと周囲を見渡したかと思うと、両手で口を押えた。「うっ…」と嘔吐いた声を漏らし、騒々しい靴音を鳴らしながら階段を駆け下りて行く。
蔵を飛び出て、「おぇ!うぇ!」と嘔吐の声が聞こえて来る。
何があったのか分からない。
格子に手を置き、蔵の入り口を見下ろしていると、目の前に影が下りて来た。
「戦争の頃にでも、燃料をぶっかけて燃やせば良かったんだ。なのに、あの子は離れに付け火するのが精一杯だった…。ごぅごぅ…ごぅごぅ…燃えてしまえ…」
冷然と、梁にぶら下がる男が僕を見ている。
首を吊っているせいで、青黒い顔が風船のように膨らんでいる。八市ではないが、角ばった顔立ちに八市の面影がある。甚之助か、もしくは侘助が産まれているなら侘助か…。
ロープが千切れ、男は鈍い音を立てて落下した。
それを見てしまったのか、外で悲鳴が上がる。
戸口を見れば、新の背中を摩る望海がヒステリックに悲鳴を上げている。新は新で嘔吐の最中だ。望海が暴れているから、さらに具合が悪くなっているのかもしれない。
いつもの父性が出て来ない。
僕は仕方なしに1階に駆け下りた。
蔵から出れば、望海の悲鳴に駆けて来る青砥夫妻がいる。その後ろで、手伝いに駆り出された長女が、戦々恐々とした顔でこちらを見ている。
新が「血の臭い」と呻いた。
僕には嗅ぎ取れない臭いが、新には感じたらしい。それも嘔吐するほど強烈なものだ。
「おおお大神さん!大神さん!」
望海が涙をぼろぼろ零しながら蔵の中を指さす。
血の気の失せた青白い顔で、体を小刻みに震わせ、今にも卒倒し兼ねない様相だ。
「落ち着け!」
望海を抱き寄せ、「大丈夫だ。問題ない」と背中を摩る。
「大神さん!何があったんですか!?」
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僕は望海の背中を軽く叩き、体を離した。
ゆっくりと立ち上がり、青砥真治郎に向き直る。
「鬼を含めた今回の惨事を招いた遺物は、上にあります」
蔵の2階を指さす。
「今回はそれを回収して終了となります」
「それが無くなれば、鬼は出なくなるのですか?」
「欲する物がないと分かれば、出なくなるでしょう。ただ、青砥さんの火への恐怖心は分かりません」
ゆるりと頭を振れば、青砥真治郎は愕然と目を見開く。
「あとは青砥さんが考えて下さい」
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「上に、青砥家の先祖がいます。遺骨です」
この報告は予想外だったのか、青砥真治郎の顔が青褪めた。妻の香澄は両手で口を覆い、その場に蹲る。
「ま…まさか…さ、さ、さ殺…人ですか?」
「どうでしょうか。ただ、数は多いので、殺された者もいるかもしれない。お父さんから、何も聞かされてないのですよね?」
青砥真治郎は小さく頷いたが、父親の「燃やせ」という言葉の意味を悟ったのだろう。
頭を抱え、呻き声を上げながら蹲った。
「あの段ボール箱の中に古い日記が入ってます。明治の頃の日記です。それを読めば、先祖のことが分かりますよ。ただ、お勧めはしません」
僕がブルーシートの方を指を差したので、青砥真麻が震え上がった。
あちこちに視線を馳せながら、慌てたようにブルーシートから逃げ出す。長女は祖父から叱られた過去がある。幼い頃、何かしらの昔話を聞かされている可能性もある。記憶になくとも、擦り込まれた警告は今も尚健在だ。
「新。休むなら離れた所にしろ。望海も連れて行け」
「だ…大丈夫。ごめん」と、新は口元を拭う。
「とにかく、望海を連れて行け。僕は忌み物を回収して来る」
僕は言って、再び蔵の中へと足を踏み込んだ。
※蔦
金屋子神は犬に追わた際、蔦を使って逃げようとしたが、蔦が切れて転落して犬に襲われたので犬と蔦が嫌い。
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