幽世の理

衣更月

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「寒い」
 そう呟いて、望海は薄手のトレンチコートの襟を掻き寄せた。
 時刻は午前0時半を少し回ったあたりだろうか。
 場所は、青砥家の正門に面する森の中だ。
 吐き出す息は微かに白く、頭上を仰げば、澄んだ空気に星が煌めている。
「毎年、季節の歩みが遅いなんて言われてるけど、やっぱり夜は少し冷えるね」
「少しじゃないですよっ」
「そもそも、なんでお前までいる?普段は寝てる時間だろうが」
 実際、30分ほど前まで望海は布団に包まっていた。
 一度寝たら朝まで起きないと言っておきながら、僕たちが外に出る気配に、警戒心むき出しのチワワみたいな顔で飛び起きたのだ。
 寝ていればいいものを、パジャマ代わりのクソダサいトレーナーとスウェットパンツ。その上にトレンチコートを羽織り、よたよたとついて来た。
 外に出れば風の冷たさに目を覚まし、背中を丸めて「寒い」の連呼だ。
 片や僕たちは長袖Tシャツを1枚とハーフパンツだ。
 それが望海の神経を逆撫でするのだろう。恨めし気な視線を投げつけながら、体を温めようと足踏みを繰り返している。そのせいで、ガサガサバキバキと小枝や枯葉が音を立てるのだから迷惑甚だしい。
「おい、静かにしろ」
「だ…だって、寒いんです」
「付いて来たお前が悪い」
「私1人で待てと言うんですか?」
 望海は不満気に口元を歪める。
 仲間外れを嘆いているのではない。単に、1人で残されることが怖かっただけだ。
 青砥香澄が僕たちの布団を南の間、望海の布団を中の間に敷き、襖まで取り付けてくれたと言うのに、望海は南の間に布団を引っ張り込んだのだ。あれほどセクハラセクハラと言う癖に、3組並んだ布団には隙間はなかった。
 望海が真ん中の布団を陣取ったのは言うまでもない。
「わざわざ付いて来たんだ。幽霊レーダーでも働かせてみろ」
 寝癖に跳ねた頭頂部のアホ毛を抓めば、望海が憤怒で顔を赤らめた。声量を落としながらも、「止めて下さい!」と噛みついて来るから面白い。
 こいつを揶揄うのは、意外と癖になる。
 百面相とばかりに表情が変わるから、見ていて飽きないのだ。
「惟親くん」
 やんわりとした叱責に目を向ければ、新が呆れたように眉根を寄せている。
 仕方なしにアホ毛を離せば、望海が「いい気味」とばかりに舌を出した。
「でも、望海ちゃんじゃないけど、冬が近いって感じだよね。7、8度って感じかな?」
 新が大きく息を吐けば、息が白む。
 それを見て、望海は身震いした。
「寒くないんですか?」
「鬼は体温が高いんだよ。だから、ちょっと寒いなって感じかな」
「確かに、鬼頭さんって温かい気がします」
「平熱で7度5分から8度の間くらいなんだよ」
「私…35度台です…」
 それは低すぎるだろ。
「大神さんも体温高いんですか?」
「僕は人間と変わらない」
 そう言えば、望海は気難しげな顔で首を傾げる。
「そういえば、大神さんって何の妖怪ですか?鬼じゃないですよね?角がないし…」
 むむむ…、と唸りながら僕を見て来る。
「せいぜい悩め」
 適当にあしらえば、望海は不貞腐れたように頬を膨らませ、新を見上げた。
 新に泣きついたところで、新が答えるわけがない。困惑に頬を掻きながら、「ごめんね」で終わる。
「分かりました。大神さんは”あまのじゃく”だと思うことにします!」
 天邪鬼あまのじゃくが何かを知らないのだろう。
 天邪鬼は鬼の一種に例えられるが、正体は天探女あめのさぐめという女神だ。残念ながら、僕は女ではないから、天邪鬼にはなれない。
「まあまあ」と、新が望海を宥めるのを聞き流しながら、僕は前方に視線を投げる。
 僕たちは別に意味もなく森の中で時間を潰しているわけじゃない。件の鬼を確認すべく、青砥家を監視しているのだ。細い山道を挟んだ向かいに、車庫と門が見える。家屋は車庫の陰になって見えないが、目的は”鬼”なので問題はない。
 青砥真治郎曰く、鬼は敷地には入らないのだと言う。
 門の前に立ち、何かを返せと訴えるらしい。
 鬼を見た時、青砥真治郎が何処にいたのかは分からない。2階の窓を開けていた可能性があるが、門から2階までは距離がある。
 門から玄関まで、およそ10メートルほど。
 それなりに声を張り上げなければならないが、子供たちは鬼を信じていない。つまり、鬼の声は青砥夫妻しか聞いていないのだ。
 ならば初遭遇の時、青砥夫妻が庭に出ていたか、もしくは鬼を見て好奇心で近づいたのかだ。
 後者はないだろう。
 例え猟銃を手にしていたとしても、鬼と譬えるモノに接近するのは、かなりの勇気が必要だ。
「惟親くんの予想は何だと思う?」
「幽霊の類だな」
「妖怪かもしれませんよ」
 望海が口を挟む。
「幽霊なら、青砥さんは鬼なんて表現しないんじゃないですか?」
「そこは難しいよね」
 新は顎に手を当て、考え込むように首を捻る。
「半透明だったり、幽霊画のような、これぞ幽霊というモノは分かりやすいけどね。そうじゃない、命を落とした際の姿をクリアに再現しているモノは難しいかも」
「再現?」
「例えば、焼死した人間の幽霊は焼け爛れ、およそ元人間とは分からない。事故死した人間は原型を留めていない。体の一部だけで出て来るんだ。昔は斬首なんてものも普通だったから、首だけが彷徨っていたりしたんだよ。そんな妖怪もいるしね」
「ひぃ…」と、望海は新の腕にしがみ付く。
「霊感のある人間なら区別は付いても、たまたま波長が合って見えてしまった人間に、そう言ったモノの区別は付かない」
 僕が言えば、望海は「生首は見たくないです」と涙目になる。
 新が苦笑した。
「敷地内に入らないのは、なんでだと思う?」
「それがあるから、妖怪の線も捨てきれないんだ」
 新の問いに、思わず唸ってしまう。
「どうしてですか?」と望海。
「縛りだ」
「縛り…ですか?」
「そう」と、新が頷く。
「妖怪の中には、招かれないと家に入れないモノもいるんだよ」
 望海は右に左に首を傾げ、しげしげと新を見上げる。
「だったら、無視していれば安全ってことですか?」
「それが簡単じゃない。その手の妖怪は狡猾なのが多いからね。家人に化けたり、声音を変えたりして家の中に招かれようとするんだ」
「人間を喰らうタイプの妖怪に多い。それとは別に、鶴の恩返しパターンもある」
「鶴の恩返しって実話だったんですか?」
 驚いたように跳ね上がった望海に、新は苦笑して頭を振る。
「実際に鶴が恩返しに来るわけじゃないよ。独り身の人間の前に、美男美女が訪れるんだ。家に入れてほしいってね。で、家に入れると、人間を襲う。食べるって意味じゃなくて、性的な意味だね。例えば、雪女は群れに男がいないから、種としての男を見繕う必要がある。泰心さんも言ってたけど、天狗も似たような理由だね」
「雪女は孕み、子を産めば、栄養分として男を殺すからな。結局、家に招くというパターンは人間にとってはリスキーだ。だが、今回の鬼は家に入れろとは要求していない」
「そうなんだよね…」と、新は腕を組んで唸る。
「もしかして、天狗も…その…終わると、殺すんですか?」
「いや。あいつらはヤるだけだな。天狗の雄は子育てを嫌がる。人間の女が孕んで、勝手に産んで育ててくれるのを待つんだよ。で、天狗としての才能を開花させた子供だけを攫う」
「天狗…最低…」
「それは相手が人間だった場合だからね。数は少ないけど、女天狗もいるんだ。ただ女天狗は気が強いから、天狗同士のつがいでは、圧倒的に女性優位なんだ。泰心さんの場合、それが嫌だから人間の女性を漁ってるんだよ」
「女天狗なんて、まさに日本版のアマゾネスだ」
 僕が言えば、新は苦笑する。
 それでも望海は、「やっぱり最低…」と呟いた。
「まぁ、人間の倫理観から見れば最低なんだろうが、天狗にとっては普通のことだ」
 そこまで言って、僕は片手で望海の口を塞ぐ。
 視線で新に沈黙を促し、望海の口を塞いでいた手を静かに門前へと向ける。
 門の前。地面から1メートルの高さの所に、蝋燭の炎ほどの青白い鬼火が2つ生まれた。2つの鬼火は螺旋を描くように飛び交い、やがて大きな一つの火の玉となった。
「うちの鬼火と少し様子が違うね」
 新が声を潜めて言う。
 我が家の鬼火は、海月のようにふわふわと漂っている。意思などはない。5分ほど漂っていたかと思うと忽然と消え、場所を変えて再び現れる。火とは名ばかりで、触れると凍えるように冷たい。人間が触れれば、そのまま魂を引き摺り出され死んでしまう。
 だが、目の前に現れた鬼火には意思がある。
 僕たちが見ている前で、1つになった鬼火は打ち震え、やがて人間の形を成した。炎に包まれた人間と言った見てくれに、頭部には3本の角が揺らめいている。
「3本角…?」
 望海の呟きに、新は丸々と目を瞠る。
 その顔に浮かぶのは、恐怖ではなく悲哀だ。
「鬼なんですか?」
 望海の問いに、新はゆるりと頭を振った。
「あれは元人間だよ…」
 可哀想に、と新は唇を噛んだ。
「我をたのめて来ぬ男、角三つ生ひたる鬼になれ、さて人に疎まれよ」
 望海が身を捩って僕を見上げる。
「なんですか?それ」
「平安に詠まれた歌謡集、梁塵秘抄りょうじんひしょうの1句だ。好きだと言って来ておきながら、全く顔を見せなくなった男に女は怒る。そして、角が3つ生えた鬼になって人に嫌われろと、男を呪うんだ」
「鬼には幾つか種類があってね。2本角がポピュラーなのは、最も数が多いからなんだ。1本角は神格を持つことが多い、力の強い鬼だから数は極端に少ない。で、3本角は元人間のパターンが多いんだ。恨みつらみを抱えた人間の成れの果てでもあるし、呪詛によって鬼へと堕とされた人間だとも聞くよ」
 望海が息を呑み、怖々と門前の鬼へと目を向ける。
 鬼は右に左にと、ゆらりゆらりと揺れている。アンバランスな長い手足に、大きな頭。炎で再現できているのは、輪郭でしかない。顔と呼べるものはなく、辛うじて目と口が黒々としているくらいで、鬼と分類するのも厳しい。
「あれじゃあ、言葉なんて喋れないな」
 それでも、黒々とした口が何かを喋っているように動いている。
 青砥家の人間に対してだけ、言葉が届いているのかもしれない。
「青砥さんたちは大丈夫なんですか?」
「人間の感覚は分からないけど、肉体的なダメージはないよ。精神的なものはどうだろ?」
「駄目だから依頼が来てる」
「そうだね」
 新が小さく笑うと、鬼の体が揺らいだ。
 ぼろりと頭が落ち、地面に転がった。炎で出来た頭に赤黒い色が滲む。それを基点に、曖昧模糊とした輪郭にクリアな色彩が走る。
 短く刈った坊主頭に、赤紫色に膨れ上がった醜い顔貌。首から噴き出す血が、炎を払うように人間の姿を露わにする。人間と言っても、あれは死を再現する亡霊だ。
 棒立ちになっていた体は、突然、胸を斬り裂かれた。ずるり、と体が斜めにズレた。
 地面の血だまりに、臓腑を垂らしながら体が落下する。残された下半身も崩れ落ちた。
 望海が「ひぃ」と短い悲鳴を上げ、新の腕に顔を突っ伏す。
「炎から急に変化したぞ」
「青砥さんは何も言ってなかったよね?あんなのを見たら、言わずにいられないと思うんだけど…」
 僕と新は眉宇を顰め、肉塊を注視する。
 と、肉塊はひと際激しく燃え上がると、何事もなかったように消え去った。
「お前は大丈夫なのか?」
「血の臭いはしないからね」
 新は苦笑し、腕にしがみつき、震えている望海の頭を撫でる。
「望海ちゃんは駄目みたいだけど…」と、心配そうに眉を八の字にする。
「人間はリアルもフェイクも、あの手のものは駄目だからな。まぁ、そのうち忘れるだろ」
 僕は肩を竦めて、視線を鬼火のいた門前へと向ける。
 顎をひと撫でして、口角を歪める。
「あの顔、何処かで見た気がする」
「え?本当かい?」
 なんとも怪訝な顔つきだ。
「自信はないが………八市が斬り殺した中にいたと思う」
 八市は頻繁に…というと語弊があるが、定期的に人を斬り捨てていた。主に野盗だ。次いで、掟破りの村下。
 何処で見た顔だっただろうかと考え込み、「ああ、そうだ」と思い出した。
「村で最後に殺した男だ」
 八市は村に復讐を企て、計画を実行する為に10代半ばの陰間を1人見繕ったのだ。
 八市が少年に目を付けた理由は、中性的な顔立ちでも、体の相性でもない。少年の自殺願望が、八市の琴線に触れた他ならない。どこか甚之助を彷彿とさせる、儚げな印象があった。
 直に、八市は陰間を連れ、任に就くようになる。
 社を守るだけの任務は、実に退屈なことが多い。何しろ、社を襲撃する賊などいないのだから、やることがない。特に夜勤となると暇だった。不思議なことに、野盗も山犬も、夜の村には近寄らなかった。それらに神経を尖らせる必要もない。かと言って、酒を飲むわけにもいかない。
 だから八市は、陰間を連れて行った。
 社を守る刀持ちは3人の交代制だ。八市より些か年配の刀持ちは、案の定、先輩風を吹かせながら陰間に手を付けた。
 力任せの交接は、陰間のことなど考えていない。陰間が出血しようが、泣き叫ぼうが、己さえ気持ち良ければいいのだ。
 夜とは言っても、蹈鞴場は賑やかだ。
 夜通しの酒宴、博打、性交。そして、鞴を踏む村下の唄声。社守が職務怠慢で陰間とまぐわっていても、誰も注意する者はいない。
 刀持ちとは言え侍ではないので、刀に対する扱いも雑なものだ。性交の最中は、無粋な物として離れた場所に投げ置かれ、隙だらけの姿を晒す。
 そこがチャンスだ。
「陰間を後ろから犯していた男の首を刎ねた。もう1人は逃げようとしたところを袈裟斬りにした」
「うへぇ…。まるっきり今のまんまだね」
「切断まではいってない。横っ腹から臓腑が飛び出たくらいだ」
「別に詳細は訊いてないよ。で、陰間はどうしたんだい?」
 どうしただろうか?
 仲間を殺し、社から御神体を盗み出すと一目散に逃げたのだ。
「ああ、そうか。陰間も一緒に逃げた気がする。その後は知らない」
 僕は小さく息を吐いて、新の腕にしがみついたままの望海を見下ろす。肩を小刻みに震わせ、洟を啜り上げ、嗚咽を零している。
 泣いているらしい。
 理由が分からず、眉間に皺が寄る。
「泣くようなことがあったか?」
 新を見れば、新は困惑気味に首を傾げる。
「吐くようなことはあっても、泣くようなシーンはなかったと思うけど…。でも、私たちと人間との感情面の乖離は理解してるよ。たぶん、気持ち悪いシーンも、恐怖のカテゴリーなのかもね」
「あんなのでいちいち泣くな。莫迦め」
「だ、だって…」
 もぞもぞと頭を上げ、潤んだ双眸が恨めしげに僕を見る。
「怖かったんだよね」と、新が甘やかす。
 その甘やかしで、泣く許可が下りたとばかりに望海の涙腺が緩み、ぼろぼろと大粒の涙が零れる。
 下唇を噛みしめ、声こそ堪えているが、新が甘やかし続ければ大号泣しそうな勢いだ。
「鬱陶しい!」
 望海の頭を鷲掴みにすれば、間抜けな顔が僕を見上げる。
「次に泣いたら、ここで犯す」
 本気だ、と付け足せば、驚いたように目を丸め、涙が引っ込んだ。
「さ…最低…っ!」
 涙目で凄まれたところで、なんとも思わない。
 おでこを突けば、ずびっと鼻を鳴らして頬を膨らませる。
「惟親くん。望海ちゃんにちょっかいばかりだすけど、好きなのかい?」
「へ?」
 間抜けな声を出したのは僕ではない。望海だ。
「考えたことなかったな」
 僕は首を傾げ、まじまじと望海の顔を覗き込む。
 涙と鼻水で汚れた顔は、なんとも不細工だ。眠気もあるのだろう。腫れぼったい目が、気恥ずかしそうに泳いでいる。
 正直、童顔は好みではない。
 ただ、胸は触り心地が良かった。何より、匂いが僕好みだ。
 ゆっくりと腰を屈め、望海の首筋を「くん」と嗅いでみる。
 望海が「ひゃ」と身を竦め、まるで蚊でも叩くように首筋に手を当てた。僕を睨みつける顔は、羞恥で真っ赤だ。
「そうだな。色気はないが、匂いは合格だ」
「に、ニオイ!?」
 なんとも素っ頓狂な叫び声だ。
 嫌いじゃないと言ったのに、照れるでも喜ぶでもない。どちらかと言えば顔を強張らせ、「変態ですか!?」と失礼なことを言う。
「莫迦め。匂いは相性を知る上で重要なポイントだ」
「匂い=イコールフェロモンだからね」
 新は苦笑しながら、「でも」と僕を見る。
「その主導権があるのは、基本的に女性だよ。私たちは女性に、この人の子を産みたい、と思わせなければならない。だから、惟親くんが率先して匂いを嗅ぐのは、単なるセクハラになるんじゃないのかな?」
「そうです!セクハラです!」
「そう言いながら、お前は僕の顔が好きなんだろ?」
 にやりと笑えば、望海は苦々しそうに顔を顰めた。
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