成り上がり男爵令嬢の赤い糸

衣更月

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オースティン・セバロス公爵令息

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 デッキブラシでがしがし磨くのは、商業街の中でも一等地にあるクルムグラート商店の店先。
 クルムグラート商店は、ジュンキ家経営の店になる。
 ここは本店で、地方と隣国に幾つか支店がある。
 商店名のクルムグラートとは、ジュンキ家のご先祖様が初めて商売を興した土地の名で、今はないらしい。
 後に豪商として名をはせるジュンキ家は、”心緒の糸”を利用しつつも、国教である女神テア信仰が掲げる無欲を信条に商売に勤しんできた。孤児院の経営と平民塾を運営。過分な財をウェシェタ公国の賠償金に宛がい、底をついた資産も、この20年で持ち直すのだから祖父と父の商才は大したものだ。
 それが気に食わない輩が定期的に湧くから面倒ではあるのだけど…。
 十中八九、貴族の嫌がらせだ。
 妬み嫉みの不幸の手紙は序の口どころか、便箋を見ればクルムグラート商店の系列店でのお買い上げなので、”ありがとうございます”とお礼を言いたくなる。商品にケチをつける破落戸クレーマーも送られてくるけど、有能な専属弁護士が返り討ちで迷惑料を分捕っているので痛手は皆無。
 手を変え品を変え。
 最近はインクによる嫌がらせ行為が多発している。
 週に1度。多い時は2度。
 大量のインクを店先や壁、ドアにぶちまけるのだ。店内には被害は出ていないけど、店の前に赤インクが飛散しているのは心証が悪い。
 なので、インクがぶちまけられた日は、営業時間を削ってでも掃除する。
 とても目立つ作業は、すぐに悪い噂となった。
 貴族に目を付けられた店。
 それだけで忌避する人もいるし、同情して応援してくれるお客もいる。
 まぁ、この大量のインクもうちの商品なんだけど…。バカなのかしら?
「それにしてもムカつくわね」
 見えない敵に、ワンツーとパンチを繰り出す。
 心の中の私はムキムキマッチョなので、見えない敵をワンツーフルボッコだ。
「せっかくの休みなのにな~」
 昨日はストーカー案件。
 今日は掃除で休みが潰れてしまった。
 兄はシャツの袖をたくしあげ、筋肉質の腕を見せながら笑っている。
 ぱっと見は細っこいのに、意外と筋肉があるのよ。しかも、笑顔だけは爽やか。口から出るのは、「犯人を見つけたらどんな地獄を見せようか」と毒蜂よりも強力な針を内含しているけど、遠目から見れば客寄せにうってつけの美貌なのよね。
 兄の物騒な台詞が聞こえている従業員は、みんな下を向いて手を動かしている。
 クルムグラート商店で、兄の容姿に惑わされる従業員はいない。王子様な見た目ながら、腹の内は黒く、苛烈な性分だ。それを知らずに、クルムグラート商店の従業員やジュンキ家の使用人となった多くの女性が、青い顔をして辞表を出す…なんてことも珍しくはない。
「大物貴族が出てきたらどうするの?」
「あまり酷いと、王様に直接陳情書を出すって父さんが言ってたよ」
 わぉ!
 おっとりとした性格の父が、噴火寸前なのね!
 母も怖いけど、普段温厚な人ほど怒ると怖いのよ…。
「ザラだと分かるんじゃないのかい?」
「ん~…そうね。犯人を見つけようと思えば見つけられると思うわ。でも、下っ端から辿らなきゃダメでしょ?手間がかかりすぎるから、やりたくない」
 トカゲの尻尾切りは貴族の十八番だ。
 親玉に辿り着く頃には、証拠は処分されている。
 大きなため息を吐いて、デッキブラシをがしがしと動かす。
「そんなことより、この悲劇をプラスにできない?例えば、この洗剤。インクの落ちがイマイチでしょ?もっと改良したらヒット商品になりそうじゃない?どんな頑固汚れも落ちる洗剤って売れると思うんだけど」
「ああ、そうだね。嫌がらせも良い宣伝になりそうだ」
 呆れ顔の従業員たちを見ないふりしてデッキブラシを動かしていると、物々しい馬の蹄音と車輪の回る音が聞こえてきた。
 平民街で走る辻馬車や荷馬車とは違う、重厚感あるお貴族様仕様の音だ。
 馬車の音が違うというのは比喩や嫌味ではなく、馬の種類や客車の材質が異なるという確りとした理由がある。
 嫌がらせを企んでいるなら現行犯だ!と胸の内で意気込んでいると、傍に4頭立ての馬車が止まった。
 黒光りする客車キャビンに、ドアの把手は煌びやかな黄金色。窓は青いドレープカーテンが閉じられているので、誰が乗っているのかは窺い知ることはできない。
 通常、貴族は馬車に家紋を掲げる。平民である商人ですら店のロゴを掲げた馬車を走らせる。
 でも、この馬車は紋はない。
 そこだけを見ると、”やんごとなき御方のお忍び”仕様だ。
 通行人たちは息を止め、緊張した面持ちで遠巻きに馬車を凝視している。
 何しろ、4頭立ての馬車を走らせる商人はいない。上位貴族ですら、街中を走らせるのは2頭立て馬車なのだ。お忍び仕様だと1頭立てのシンプルな箱馬車が多い。
 さらに馭者台に座る馭者は基本1人だというのに、この馬車には交代要員の馭者がもう1人いる。2人の馭者は金色の釦とベルトの黒いアルスターコート。頭には正装帽の装いだ。
 馭者のランクだけを見ても普通ではない。商業街とはいえ、貴族から見れば平民街の一部。そんな場所に停車していい馬車ではない。
 下手をすると、王族が出てきてもおかしくないと思う。
 ただ、護衛その他がいないのよね。普通、こんな馬車の前後左右には騎士が付き従ってたりするものなのに、軽装備の甲冑に物々しい剣を佩いた騎士が見当たらない。
 その他というのは、侍従や侍女が乗る箱馬車のことだ。主人と同乗することもあるけど、こんな馬車を用いる貴族の傍仕えが1人2人のはずがない。
 怪しい…と目を眇めていると、何やら糸がこちらに飛んできている。
 まさか!
 豪華な馬車に及び腰の従業員一同と一緒に、私もデッキブラシを手に硬直する。
 ニヤニヤ笑っているのは兄だけ。馭者台から降りようと腰を浮かせた馭者を手で制したのも兄だ。
 怖いもの知らずの兄が、唐突にコンコン、とドアをノックしたものだから、全員が声にならない悲鳴をあげたに違いない。
 足を止めたどこぞのご婦人が失神したのが視界の隅っこで見えたし、手近な店に逃げ込んだカップルも見えた。
 ギャラリーなどに興味のない兄は、躊躇なく黄金色の把手を掴んでドアを開ける。
「やぁやぁ。久しぶりじゃないか。どうしたんだい?遠方からわざわざ来るなんて」
「知っているくせによく言うよ。デニス」
 呆れた声に、兄は呵々と笑う。
 それから馭者台へと向き直ると、「ファブリシオもカルロスも長旅だっただろう?」と労いの声をかけた。
 馭者の2人が、揃って正装帽を上げてニカッと笑った。
 これで通行人は理解したはずだ。
 貴族の嫌がらせを受けている商店は、やんごとなき貴族の後ろ盾を得ている商店である…と。
「それにしても、これはどういう状況だ?」
 客車から満を持して降りて来たのは、灰褐色の髪に紅玉の瞳をした長身の麗人だ。
 子供の頃は人形のように愛らしい面立ちだったのに、成長すると共に愛らしさが精悍なものに変化し、今や大人の色気も帯びた美丈夫だ。
 兄の1つ上なだけなのに、すごく年上に見える。
 名前はオースティン・セバロス。
 母の甥っ子である。
 セバロス家の貴族としての爵位は、なんと公爵!
 しかも隣国スタークス王国!
 そう…母は公爵令嬢でありながら父と駆け落ちした、常識破りの破天荒令嬢だったのだ。
 ルヴィシャ国王が我が家に好意的なのも尤もだ。
 戦争をものともせず結ばれた両親も凄いけど、半ば秘密裏に結婚した母の身元を調べ上げたルヴィシャ国王も凄いと思う。
 とは言っても、頑張って調べれば分かることなのよね。それをせずに嫌がらせ行為をする貴族が多いのだから、ルヴィシャ国王の頭痛が止む日は遠いわ。
 さてさて。
 そんな隣国からわざわざやって来た従兄様は、貴族然りとした光沢あるフロックコートを脱いで、私の手からデッキブラシを奪い取った。
 代わりに、フロックコートを押し付けてくる。
「ザラ。交代しよう」
「交代って…」
「こういうのは力がいるからね」
 ふふふ、とオースティンは笑っているのに、不思議なことに笑っているように見えない。
 兄もオースティンも、口元は笑いあっているのに目が殺し屋みたいだ。腹の中が真っ黒に違いない。
 ああ、怖い。
 さらに怖いのが、私の左手薬指。
 指が埋もれるほどぐるぐる巻きの煌びやかな情熱の赤と愛情のピンク色の撚糸が、オースティンの薬指に繋がっている。
 人のことを言えない狂気にとりつかれてるわね。
 オースティンには糸は見えないというのに、思わせぶりな顔で左手薬指に唇を添える。
 色気が凄すぎて視線が泳いでしまうわ…。
 ちなみに、あっちの薬指の糸は1本の輪。至って普通だということは伝えておきたい。
「ちょっとザラを補給させて」
 嬉々とした表情でオースティンは言って、ぎゅう、と私を抱きしめてくる。
 オースティンも兄に負けず劣らずの隠れマッチョだ。服の上からでも分かる筋肉で硬い胸板に、私の好きなジャスミンの香り。顔が熱くて恥ずかしくて仕方ないのに、オースティンは慎みということを知らない。
 私の頭に鼻を寄せ、公爵令息らしからぬ吸引力でニオイを嗅ぐから羞恥で死にたくなる。
「ああ…やっとザラに会えた。ザラ欠乏症だったんだ」
 そんな病名はないわ。
 というか、半年前に遊びに行ったわよね?
「オースティン。そろそろ馬車を退けようか。営業妨害だよ」
「ああ、そうだね」
 オースティンは私の頬にキスを落とすと、ようやく体を離してくれる。
 とはいっても、肩に手をまわしたままではあるけど。
「荷物はジュンキ家に。後は良いから、お前たちも宿で休んでいて構わない。観光でも楽しんでくれ」
「かしこまりました」
 馭者が頭を下げ、手綱を緩めて馬に指示を出す。
 去って行く馬車を見送りながら、「護衛は?」と疑問をぶつけてみた。
「先に宿に行かせたよ。物々しいのは好きじゃないだろ?」
 まぁ…そうね。好きか嫌いかと言えば、嫌いかな。
 治安の悪い場所なら、好き嫌いせずに護衛を雇いたくはあるけど。
「さぁ、汚れを取り除こうか!」
 やだ…違う意味に聞こえる。
 汚れ…汚れ…インクのことよね?
「君たちも頑張ってくれ」
 オースティンが爽やか笑顔で指示を飛ばせば、びくついていた従業員たちが一斉に拳を空に突き上げて「うぉー!」と吼えた。
「いやはや生粋貴族様のカリスマ性はすごいね」
 兄は笑いながら清掃を再開したけど、私としては喉に魚の小骨が引っ掛かったような気持ち悪さがある。
 オースティンの突然の来訪もさることながら、オースティンが1人で来たの?っていう疑問。
 だって、今までは伯父様の外交にくっついて来てたもの。
 ああ、なんだか怖いわ…。
 兄と楽しそうにデッキブラシをかけるオースティンを見ながら、私は言い知れぬ不安に身震いした。
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