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襲撃
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鎧戸が閉められ、熱気のこもる暗い部屋に、火の灯ったランタンが用意される。
天井から吊り下がる金具にランタンが掛けられると、誰からともなく「ほ」と安堵の息が漏れた。
ただ、このランタン。使用している蝋燭は獣脂らしく、蝋が溶け出すとツンとした酸化臭の後、腐肉を焼くような嫌な臭いが広がる。
ハノンは…というより人族の国は魔力持ちが当たり前なので、殆どの家に照明魔道具が1つはある。動力となる魔石が空になっても、町には魔力を充填する店があるので入手し易いのだ。
とはいえ、ランタンに比べて高価な魔道具を2個も3個も所有する家は殆どない。魔道具1つで足りない家は、植物の実から搾り取って作った木蝋蝋燭を使うのが一般的になる。
スラムなら獣脂を使うかも知れないけど、向こうで蝋燭といえば木蝋なのだ。
ちなみに、我が家の蝋燭は自家製で、木蝋と蜜蝋を使用していた。
この蜜蝋蝋燭というのは買い求めると高価な上、カビが生えやすいので扱いづらい。一般家庭では敬遠される蝋燭になる。
家が蜜蝋蝋燭を愛用できたのは、単に職業柄入手しやすく保管方法を熟知していたからに他ならない。
扱いづらい蜜蝋蝋燭ではあるけれど、ひとたび火が灯れば仄かに甘い蜂蜜の香りが部屋いっぱいに広がるのだ。対して、獣脂蝋燭は安価な蝋燭ではあるけど、日常使いは遠慮したい臭いだ。
特に、熱気が籠る屋内は辛い。
そんな思いが顔に出てたのか、大伯母さんが「臭いだろう?」と苦笑する。
「ここを使うのは日中だからね。灯りなんて殆ど使わないんだよ。私も嫌いな臭いさね。でも、真っ暗だとね…」
そう言って、部屋の隅で身を寄せるように震えている人たちに視線を馳せる。
布団に寝かされた怪我人に寄り添い、呪文のように「大丈夫」を囁く人もいれば、老医師に「心配はいらぬよ」と慰められている人もいる。
誰もが精神が削られ、怯えている。
臭いとはいえ、唯一の光源が獣脂蝋燭なのだ。
もし灯りがなければ、パニックを起こす人もいるかもしれない。
「こういう時は、冷静でいなくちゃならないんだよ」
大伯母さんは言って、ラドゥさんが持ってきた椅子に腰を下ろす。
向き合うのは玄関ドアだ。
薄い板で作られたドアは、グレートウルフがタックルでもしたらひとたまりもない。
それでも恐怖心を殺し、つん、と顎を上に向けてドアを睨みつける大伯母さんは、平民ではなく貴族の顔だ。例え平民で過ごした年月の方が長かろうとも、誇り高い貴族の血統を感じさせる。
ラドゥさんに促され、私も大伯母さんの横の椅子に座る。
ラドゥさんは反対側の大伯母さんの隣、床の上で胡坐を組んだ。胡坐の上には斧を準備し、不測の事態に備えている。
このドアの向こう側は、アーロンが守っているはずだ。ジャレッド団長とイアンは前線に出ると言っていた。第1と第3の騎士たちの指揮もある。あと、カミール領からアルフォンスたちが向かって来ているというので、戦力としては不足はない。
「大丈夫。心配いらないよ」
そっと、大伯母さんの皺だらけの手が私の手に添えられた。
「力を抜きな」と、膝の上で拳を握った私の手を摩る。
「治癒士が怪我するんじゃない。手のひらが傷つくよ」
「はい…」
ゆるりと手の力を抜くと、大伯母さんが不意に暗い天井を見上げた。僅かに頭を傾げ、「来たね」と張り詰めた声を出す。
「ポーリーン…!」と、誰かが悲鳴のような声を零す。
「落ち着きな!年を取ってるけどね、耳は良いんだよ。微かな遠吠えが聞こえた。大人しく森に帰ればいいのにね!」
はん!と鼻を鳴らしながら、ラドゥさんの肩に手を置く。
「いいかい。陣頭指揮を執ってるのは私の大甥だよ。勝ち戦に何を恐れるんだい!どん!と構えてな!女は後で炊き出しだよ!戦士を労うんだ!男どもは後片付けがあるからね。グレートウルフどもの解体に、田畑の被害確認。破損した家屋の修繕も総出で直すんだよ!」
大伯母さんの鼓舞激励に、女性陣は深々と頷き、男性陣は「おう!」と拳を突き上げ、布団に寝かされている怪我人は静かに涙を流した。
外も俄かに慌ただしくなっているのが分かる。
少し離れた場所で馬が嘶き、数頭の馬が駆け出す蹄音が聞こえた。それに遅れて、途切れ途切れに「斥候から…」「…ウルフ」「6頭!」という単語が耳つく
やっぱり目撃されなかった個体が、ボスを含めて4頭もいた。
「狡猾なボスみたいだね」
大伯母さんは言って、泰然たる様子で腕を組む。
誰もが息を呑む数瞬の静けさの後、「来たぞ!」と野太い声が叫んだ。
「4班まだ動くな!」「2班回り込め!」「1班右手から2頭来たぞ!」「6班は弓を構えろ!」と叫声が続く。
指示を飛ばしているのはジャレッド団長だ。続くように、アーロンが「怯むな!」と叱咤の声を上げる。
あちこちで「気合い入れろ!」と鼓舞する声が轟く。
それが癪に障ったのか、低い唸り声と共に大型四足獣の足音が地を駆けた。
途端に、場が荒れる。
冒険者だけならいざ知らず。素人である村人も加わっているのだ。統率は難しい。それでも、ジャレッド団長の「落ち着け!」の一喝で混乱が収束したのが分かる。
緊張感が高まる。
熱気がこもる屋内にいるというのに、恐怖心に肌が粟立ち、ぶるりと悪寒が走った。私たちの背後では、女性はしくしくと泣き、男性は浮き足立っている。
誰もが恐怖する中、私の耳にも遠吠えが聞こえた。
「ボスだ…」
誰かが引き攣った声を零し、みんなの身が震えた。
息を潜め、全神経を研ぎ澄まして外の様子を探る。
バキバキと木が倒れる音がし、遠くでガラスの割れる音が届く。殺気立った男たちの「殺せ!」という怒声に、グレートウルフの悍ましい咆哮。
混戦を極める中、「ぎゃ!」と悲鳴が聞こえる度に集会場の中の空気が震える。緊張感に耐え切れず、失神する女性もいれば、戦いに参加できずにいることを恥じている男性もいる。
「イヴ!怪我人を入れる!」
アーロンが叫び、ドアを2度叩いた。
素早く立ち上がったのはラドゥさんだ。利き手に斧を持ち、ドアを開ける。
瞬間、ひんやりとした夜風が汗ばんだ肌を撫でた。
心地いいと思ったのは一瞬だ。転がるように入ってきた3人の様子に、慌てて立ち上がって場所を譲る。
3人は装いから冒険者だと分かる。手足から血を流し、痛みに顔を顰めながら、「クソッ!」と膝をついた。
命に係わるような大きな怪我じゃないけど、このまま参加しても足手まといとなると判断され、退場となったらしい。
グレートウルフ討伐に参加するくらいだから、きっとベテラン冒険者だ。
そんな彼らが、離脱を余儀なくされる場とは、いったいどれほど過酷なのか…。
恐る恐る、開いたままのドアの向こうへと目を向け、びくりと体が震えた。
篝火を囲い、弓矢や熱した鉄棒を構えた村人を中心に、騎士や冒険者や大立ち回りをしている。相手は騎士より大きな魔物だ。
ウルフ系最大種。
冒険者ギルドの古びた図鑑でしか見たことがない魔物は、筆舌に尽くしがたいほど禍々しい。その悍ましさは恐鳥の比ではない。
返り血を浴びたような暗赤色の毛に、暗がりで光る炎のような緋色の双眸。
牙を剥き出した口からは粘り気のある涎を滴らせ、低い唸り声を発している。
騎士や冒険者が揮う剣に怯むことのない姿は、狂気の一言に尽きる。あんなのが正面に立ちはだかったら…と想像だけで身の毛がよだつ。
だというのに、村人たちは果敢に矢を射、斧を投げつけているから閉口する。
獣人は精神面でも人族より強いらしい。
息を呑んで攻防戦を見守っていれば、熱した鉄棒をグレートウルフの腹に突き刺す獅子奮迅の村人がいた。引き攣ったような「ギャウン!」と悲鳴を上げた個体に、冒険者たちがトドメの剣を次々に刺していく。確実に、1頭1頭を仕留める。
素材は二の次だ。
ズタボロに切り裂かれ、臓腑を引き摺りながらも、グレートウルフの頭に撤退はない。最期の一息まで、やられたらやり返す。
その攻防に、あちこちに血が飛散している。
「イヴ。大丈夫か?」
「え?あ…はい。大丈夫…です…」
恐怖に震える胸に手を当て、アーロンの心配顔を見上げる。
「…ジャレッド団長とイアンは?」
「2人は騎乗してグレートウルフを追い立てている。討ち漏らすことはできないからな」
アーロンは言って、肩を竦めた。
「心配するな。アルフォンスたちも合流した。暑いだろうが、もうしばらく辛抱してくれ」
「はい…」
こくこくと頷くと、白髪の老医師が「ふぉふぉ」と笑った。
「騎士様がいると心強いですな。さぁ、怪我人は儂が見よう。お嬢ちゃんの魔力は、いざという時に取っておきなさい」
老医師が、「さぁ、怪我人はこっちじゃ」と冒険者たちを誘導する。
「あとは頼んだ」
と、アーロンはドアを閉めた。
「イヴ。大丈夫かい?」
そっと背中を撫でられ、詰めていた息を吐く。
手を見れば微かに震えている。
「座りな」と、大伯母さんに促されるまま椅子に腰を下ろす。
後ろでは、怪我人の治療が始まっている。「無事で何より」と明るく笑う老医師と、「くそっ!まだやれたのに!」「不甲斐ない…」「俺が討ち取りたかった」と冒険者たちが嘆いている。
私だってCランク冒険者だ。
魔物だって見たことはある。
でも、あんな恐ろしいのは見たことがない。ボーガンで射ったところで、グレートウルフは怯まないだろう。それどこから、嘲笑うように向かってきそうだ。
あんな魔物の眼を真正面から受け止めることは私にはできない。
ぶるり、と大きく身震いしたところで、「2頭討ち取った!」と鬨の声が聞こえた。「うおぉぉ!」と士気を上げた歓声と、「畳みかけろ!」と叫声。
蹄音が駆ける。
「ボスを追う!イアンとアルフォンスは俺につけ!」
ジャレッド団長の咆哮で、3頭分の蹄音が遠ざかって行く。
「本当に狡猾な奴だね。遠くで襲撃の様子を観察していたに違いないよ」
はん、と大伯母さんが顔を顰めて鼻を鳴らす。
「ああ、離れてこっちを見てやがったよ」と、負傷した腕を治療されながら冒険者の1人が苦々しく吐き捨てた。
「左右に1頭ずつ侍らせてたな」
「侍らせてたからこそ、奴のデカさが際立ってた。ありゃあ、馬くらいにデカかった」
口々に冒険者がボスの様子を教えてくれる。
それを聞いて、息を呑む村人もいれば、ラドゥさんのように肩を怒らせて気合いを入れる村人もいる。
大伯母さんは泰然と腕を組み、「ジャレッドが行ったんだ。ボスの首を獲って来るさね」とにやりと笑った。
―・―・―・―注釈―・―・―・―
作中の「浮き足立つ」ですが、本来の意味合いであるネガティブなニュアンスで使用しています。
ウキウキとした浮かれ状態ではなく、不安と恐怖の感情です。
ポジティブな意味合いで使われているのを多々見るので迷いましたが、ここでは本来のネガティブな意味で読み取ってくれると嬉しいです。
天井から吊り下がる金具にランタンが掛けられると、誰からともなく「ほ」と安堵の息が漏れた。
ただ、このランタン。使用している蝋燭は獣脂らしく、蝋が溶け出すとツンとした酸化臭の後、腐肉を焼くような嫌な臭いが広がる。
ハノンは…というより人族の国は魔力持ちが当たり前なので、殆どの家に照明魔道具が1つはある。動力となる魔石が空になっても、町には魔力を充填する店があるので入手し易いのだ。
とはいえ、ランタンに比べて高価な魔道具を2個も3個も所有する家は殆どない。魔道具1つで足りない家は、植物の実から搾り取って作った木蝋蝋燭を使うのが一般的になる。
スラムなら獣脂を使うかも知れないけど、向こうで蝋燭といえば木蝋なのだ。
ちなみに、我が家の蝋燭は自家製で、木蝋と蜜蝋を使用していた。
この蜜蝋蝋燭というのは買い求めると高価な上、カビが生えやすいので扱いづらい。一般家庭では敬遠される蝋燭になる。
家が蜜蝋蝋燭を愛用できたのは、単に職業柄入手しやすく保管方法を熟知していたからに他ならない。
扱いづらい蜜蝋蝋燭ではあるけれど、ひとたび火が灯れば仄かに甘い蜂蜜の香りが部屋いっぱいに広がるのだ。対して、獣脂蝋燭は安価な蝋燭ではあるけど、日常使いは遠慮したい臭いだ。
特に、熱気が籠る屋内は辛い。
そんな思いが顔に出てたのか、大伯母さんが「臭いだろう?」と苦笑する。
「ここを使うのは日中だからね。灯りなんて殆ど使わないんだよ。私も嫌いな臭いさね。でも、真っ暗だとね…」
そう言って、部屋の隅で身を寄せるように震えている人たちに視線を馳せる。
布団に寝かされた怪我人に寄り添い、呪文のように「大丈夫」を囁く人もいれば、老医師に「心配はいらぬよ」と慰められている人もいる。
誰もが精神が削られ、怯えている。
臭いとはいえ、唯一の光源が獣脂蝋燭なのだ。
もし灯りがなければ、パニックを起こす人もいるかもしれない。
「こういう時は、冷静でいなくちゃならないんだよ」
大伯母さんは言って、ラドゥさんが持ってきた椅子に腰を下ろす。
向き合うのは玄関ドアだ。
薄い板で作られたドアは、グレートウルフがタックルでもしたらひとたまりもない。
それでも恐怖心を殺し、つん、と顎を上に向けてドアを睨みつける大伯母さんは、平民ではなく貴族の顔だ。例え平民で過ごした年月の方が長かろうとも、誇り高い貴族の血統を感じさせる。
ラドゥさんに促され、私も大伯母さんの横の椅子に座る。
ラドゥさんは反対側の大伯母さんの隣、床の上で胡坐を組んだ。胡坐の上には斧を準備し、不測の事態に備えている。
このドアの向こう側は、アーロンが守っているはずだ。ジャレッド団長とイアンは前線に出ると言っていた。第1と第3の騎士たちの指揮もある。あと、カミール領からアルフォンスたちが向かって来ているというので、戦力としては不足はない。
「大丈夫。心配いらないよ」
そっと、大伯母さんの皺だらけの手が私の手に添えられた。
「力を抜きな」と、膝の上で拳を握った私の手を摩る。
「治癒士が怪我するんじゃない。手のひらが傷つくよ」
「はい…」
ゆるりと手の力を抜くと、大伯母さんが不意に暗い天井を見上げた。僅かに頭を傾げ、「来たね」と張り詰めた声を出す。
「ポーリーン…!」と、誰かが悲鳴のような声を零す。
「落ち着きな!年を取ってるけどね、耳は良いんだよ。微かな遠吠えが聞こえた。大人しく森に帰ればいいのにね!」
はん!と鼻を鳴らしながら、ラドゥさんの肩に手を置く。
「いいかい。陣頭指揮を執ってるのは私の大甥だよ。勝ち戦に何を恐れるんだい!どん!と構えてな!女は後で炊き出しだよ!戦士を労うんだ!男どもは後片付けがあるからね。グレートウルフどもの解体に、田畑の被害確認。破損した家屋の修繕も総出で直すんだよ!」
大伯母さんの鼓舞激励に、女性陣は深々と頷き、男性陣は「おう!」と拳を突き上げ、布団に寝かされている怪我人は静かに涙を流した。
外も俄かに慌ただしくなっているのが分かる。
少し離れた場所で馬が嘶き、数頭の馬が駆け出す蹄音が聞こえた。それに遅れて、途切れ途切れに「斥候から…」「…ウルフ」「6頭!」という単語が耳つく
やっぱり目撃されなかった個体が、ボスを含めて4頭もいた。
「狡猾なボスみたいだね」
大伯母さんは言って、泰然たる様子で腕を組む。
誰もが息を呑む数瞬の静けさの後、「来たぞ!」と野太い声が叫んだ。
「4班まだ動くな!」「2班回り込め!」「1班右手から2頭来たぞ!」「6班は弓を構えろ!」と叫声が続く。
指示を飛ばしているのはジャレッド団長だ。続くように、アーロンが「怯むな!」と叱咤の声を上げる。
あちこちで「気合い入れろ!」と鼓舞する声が轟く。
それが癪に障ったのか、低い唸り声と共に大型四足獣の足音が地を駆けた。
途端に、場が荒れる。
冒険者だけならいざ知らず。素人である村人も加わっているのだ。統率は難しい。それでも、ジャレッド団長の「落ち着け!」の一喝で混乱が収束したのが分かる。
緊張感が高まる。
熱気がこもる屋内にいるというのに、恐怖心に肌が粟立ち、ぶるりと悪寒が走った。私たちの背後では、女性はしくしくと泣き、男性は浮き足立っている。
誰もが恐怖する中、私の耳にも遠吠えが聞こえた。
「ボスだ…」
誰かが引き攣った声を零し、みんなの身が震えた。
息を潜め、全神経を研ぎ澄まして外の様子を探る。
バキバキと木が倒れる音がし、遠くでガラスの割れる音が届く。殺気立った男たちの「殺せ!」という怒声に、グレートウルフの悍ましい咆哮。
混戦を極める中、「ぎゃ!」と悲鳴が聞こえる度に集会場の中の空気が震える。緊張感に耐え切れず、失神する女性もいれば、戦いに参加できずにいることを恥じている男性もいる。
「イヴ!怪我人を入れる!」
アーロンが叫び、ドアを2度叩いた。
素早く立ち上がったのはラドゥさんだ。利き手に斧を持ち、ドアを開ける。
瞬間、ひんやりとした夜風が汗ばんだ肌を撫でた。
心地いいと思ったのは一瞬だ。転がるように入ってきた3人の様子に、慌てて立ち上がって場所を譲る。
3人は装いから冒険者だと分かる。手足から血を流し、痛みに顔を顰めながら、「クソッ!」と膝をついた。
命に係わるような大きな怪我じゃないけど、このまま参加しても足手まといとなると判断され、退場となったらしい。
グレートウルフ討伐に参加するくらいだから、きっとベテラン冒険者だ。
そんな彼らが、離脱を余儀なくされる場とは、いったいどれほど過酷なのか…。
恐る恐る、開いたままのドアの向こうへと目を向け、びくりと体が震えた。
篝火を囲い、弓矢や熱した鉄棒を構えた村人を中心に、騎士や冒険者や大立ち回りをしている。相手は騎士より大きな魔物だ。
ウルフ系最大種。
冒険者ギルドの古びた図鑑でしか見たことがない魔物は、筆舌に尽くしがたいほど禍々しい。その悍ましさは恐鳥の比ではない。
返り血を浴びたような暗赤色の毛に、暗がりで光る炎のような緋色の双眸。
牙を剥き出した口からは粘り気のある涎を滴らせ、低い唸り声を発している。
騎士や冒険者が揮う剣に怯むことのない姿は、狂気の一言に尽きる。あんなのが正面に立ちはだかったら…と想像だけで身の毛がよだつ。
だというのに、村人たちは果敢に矢を射、斧を投げつけているから閉口する。
獣人は精神面でも人族より強いらしい。
息を呑んで攻防戦を見守っていれば、熱した鉄棒をグレートウルフの腹に突き刺す獅子奮迅の村人がいた。引き攣ったような「ギャウン!」と悲鳴を上げた個体に、冒険者たちがトドメの剣を次々に刺していく。確実に、1頭1頭を仕留める。
素材は二の次だ。
ズタボロに切り裂かれ、臓腑を引き摺りながらも、グレートウルフの頭に撤退はない。最期の一息まで、やられたらやり返す。
その攻防に、あちこちに血が飛散している。
「イヴ。大丈夫か?」
「え?あ…はい。大丈夫…です…」
恐怖に震える胸に手を当て、アーロンの心配顔を見上げる。
「…ジャレッド団長とイアンは?」
「2人は騎乗してグレートウルフを追い立てている。討ち漏らすことはできないからな」
アーロンは言って、肩を竦めた。
「心配するな。アルフォンスたちも合流した。暑いだろうが、もうしばらく辛抱してくれ」
「はい…」
こくこくと頷くと、白髪の老医師が「ふぉふぉ」と笑った。
「騎士様がいると心強いですな。さぁ、怪我人は儂が見よう。お嬢ちゃんの魔力は、いざという時に取っておきなさい」
老医師が、「さぁ、怪我人はこっちじゃ」と冒険者たちを誘導する。
「あとは頼んだ」
と、アーロンはドアを閉めた。
「イヴ。大丈夫かい?」
そっと背中を撫でられ、詰めていた息を吐く。
手を見れば微かに震えている。
「座りな」と、大伯母さんに促されるまま椅子に腰を下ろす。
後ろでは、怪我人の治療が始まっている。「無事で何より」と明るく笑う老医師と、「くそっ!まだやれたのに!」「不甲斐ない…」「俺が討ち取りたかった」と冒険者たちが嘆いている。
私だってCランク冒険者だ。
魔物だって見たことはある。
でも、あんな恐ろしいのは見たことがない。ボーガンで射ったところで、グレートウルフは怯まないだろう。それどこから、嘲笑うように向かってきそうだ。
あんな魔物の眼を真正面から受け止めることは私にはできない。
ぶるり、と大きく身震いしたところで、「2頭討ち取った!」と鬨の声が聞こえた。「うおぉぉ!」と士気を上げた歓声と、「畳みかけろ!」と叫声。
蹄音が駆ける。
「ボスを追う!イアンとアルフォンスは俺につけ!」
ジャレッド団長の咆哮で、3頭分の蹄音が遠ざかって行く。
「本当に狡猾な奴だね。遠くで襲撃の様子を観察していたに違いないよ」
はん、と大伯母さんが顔を顰めて鼻を鳴らす。
「ああ、離れてこっちを見てやがったよ」と、負傷した腕を治療されながら冒険者の1人が苦々しく吐き捨てた。
「左右に1頭ずつ侍らせてたな」
「侍らせてたからこそ、奴のデカさが際立ってた。ありゃあ、馬くらいにデカかった」
口々に冒険者がボスの様子を教えてくれる。
それを聞いて、息を呑む村人もいれば、ラドゥさんのように肩を怒らせて気合いを入れる村人もいる。
大伯母さんは泰然と腕を組み、「ジャレッドが行ったんだ。ボスの首を獲って来るさね」とにやりと笑った。
―・―・―・―注釈―・―・―・―
作中の「浮き足立つ」ですが、本来の意味合いであるネガティブなニュアンスで使用しています。
ウキウキとした浮かれ状態ではなく、不安と恐怖の感情です。
ポジティブな意味合いで使われているのを多々見るので迷いましたが、ここでは本来のネガティブな意味で読み取ってくれると嬉しいです。
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