騎士団長のお抱え薬師

衣更月

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安静

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 一夜明けて、痛みが全身に広がっている気がする。
 昨日は侍女の手を借りてパン粥を啜り、医師の診察後に熱さましの湯薬を飲んだ。
 ゴブレットになみなみと注がれた湯薬は、見たこともない青鈍色。どろり、と粘り気が強く、酸っぱさと生魚の臭みを凝縮したよう強烈な臭いを放っていた。
 ひと口飲めば、口に張り付く苦みとえぐみで何度も嘔吐えづきそうになった。
 恐らく、解熱作用のある薬草を手当たり次第に煎じ、繊維が溶け込むほどに煮詰めたのだろう。
 例え熱さましに効果があっても、副作用として胸が悪くなる代物だった。
 正直、二度と飲みたくはない。
 その後も世話をされたと思うけど、記憶は曖昧のまま。疲労から眠りに落ちたのだと思う。ジー、ジー、と虫の声が煩わしくて目を覚ませば、カーテン越しに日が昇っていた。
 とは言っても、たくさん寝たわけではない。実際は痛みで浅い眠りの連続だった。寝返りの度に激痛が眠りを妨げ、何度も目が覚めた。
 数時間おきに、侍女が部屋を訪れていたのも夢うつつに覚えている。
 何度も額に浮かぶ汗を拭い、頬を冷やすタオルを換えてくれた。
 その温くなったタオルをそっと横に退けて、恐る恐る頬に触れてみる。
「ひっ…」
 頬の腫れに引き攣った声が出た。
 左右で顔の形が変わるほど、左半分がぱんぱんに腫れ上がっている。口を開こうとすれば、顎がキリキリ痛んで思うように開かない。まるで顎が外れたみたいに、少し開いた後に頬骨や筋肉が悲鳴をあげた。
 痛みや腫れが、昨日より悪化している。
 これは骨に異常がある可能性が高い。
「……少し…だけ……」
 痛みだけでも取り除きたい。
 頬だけでも楽になれば、この苦痛もかなり緩和されると思う。
 ゆっくり、深く息を吐いて、頬に触れた手に意識を集中させる。
 ああ…体を巡る魔力が乱れている。
 絡まった糸のように乱れる魔力を正すのは、今の状態では無理に等しい。
 仕方なく、細々とした魔力を引き出していく。
 ほんのりとした温もりが手のひらから溢れ、頬を覆い始めた。じわじわと痛みが引いていく。
 でも、簡単にはいかない。
 魔力の乱れと、集中力を欠いた頭の前では、一時的に激痛を和らげるのが精いっぱいだ。
 空腹であることを差し引いても、だ。
 今の私はレベル1にも満たないのかと落胆してしまう。
 私の悲しみに同調するように、ぐるる、と小さくお腹が鳴いた。
 昨日は空腹を覚えることもないほど満身創痍だった。それを思えば、回復の兆しだと喜ぶべきだろう。問題は食べ物がないことだ。
 サイドテーブルを見ればベルが置いてある。
 あれを鳴らせば誰かが来るはずだけど、体を起こすこともままならない。
 お腹減った、と念じ続けたのが伝わったのか、コンコン、と控えめなノックがした。
 返事を待つことなくドアが開き、入って来たのは赤褐色の髪を頭の上で纏めた30代後半と思しき女性だ。
 シンプルな黒いワンピースタイプのお仕着せに白いエプロンは、クロムウェル公爵家の制服になる。
 記憶はごちゃごちゃしているけど、昨日、クロムウェル公爵家に厄介になったのは覚えている。薄らぼんやりと、ジャレッド団長が駆けつけてくれたのも覚えているし、ぼや~っとハワード団長と話をした気もする。
 頬を殴られてからの記憶が断片的なので、何が現実で、何が夢だったのかが判然としない。
 そして、彼女から自己紹介を受けたとは思うけど、記憶が飛んでいる。
 一晩中お世話になったのは彼女なのに…。
「お目覚めでしたか。おはようございます。ゴゼット様」
 彼女の名前は何だったか。
 私が「おはよ…」と言えば、彼女は微笑んだ。
 蚊の鳴くような声でも、ちゃんと聞こえてたことにほっとする。
 彼女はカーテンを開け、枕元のタオルとサイドテーブル上の盥を手に一旦退室した後、新しいタオルと盥を持って来た。すぐに戻って来たので、部屋の外に準備していたのだろう。
「痛みはどうですか?」
「…少しマシです…治癒魔法をかけました…すごく痛かったので…」
 別に責めてはいないのに、彼女は痛々しい表情で眉尻を下げた。
「申し訳ございません。ポーションがあれば良かったのですが…。今、領内のポーションを見直しているのです。古いものは馬などの動物に回し、新しいものは手配している最中で人用のものが残っておらず、ゴゼット様に辛い思いをさせてしまいました」
 ああ、そうか。
 ポーションの保管についてアーロンとジョアンに教えたな、と朧げに思い出した。
「ハワード様がおっしゃったように、あまり無理はなさらないで下さいね。無理して魔法を使って、それで倒れては、ジャレッド様がさらに落ち込んでしまいますから」
 ジャレッド団長が落ち込むとは?
 疑問に思いながらも、彼女の手を借りて体を起こす。
 ううっ…全身隈なく痛い。
 叩かれたのは頬だけど、その後、転倒してあちこちをぶつけたのかも…。どうにも思い出せない。ただ、体中がズキズキ、ヒリヒリする。
 背中にふかふかの枕を2個も追加されて、ゆっくりと体重を枕に移動させる。
「ふぅ…」と大きく息を吐いて、何気なく視界に入った左手に絶句した。
 左手小指が、固定の添え木と一緒に包帯をぐるぐるに巻かれていた。
 手首の痛みは、転倒した体を咄嗟に支えようとしたからだと分かる。
 では、小指は?
 思い出せない。
「あの…そういえば…ジャレッド団長は…なぜ昨日…いたんですか?」
「ええ、ゴゼット様が被害に遭われてすぐに早馬を飛ばして知らせたのです。そうしましたらジャレッド様が血相を変えて駆け付けられて。それはもう大変で。しばらくして第2騎士団へお戻りになられましたが、今日も来られるそうですよ」
 彼女はタオルを濡らし、傷に響かないように私の顔を拭ってくれる。
 頬だけ頑張って治癒をかけたけど、完治には程遠い。触れられる度に痛い。唇の端も切っているのか、ヒリヒリする。
 改めて、獣人のパワーを思い知る。
 ビンタ1発で満身創痍になるなんて、人族は想像すらできないはずだ。それも筋骨隆々の騎士ではなく、筋肉とは無縁の令嬢のビンタ1発である。
「あの……すごく失礼なことなんですけど…。名前、聞いてもいいですか?たぶん、昨日聞いたと思うんですけど、記憶があやふやで……すみません」
「謝らない下さい。ゴゼット様の意識が朦朧としていた状態だったのは、誰の目にも明らかでした。私の名前はディアンネ・ヴォールと申します。アンネとお呼び下さい。皆にはアンネと呼ばれています」
「アンネさん…。私はイヴと呼んで下さい」
 それから、頭に響かない程度に頭を下げる。
「何から何までお世話になりました…」
 欠けた記憶の中で、ディアンネに世話をかけたの場面だけが飛び飛びに蘇ってくる。
 パン粥を用意し、体を隅々まで拭いてくれ、トイレに行くにも手を貸してもらった。熱で汗ばんだ服も着替えさせてくれたのもディアンネだ。
 10年間風邪すらひいたことがない健康優良児だったので、付きっ切りで看病されるという経験が乏しい。面映ゆい反面、恥ずかしい。また、ディアンネ本来の仕事を邪魔してしまったという申し訳なさがある。
「イヴ様。そんな顔をしないで下さい。あなたがそのような顔をされると、ハワード様が気に病まれます。あなたは被害者。これは確固たるものです。聞けば貴族家の令嬢が白昼堂々と往来で暴挙に出たというではないですか。領地の治安を預かるハワード様は、今回の件を重く見ています。同じ獣人として申し訳なく思っています」
 ディアンネは眉尻を下げ、最後に私の目元を拭ってから立ち上がった。
「お食事をお持ちしますが、何かご希望はございますか?」
「スープを…。まだ具材を噛めるとは思えないので…。あと、柔らかい果実があればお願いします。その…お腹は減ってて……」
「まぁ!それは喜ばしいことです。すぐにご用意致します」
 ディアンネはタオルと盥を持って、早々に退室して行った。
 彼女の表情を見る限り、悪意は感じなかった。心から心配しているのが分かったし、食事の注文にも嫌な顔一つしなかった。
 優しい人で良かった。
 キャトラル王国では、高位貴族の使用人は下位貴族出身者だ。平民は下働きに限られていて、侍従や侍女は貴族の子女なので、横柄な使用人は珍しくなかった。何気に、商店ではブラックリストなんてものもあって、どこどこの貴族家の何某という使用人は要注意、というのが回覧板のように回るのだ。
 その嫌な雰囲気がここにはない。
 酷い目に遭ったけど、大丈夫。
 獣人は怖くない。
 自分の頭に言い聞かせつつ窓の外へ視線を向ける。
 部屋は1階の日当たりの良い客間みたいだ。窓の外には、庭師の手によって四角や円に刈り込まれた灌木が整然と並んでいる。花はないけど、それが殺風景だとは思わない。むしろ、庭師の手腕が光る芸術作品な気がする。
 ここから見た景色は、緑が映える絵画みたいだ。
 しばらくして、ディアンネがワゴンを押して戻って来た。
 ワゴンの下から長方形の小さなテーブルを出して、それを私の上に乗せる。
 こんなものがあるのかと驚く私に微笑んで、ディアンネは真っ白なテーブルクロスをかけ、手際よく配膳する。
 たっぷりのミルクを注いだグラスと、白緑色ホワイト グリーンのスープ。果実は見たことがない淡いピンク色で、四角くカットされている。
「いただきます…」
 右手が無事で良かった。
 ほっとしつつスプーンを手に、恐る恐るスープを口につける。
 緑色のスープなんて、どんな味がするのだろうと不安だったけど、緑色の正体がくたくたに煮込んだブロッコリーだと気が付いた。舌に残るざらつきは、煮崩れ、溶け込んだジャガイモだ。玉葱の甘さと、鳥を煮込んだ旨味。ミルクのコクと甘み。元はミルクシチューだと分かった。
「美味しいです」
「おかわりもございますので、たくさん召し上がって下さい」
 ディアンネはにこにことしながら傍らに控えてくれている。
 誰かに見られながら、それもベッドで食事なんて慣れないけど、空腹というスパイスで黙々と食べることができた。スープはおかわりを頼んで2杯も楽しめたし、果実は口に含むと果汁が溢れながらほろほろと繊維が解けた。甘さの中に、仄かな酸味があり、風味としては柑橘系。果肉はモモに近い。
 クロムウェル領の特産として有名なマチュという果物だと教えてくれた。
 最後に、濃厚なミルクを飲み干すと、お腹がいっぱいになった。
「ご馳走様でした」
「お口に合いましたか?」
「はい」と頷くと、ディアンネは微笑んだ。
「イヴ様。今日1日は安静にするようにとハワード様より言付かっております。午前中に先生が往診に来られますので、その時に治癒魔法の使用について伺って下さい」
「あの…第2には戻れないんでしょうか?」
「少なくとも、本日は安静でお願いします」
 ディアンネは困ったように眉尻を下げた。
 困らせるのは本意ではない。
 何より今の状態では、馬車で移動するどころか、1人で歩くことも難しそうだ。
「あの…御厄介になります」
 私が言えば、ディアンネは柔らかな微笑を口元に乗せた。
「イヴ様。少なくとも私に気を遣う必要はありません」
「…はい」
 小さく頷くと、ディアンネは満足げに微笑む。
「体調が良くなれば、是非とも庭園を散策されて下さい。この客間から見える庭園は、庭師の渾身の作なのですよ。ここから見ると分かり辛いですが、2階のテラスから見るとチェスの盤上になっているのです。庭園に入ると、駒が良い具合に配置された迷路になっていて、滞在されたお客様に楽しんでもらっております。まずはお怪我を癒すことに専念されましょうね」
 ディアンネは言って、てきぱきと食器、テーブルをワゴンに乗せると、一礼して退室して行った。
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