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長兄ハワード
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金色の髪を緩く編み込んだ白皙の美女が、丸みを帯びたお腹を摩りながら苦笑を浮かべている。
メリンダだ。
元子爵令嬢ながらに偉ぶったところがなく、いつも私を気遣ってくれる。姉のような友達。
『この前、友人から手紙が来たんだけどね、茶会のマウント合戦に怒りが爆発してたわ。愚痴がすごいの。早々に貴族から抜けて良かった。この子には窮屈な思いはさせたくないもの』
メリンダは貴族社会は窮屈だと言って憚らない。
私から見れば貴族の方が衣食住は保証されているし、冬に凍えることもなくて羨ましいのに、メリンダの目には全く違う世界に映るらしい。
貴族家に生まれれば、マナーや勉学の他に、芸術、話術、最先端の流行を常に追いかけ、派閥を気にかけながら良好な人間関係を築くことを命じられるそうだ。
精神を摩耗させながら、家の利になることだけを考え、行動するのだという。
特に女性に発言権はなく、駒として親の言いなりに動かなければならない。その代表が政略結婚だ。近しい年齢の令息ならまだしも、二回りも離れた貴族の後妻として嫁ぐことも珍しくない。中には、愛妾として送り出されることもあるそうだ。
それを思うと、平民は自由で羨ましいのだという。
『まぁ、うちは片田舎の弱小貴族だから、中央の偉ぶった貴族からみれば平民と同じなんでしょうけど。だからこそ、私が逃げ出しても誰も何も言わなかったのよね。政略の駒として役に立てたでしょうに、逃がしてくれた両親には感謝よ』
胸を張り、にこりと微笑んだ顔は、初めて会った時の儚げな美少女とは違う。
母親の顔付きになっている。
『イヴは平気?』
『え?』
『貴族に絡まれるなんて怖かったでしょ?』
眉尻を下げた悲しげな表情で、そっと私の頬に触れる。
ずん、と鈍い痛みが骨にまで響いて、叩かれたことを思い出す。
『いいこと?馬鹿な貴族は何処にでもいるの。頭が馬鹿なら、付き従う下も馬鹿。でもね、公明正大な王様の下には、良識ある臣下が集うものよ。それでも一定数いる馬鹿に絡まれるなら、正しい貴族を見極めて味方につけなさい』
少し高飛車に、少しおちゃらけながらのアドバイス。
『あなたは大丈夫よ。単身隣国に乗り込む強さがあるもの』
軽やかな笑い声に、初めてホームシックという感情が胸に沸いた。
ふ、と目を開けば、見知らぬ天井だ。
てっきり路地裏にでも投げ捨てられているのかと思ったので驚いた。
頬の痛みと、脈打つように痛む頭。口の中も切っているのが、ツキツキとした痛みで分かる。それ以外にも全身に痛みが走る。特に、左手にズキズキキリキリとした痛みがある。
倒れた時に痛めたのだろう。
痛みのない右手を動かせば、肌触りの良い絹のシーツに指腹が滑る。
布団がふかふかなら、枕もふかふかだ。
視線を巡らせると、自分のいる場所が場違いなほど上等な部屋だと分かった。
華美な調度品がない分、洗練されている。
テーブルもドレッサーも黒檀と落ち着いた色合いで、革張りのソファも黒に近いダークブラウンだ。部屋全体が黒っぽいのは、たぶん計算なのだろう。白いレースのカーテンが額縁のように、窓の外に広がる緑一色の庭園を浮き立たせている。
まるで絵画みたい。
もしかして、3人のうちの誰かの家に保護されたのだろうか。
拉致だと怖いな…。
そんなことをぼんやりと考えていると、遠くで人の言い争う声が聞こえてきた。
ヒートアップした言い争いなのに、薄い膜を張ったように声が遠く、内容が聞き取れない。辛うじて、男性の声だということが分かった。
しばらくして、言い争っていた相手を振り切ったのか、ドタバタと騒々しい靴音が駆けて来る。
足音が部屋の前で止まったと思う間もなく、乱暴にドアが開いた。
「坊ちゃん!お待ち下さい!」
坊ちゃん…?
小さな子供がいる家に保護されたのだろうか。
緩慢に瞬きを繰り返し、ゆっくりとドアへ目を向ければ、黒い隊服が目に入った。
「……だんちょ」
ぽつり、と声が出た。
良かった。声は出る。舌も回る。ただ、頬に詰め物をしたように喋り辛いし、口を動かすたびに顎や頬に痛みが走る。
「目が覚めたか」
ジャレッド団長は言って、ベッドの傍らに跪いた。
そっと伸びて来た手が触れるのは叩かれた頬で、ズン…と鈍い痛みが波紋のように広がる。
「ジャレッド、少しは落ち着きなさい。ジミー、医師を呼んでくれ」
てきぱきと、入り口に立つ男性が指示を飛ばす。
長い髪を首の後ろで束ねた長身痩躯の男性だ。
夢うつつに、天鵞絨のジュストコールがよく似合う美麗な男性だと思った。ジャレッド団長がいなければ、天からお迎えが来たのかと勘違いしそうだ。
男性は部屋に入って来ると、ドレッサーの椅子を傍らに置いて座った。
「喋るのは辛いだろうから、瞬きをしてくれるかい?”はい”なら1回、”いいえ”なら2回だ」
分かったという意思表示に、ゆるゆると瞬きを1回する。
男性は微笑した後、ベッドにしがみつくようにして座るジャレッド団長の頭を撫でた。
「まずは自己紹介だ。私はハワード。ジャレッドと、第3のグレンの兄になる。第1の指揮を執っているが、ゴゼットさんを前に治安維持に努めているとは言い辛いな。申し訳ない」
と、男性――ハワード団長が頭を下げた。
マリアの言った通り、画家の手に負えない。
あんなに姿絵を見ていたのに、本人が前にいて気づけないほどの尊さがある。
公爵夫人似の中性的な面立ちには妖艶な色気があり、凛とした金色の双眸には騎士団長、あるいは次期公爵としての威厳を兼ね備えている。
純粋に美しい人だけど、たぶん、ジャレッド団長以上に厳しく怖い人だ。
そんな次期公爵様に頭を下げさせているなんて異常事態なんだと思う。
そう思うのに、今はぼんやりと他人事のように見つめてしまう。
「まず、現状を説明する。君は左頬を殴られ、脳震盪を起こしている。頭痛や眩暈。もしかすると記憶障害が起きている可能性があるが、ゴゼットさんは治癒魔法が使えたね?」
瞬きを1回する。
「今は安静にしていてほしい。私たちは魔法に関しては無知だが、恐らく、魔法を使うのは集中したり、体力を使うのだろう?」
再び、瞬きを1回する。
「少なくとも今は我慢すること。頬や手が痛いだろうがね。分ったかい?」
思案した末に、瞬きを1回する。
ハワード団長が満足げに微笑むと、場の空気が華やいだような錯覚に陥る。
キース副団長やグレン団長よりも上を行く美形がいたとは…。
そんな美貌のハワード団長は、しゅん、と眉尻を下げた。
「さらに謝らなくてはならないのだけど、我が領…いや、我が国だね。残念ながら、ヴォレアナズ帝国は医療後進国だ。獣人は痛みに強く自己治癒力による完治が早いからね」
ハワード団長言って、自身の頬を指さした。
「本来なら、痛み止めのような薬が必要なのだろうが…知識がない。公爵家お抱えの医師でさえそれなんだ。医術推進を疎かにしすぎたと反省しきりだ。熱さましの薬は後で用意する。それ以外を今から手配するには時間がかかるが…何か簡単な対処はあるだろうか?冷やした方がいいのかな?」
瞬きを1回すると、ハワード団長は後ろに振り返った。
視線を向けると、ジミーと呼ばれた男性とは別の燕尾服を着た男性が立っている。男性はハワード団長が何かを言う前に、「すぐにご用意致します」と退室して行った。
「さて。次に君の身に起きたことだが、恥ずべきことに貴族令嬢が起こした恫喝並びに暴行だ。これは目撃者から、数多くの通報があった。巡邏の騎士が駆け付けた時、ゴゼットさんは気を失っていたそうだ。そんな君に対し、3人の令嬢…いや、ここでは令嬢ではなく襲撃者だね。襲撃者たちは指輪を強奪しようとしていた。襲撃者の侍女たちは注意することなく、傍観に徹していたというから呆れてしまう。白昼堂々とした犯罪を見て動かないとはね。良識ある侍女は、主が道を踏み外せば諫めるのだけどね」
ハワード団長は肩を竦め、今にも唸り声をあげそうなジャレッド団長の頭を再び撫でた。今度は乱暴に、押さえつけるような撫で方だ。
「指輪を強引に引き抜こうとしたのだろう。ゴゼットさんの小指は折れている。赤黒く腫れて、指輪が外れなかったようだ。痛みはあるかな?」
瞬きは1回。
「指輪は、鬱血しないように専門家を呼んでカッターで切断して外してある」
申し訳なさにジャレッド団長を見れば、ジャレッド団長はハワード団長の手に押さえつけられながらも怒りを押し込めるのに必死の様子。
あとで謝ろう。
「色々と聞きたいことはあるだろうけど、今日は安静にしてほしい。襲撃者たちは、傍観者も含めて優しくはない罪に問われることになる。少なくとも強盗罪は適応される」
これには驚いた。
キャトラル王国では、平民が泣き寝入りするのは常だったからだ。
私の表情で悟ったのだろう。ハワード団長が薄ら寒くなるような微笑を浮かべた。
なんとも凄味がある。
「一方的な制裁を加えるわけではないよ。裁判にかける。ただ、白昼堂々と往来での暴言と暴行。それも襲撃者たちの家とは関係のない他領だからね。重罪となる決定打は、ゴゼットさんが正式ではないにしろ第2騎士団に所属していること。そして、クロムウェル公爵家の紋章を刻んだ指輪をしていたことが大きい。それは、我が公爵家の者と同義だからね。ジャレッドが後見に立ったのだろう?」
わしゃわしゃ、とジャレッド団長の頭を撫で回しながら、ハワード団長が苦笑する。
「あの手の輩は、何をしても無駄だ。自分に都合の良い解釈で、常人には理解し難い行動を起こす。スカーレン子爵令嬢のようなね。今回もゴゼットさんに対し、口に出すのも憚られる言葉で罵っていたというじゃないか。ゴゼットさんの指に合うように作られた指輪だというのに、なぜそれが分からないのだろうね」
ハワード団長が嘆息して席を立つと、「お待たせしました」と燕尾服の男性が戻って来た。その隣には盥を持った侍女がいる。
「ほら、邪魔だよ」
ハワード団長はジャレッド団長の襟首を掴むと、引き摺るようにベッドから遠ざける。
文句ひとつも言わずに引き摺られるジャレッド団長は珍しい。というか、いつ大噴火を起こすか分からない恐怖がある。
ジャレッド団長が退くと、侍女が座った。
盥には水が張っているらしい。ちゃぷん、ちゃぷん、と音が聞こえる。タオルを濡らし、固く絞ったタオルは、そっと私の頬に添えられた。
熱があるのか、タオルが冷たくて気持ちいい。
目を伏せると、侍女の手が額に触れる。
「熱が出ていますね。熱さましの湯薬をお持ちしましょう」
「ヴォール。あなたはしばらくゴゼットさん専属とします」
「畏まりました」
「ジャレッドは私と来なさい」
「…………ああ」
借りてきた猫。
そんな皮肉めいた慣用句が浮かんだ。
メリンダだ。
元子爵令嬢ながらに偉ぶったところがなく、いつも私を気遣ってくれる。姉のような友達。
『この前、友人から手紙が来たんだけどね、茶会のマウント合戦に怒りが爆発してたわ。愚痴がすごいの。早々に貴族から抜けて良かった。この子には窮屈な思いはさせたくないもの』
メリンダは貴族社会は窮屈だと言って憚らない。
私から見れば貴族の方が衣食住は保証されているし、冬に凍えることもなくて羨ましいのに、メリンダの目には全く違う世界に映るらしい。
貴族家に生まれれば、マナーや勉学の他に、芸術、話術、最先端の流行を常に追いかけ、派閥を気にかけながら良好な人間関係を築くことを命じられるそうだ。
精神を摩耗させながら、家の利になることだけを考え、行動するのだという。
特に女性に発言権はなく、駒として親の言いなりに動かなければならない。その代表が政略結婚だ。近しい年齢の令息ならまだしも、二回りも離れた貴族の後妻として嫁ぐことも珍しくない。中には、愛妾として送り出されることもあるそうだ。
それを思うと、平民は自由で羨ましいのだという。
『まぁ、うちは片田舎の弱小貴族だから、中央の偉ぶった貴族からみれば平民と同じなんでしょうけど。だからこそ、私が逃げ出しても誰も何も言わなかったのよね。政略の駒として役に立てたでしょうに、逃がしてくれた両親には感謝よ』
胸を張り、にこりと微笑んだ顔は、初めて会った時の儚げな美少女とは違う。
母親の顔付きになっている。
『イヴは平気?』
『え?』
『貴族に絡まれるなんて怖かったでしょ?』
眉尻を下げた悲しげな表情で、そっと私の頬に触れる。
ずん、と鈍い痛みが骨にまで響いて、叩かれたことを思い出す。
『いいこと?馬鹿な貴族は何処にでもいるの。頭が馬鹿なら、付き従う下も馬鹿。でもね、公明正大な王様の下には、良識ある臣下が集うものよ。それでも一定数いる馬鹿に絡まれるなら、正しい貴族を見極めて味方につけなさい』
少し高飛車に、少しおちゃらけながらのアドバイス。
『あなたは大丈夫よ。単身隣国に乗り込む強さがあるもの』
軽やかな笑い声に、初めてホームシックという感情が胸に沸いた。
ふ、と目を開けば、見知らぬ天井だ。
てっきり路地裏にでも投げ捨てられているのかと思ったので驚いた。
頬の痛みと、脈打つように痛む頭。口の中も切っているのが、ツキツキとした痛みで分かる。それ以外にも全身に痛みが走る。特に、左手にズキズキキリキリとした痛みがある。
倒れた時に痛めたのだろう。
痛みのない右手を動かせば、肌触りの良い絹のシーツに指腹が滑る。
布団がふかふかなら、枕もふかふかだ。
視線を巡らせると、自分のいる場所が場違いなほど上等な部屋だと分かった。
華美な調度品がない分、洗練されている。
テーブルもドレッサーも黒檀と落ち着いた色合いで、革張りのソファも黒に近いダークブラウンだ。部屋全体が黒っぽいのは、たぶん計算なのだろう。白いレースのカーテンが額縁のように、窓の外に広がる緑一色の庭園を浮き立たせている。
まるで絵画みたい。
もしかして、3人のうちの誰かの家に保護されたのだろうか。
拉致だと怖いな…。
そんなことをぼんやりと考えていると、遠くで人の言い争う声が聞こえてきた。
ヒートアップした言い争いなのに、薄い膜を張ったように声が遠く、内容が聞き取れない。辛うじて、男性の声だということが分かった。
しばらくして、言い争っていた相手を振り切ったのか、ドタバタと騒々しい靴音が駆けて来る。
足音が部屋の前で止まったと思う間もなく、乱暴にドアが開いた。
「坊ちゃん!お待ち下さい!」
坊ちゃん…?
小さな子供がいる家に保護されたのだろうか。
緩慢に瞬きを繰り返し、ゆっくりとドアへ目を向ければ、黒い隊服が目に入った。
「……だんちょ」
ぽつり、と声が出た。
良かった。声は出る。舌も回る。ただ、頬に詰め物をしたように喋り辛いし、口を動かすたびに顎や頬に痛みが走る。
「目が覚めたか」
ジャレッド団長は言って、ベッドの傍らに跪いた。
そっと伸びて来た手が触れるのは叩かれた頬で、ズン…と鈍い痛みが波紋のように広がる。
「ジャレッド、少しは落ち着きなさい。ジミー、医師を呼んでくれ」
てきぱきと、入り口に立つ男性が指示を飛ばす。
長い髪を首の後ろで束ねた長身痩躯の男性だ。
夢うつつに、天鵞絨のジュストコールがよく似合う美麗な男性だと思った。ジャレッド団長がいなければ、天からお迎えが来たのかと勘違いしそうだ。
男性は部屋に入って来ると、ドレッサーの椅子を傍らに置いて座った。
「喋るのは辛いだろうから、瞬きをしてくれるかい?”はい”なら1回、”いいえ”なら2回だ」
分かったという意思表示に、ゆるゆると瞬きを1回する。
男性は微笑した後、ベッドにしがみつくようにして座るジャレッド団長の頭を撫でた。
「まずは自己紹介だ。私はハワード。ジャレッドと、第3のグレンの兄になる。第1の指揮を執っているが、ゴゼットさんを前に治安維持に努めているとは言い辛いな。申し訳ない」
と、男性――ハワード団長が頭を下げた。
マリアの言った通り、画家の手に負えない。
あんなに姿絵を見ていたのに、本人が前にいて気づけないほどの尊さがある。
公爵夫人似の中性的な面立ちには妖艶な色気があり、凛とした金色の双眸には騎士団長、あるいは次期公爵としての威厳を兼ね備えている。
純粋に美しい人だけど、たぶん、ジャレッド団長以上に厳しく怖い人だ。
そんな次期公爵様に頭を下げさせているなんて異常事態なんだと思う。
そう思うのに、今はぼんやりと他人事のように見つめてしまう。
「まず、現状を説明する。君は左頬を殴られ、脳震盪を起こしている。頭痛や眩暈。もしかすると記憶障害が起きている可能性があるが、ゴゼットさんは治癒魔法が使えたね?」
瞬きを1回する。
「今は安静にしていてほしい。私たちは魔法に関しては無知だが、恐らく、魔法を使うのは集中したり、体力を使うのだろう?」
再び、瞬きを1回する。
「少なくとも今は我慢すること。頬や手が痛いだろうがね。分ったかい?」
思案した末に、瞬きを1回する。
ハワード団長が満足げに微笑むと、場の空気が華やいだような錯覚に陥る。
キース副団長やグレン団長よりも上を行く美形がいたとは…。
そんな美貌のハワード団長は、しゅん、と眉尻を下げた。
「さらに謝らなくてはならないのだけど、我が領…いや、我が国だね。残念ながら、ヴォレアナズ帝国は医療後進国だ。獣人は痛みに強く自己治癒力による完治が早いからね」
ハワード団長言って、自身の頬を指さした。
「本来なら、痛み止めのような薬が必要なのだろうが…知識がない。公爵家お抱えの医師でさえそれなんだ。医術推進を疎かにしすぎたと反省しきりだ。熱さましの薬は後で用意する。それ以外を今から手配するには時間がかかるが…何か簡単な対処はあるだろうか?冷やした方がいいのかな?」
瞬きを1回すると、ハワード団長は後ろに振り返った。
視線を向けると、ジミーと呼ばれた男性とは別の燕尾服を着た男性が立っている。男性はハワード団長が何かを言う前に、「すぐにご用意致します」と退室して行った。
「さて。次に君の身に起きたことだが、恥ずべきことに貴族令嬢が起こした恫喝並びに暴行だ。これは目撃者から、数多くの通報があった。巡邏の騎士が駆け付けた時、ゴゼットさんは気を失っていたそうだ。そんな君に対し、3人の令嬢…いや、ここでは令嬢ではなく襲撃者だね。襲撃者たちは指輪を強奪しようとしていた。襲撃者の侍女たちは注意することなく、傍観に徹していたというから呆れてしまう。白昼堂々とした犯罪を見て動かないとはね。良識ある侍女は、主が道を踏み外せば諫めるのだけどね」
ハワード団長は肩を竦め、今にも唸り声をあげそうなジャレッド団長の頭を再び撫でた。今度は乱暴に、押さえつけるような撫で方だ。
「指輪を強引に引き抜こうとしたのだろう。ゴゼットさんの小指は折れている。赤黒く腫れて、指輪が外れなかったようだ。痛みはあるかな?」
瞬きは1回。
「指輪は、鬱血しないように専門家を呼んでカッターで切断して外してある」
申し訳なさにジャレッド団長を見れば、ジャレッド団長はハワード団長の手に押さえつけられながらも怒りを押し込めるのに必死の様子。
あとで謝ろう。
「色々と聞きたいことはあるだろうけど、今日は安静にしてほしい。襲撃者たちは、傍観者も含めて優しくはない罪に問われることになる。少なくとも強盗罪は適応される」
これには驚いた。
キャトラル王国では、平民が泣き寝入りするのは常だったからだ。
私の表情で悟ったのだろう。ハワード団長が薄ら寒くなるような微笑を浮かべた。
なんとも凄味がある。
「一方的な制裁を加えるわけではないよ。裁判にかける。ただ、白昼堂々と往来での暴言と暴行。それも襲撃者たちの家とは関係のない他領だからね。重罪となる決定打は、ゴゼットさんが正式ではないにしろ第2騎士団に所属していること。そして、クロムウェル公爵家の紋章を刻んだ指輪をしていたことが大きい。それは、我が公爵家の者と同義だからね。ジャレッドが後見に立ったのだろう?」
わしゃわしゃ、とジャレッド団長の頭を撫で回しながら、ハワード団長が苦笑する。
「あの手の輩は、何をしても無駄だ。自分に都合の良い解釈で、常人には理解し難い行動を起こす。スカーレン子爵令嬢のようなね。今回もゴゼットさんに対し、口に出すのも憚られる言葉で罵っていたというじゃないか。ゴゼットさんの指に合うように作られた指輪だというのに、なぜそれが分からないのだろうね」
ハワード団長が嘆息して席を立つと、「お待たせしました」と燕尾服の男性が戻って来た。その隣には盥を持った侍女がいる。
「ほら、邪魔だよ」
ハワード団長はジャレッド団長の襟首を掴むと、引き摺るようにベッドから遠ざける。
文句ひとつも言わずに引き摺られるジャレッド団長は珍しい。というか、いつ大噴火を起こすか分からない恐怖がある。
ジャレッド団長が退くと、侍女が座った。
盥には水が張っているらしい。ちゃぷん、ちゃぷん、と音が聞こえる。タオルを濡らし、固く絞ったタオルは、そっと私の頬に添えられた。
熱があるのか、タオルが冷たくて気持ちいい。
目を伏せると、侍女の手が額に触れる。
「熱が出ていますね。熱さましの湯薬をお持ちしましょう」
「ヴォール。あなたはしばらくゴゼットさん専属とします」
「畏まりました」
「ジャレッドは私と来なさい」
「…………ああ」
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