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桐島くるみ
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艶やかな黒髪に、切れ長の双眸。
テーラーメイドのダークスーツを着こなす体躯は180cm超えのモデル体型。
嫌味のように足が長く、顔が小さい。
イケメンの名は真田大樹。
26歳。
細面で凛とした顔貌は、少しだけ近寄り難さがあるものの、意外にも口を開けば人当たりの良い穏やかな気質が露わになる。声も耳障りの良いイケボだ。
正体は日本屈指の財閥、真田グループの御曹司である。
モテない訳がない。
私立の小中高一貫校を卒業した後に向かったのはアメリカ。ハーバード大学に進学。経営学修士を取得後に帰国すると思われたものの、見識を広める為に海外を見て回り、本社である真田商事株式会社の末端の末端。マルイチ商会に突如として入社した私の同期だ。
ハイスペックすぎる上に、真田商事に用意されていた役員の椅子を蹴散らした人材は、子会社には手に余る。
部長がぺこぺこと頭を下げているのを見た時、なんだか悲しくなった。
お構いなしに攻めるのは肉食系な先輩たちだけだ。
既婚者は目の保養とばかりにうっとりと見つめ、独身者は獲物を狙う鷹の如く御曹司が視界に入ると飛び掛かって行く。
あれほど「お茶汲みが女性なんてパワハラですか!」と叫んでいた先輩方が、争うようにコーヒーを…それも豆から挽いて淹れるのだから恐ろしい。
だけど、私はどうにも真田さんが苦手だ。
たまに目が合うと、にこりと微笑んでくれるのだが、ぞわわっと鳥肌が立つ。
なんとなく、目の奥が怖いのだ。
そんな私は、桐島くるみ。
24歳。
前職のブラック企業で植えられた社畜洗脳を友人から解かれ、逃げるように退職。給料は安くても週休二日の休みを貰えるマルイチ商会に晴れて入社してみれば、まさかのハイスペック御曹司と同期だというから肩身が狭い。
新人だと言うのに秘書っぽい人まで付いているし、ばんばん新規の仕事をもぎ取って来る。新人にしてエースだ。
当たり前ながらに英語はペラペラ。先輩方の情報では、中国語とフランス語までイケるらしい。
生まれ持ったスペックが違いすぎて、もう1人の同期ともども隅っこでひっそりと息をする毎日だ。
比べるのも烏滸がましいんだろうけど、これと言って秀でたものはないのが辛い。
あ…1つあった。
前職で負った精神疲労の反動か、残業はしたくない。
時計が18時ぴったりになった瞬間、私は黙々とパソコンを落として席を立つ。
影の薄い私は、そっと退社しても誰にも見咎められないし、残業の助っ人として声をかけられることもない。
それが私の特技である。
元社畜だったせいか、ホワイトな会社に入ると金曜日に浮足立ってしまう。
土日をしっかり休めるなんて幸せじゃない?
定時に仕事を終わらせ、賑やかな街中を歩くと口元がによによと緩んでしまう。
以前は、退社する頃には空も街も薄暗く、ひっそりとしていた。道行く人は疎らで、コンビニの棚は空きが目立ち、カップラーメンを買って帰るなんてことも珍しくなかった。
精神がごっそり削られる毎日だったのが、今や天国だ。
足早に家路に着く人もいれば、買い物に向かう人や居酒屋に吸い込まれて行く人もいる。
かくいう私も食事処を探す。
できればお酒が飲めるところが良い。お洒落で高級感のあるレストランより、賑やかな居酒屋が好みだ。
会社帰りのサラリーマンたちの後を追うように、普段は素通りする路地へと足を向ける。
意外と店がある。
たこ焼き、うどん、イタリアン。
これから開店するのか、小さな看板を通りに出したバーは、すごく雰囲気が良さそうだ。
そうして出会ったのは、見た目は大衆食堂な居酒屋だ。ほんのり赤みがかった明かりが、格子戸に嵌められたガラス越しに漏れる。活気ある声に、野太いサラリーマンたちの笑い声。
寒風に晒される身としては、その明かりと笑い声だけで心がほかほかしてくる。
「よし。今日はここにしよう」
恋愛面は修道女な私だけど、飲食に関してはガツガツの肉食だ。おひとり様だからと尻込みする繊細さはない。
草臥れた暖簾をくぐり、からからと鳴る引き戸を開く。
一歩店に入ると、元気いっぱいの店員の声が出迎えてくれた。
暖房が利いていて暖かい店内は、食欲をそそる香りに溢れている。耳にはジュワジュワパチパチと揚げ物の音が届く。
「カウンターにお願いします!」
忙しそうにビールを運ぶ女性が、申し訳なさそうに通り過ぎて行った。
テーブル席は盛況なのに、カウンターは不人気らしい。まぁ、年末だから仕方ない。忘年会とは別に、仕事関連の飲み会が増えるシーズンだ。おひとり様がカウンターなのは世の常である。
カバンを座席下のカゴに入れ、コートとマフラーは椅子の背に掛ける。
カウンター越しに店主がお手拭きとお冷やを置いてくれた。
「すみません。ビールを」
まず最初に頼むのはビール。
初めて飲んで時は、苦くて苦くて…。こんなものの何が美味しいのかと顔を顰めてしまったけど、ビールの真骨頂は、疲労困憊。喉がカラカラの時にビールのポテンシャルが発揮されるのだ。
それを発見した時の爽快感ったらない。
お手拭きで手を拭いている間に、やっぱりカウンター越しにビールが置かれる。
液体と泡の7:3の黄金比の美しさよ!
「いただきます」
小さな声でビールに礼をして、ごくごく、と喉を潤す。
私がおじさんなら「ぷは~」と快感を声にするところだが、嫁入り前の乙女がそんな声を上げられるはずもない。まぁ、嫁入り予定どころかカレシすらいないけど。カレシいない歴年齢なのに、「ぷは~」なんて声を上げたら益々カレシが遠退いて行く。
結婚願望は強くはないけど、同じ趣味を持つカレシがいたら楽しいだろうな、とは思う。
特にクリスマスが近づく季節になると、切に身に染みる。
お酒は胸を張れるほど強くはないけど、お店巡りは数少ない趣味だ。一緒に巡れたら楽しいに違いない。
遅れて置かれたお通しは小鯵の南蛮漬け。
なんて当たりの居酒屋なんだろうか。居酒屋のお通しは賛否両論あるが、私はアリだと思ってる。お通しを拒否できる店もあるらしいけど、お通しは有能だ。席料やチップなんて太っ腹な意見ではなく、お通しで、その店の当たりはずれが分かる。と、持論を掲げたい。
お通しが口に合わない店では、安い適当な小鉢を1品2品食べて店を出る。
お通しが美味しければ、腰を据えるつもりで料理を頼む。それに合うお酒も吟味する。
そんなことを言うと呑兵衛と言われるけど、お酒は強くないので2杯ていどだ。
”おすすめ”マークがついた軍鶏もも唐揚げを注文した。
ビールを半分ほど飲んだところで、あつあつの唐揚げがカウンター越しに到着した。
見るからに美味しそうな見た目に、にんにく醤油に付け込まれた香りも堪らない。歯を立てれば、衣がさくりとして、柔らかな肉からじゅわりと肉汁が溢れ出す。
口の中に旨味と香りが残っているうちに、ビールを流し込む。
美味しい!
うっかり「くぅ…」と声が零れれば、「ふふ」と笑い声が聞こえた。
危うく咳き込みそうになった。
慌てて声の方を見れば、いつの間にか私1人しかいなかったカウンターに客が座っている。しかも隣!
カウンターには6脚の椅子が並んでいるのに、なぜ隣?
居酒屋に不似合いの上等なダークスーツには見覚えがある。
恐る恐ると視線を上げれば、榛色の瞳と目が合った。
「さ…真田さん」
ぞわわっ、と項の毛が逆立つ。
「お、お疲れ様です…」
「桐島さん、お疲れ」
にこりと微笑んでいるけど、穏やかに細められた目が怖い…。
というか、御曹司に大衆の憩いの場は似つかわしくない。御曹司はワイン片手に、庶民を見下ろすタワーの最上階最高級レストランでちまちま食事をしているものじゃない?
なのに、真田さんはお手拭きで手を拭いながら、「ハイボール」を頼んだ。
「桐島さんはこっちの方なんですか?」
「いえ…3駅ほど向こうです」
「奇遇ですね。僕もですよ」
ぞくん、と最大級の悪寒が走る。
「桐島さんとは同期ですが、こうして2人きりで話すのは初めてですね。春の入社からと考えると、かなりの時間がかかりました」
表現が怖い。
「えっと…そうですね。私は事務で、真田さんは営業なので。毎日大変そうだと思ってました」
「入社してしばらくは、営業というより挨拶回りですよ。仕事とは関係のない、うちと個人的に付き合いのある人たちのね」
うちというのは、マルイチ商会のことではなく真田グループ全体のことなのだろう。
「帰国早々に子会社に入ったのが気に入らない人たちが多くて。色々と宥めすかしていたというわけです。実に時間の無駄でしょう?」
にこにこ、にこにこと真田さんは微笑んでいる。
なのに、目の奥……視線がねっとりと絡みつくようで怖い。
あれ?
さっきから怖いしか感想が出ない。
「そうそう。桐島さんは以前、ブラックな会社に務められていたとか」
「ええ、よく知ってますね」
「ダブルクロス株式会社でしたっけ?」
真田さんはあっけらかんと言って、ハイボールをぐびっと飲んだ。
実に爽やかな王子様スマイルで小鯵を頬張りながら、「潰れましたね」と笑う。
私はビールを手にしたままフリーズ。
口を「は」の字に開けたまま、上機嫌にハイボールを飲む真田さんに恐怖を感じた。
よく分からないけど、彼はヤバい。
何がヤバいのか分からないのがヤバい。
だってそうでしょ?確かに同期は、私を含めて3人しかいなけど、前の勤務先なんて誰も知らない。例外は真田さんくらいだ。何しろ、先輩方の情報収集能力が開花し、バンバン耳に入って来るのだ。
御曹司だから仕方ない。
でも、真田さん以外は冴えない一般人。経歴どころか、下の名前だって憶えているかどうか…微妙…。
なのに、真田さんは私の前の小粒な会社を知っていた。その会社が潰れたことも!
帰宅後、急いで検索すれば、本当に倒産していた…。ブラックすぎて、あちこちから綻びが出たらしい。セクハラパワハラでの訴えもじゃんじゃん出て来て、外から内から叩かれ、あっという間に倒産したという。
倒産…早すぎない?
私が在籍していた時は、セクハラパワハラは健在だった。新人は、いつ辞めようかと周囲の顔色を窺っていたけど、入社して数年経た社員は立派な社畜と育って会社の善し悪しが分からなくなっていた。
当然、労働組合なんてものはない。
常に人材を募集する、入れ替わりの激しい会社は、社畜の心を麻痺させた。
自殺者こそ出なかったものの、心療内科に通う社員は何人もいた。鬱で休職や退職する人は珍しくない。
そんな人たちが決起したとは思えないし、決起したとしても訴えてからの展開が早すぎる。
もし…もしも。例えば、何らかの大きな圧力が加わったとしたら?呆気なく潰れそうな気もする。
気のせい?
映画の見過ぎ?
まぁ、映画の見過ぎかもね。
うん……そうだと思う。
けど、ふいに合う真田さんの目が怖い。
眼力がエグいのだ。視線を感じて頭を上げれば、十中八九、薄笑いの真田さんと目が合って肌が粟立つ。
根性で視線を無視すれば、トイレの帰り、給湯室に立ち寄った時、ランチに出かけた定食屋なんかで、真田さんと会うのだ。
よくよく思い返せば、入社してから不思議なことは山盛りだった。抽斗の中のお菓子が、たまに増えていることがあった。気のせいじゃないと確信を持ったのは、リニューアルしたお菓子のパッケージだ。買っていないはずのそれが、ちょこんと抽斗にあった時、頭の中が凍り付いた。
他にも、失くしたと思ったお気に入りのムーミンのボールペン。
ショックで落ち込んだ翌日には、真新しいムーミンのボールペンがペン立てに差し込まれていた。
全て真田さんの仕業だと理解した時、意味が分からな過ぎて恐怖に叫びそうになった。
なぜ真田さんと分かったのかと言えば、同じムーミンのボールペンを使っていたのを見たからだ!
間違いない…。
「ストーカー(仮)だわ…」
でも、ちょっと待って。
犯罪者だと糾弾するには、ハイスペックなイケメンが私に惚れているという前提が必要だ。
……………………それはない。
先輩方のような完璧メイクとは程遠い、適当にファンデを塗って、リップを引くだけのメイク。髪は首の後ろでひと括り。派手にならないような落ち着いた色合いのスーツに、地味なパンプス。金属アレルギーもちなので、アクセサリーの類もゼロだ。
お金さえ積めば、私でも付けられるアクセサリーはあるんだろうけど、そこに労力を費やしたくはない。
財布の紐を緩めるのは、週末のひと時だけにしたい。
て、女子力なさすぎじゃない?
モテ要素がなさすぎない?
そもそも真田さんとの接点がないのだ。今でこそ同期だけど、それ以前は出身地も違えば、公立と私立で通っていた学校すら違う。
うん、ストーカー(仮)の線は消えたな…。
消えたけど、目的が見えない恐怖というのもホラーだ。
18時になってデスク周りを片付け、パソコンを落とす。
今日もきっちり定時で退社だ。
平日はコンビニと決まっている。
定番の幕の内弁当と、缶…チューハイかビールか…最近はハイボールだけでなくジントニックの種類も増えて来た。これは食事に合うお酒をコンセプトに、今までの飲みやすく甘みの強い女性向けアルコールとは一線を画す。
チューハイも辛口レモン系が幅を利かせている。
無難にハイボールか。
お値段を見ると、素直に定番レモンサワーにしておくべきか…。
いやいや、少し奮発してカップ酒も捨てがたい。
ひと昔前は、中高年が真昼間から飲んでいる悪いイメージのあったカップ酒も、今は種類も増えた。さらにレンジで簡単に熱燗に出来る優れものだ。カップ酒の専門店も出来ている。女性をターゲットにしたデザインのカップ酒も登場して、愛好家もいるほど、今のカップ酒のポテンシャルは高い。
「僕としては塩レモンがオススメですよ」
どうぞ、と差し出されて、反射的に受け取ってしまった。
そして、頭の中がフリーズする。
え?
飛び交うハテナマークを蹴散らして、ぎりぎりと軋む首関節を稼働させて隣を見上げれば、イケメンスマイルを炸裂させたストーカー(仮)と目が合った。
いや、もう(仮)じゃない。
「お疲れ様です。今日は火曜日なので、4日ぶりすぎて嬉しくなりますね。それにしても桐島さんはお酒が好きですよね。少し心配になるので、休肝日は週1から週2にしませんか?あと野菜も食べましょう。ランチで補っているようですが、とても心配になる食生活です。サプリで補っているというのはナシですよ?ちゃんと野菜を食べましょうね。”健全な精神は、健全な肉体に宿る”と言うでしょう?実際は”健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである”というのが正しいのですが、今は細かなことはナシにしましょう」
にこにこ、にこにこ。
笑顔で滔々と語る姿はイケメンで、なのに中身のヤバさが突出している。
「ああ、会計は僕がします。僕のことは財布と思って下さい。桐島さんの食事代を払うということは、桐島さんの体を作る栄養素を僕が補給していると言っても過言ではないということです。なんて僕は幸せ者なんでしょうか」
恍惚とした表情で微笑む真田さんに、防犯グッズを買おうと心に誓った。
テーラーメイドのダークスーツを着こなす体躯は180cm超えのモデル体型。
嫌味のように足が長く、顔が小さい。
イケメンの名は真田大樹。
26歳。
細面で凛とした顔貌は、少しだけ近寄り難さがあるものの、意外にも口を開けば人当たりの良い穏やかな気質が露わになる。声も耳障りの良いイケボだ。
正体は日本屈指の財閥、真田グループの御曹司である。
モテない訳がない。
私立の小中高一貫校を卒業した後に向かったのはアメリカ。ハーバード大学に進学。経営学修士を取得後に帰国すると思われたものの、見識を広める為に海外を見て回り、本社である真田商事株式会社の末端の末端。マルイチ商会に突如として入社した私の同期だ。
ハイスペックすぎる上に、真田商事に用意されていた役員の椅子を蹴散らした人材は、子会社には手に余る。
部長がぺこぺこと頭を下げているのを見た時、なんだか悲しくなった。
お構いなしに攻めるのは肉食系な先輩たちだけだ。
既婚者は目の保養とばかりにうっとりと見つめ、独身者は獲物を狙う鷹の如く御曹司が視界に入ると飛び掛かって行く。
あれほど「お茶汲みが女性なんてパワハラですか!」と叫んでいた先輩方が、争うようにコーヒーを…それも豆から挽いて淹れるのだから恐ろしい。
だけど、私はどうにも真田さんが苦手だ。
たまに目が合うと、にこりと微笑んでくれるのだが、ぞわわっと鳥肌が立つ。
なんとなく、目の奥が怖いのだ。
そんな私は、桐島くるみ。
24歳。
前職のブラック企業で植えられた社畜洗脳を友人から解かれ、逃げるように退職。給料は安くても週休二日の休みを貰えるマルイチ商会に晴れて入社してみれば、まさかのハイスペック御曹司と同期だというから肩身が狭い。
新人だと言うのに秘書っぽい人まで付いているし、ばんばん新規の仕事をもぎ取って来る。新人にしてエースだ。
当たり前ながらに英語はペラペラ。先輩方の情報では、中国語とフランス語までイケるらしい。
生まれ持ったスペックが違いすぎて、もう1人の同期ともども隅っこでひっそりと息をする毎日だ。
比べるのも烏滸がましいんだろうけど、これと言って秀でたものはないのが辛い。
あ…1つあった。
前職で負った精神疲労の反動か、残業はしたくない。
時計が18時ぴったりになった瞬間、私は黙々とパソコンを落として席を立つ。
影の薄い私は、そっと退社しても誰にも見咎められないし、残業の助っ人として声をかけられることもない。
それが私の特技である。
元社畜だったせいか、ホワイトな会社に入ると金曜日に浮足立ってしまう。
土日をしっかり休めるなんて幸せじゃない?
定時に仕事を終わらせ、賑やかな街中を歩くと口元がによによと緩んでしまう。
以前は、退社する頃には空も街も薄暗く、ひっそりとしていた。道行く人は疎らで、コンビニの棚は空きが目立ち、カップラーメンを買って帰るなんてことも珍しくなかった。
精神がごっそり削られる毎日だったのが、今や天国だ。
足早に家路に着く人もいれば、買い物に向かう人や居酒屋に吸い込まれて行く人もいる。
かくいう私も食事処を探す。
できればお酒が飲めるところが良い。お洒落で高級感のあるレストランより、賑やかな居酒屋が好みだ。
会社帰りのサラリーマンたちの後を追うように、普段は素通りする路地へと足を向ける。
意外と店がある。
たこ焼き、うどん、イタリアン。
これから開店するのか、小さな看板を通りに出したバーは、すごく雰囲気が良さそうだ。
そうして出会ったのは、見た目は大衆食堂な居酒屋だ。ほんのり赤みがかった明かりが、格子戸に嵌められたガラス越しに漏れる。活気ある声に、野太いサラリーマンたちの笑い声。
寒風に晒される身としては、その明かりと笑い声だけで心がほかほかしてくる。
「よし。今日はここにしよう」
恋愛面は修道女な私だけど、飲食に関してはガツガツの肉食だ。おひとり様だからと尻込みする繊細さはない。
草臥れた暖簾をくぐり、からからと鳴る引き戸を開く。
一歩店に入ると、元気いっぱいの店員の声が出迎えてくれた。
暖房が利いていて暖かい店内は、食欲をそそる香りに溢れている。耳にはジュワジュワパチパチと揚げ物の音が届く。
「カウンターにお願いします!」
忙しそうにビールを運ぶ女性が、申し訳なさそうに通り過ぎて行った。
テーブル席は盛況なのに、カウンターは不人気らしい。まぁ、年末だから仕方ない。忘年会とは別に、仕事関連の飲み会が増えるシーズンだ。おひとり様がカウンターなのは世の常である。
カバンを座席下のカゴに入れ、コートとマフラーは椅子の背に掛ける。
カウンター越しに店主がお手拭きとお冷やを置いてくれた。
「すみません。ビールを」
まず最初に頼むのはビール。
初めて飲んで時は、苦くて苦くて…。こんなものの何が美味しいのかと顔を顰めてしまったけど、ビールの真骨頂は、疲労困憊。喉がカラカラの時にビールのポテンシャルが発揮されるのだ。
それを発見した時の爽快感ったらない。
お手拭きで手を拭いている間に、やっぱりカウンター越しにビールが置かれる。
液体と泡の7:3の黄金比の美しさよ!
「いただきます」
小さな声でビールに礼をして、ごくごく、と喉を潤す。
私がおじさんなら「ぷは~」と快感を声にするところだが、嫁入り前の乙女がそんな声を上げられるはずもない。まぁ、嫁入り予定どころかカレシすらいないけど。カレシいない歴年齢なのに、「ぷは~」なんて声を上げたら益々カレシが遠退いて行く。
結婚願望は強くはないけど、同じ趣味を持つカレシがいたら楽しいだろうな、とは思う。
特にクリスマスが近づく季節になると、切に身に染みる。
お酒は胸を張れるほど強くはないけど、お店巡りは数少ない趣味だ。一緒に巡れたら楽しいに違いない。
遅れて置かれたお通しは小鯵の南蛮漬け。
なんて当たりの居酒屋なんだろうか。居酒屋のお通しは賛否両論あるが、私はアリだと思ってる。お通しを拒否できる店もあるらしいけど、お通しは有能だ。席料やチップなんて太っ腹な意見ではなく、お通しで、その店の当たりはずれが分かる。と、持論を掲げたい。
お通しが口に合わない店では、安い適当な小鉢を1品2品食べて店を出る。
お通しが美味しければ、腰を据えるつもりで料理を頼む。それに合うお酒も吟味する。
そんなことを言うと呑兵衛と言われるけど、お酒は強くないので2杯ていどだ。
”おすすめ”マークがついた軍鶏もも唐揚げを注文した。
ビールを半分ほど飲んだところで、あつあつの唐揚げがカウンター越しに到着した。
見るからに美味しそうな見た目に、にんにく醤油に付け込まれた香りも堪らない。歯を立てれば、衣がさくりとして、柔らかな肉からじゅわりと肉汁が溢れ出す。
口の中に旨味と香りが残っているうちに、ビールを流し込む。
美味しい!
うっかり「くぅ…」と声が零れれば、「ふふ」と笑い声が聞こえた。
危うく咳き込みそうになった。
慌てて声の方を見れば、いつの間にか私1人しかいなかったカウンターに客が座っている。しかも隣!
カウンターには6脚の椅子が並んでいるのに、なぜ隣?
居酒屋に不似合いの上等なダークスーツには見覚えがある。
恐る恐ると視線を上げれば、榛色の瞳と目が合った。
「さ…真田さん」
ぞわわっ、と項の毛が逆立つ。
「お、お疲れ様です…」
「桐島さん、お疲れ」
にこりと微笑んでいるけど、穏やかに細められた目が怖い…。
というか、御曹司に大衆の憩いの場は似つかわしくない。御曹司はワイン片手に、庶民を見下ろすタワーの最上階最高級レストランでちまちま食事をしているものじゃない?
なのに、真田さんはお手拭きで手を拭いながら、「ハイボール」を頼んだ。
「桐島さんはこっちの方なんですか?」
「いえ…3駅ほど向こうです」
「奇遇ですね。僕もですよ」
ぞくん、と最大級の悪寒が走る。
「桐島さんとは同期ですが、こうして2人きりで話すのは初めてですね。春の入社からと考えると、かなりの時間がかかりました」
表現が怖い。
「えっと…そうですね。私は事務で、真田さんは営業なので。毎日大変そうだと思ってました」
「入社してしばらくは、営業というより挨拶回りですよ。仕事とは関係のない、うちと個人的に付き合いのある人たちのね」
うちというのは、マルイチ商会のことではなく真田グループ全体のことなのだろう。
「帰国早々に子会社に入ったのが気に入らない人たちが多くて。色々と宥めすかしていたというわけです。実に時間の無駄でしょう?」
にこにこ、にこにこと真田さんは微笑んでいる。
なのに、目の奥……視線がねっとりと絡みつくようで怖い。
あれ?
さっきから怖いしか感想が出ない。
「そうそう。桐島さんは以前、ブラックな会社に務められていたとか」
「ええ、よく知ってますね」
「ダブルクロス株式会社でしたっけ?」
真田さんはあっけらかんと言って、ハイボールをぐびっと飲んだ。
実に爽やかな王子様スマイルで小鯵を頬張りながら、「潰れましたね」と笑う。
私はビールを手にしたままフリーズ。
口を「は」の字に開けたまま、上機嫌にハイボールを飲む真田さんに恐怖を感じた。
よく分からないけど、彼はヤバい。
何がヤバいのか分からないのがヤバい。
だってそうでしょ?確かに同期は、私を含めて3人しかいなけど、前の勤務先なんて誰も知らない。例外は真田さんくらいだ。何しろ、先輩方の情報収集能力が開花し、バンバン耳に入って来るのだ。
御曹司だから仕方ない。
でも、真田さん以外は冴えない一般人。経歴どころか、下の名前だって憶えているかどうか…微妙…。
なのに、真田さんは私の前の小粒な会社を知っていた。その会社が潰れたことも!
帰宅後、急いで検索すれば、本当に倒産していた…。ブラックすぎて、あちこちから綻びが出たらしい。セクハラパワハラでの訴えもじゃんじゃん出て来て、外から内から叩かれ、あっという間に倒産したという。
倒産…早すぎない?
私が在籍していた時は、セクハラパワハラは健在だった。新人は、いつ辞めようかと周囲の顔色を窺っていたけど、入社して数年経た社員は立派な社畜と育って会社の善し悪しが分からなくなっていた。
当然、労働組合なんてものはない。
常に人材を募集する、入れ替わりの激しい会社は、社畜の心を麻痺させた。
自殺者こそ出なかったものの、心療内科に通う社員は何人もいた。鬱で休職や退職する人は珍しくない。
そんな人たちが決起したとは思えないし、決起したとしても訴えてからの展開が早すぎる。
もし…もしも。例えば、何らかの大きな圧力が加わったとしたら?呆気なく潰れそうな気もする。
気のせい?
映画の見過ぎ?
まぁ、映画の見過ぎかもね。
うん……そうだと思う。
けど、ふいに合う真田さんの目が怖い。
眼力がエグいのだ。視線を感じて頭を上げれば、十中八九、薄笑いの真田さんと目が合って肌が粟立つ。
根性で視線を無視すれば、トイレの帰り、給湯室に立ち寄った時、ランチに出かけた定食屋なんかで、真田さんと会うのだ。
よくよく思い返せば、入社してから不思議なことは山盛りだった。抽斗の中のお菓子が、たまに増えていることがあった。気のせいじゃないと確信を持ったのは、リニューアルしたお菓子のパッケージだ。買っていないはずのそれが、ちょこんと抽斗にあった時、頭の中が凍り付いた。
他にも、失くしたと思ったお気に入りのムーミンのボールペン。
ショックで落ち込んだ翌日には、真新しいムーミンのボールペンがペン立てに差し込まれていた。
全て真田さんの仕業だと理解した時、意味が分からな過ぎて恐怖に叫びそうになった。
なぜ真田さんと分かったのかと言えば、同じムーミンのボールペンを使っていたのを見たからだ!
間違いない…。
「ストーカー(仮)だわ…」
でも、ちょっと待って。
犯罪者だと糾弾するには、ハイスペックなイケメンが私に惚れているという前提が必要だ。
……………………それはない。
先輩方のような完璧メイクとは程遠い、適当にファンデを塗って、リップを引くだけのメイク。髪は首の後ろでひと括り。派手にならないような落ち着いた色合いのスーツに、地味なパンプス。金属アレルギーもちなので、アクセサリーの類もゼロだ。
お金さえ積めば、私でも付けられるアクセサリーはあるんだろうけど、そこに労力を費やしたくはない。
財布の紐を緩めるのは、週末のひと時だけにしたい。
て、女子力なさすぎじゃない?
モテ要素がなさすぎない?
そもそも真田さんとの接点がないのだ。今でこそ同期だけど、それ以前は出身地も違えば、公立と私立で通っていた学校すら違う。
うん、ストーカー(仮)の線は消えたな…。
消えたけど、目的が見えない恐怖というのもホラーだ。
18時になってデスク周りを片付け、パソコンを落とす。
今日もきっちり定時で退社だ。
平日はコンビニと決まっている。
定番の幕の内弁当と、缶…チューハイかビールか…最近はハイボールだけでなくジントニックの種類も増えて来た。これは食事に合うお酒をコンセプトに、今までの飲みやすく甘みの強い女性向けアルコールとは一線を画す。
チューハイも辛口レモン系が幅を利かせている。
無難にハイボールか。
お値段を見ると、素直に定番レモンサワーにしておくべきか…。
いやいや、少し奮発してカップ酒も捨てがたい。
ひと昔前は、中高年が真昼間から飲んでいる悪いイメージのあったカップ酒も、今は種類も増えた。さらにレンジで簡単に熱燗に出来る優れものだ。カップ酒の専門店も出来ている。女性をターゲットにしたデザインのカップ酒も登場して、愛好家もいるほど、今のカップ酒のポテンシャルは高い。
「僕としては塩レモンがオススメですよ」
どうぞ、と差し出されて、反射的に受け取ってしまった。
そして、頭の中がフリーズする。
え?
飛び交うハテナマークを蹴散らして、ぎりぎりと軋む首関節を稼働させて隣を見上げれば、イケメンスマイルを炸裂させたストーカー(仮)と目が合った。
いや、もう(仮)じゃない。
「お疲れ様です。今日は火曜日なので、4日ぶりすぎて嬉しくなりますね。それにしても桐島さんはお酒が好きですよね。少し心配になるので、休肝日は週1から週2にしませんか?あと野菜も食べましょう。ランチで補っているようですが、とても心配になる食生活です。サプリで補っているというのはナシですよ?ちゃんと野菜を食べましょうね。”健全な精神は、健全な肉体に宿る”と言うでしょう?実際は”健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである”というのが正しいのですが、今は細かなことはナシにしましょう」
にこにこ、にこにこ。
笑顔で滔々と語る姿はイケメンで、なのに中身のヤバさが突出している。
「ああ、会計は僕がします。僕のことは財布と思って下さい。桐島さんの食事代を払うということは、桐島さんの体を作る栄養素を僕が補給していると言っても過言ではないということです。なんて僕は幸せ者なんでしょうか」
恍惚とした表情で微笑む真田さんに、防犯グッズを買おうと心に誓った。
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受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。
※※※幸せな話とは言い難いです※※※
タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。
※本編六話+番外編六話の全十二話。
※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。
完結 愛人さん初めまして!では元夫と出て行ってください。
音爽(ネソウ)
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