15 / 17
15
しおりを挟む
暗くて顔は見えない。
それでも荒い息遣いの中で、「間に合った…」と安堵する声は篁さんのものだ。
背中と膝裏を支える腕は力強く、すっぽりと包み込まれるような安心感と温もりがある。
私を落とさないように、何度か手の位置に苦慮しながら、「ごめんね」と声をかけてくる。
なんとも篁さんらしい。
…らしくて、涙が止まらない。ぐずぐずと洟を啜り上げ、涙を拭って、絞り出した言葉は驚くほど歪になる。
「あ…あ、びがどう…ごあいまふ…」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃして、さっきまで嘔吐を繰り返していたのだ。きっと臭いはずなのに、篁さんは先輩のように悪態を吐かない。それどころか、「もう大丈夫だから」と穏やかな声をかけてくれる。
セーターの袖口で涙と鼻水、口の周りを拭い、強張った筋肉の力を抜いた。
「震えてるね」
「コ…コート…取り損ねたんです…」
「急な転移だったと黒から聞いたよ。でも、もう大丈夫」
篁さんは言って、私の腕に添えた手を、2度、3度とピアノの鍵盤を叩くようにタップする。
瞬間、寒くて震えが止まらなかった体が、ふんわりとした温もりに包まれた。体の芯から温もりが生じたのではなく、タオルケットに包まれたような温もりだ。劇的な温かさではないけど、随分と違う。
心なし、感覚を失いつつあった手足の先がぽかぽかとする。
「簡易的なものでごめんね。風や寒さを防ぐには、色々と手順があるから…中途半端でごめん」
さっきから”ごめん”ばかり言っている。
篁さんが来てくれて、どれほど心強いか伝えたいというのに、嗚咽に窄まった喉では上手く喋れそうにない。
「あ…あったかい…です…」
それだけ言って、篁さんの肩に頬を寄せる。
目を閉じて、押し寄せて来た頭痛をやり過ごす。
胸の悪さは治まったけど、頭痛だけは波のように寄せては引いている。
「大丈夫?」
「……じゃ…ないです…」
虚勢を張りたいところだけど、とても嘘が通る状態じゃない。
たぶん、1人で立つことも歩くことも出来そうにない。足の裏はキリキリと痛み、躓いた際に打ち付けた箇所も疼き始めている。
痛みを紛らわせるために、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
目を伏せれば、黒の「ガァ!ガァ!」と怒りを滲ませた声が耳に届いた。ざぁざぁと激しい風の音に紛れ、先輩の舌打ちも聞こえた。
絶え間なく枝を折り、積もった枯葉を踏み躙る音がする。「鬱陶しい!」と悪態を吐き、「火球」と怒声が響いた。
目を開いて頭を上げれば、斜面を上った先で、黒に向けて杖を突き付けた先輩が見えた。杖の先には炎が生じ、それに照らされた黒は不機嫌な顔で急上昇する。
放たれる火球を楽々と回避する様は、先輩を煽っているようにも見える。
実際、煽っているのだろう。
先輩は苛立ち、同時に赤々とした3つの火球を放った。
それを見事に回避し、黒は呵々と笑って樹上へと飛んで行く。
火球が爆ぜた木々が倒れることはないけど、樹皮が焦げ、燻っている。この天候なので山火事になることはないだろうけど、山が荒らされることに胸が悪くなる。
「御厨!」
怒号に、身が竦む。
火の玉に照らされ、赤らんだ形相は、昔話に出て来る赤鬼のようだ。絵本の中の鬼は、どこか憎めない愛嬌が潜んでいたけど、「出て来い!」と怒声を上げる先輩は絵本の鬼のように優しくはない。
あそこまで憎まれるようなことをしただろうか。
嗚咽を噛んで、ぐずぐずと洟を啜り上げる。
声を上げて泣けば、先輩に見つかってしまう。ごうごうと激しく唸る風の音に紛れるとは分かっていても、些細な音を立てるのすら恐ろしい。
でも、なぜ先輩は私を見失っているのか…。
私を突き飛ばしたのは先輩だ。そこから転落はしたけど、先輩との距離は5、6メートルしか離れていない。炎の明かりで、私を見つけることは出来るはずだ。
「あ…魔法…。だから私たちが見えない?」
呟きに、「正解」と篁さんが苦笑する。
「遮蔽をかけてる。認識阻害の魔法だよ」
「認識…阻害?透明人間みたいな…感じですか?」
「ちょっと違うかな。透明人間は人限定で見えなくするけだよね?遮蔽はそれだけじゃなく、音も遮断する。しかも、効力は指定した範囲。今は俺を基点に2メートル四方にかけてるから、よほど派手に動き回らなければ見つからない」
本当は許可制の魔法なんだけどね、と篁さんはからからと笑う。
許可の必要な魔法を使って罰を受けなければいいけど…。それを使わせてしまったことに罪悪感が込み上げる。
「御厨!」
何度目かの怒号で、先輩は杖を振りかざすように背後に振った。
「火球!」
炎が高速で木々の奥へと吸い込まれ…消えた。
爆発は聞こえなかった。
それに驚いたのか、炎に照らされた先輩の顔は驚愕に染まっている。魔法が不発したと、憮然とした表情で杖を見据え、「どういうことだ?」と照明代わりに浮遊させている火の玉へと目を向けた。
「力が消えたわけじゃないのか…」
安堵の独り言が聞こえた。
不安の種が消えれば、次に生じるのは怒りだ。
「御厨!どこに隠れてる!」
杖を振り回し、烈火の如く声を張り上げる。
以前までの冷静沈着だった先輩はどこにもいない。今いるのは、怒りでコントロールを失った先輩に似たナニカだ。
恐怖に首を窄めていると、「せ…先輩…や、止めましょう…」と私の声がした。
私は何も言ってない。
なのに、息を殺して潜む私たちとは反対の方向から、ぼろぼろに傷ついた私が出て来た。涙と鼻水で濡れた顔に、解れ、乱れ、枯れた枝葉を髪に絡ませた私だ。
水色のセーターと紺色のズボン。もこもことした室内用の分厚い靴下。
間違いなく私なのだけど、あれは…誰?
そんな疑問に答えるように、「変化の魔法だよ」と篁さんが囁いた。
「協会から2人が派遣されていてね。1人が変身魔法を得意としているんだ」
私と瓜二つの誰かは、苦しげに喘ぎながら「先輩…」と泣いている。
その様に、先輩が気を良くしているのが分かる。
子供の頃から知った仲だというのに、先輩の目をしても見分けが付かない。それは入れ替わりが可能という、恐ろしい魔法だ。
同時に、気持ち悪いというか…不気味だ。
ドッペルゲンガーというのを思い出す。確か、出会うと死んでしまうんじゃなかっただろうか。
私と瓜二つの魔法使いは、先輩と一定の距離を保ち、傍らの栗の木に寄りかかるように膝をついた。息を荒げ、寒さに震え、傷だらけの足に触れては顔を歪める。
その様を見ても、先輩の表情は愉悦を孕んでいる。心配の素振りも見せず、にやついた口元が凶悪な人相を作る。
「ほら、立てよ。カラスは追い払ったんだ。さっさと行くぞ」
「も…も、もう……立てない…です…」
声を震わせ、嗚咽を零す。
「ふざけるな!さっさと立てよ!」
肩を怒らせ、「苛つかせるな!」と御厨輝に歩んで行く。
なぜ、あれほどイライラしているのか…。
演技だったのかもしれないけど、以前の先輩は決して短気ではなかった。むしろ、穏やかで気長なタイプだった。短気というのは、演技で隠し通せるものなのだろうか。
人の性質は安易に隠せないと思うのだけど…。
今の先輩は闘争心剥き出しの獣みたいだ。
「さっさと立て!」
怒声を上げ、躊躇なく杖の先を向けた。
私ではないけれど、少なくとも先輩は目の前の人を”御厨輝”と認識しているはずだ。その彼女に向かい、攻撃を放ち続けた杖の先を向けたのだ。銃口を向けたのと同じ意味合いだと思う。
「立て…」
そう言った先輩が顔を歪めた。
半歩、後ろへ下がりながら、胡乱げな視線を御厨輝に向ける。
何かしらの違和感を覚えたのだろう。
「御厨…?いや…お前は誰だ?」
言葉にすれば、警戒心は加速したらしい。飛び退るように距離を開け、杖の先を向けながら「誰だ!」と怯えを孕んだ声を張り上げた。
「あら、やだ」
ふふ、と軽やかな笑い声で、傷だらけの御厨輝がすくっと立ち上がった。
輪郭が歪んだかと思った顔貌は、私とは似ても似つかない女性のものへと変わる。年齢も違えば、背丈も違う。栗色のショートヘアに、暖かそうなダウンジャケットとブルージーンズと、何もかもが違う。
先輩も愕然としている。
その隙のある表情も、数秒で消えた。
自分以外にも特別な人間がいることに気付いたらしい。苛立たし気に歯噛みして、「火球」と攻撃を繰り出した。
それに女性は焦ることはない。くいっと手首を翻すだけで火球が尻すぼみに消えた。
さっき先輩の炎が消えたのと同じだ。
先輩も察したのか、数瞬、動揺を見せた。
「しょぼい球」
挑発的な笑みに、先輩の顔が怒気に染まる。
そこからは両者ともに火球の応酬だ。暗い山中で、臙脂色の炎があちこちで爆ぜる。風の音と木々の撓りが爆音を押し殺しているけど、麓まで聞こえていない保証はない。炎がぶつかり合い、火花を散らす様が目撃されれば、放火の件から警察が押し寄せてる可能性だってある。
「篁さん…早く止めないと。他の人に見られたら大変です…」
「それは大丈夫。この一帯を遮蔽が覆ってるから、村からは見えないんだ」
「篁さんが?」
「いや。那央だよ」
「許可を取らなきゃダメなんですよね?」
「那央には許可が下りてた。今の分だけどね」
少しだけ唇を尖らせて、篁さんは頭上を仰ぐ。
私もつられて頭上に目を向ける。
暗い樹木が覆うばかりで、ざぁざぁと木々が波打つ度に雪が落ちて来る。ベールで覆っていると言われても、目に見えない魔法では効果のほどはよく分からない。
「1人で一帯を覆えるんですね…」
篁さんが凄い魔法使いなら、弟くんも凄いのだろう。
そう思ったのに、篁さんは苦笑した。
「この地はパワーがあるからね。そのパワーを借りて、大規模な遮蔽を作り出してるんだよ。だから、他所でこの規模の遮蔽を作り出すのは無理かな」
篁さんは言って、少しだけ恍惚とした息を吐いた。
魔法使いにしか分からない特別な何かが、この地には流れているらしい。
「まぁ…だからこそ、彼のような覚醒者が好き勝手できるんだけどね」
その声は硬い。
「前にも言ったと思うけど、突発的に力を発現した魔法使いはルールを知らない。特に、ここのようにエネルギーが満ちている土地にいると、無尽蔵に力が湧いて来るように錯覚して、やりたい放題だ」
「でも…体に負担がかかるんですよね…」
思わず、篁さんの腕を掴む。
もう見える範囲に先輩の姿はない。尾を引く炎の残像と破裂音の応酬が、じりじりと遠ざかって行く。
ここから引き離そうとしてくれているのかもしれない。
「彼の性格は、輝ちゃんが知る彼とは違うんじゃないかな?」
私は頷く。
「以前は…優しくて、面倒見が良かったです…。後輩からも慕われていました」
「黒が言ったのを覚えてる?突発的な魔法使いはヴィランになりやすいって」
「…はい」
「まだ研究段階だけどね。生まれついての魔法使いとは違って、突如として覚醒した魔法使いは、精神を蝕んで行くんじゃないかと言われてるんだ。もちろん、生まれ持った性質もあるんだと思うけど…。突如得た力の反作用の可能性がある」
きっと、篁さんたちはヴィラン以外の覚醒者を見たことがないのだろう。
なぜか「ごめん…」と呟く。
「篁さんは謝り過ぎです」
悪いのは篁さんじゃないのに…。
「も…私は大丈夫なので…篁さんも加勢に行って下さい」
「いや…それがね」
歯切れ悪く、「えっと…ほら…」と消沈した声が落ちる。
「俺は家出…というか、引っ越したことになってるんだけど、無届なんだよね…。本来、協会に届けを出さなきゃいけないんだけど無視しちゃったからさ……なんていうか、届け出を出すまで、魔法を禁止されたんだ」
力のない笑い声だ。
いつもの生気の失せた目が、応酬を繰り広げる閃光を眺めているのが想像できる。
「輝ちゃんに変化していた彼女は松元浄美。もう1人、平禄郎というのがいるんだけど、新人ながらに協会の魔法使いなんだよ。決定事項には逆らえない…」
「あの…私に使ってる魔法は…」
「気付かれなきゃノーカンだよ」
篁さんはあっけらかんと笑う。
「それじゃあ…絶対に気付かれないで下さい。私のせいで…篁さんが罰せられるのは嫌です…」
そう言えば、篁さんが息を詰めたのが分かった。
「き、肝に銘じるよ」
どこか照れを孕んだ声だ。
篁さんの顔が見えなくて残念という気持ちと、逆に見えなくて良かったと思う気持ちが鬩ぎ合う。
こちらまで気恥ずかしさが伝播して、胸の奥がもぞもぞとする。
「あ、あの…それで、応戦には…?」
「行かない。というか、行けない。そもそも彼1人に応戦に駆け付ければ、魔法使いのプライドをへし折ってしまうよ。那央もいるんだから」
篁さんは肩を竦めて、ゆっくりと立ち上がる。
タイミングを見計らっていたのか、不意に「あのさ」と声がかかった。
かさかさ、と茂みの奥からネロが姿を現す。
黒猫なので、その姿は夜の暗がりに同化して見えない。きらりと光る双眸が、ネロのいる場所を知らせてくれるくらいだ。
「もうイチャイチャタイムは終わった?」
「いっ!?お前!」
篁さんが言葉に詰まり、私も硬直してしまう。
顔が熱い。
ここが暗がりで、お互いの顔が見えないことが良かったと安堵してしまう。
ネロの目には私たちの様子は丸わかりなのか、猫らしからぬため息を落とした。
「ついて来なよ。こっちからなら、比較的楽に下山できるはずだよ」
「ああ…頼むよ」
比較的楽に…と言った舌の根も乾かぬうちに、ネロは茂みの奥へと身を翻した。
篁さんは口を引き攣らせ、「クソッ」と悪態を吐いて茂みへと飛び込む。たぶん、私に枝が当たらないように注意しているのだろう。上体を捻るようにして、ばさばさ、ばきばき…背中で枝を押し返しながら下山を開始した。
それでも荒い息遣いの中で、「間に合った…」と安堵する声は篁さんのものだ。
背中と膝裏を支える腕は力強く、すっぽりと包み込まれるような安心感と温もりがある。
私を落とさないように、何度か手の位置に苦慮しながら、「ごめんね」と声をかけてくる。
なんとも篁さんらしい。
…らしくて、涙が止まらない。ぐずぐずと洟を啜り上げ、涙を拭って、絞り出した言葉は驚くほど歪になる。
「あ…あ、びがどう…ごあいまふ…」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃして、さっきまで嘔吐を繰り返していたのだ。きっと臭いはずなのに、篁さんは先輩のように悪態を吐かない。それどころか、「もう大丈夫だから」と穏やかな声をかけてくれる。
セーターの袖口で涙と鼻水、口の周りを拭い、強張った筋肉の力を抜いた。
「震えてるね」
「コ…コート…取り損ねたんです…」
「急な転移だったと黒から聞いたよ。でも、もう大丈夫」
篁さんは言って、私の腕に添えた手を、2度、3度とピアノの鍵盤を叩くようにタップする。
瞬間、寒くて震えが止まらなかった体が、ふんわりとした温もりに包まれた。体の芯から温もりが生じたのではなく、タオルケットに包まれたような温もりだ。劇的な温かさではないけど、随分と違う。
心なし、感覚を失いつつあった手足の先がぽかぽかとする。
「簡易的なものでごめんね。風や寒さを防ぐには、色々と手順があるから…中途半端でごめん」
さっきから”ごめん”ばかり言っている。
篁さんが来てくれて、どれほど心強いか伝えたいというのに、嗚咽に窄まった喉では上手く喋れそうにない。
「あ…あったかい…です…」
それだけ言って、篁さんの肩に頬を寄せる。
目を閉じて、押し寄せて来た頭痛をやり過ごす。
胸の悪さは治まったけど、頭痛だけは波のように寄せては引いている。
「大丈夫?」
「……じゃ…ないです…」
虚勢を張りたいところだけど、とても嘘が通る状態じゃない。
たぶん、1人で立つことも歩くことも出来そうにない。足の裏はキリキリと痛み、躓いた際に打ち付けた箇所も疼き始めている。
痛みを紛らわせるために、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
目を伏せれば、黒の「ガァ!ガァ!」と怒りを滲ませた声が耳に届いた。ざぁざぁと激しい風の音に紛れ、先輩の舌打ちも聞こえた。
絶え間なく枝を折り、積もった枯葉を踏み躙る音がする。「鬱陶しい!」と悪態を吐き、「火球」と怒声が響いた。
目を開いて頭を上げれば、斜面を上った先で、黒に向けて杖を突き付けた先輩が見えた。杖の先には炎が生じ、それに照らされた黒は不機嫌な顔で急上昇する。
放たれる火球を楽々と回避する様は、先輩を煽っているようにも見える。
実際、煽っているのだろう。
先輩は苛立ち、同時に赤々とした3つの火球を放った。
それを見事に回避し、黒は呵々と笑って樹上へと飛んで行く。
火球が爆ぜた木々が倒れることはないけど、樹皮が焦げ、燻っている。この天候なので山火事になることはないだろうけど、山が荒らされることに胸が悪くなる。
「御厨!」
怒号に、身が竦む。
火の玉に照らされ、赤らんだ形相は、昔話に出て来る赤鬼のようだ。絵本の中の鬼は、どこか憎めない愛嬌が潜んでいたけど、「出て来い!」と怒声を上げる先輩は絵本の鬼のように優しくはない。
あそこまで憎まれるようなことをしただろうか。
嗚咽を噛んで、ぐずぐずと洟を啜り上げる。
声を上げて泣けば、先輩に見つかってしまう。ごうごうと激しく唸る風の音に紛れるとは分かっていても、些細な音を立てるのすら恐ろしい。
でも、なぜ先輩は私を見失っているのか…。
私を突き飛ばしたのは先輩だ。そこから転落はしたけど、先輩との距離は5、6メートルしか離れていない。炎の明かりで、私を見つけることは出来るはずだ。
「あ…魔法…。だから私たちが見えない?」
呟きに、「正解」と篁さんが苦笑する。
「遮蔽をかけてる。認識阻害の魔法だよ」
「認識…阻害?透明人間みたいな…感じですか?」
「ちょっと違うかな。透明人間は人限定で見えなくするけだよね?遮蔽はそれだけじゃなく、音も遮断する。しかも、効力は指定した範囲。今は俺を基点に2メートル四方にかけてるから、よほど派手に動き回らなければ見つからない」
本当は許可制の魔法なんだけどね、と篁さんはからからと笑う。
許可の必要な魔法を使って罰を受けなければいいけど…。それを使わせてしまったことに罪悪感が込み上げる。
「御厨!」
何度目かの怒号で、先輩は杖を振りかざすように背後に振った。
「火球!」
炎が高速で木々の奥へと吸い込まれ…消えた。
爆発は聞こえなかった。
それに驚いたのか、炎に照らされた先輩の顔は驚愕に染まっている。魔法が不発したと、憮然とした表情で杖を見据え、「どういうことだ?」と照明代わりに浮遊させている火の玉へと目を向けた。
「力が消えたわけじゃないのか…」
安堵の独り言が聞こえた。
不安の種が消えれば、次に生じるのは怒りだ。
「御厨!どこに隠れてる!」
杖を振り回し、烈火の如く声を張り上げる。
以前までの冷静沈着だった先輩はどこにもいない。今いるのは、怒りでコントロールを失った先輩に似たナニカだ。
恐怖に首を窄めていると、「せ…先輩…や、止めましょう…」と私の声がした。
私は何も言ってない。
なのに、息を殺して潜む私たちとは反対の方向から、ぼろぼろに傷ついた私が出て来た。涙と鼻水で濡れた顔に、解れ、乱れ、枯れた枝葉を髪に絡ませた私だ。
水色のセーターと紺色のズボン。もこもことした室内用の分厚い靴下。
間違いなく私なのだけど、あれは…誰?
そんな疑問に答えるように、「変化の魔法だよ」と篁さんが囁いた。
「協会から2人が派遣されていてね。1人が変身魔法を得意としているんだ」
私と瓜二つの誰かは、苦しげに喘ぎながら「先輩…」と泣いている。
その様に、先輩が気を良くしているのが分かる。
子供の頃から知った仲だというのに、先輩の目をしても見分けが付かない。それは入れ替わりが可能という、恐ろしい魔法だ。
同時に、気持ち悪いというか…不気味だ。
ドッペルゲンガーというのを思い出す。確か、出会うと死んでしまうんじゃなかっただろうか。
私と瓜二つの魔法使いは、先輩と一定の距離を保ち、傍らの栗の木に寄りかかるように膝をついた。息を荒げ、寒さに震え、傷だらけの足に触れては顔を歪める。
その様を見ても、先輩の表情は愉悦を孕んでいる。心配の素振りも見せず、にやついた口元が凶悪な人相を作る。
「ほら、立てよ。カラスは追い払ったんだ。さっさと行くぞ」
「も…も、もう……立てない…です…」
声を震わせ、嗚咽を零す。
「ふざけるな!さっさと立てよ!」
肩を怒らせ、「苛つかせるな!」と御厨輝に歩んで行く。
なぜ、あれほどイライラしているのか…。
演技だったのかもしれないけど、以前の先輩は決して短気ではなかった。むしろ、穏やかで気長なタイプだった。短気というのは、演技で隠し通せるものなのだろうか。
人の性質は安易に隠せないと思うのだけど…。
今の先輩は闘争心剥き出しの獣みたいだ。
「さっさと立て!」
怒声を上げ、躊躇なく杖の先を向けた。
私ではないけれど、少なくとも先輩は目の前の人を”御厨輝”と認識しているはずだ。その彼女に向かい、攻撃を放ち続けた杖の先を向けたのだ。銃口を向けたのと同じ意味合いだと思う。
「立て…」
そう言った先輩が顔を歪めた。
半歩、後ろへ下がりながら、胡乱げな視線を御厨輝に向ける。
何かしらの違和感を覚えたのだろう。
「御厨…?いや…お前は誰だ?」
言葉にすれば、警戒心は加速したらしい。飛び退るように距離を開け、杖の先を向けながら「誰だ!」と怯えを孕んだ声を張り上げた。
「あら、やだ」
ふふ、と軽やかな笑い声で、傷だらけの御厨輝がすくっと立ち上がった。
輪郭が歪んだかと思った顔貌は、私とは似ても似つかない女性のものへと変わる。年齢も違えば、背丈も違う。栗色のショートヘアに、暖かそうなダウンジャケットとブルージーンズと、何もかもが違う。
先輩も愕然としている。
その隙のある表情も、数秒で消えた。
自分以外にも特別な人間がいることに気付いたらしい。苛立たし気に歯噛みして、「火球」と攻撃を繰り出した。
それに女性は焦ることはない。くいっと手首を翻すだけで火球が尻すぼみに消えた。
さっき先輩の炎が消えたのと同じだ。
先輩も察したのか、数瞬、動揺を見せた。
「しょぼい球」
挑発的な笑みに、先輩の顔が怒気に染まる。
そこからは両者ともに火球の応酬だ。暗い山中で、臙脂色の炎があちこちで爆ぜる。風の音と木々の撓りが爆音を押し殺しているけど、麓まで聞こえていない保証はない。炎がぶつかり合い、火花を散らす様が目撃されれば、放火の件から警察が押し寄せてる可能性だってある。
「篁さん…早く止めないと。他の人に見られたら大変です…」
「それは大丈夫。この一帯を遮蔽が覆ってるから、村からは見えないんだ」
「篁さんが?」
「いや。那央だよ」
「許可を取らなきゃダメなんですよね?」
「那央には許可が下りてた。今の分だけどね」
少しだけ唇を尖らせて、篁さんは頭上を仰ぐ。
私もつられて頭上に目を向ける。
暗い樹木が覆うばかりで、ざぁざぁと木々が波打つ度に雪が落ちて来る。ベールで覆っていると言われても、目に見えない魔法では効果のほどはよく分からない。
「1人で一帯を覆えるんですね…」
篁さんが凄い魔法使いなら、弟くんも凄いのだろう。
そう思ったのに、篁さんは苦笑した。
「この地はパワーがあるからね。そのパワーを借りて、大規模な遮蔽を作り出してるんだよ。だから、他所でこの規模の遮蔽を作り出すのは無理かな」
篁さんは言って、少しだけ恍惚とした息を吐いた。
魔法使いにしか分からない特別な何かが、この地には流れているらしい。
「まぁ…だからこそ、彼のような覚醒者が好き勝手できるんだけどね」
その声は硬い。
「前にも言ったと思うけど、突発的に力を発現した魔法使いはルールを知らない。特に、ここのようにエネルギーが満ちている土地にいると、無尽蔵に力が湧いて来るように錯覚して、やりたい放題だ」
「でも…体に負担がかかるんですよね…」
思わず、篁さんの腕を掴む。
もう見える範囲に先輩の姿はない。尾を引く炎の残像と破裂音の応酬が、じりじりと遠ざかって行く。
ここから引き離そうとしてくれているのかもしれない。
「彼の性格は、輝ちゃんが知る彼とは違うんじゃないかな?」
私は頷く。
「以前は…優しくて、面倒見が良かったです…。後輩からも慕われていました」
「黒が言ったのを覚えてる?突発的な魔法使いはヴィランになりやすいって」
「…はい」
「まだ研究段階だけどね。生まれついての魔法使いとは違って、突如として覚醒した魔法使いは、精神を蝕んで行くんじゃないかと言われてるんだ。もちろん、生まれ持った性質もあるんだと思うけど…。突如得た力の反作用の可能性がある」
きっと、篁さんたちはヴィラン以外の覚醒者を見たことがないのだろう。
なぜか「ごめん…」と呟く。
「篁さんは謝り過ぎです」
悪いのは篁さんじゃないのに…。
「も…私は大丈夫なので…篁さんも加勢に行って下さい」
「いや…それがね」
歯切れ悪く、「えっと…ほら…」と消沈した声が落ちる。
「俺は家出…というか、引っ越したことになってるんだけど、無届なんだよね…。本来、協会に届けを出さなきゃいけないんだけど無視しちゃったからさ……なんていうか、届け出を出すまで、魔法を禁止されたんだ」
力のない笑い声だ。
いつもの生気の失せた目が、応酬を繰り広げる閃光を眺めているのが想像できる。
「輝ちゃんに変化していた彼女は松元浄美。もう1人、平禄郎というのがいるんだけど、新人ながらに協会の魔法使いなんだよ。決定事項には逆らえない…」
「あの…私に使ってる魔法は…」
「気付かれなきゃノーカンだよ」
篁さんはあっけらかんと笑う。
「それじゃあ…絶対に気付かれないで下さい。私のせいで…篁さんが罰せられるのは嫌です…」
そう言えば、篁さんが息を詰めたのが分かった。
「き、肝に銘じるよ」
どこか照れを孕んだ声だ。
篁さんの顔が見えなくて残念という気持ちと、逆に見えなくて良かったと思う気持ちが鬩ぎ合う。
こちらまで気恥ずかしさが伝播して、胸の奥がもぞもぞとする。
「あ、あの…それで、応戦には…?」
「行かない。というか、行けない。そもそも彼1人に応戦に駆け付ければ、魔法使いのプライドをへし折ってしまうよ。那央もいるんだから」
篁さんは肩を竦めて、ゆっくりと立ち上がる。
タイミングを見計らっていたのか、不意に「あのさ」と声がかかった。
かさかさ、と茂みの奥からネロが姿を現す。
黒猫なので、その姿は夜の暗がりに同化して見えない。きらりと光る双眸が、ネロのいる場所を知らせてくれるくらいだ。
「もうイチャイチャタイムは終わった?」
「いっ!?お前!」
篁さんが言葉に詰まり、私も硬直してしまう。
顔が熱い。
ここが暗がりで、お互いの顔が見えないことが良かったと安堵してしまう。
ネロの目には私たちの様子は丸わかりなのか、猫らしからぬため息を落とした。
「ついて来なよ。こっちからなら、比較的楽に下山できるはずだよ」
「ああ…頼むよ」
比較的楽に…と言った舌の根も乾かぬうちに、ネロは茂みの奥へと身を翻した。
篁さんは口を引き攣らせ、「クソッ」と悪態を吐いて茂みへと飛び込む。たぶん、私に枝が当たらないように注意しているのだろう。上体を捻るようにして、ばさばさ、ばきばき…背中で枝を押し返しながら下山を開始した。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
神様の許嫁
衣更月
ファンタジー
信仰心の篤い町で育った久瀬一花は、思いがけずに神様の許嫁(仮)となった。
神様の名前は須久奈様と言い、古くから久瀬家に住んでいるお酒の神様だ。ただ、神様と聞いてイメージする神々しさは欠片もない。根暗で引きこもり。コミュニケーションが不得手ながらに、一花には無償の愛を注いでいる。
一花も須久奈様の愛情を重いと感じながら享受しつつ、畏敬の念を抱く。
ただ、1つだけ須久奈様の「目を見て話すな」という忠告に従えずにいる。どんなに頑張っても、長年染み付いた癖が直らないのだ。
神様を見る目を持つ一花は、その危うさを軽視し、トラブルばかりを引き当てて来る。
***
1部完結
2部より「幽世の理」とリンクします。
※「幽世の理」と同じ世界観です。
少年神官系勇者―異世界から帰還する―
mono-zo
ファンタジー
幼くして異世界に消えた主人公、帰ってきたがそこは日本、家なし・金なし・免許なし・職歴なし・常識なし・そもそも未成年、無い無い尽くしでどう生きる?
別サイトにて無名から投稿開始して100日以内に100万PV達成感謝✨
この作品は「カクヨム」にも掲載しています。(先行)
この作品は「小説家になろう」にも掲載しています。
この作品は「ノベルアップ+」にも掲載しています。
この作品は「エブリスタ」にも掲載しています。
この作品は「pixiv」にも掲載しています。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。


【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる