魔法使いの約束

衣更月

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 暗くて顔は見えない。
 それでも荒い息遣いの中で、「間に合った…」と安堵する声は篁さんのものだ。
 背中と膝裏を支える腕は力強く、すっぽりと包み込まれるような安心感と温もりがある。
 私を落とさないように、何度か手の位置に苦慮しながら、「ごめんね」と声をかけてくる。
 なんとも篁さんらしい。
 …らしくて、涙が止まらない。ぐずぐずと洟を啜り上げ、涙を拭って、絞り出した言葉は驚くほど歪になる。
「あ…あ、びがどう…ごあいまふ…」
 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃして、さっきまで嘔吐を繰り返していたのだ。きっとくさいはずなのに、篁さんは先輩のように悪態を吐かない。それどころか、「もう大丈夫だから」と穏やかな声をかけてくれる。
 セーターの袖口で涙と鼻水、口の周りを拭い、強張った筋肉の力を抜いた。
「震えてるね」
「コ…コート…取り損ねたんです…」
「急な転移だったと黒から聞いたよ。でも、もう大丈夫」
 篁さんは言って、私の腕に添えた手を、2度、3度とピアノの鍵盤を叩くようにタップする。
 瞬間、寒くて震えが止まらなかった体が、ふんわりとした温もりに包まれた。体の芯から温もりが生じたのではなく、タオルケットに包まれたような温もりだ。劇的な温かさではないけど、随分と違う。
 心なし、感覚を失いつつあった手足の先がぽかぽかとする。
「簡易的なものでごめんね。風や寒さを防ぐには、色々と手順があるから…中途半端でごめん」
 さっきから”ごめん”ばかり言っている。
 篁さんが来てくれて、どれほど心強いか伝えたいというのに、嗚咽に窄まった喉では上手く喋れそうにない。
「あ…あったかい…です…」
 それだけ言って、篁さんの肩に頬を寄せる。
 目を閉じて、押し寄せて来た頭痛をやり過ごす。
 胸の悪さは治まったけど、頭痛だけは波のように寄せては引いている。
「大丈夫?」
「……じゃ…ないです…」
 虚勢を張りたいところだけど、とても嘘が通る状態じゃない。
 たぶん、1人で立つことも歩くことも出来そうにない。足の裏はキリキリと痛み、躓いた際に打ち付けた箇所も疼き始めている。
 痛みを紛らわせるために、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 目を伏せれば、黒の「ガァ!ガァ!」と怒りを滲ませた声が耳に届いた。ざぁざぁと激しい風の音に紛れ、先輩の舌打ちも聞こえた。
 絶え間なく枝を折り、積もった枯葉を踏み躙る音がする。「鬱陶しい!」と悪態を吐き、「火球ファイアボール」と怒声が響いた。
 目を開いて頭を上げれば、斜面を上った先で、黒に向けて杖を突き付けた先輩が見えた。杖の先には炎が生じ、それに照らされた黒は不機嫌な顔で急上昇する。
 放たれる火球を楽々と回避する様は、先輩を煽っているようにも見える。
 実際、煽っているのだろう。
 先輩は苛立ち、同時に赤々とした3つの火球を放った。
 それを見事に回避し、黒は呵々と笑って樹上へと飛んで行く。
 火球が爆ぜた木々が倒れることはないけど、樹皮が焦げ、燻っている。この天候なので山火事になることはないだろうけど、山が荒らされることに胸が悪くなる。
「御厨!」
 怒号に、身が竦む。
 火の玉に照らされ、赤らんだ形相は、昔話に出て来る赤鬼のようだ。絵本の中の鬼は、どこか憎めない愛嬌が潜んでいたけど、「出て来い!」と怒声を上げる先輩は絵本の鬼のように優しくはない。
 あそこまで憎まれるようなことをしただろうか。
 嗚咽を噛んで、ぐずぐずと洟を啜り上げる。
 声を上げて泣けば、先輩に見つかってしまう。ごうごうと激しく唸る風の音に紛れるとは分かっていても、些細な音を立てるのすら恐ろしい。
 でも、なぜ先輩は私を見失っているのか…。
 私を突き飛ばしたのは先輩だ。そこから転落はしたけど、先輩との距離は5、6メートルしか離れていない。炎の明かりで、私を見つけることは出来るはずだ。
「あ…魔法…。だから私たちが見えない?」
 呟きに、「正解」と篁さんが苦笑する。
遮蔽ベールをかけてる。認識阻害の魔法だよ」
「認識…阻害?透明人間みたいな…感じですか?」
「ちょっと違うかな。透明人間は人限定で見えなくするけだよね?遮蔽ベールはそれだけじゃなく、音も遮断する。しかも、効力は指定した範囲。今は俺を基点に2メートル四方にかけてるから、よほど派手に動き回らなければ見つからない」
 本当は許可制の魔法なんだけどね、と篁さんはからからと笑う。
 許可の必要な魔法を使って罰を受けなければいいけど…。それを使わせてしまったことに罪悪感が込み上げる。
「御厨!」
 何度目かの怒号で、先輩は杖を振りかざすように背後に振った。
火球ファイアボール!」
 炎が高速で木々の奥へと吸い込まれ…消えた。
 爆発は聞こえなかった。
 それに驚いたのか、炎に照らされた先輩の顔は驚愕に染まっている。魔法が不発したと、憮然とした表情で杖を見据え、「どういうことだ?」と照明代わりに浮遊させている火の玉へと目を向けた。
「力が消えたわけじゃないのか…」
 安堵の独り言が聞こえた。
 不安の種が消えれば、次に生じるのは怒りだ。
「御厨!どこに隠れてる!」
 杖を振り回し、烈火の如く声を張り上げる。
 以前までの冷静沈着だった先輩はどこにもいない。今いるのは、怒りでコントロールを失った先輩に似たナニカだ。
 恐怖に首を窄めていると、「せ…先輩…や、止めましょう…」と私の声がした。
 私は何も言ってない。
 なのに、息を殺して潜む私たちとは反対の方向から、ぼろぼろに傷ついた私が出て来た。涙と鼻水で濡れた顔に、解れ、乱れ、枯れた枝葉を髪に絡ませた私だ。
 水色のセーターと紺色のズボン。もこもことした室内用の分厚い靴下。
 間違いなく私なのだけど、あれは…誰?
 そんな疑問に答えるように、「変化の魔法だよ」と篁さんが囁いた。
「協会から2人が派遣されていてね。1人が変身魔法イリュージョンを得意としているんだ」
 私と瓜二つの誰かは、苦しげに喘ぎながら「先輩…」と泣いている。
 その様に、先輩が気を良くしているのが分かる。
 子供の頃から知った仲だというのに、先輩の目をしても見分けが付かない。それは入れ替わりが可能という、恐ろしい魔法だ。
 同時に、気持ち悪いというか…不気味だ。
 ドッペルゲンガーというのを思い出す。確か、出会うと死んでしまうんじゃなかっただろうか。
 私と瓜二つの魔法使い御厨輝は、先輩と一定の距離を保ち、傍らの栗の木に寄りかかるように膝をついた。息を荒げ、寒さに震え、傷だらけの足に触れては顔を歪める。
 その様を見ても、先輩の表情は愉悦を孕んでいる。心配の素振りも見せず、にやついた口元が凶悪な人相を作る。
「ほら、立てよ。カラスは追い払ったんだ。さっさと行くぞ」
「も…も、もう……立てない…です…」
 声を震わせ、嗚咽を零す。
「ふざけるな!さっさと立てよ!」
 肩を怒らせ、「苛つかせるな!」と御厨輝・・・に歩んで行く。
 なぜ、あれほどイライラしているのか…。
 演技だったのかもしれないけど、以前の先輩は決して短気ではなかった。むしろ、穏やかで気長なタイプだった。短気というのは、演技で隠し通せるものなのだろうか。
 人の性質は安易に隠せないと思うのだけど…。
 今の先輩は闘争心剥き出しの獣みたいだ。
「さっさと立て!」
 怒声を上げ、躊躇なく杖の先を向けた。
 私ではないけれど、少なくとも先輩は目の前の人を”御厨輝”と認識しているはずだ。その彼女に向かい、攻撃を放ち続けた杖の先を向けたのだ。銃口を向けたのと同じ意味合いだと思う。
「立て…」
 そう言った先輩が顔を歪めた。
 半歩、後ろへ下がりながら、胡乱げな視線を御厨輝・・・に向ける。
 何かしらの違和感を覚えたのだろう。
「御厨…?いや…お前は誰だ?」
 言葉にすれば、警戒心は加速したらしい。飛び退るように距離を開け、杖の先を向けながら「誰だ!」と怯えを孕んだ声を張り上げた。
「あら、やだ」
 ふふ、と軽やかな笑い声で、傷だらけの御厨輝・・・がすくっと立ち上がった。
 輪郭が歪んだかと思った顔貌は、私とは似ても似つかない女性のものへと変わる。年齢も違えば、背丈も違う。栗色のショートヘアに、暖かそうなダウンジャケットとブルージーンズと、何もかもが違う。
 先輩も愕然としている。
 その隙のある表情も、数秒で消えた。
 自分以外にも特別な人間がいることに気付いたらしい。苛立たし気に歯噛みして、「火球ファイアボール」と攻撃を繰り出した。
 それに女性は焦ることはない。くいっと手首を翻すだけで火球が尻すぼみに消えた。
 さっき先輩の炎が消えたのと同じだ。
 先輩も察したのか、数瞬、動揺を見せた。
「しょぼい球」
 挑発的な笑みに、先輩の顔が怒気に染まる。
 そこからは両者ともに火球の応酬だ。暗い山中で、臙脂色の炎があちこちで爆ぜる。風の音と木々の撓りが爆音を押し殺しているけど、麓まで聞こえていない保証はない。炎がぶつかり合い、火花を散らす様が目撃されれば、放火の件から警察が押し寄せてる可能性だってある。
「篁さん…早く止めないと。他の人に見られたら大変です…」
「それは大丈夫。この一帯を遮蔽ベールが覆ってるから、村からは見えないんだ」
「篁さんが?」
「いや。那央だよ」
「許可を取らなきゃダメなんですよね?」
「那央には許可が下りてた。今の分だけどね」
 少しだけ唇を尖らせて、篁さんは頭上を仰ぐ。
 私もつられて頭上に目を向ける。
 暗い樹木が覆うばかりで、ざぁざぁと木々が波打つ度に雪が落ちて来る。ベールで覆っていると言われても、目に見えない魔法では効果のほどはよく分からない。
「1人で一帯を覆えるんですね…」
 篁さんが凄い魔法使いなら、弟くんも凄いのだろう。
 そう思ったのに、篁さんは苦笑した。
「この地はパワーがあるからね。そのパワーを借りて、大規模な遮蔽ベールを作り出してるんだよ。だから、他所でこの規模の遮蔽ベールを作り出すのは無理かな」
 篁さんは言って、少しだけ恍惚とした息を吐いた。
 魔法使いにしか分からない特別な何かが、この地には流れているらしい。
「まぁ…だからこそ、彼のような覚醒者が好き勝手できるんだけどね」
 その声は硬い。
「前にも言ったと思うけど、突発的に力を発現した魔法使いはルールを知らない。特に、ここのようにエネルギーが満ちている土地にいると、無尽蔵に力が湧いて来るように錯覚して、やりたい放題だ」
「でも…体に負担がかかるんですよね…」
 思わず、篁さんの腕を掴む。
 もう見える範囲に先輩の姿はない。尾を引く炎の残像と破裂音の応酬が、じりじりと遠ざかって行く。
 ここから引き離そうとしてくれているのかもしれない。
「彼の性格は、輝ちゃんが知る彼とは違うんじゃないかな?」
 私は頷く。
「以前は…優しくて、面倒見が良かったです…。後輩からも慕われていました」
「黒が言ったのを覚えてる?突発的な魔法使いはヴィランになりやすいって」
「…はい」
「まだ研究段階だけどね。生まれついての魔法使いとは違って、突如として覚醒した魔法使いは、精神を蝕んで行くんじゃないかと言われてるんだ。もちろん、生まれ持った性質もあるんだと思うけど…。突如得た力の反作用の可能性がある」
 きっと、篁さんたちはヴィラン以外の覚醒者を見たことがないのだろう。
 なぜか「ごめん…」と呟く。
「篁さんは謝り過ぎです」
 悪いのは篁さんじゃないのに…。
「も…私は大丈夫なので…篁さんも加勢に行って下さい」
「いや…それがね」
 歯切れ悪く、「えっと…ほら…」と消沈した声が落ちる。
「俺は家出…というか、引っ越したことになってるんだけど、無届なんだよね…。本来、協会に届けを出さなきゃいけないんだけど無視しちゃったからさ……なんていうか、届け出を出すまで、魔法を禁止されたんだ」
 力のない笑い声だ。
 いつもの生気の失せた目が、応酬を繰り広げる閃光を眺めているのが想像できる。
「輝ちゃんに変化していた彼女は松元浄美きよみ。もう1人、平禄郎たいらろくろうというのがいるんだけど、新人ながらに協会の魔法使いなんだよ。決定事項には逆らえない…」
「あの…私に使ってる魔法は…」
「気付かれなきゃノーカンだよ」
 篁さんはあっけらかんと笑う。
「それじゃあ…絶対に気付かれないで下さい。私のせいで…篁さんが罰せられるのは嫌です…」
 そう言えば、篁さんが息を詰めたのが分かった。
「き、肝に銘じるよ」
 どこか照れを孕んだ声だ。
 篁さんの顔が見えなくて残念という気持ちと、逆に見えなくて良かったと思う気持ちが鬩ぎ合う。
 こちらまで気恥ずかしさが伝播して、胸の奥がもぞもぞとする。
「あ、あの…それで、応戦には…?」
「行かない。というか、行けない。そもそも彼1人に応戦に駆け付ければ、魔法使いのプライドをへし折ってしまうよ。那央もいるんだから」
 篁さんは肩を竦めて、ゆっくりと立ち上がる。
 タイミングを見計らっていたのか、不意に「あのさ」と声がかかった。
 かさかさ、と茂みの奥からネロが姿を現す。
 黒猫なので、その姿は夜の暗がりに同化して見えない。きらりと光る双眸が、ネロのいる場所を知らせてくれるくらいだ。
「もうイチャイチャタイムは終わった?」
「いっ!?お前!」
 篁さんが言葉に詰まり、私も硬直してしまう。
 顔が熱い。
 ここが暗がりで、お互いの顔が見えないことが良かったと安堵してしまう。
 ネロの目には私たちの様子は丸わかりなのか、猫らしからぬため息を落とした。
「ついて来なよ。こっちからなら、比較的楽に下山できるはずだよ」
「ああ…頼むよ」
 比較的楽に…と言った舌の根も乾かぬうちに、ネロは茂みの奥へと身を翻した。
 篁さんは口を引き攣らせ、「クソッ」と悪態を吐いて茂みへと飛び込む。たぶん、私に枝が当たらないように注意しているのだろう。上体を捻るようにして、ばさばさ、ばきばき…背中で枝を押し返しながら下山を開始した。
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