魔法使いの約束

衣更月

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 遂に降り出した雪の中、ねぐらへ帰るカラスの群れに紛れ、黒が帰って来た。
 横殴りの牡丹雪に、艶やかな羽をぐっしょりと濡らし、頭の上には溶け残った雪を張り付けている。庇の下で羽を震わせて水滴を飛ばした黒にタオルを差し出せば、素直に包まってくれた。
「やべぇくらいの悪天候だ」
 黒を抱きかかえ、空を仰ぐ。
 強い北風に、墨汁を垂らし込めたような雲が、空低くに次々に流れ込んでいる。雪に煙った森は、ざぁざぁと枝を揺らし、力尽きた葉を彼方へと吹き飛ばす。ばったんばったんと不穏な騒音の出所は、廃棄待ちのトタンだ。買い物から帰って早々、篁さんが急拵えにトタンや木材を縛り付け、飛ばないようにブロックで重しをしていた。それでも、強風にトタンが暴れている。
「こりゃ積もるな」
「天気予報でも、そう言ってた」
 大掃除も中途半端なままに切り上げ、家回りの点検を急いだ。
 普段から掃除はしているから、そこまで慌てる必要はない。それでも、大掃除は恒例行事なので念入りにしておきたかったのが本音だ。
「家が吹き飛んだらどうしよう…」
「家が吹っ飛ぶより、目と鼻の先の木が倒れて道が塞がるか、でっけぇ枝が飛んで来て家を半壊させるかじゃねぇのか?」
 具体的過ぎて怖い。
「精霊の予言じゃないよね?」
「現実的な確率だ」
 半眼になる黒に、「だよね…」と消沈した声を返す。
 山裾の集落は、梅雨の長雨、台風の暴風に曝されるたびに命と家を危惧しなければならない。さすがに土砂崩れはなくとも、古木が飛んで来る可能性はあるからだ。
 と、家の裏手から「ひぃ…寒い!」と、篁さんが小走りに現れた。
 庇の下に飛び込んで、寒さに奥歯を打ち鳴らす。
 コートを着ていないのだから、寒いのは当たり前だ。見ているだけで寒さが移ってくる。
「篁さん。ありがとうざいます。大変だったでしょ?」
「少しね」
 篁さんが苦笑する。
 軍手についた埃を叩き落とし、軍手を脱ぐ。それから頭に付いた枯葉を払い除け、セーターの胸元を汚す蜘蛛の巣や埃を軍手で拭った。
 篁さんには雨戸をお願いしていたのだ。木製の雨戸は建付けの問題で、開閉にコツがいる。祖父母は手慣れた様子で、数ヶ所を叩いて開閉していたけど、私にその要領は伝授されなかった。さらには使用頻度が低いので、雨戸の隙間には埃や蜘蛛の巣が張り付いている。
 悪戦苦闘する私を見かね、篁さんが代わってくれたというわけだ。
 てっきり魔法で片してしまうのかと思えば、手を使って頑張ってくれた。訊けば、基本、普通の人と同じように手を使うことを心掛けているらしい。特に、無意識で魔法を使っていたことを指摘されてからは、徹底して魔法を封じている。そうして悪癖を矯正しなければ、いずれどこかでボロが出そうだと反省していた。
 本当に真面目な人だ。
「風邪をひかないうちに、家に入ろう」
 さぁ、さぁ、と追い立てられるように中に入る。
 家の中は、雨戸を閉めたせいで真っ暗だ。心理的な要因なのか、電気を点けても薄暗く感じて、昔から雨戸は苦手なものの1つである。
 台所のストーブを点ければ、黒が正面に陣取った。両翼を広げ、全身で暖を取っている。
「精霊も寒いのね」
「凍死するこたぁねぇが、寒いのは苦手だな。あと、濡れるのも好きじゃねぇ。例外は夏の水浴びだ」
 実にカラスらしい。
 コートを脱いで居間の隅に置き、テレビを点ける。
 テレビでは、東京のアメ横商店街の賑やかな様子が紹介されている。年末恒例なシーンなのに、ついつい見てしまうのは、みんなが笑顔で楽しそうだからだ。年末に事件事故の話題を聞くより、ずっとストレスフリーだ。
 ただ、速報の効果音がひっきりなしに鳴っている。次々に打ち出される波浪、暴風雪警報は、県のみならず市町村まで事細かに危険を知らせている。
 さらには、360軒ほどの停電が復旧したとの情報も流れた。停電の原因は落雷によるものだと報じている。また、強風による倒木で新たに40軒が停電している。これに黒は笑った。
 360軒は昼間の魔法使いによる被害だ。
「いやぁ、ジャストタイミングじゃねぇか」
「被害が出てるのに喜ばないでよ」
「嬢ちゃんは真面目だねぇ~」
 黒は炬燵の上に着地すると、嘴を使って器用にチャンネルを変える。
 年末なので再放送のドラマやバラエティ番組が多い。その中でニュースを拾い上げて、昼間の騒動が何と置き換わっているのか、世間がどういう注目をしているのかを確認している。
 私はエプロンを着け、夕飯の準備に取り掛かる。
 今日は、鶏の照り焼きと小松菜と長ネギのお味噌汁。小鉢にキャベツと油揚げの煮びたしで、一応は完成になる。
 私が調理を始めた後ろで、篁さんが「黒」と鴨居に手を当て居間を覗き込んだ。
「どうだった?」
「どうもこうもねぇよ。オレっちが行った時は、野次馬がたむろってたくらいだ。いっちょ前にリポーター気取りで動画撮ってたよ。ああ、オレっちと入れ違いだったらしが、テレビカメラが何台か来てたらしいって噂は聞いたかな」
「魔力の残滓は?」
「例の街路樹だろ?」
 黒の声に笑みが孕んだ。
「あったぜ」
「やっぱりあの動画の男が犯人か」
「御多分に洩れずヴィランになりやがったな」
「協会の調査員はいた?」
「それらしいのはいたぜ。ただ、これほどの大事になるとは思わなかったんだろうな。奴ら新米ペーペーを寄越してやがる。男が1人、女が1人。使い魔はハチワレ猫とフェレットだ」
 黒は言って、「ぷ」と噴き出した。
 姿は見えなくても、翼で腹を抱え、卓上を転げ回って笑っている姿が目に浮かぶ。
「被害は?」
「死人は出てねぇよ。ただ、放電で火傷を負ったのが何人かいるらしい」
 母親の手を握って泣いていた子供を思い出すと、胸がつきつきと痛くなる。
「ああ、それから」
 険のある口調が、「ネロを見た」と続ける。
 それに対する篁さんの答えはないけど、吐いた息の深さが、芳しい報告でないことを示している。
那央なおがいたのか?」
「見なかったが、ネロがいるなら那央もいるだろ」
 テレビの音が消えた。
 とん、とん、と弾みながら黒が台所に戻って来る。羽ばたいて定位置である椅子の背に止まると、「まぁ、協会から派遣されたんじゃねぇよな」と嘆息した。
「ナオとネロって誰か訊いてもいい?」
 小松菜を切る手を止めて、黒に振り返る。
「弟と使い魔」
 答えたのは篁さんだ。
「那央が弟。ネロが使い魔の黒猫なんだ」
「ネロだぜ?ネロ。イタリア語で黒って意味なんだってよ。こまっしゃくれた名前つけやがって。こっちとら黒だっつぅの!」
 ケッ、と唾を吐き捨てる仕草で嫌悪感を表す。
「那央は優秀だが、魔法使いとしては中の上。つまり普通の範疇だ。まだガキだからな。協会から派遣ってわけじゃねぇぞ?」
 後半は篁さんに向けた言葉なのだろう。黒は篁さんを見据えながら、愉快そうに目を細めた。
「弟さんとは年が離れてるんですか?」
「高校生だから。10違うんだ」
 暗い表情でため息を吐く篁さんを見ると、兄弟仲が良いようには思えない。
 止めていた手を動かし、ざく、ざく、と小松菜を切る。
「那央はお前を捜してるんだろうな。自主的にか、征和に命令されてかは分からねぇけど」
「篁さんのおうちは近いんですか?」
 小松菜と長ネギを中火で煮て、火を止める。ダシは顆粒だしを使い、お味噌を溶かしながら篁さんを見る。
 篁さんはストーブで手を温めながら、緩く頭を振った。
「同じ県内だけど、山を2つ越えた先になるんだ」
「こいつんちも田舎だぜ?まぁ、ここほど田舎ってわけでもねぇが。協会の本部や支部に近い都会の方が利便性はあるが、篁の人間はすぐに体調を崩しちまうんだ。ま、そんだけ優秀なんだろうが、現代いまじゃ住み辛いよな」
 清流と濁流の話だと分かった。
「弟さん、協会の要請で来ているわけじゃないですよね?」
 冷蔵庫から鶏肉を取り出し、下処理を始めれば、黒が「ひと口くれ」と催促する。
 カラスだけあって、鶏でも生肉で食べる。
「魔法使いは全員、協会に登録する決まりがあるんだよ。正規で働いている者もいれば、協力を要請されるパターンもある。でも、どちらのパターンでも年齢が決まってる。高校卒業資格のある18才以上なんだ」
「那央は現役バリバリの高校生だからな。当て嵌まらねぇ」
「たぶん、協会とは関係ないよ。たまたま騒動に遭遇したんじゃないかな?」
「那央はどこに泊ってんだろな」
 黒は呟き、かたかたと鳴る雨戸へと視線を馳せた。

 
 その夜、雨戸を打ち付ける風の音に紛れ、サイレンの音が聞こえた。
 雨戸や風の音が五月蠅くて寝付けずいたし、昼間のことで神経が昂っていたこともあり、些細な音が全て耳に届いた。
 足元の湯たんぽを爪先で突きながら、暗い天井を見据える。
 カン…カン…、と微かな鐘の音がする。お寺の鐘とは違う。甲高い音だ。
 胸の奥がざらつくような不快感がある。
 もそもそと体を起こして、寒さに手を擦り合わせる。ベッドから降り、小学生の頃から使っている勉強机を手探りで触れ、デスクライトを点けた。椅子の背にかけたピンク色の半纏を羽織り、箪笥から靴下を取り出して履く。
 隣の部屋で眠る篁さんと黒を起こさないように、そろりと部屋を出る。
 階段の軋みにも注意して、玄関に下りた。「はぁ」と吐いた息が、屋内なのに白く濁る。びゅうびゅうと口笛のように風が鳴っているのを聞くだけで、寒さに体が震える。
「輝ちゃん?どうしたの?」
 声を潜め、パジャマ代わりのスウェットを着た篁さんが階段を降りて来た。
「あふ」と欠伸を漏らし、寒さに腕組みしている。
「サイレン、聞こえませんか?」
 篁さんは首を傾げ、天井を見上げるようにして耳を澄ました。
 びゅうびゅう、かたかた…。そんな音の紛れて、遠くでサイレンが鳴り、鐘が叩かれている。
 篁さんも聞こえたのだろう。眉宇を顰めた。
「うちまでサイレンが聞こえるって今まではなかったから…。ちょっと様子を見てみようかなって…」
「その格好で?コートを羽織った方がいい。俺も取って来るから」
 確かに半纏は外向きではない。特に吹雪いている夜間には向かないだろう。
 篁さんに促されるまま、部屋に戻って厚手のダウンコートを着込む。部屋を出れば、ちょうど篁さんがコートを着て出て来るところだった。 
「黒は?」
「寝てる」
 部屋の中を指さし、階段の明かりを点けて下へと下りる。
「やっぱり鳥目なんですね」
「どうだろ?ああ見えて鳥じゃないからね」
 靴を履き、きゅるきゅると音を立ててネジ式の鍵を解錠させる。がらがらと戸を開けば、雪混じりの風が吹き込んで来た。
 かたかた、と襖が音を立てる。
 急いで外に飛び出て戸を閉めて、牡丹雪で白む視界に目を細める。予報通りに雪が積もり始めている。地面は真っ白だ。庭木は風で撓る度に、積もりかけた雪を払い落している。
 この雪が、全ての音を吸い込んだかのように、束の間、サイレンの音を失った。
「火事だね」
 篁さんの声がして、急に耳が音を拾い集める。びゅうびゅうと唸る風に、木々の撓り。ばたばたと騒々しく暴れるのは、畑のトタンだ。そして、徐々に近づいて来るサイレンと、半狂乱に打ち鳴らされる鐘の音もする。
「半鐘が鳴らされてる」
「半鐘?」
「町に火の見櫓はない?そこに吊るした小さな鐘のことだよ」 
 つまり、近所で火事が起きているということ?
「輝ちゃんは中にいて。俺が様子を見て来るから」
「いえ、私も行きます」
 顔を伏せながら庇の外へと歩を進める。
 寒さに頬が突っ張る。あっという間に髪が雪に濡れ、パジャマのズボンから温もりが消えた。地面を覆った雪は薄い膜のようだ。私が歩いた後は、靴の形に地面がむき出しになっている。
 氷のように冷たい鉄製の門扉を開け、細く緩やかにカーブする坂道を下る。坂道の途中にある街灯は古く、今にも消えてしまいそうなオレンジ色の明かりが灯っている。そんな街灯が、点々と100メートルほど続く。左手は鬱蒼とした森。右手は家屋の土台石を残した空き地が2カ所と、小さな畑が斜面ギリギリに耕されている。霜対策のビニールを張り、春野菜の苗でも植えているはずだ。そのビニールも、今や雪を被って姿が見えない。
「半纏じゃなくて良かったです」
「家の中だと温かいけど、外には向かないからね」
 喋る度に、白濁した息が風に流される。
 坂を半分ほど下った辺りで、くぐもった叫び声が聞こえて来た。怒号だ。
 胸がざわざわする。
 不安に急き立てられるように走り出そうとした私を、篁さんが制止する。
「走ると危ない」
 私の手を握り、足元のアスファルトを踵で軽く蹴り飛ばす。
「所々凍ってるみたいなんだ」
 もどかしさに唇を噛んでしまう。
 足元に注意しながら、ようやく民家が見えて来る頃には、怒号も明瞭となった。
「急げ!」「火の粉に気を付けろ!」「風が強すぎる!」「何してる!」
 次から次へと怒号が飛び交う。それは、火災現場が近くなことを示している。
 サイレンが鳴り響き、半鐘が打ち鳴らされる。吹雪に白んだ空には、雲とは違う煙の筋が風に流されている。ちかちかと赤い火の粉が乱舞し、炎と赤色灯の不穏な色が混ざり合い、夜空に広がっているようだ。
「大丈夫?」
 するりと繋いだ手が離れ、背中を優しく撫でられる。
 大丈夫かどうかは分からない。
 火災なんて見るのは初めてだ。歩を進める度に、ばりばりと聞こえる業火に焼かれる家屋の音がする。絶望したように泣いているのは、不運に見舞われた家族だ。
 その光景に言い知れぬ恐怖と悲しみが押し寄せて来る。
 真っ赤な消防車が狭い道に犇めき合い、ホースを伸ばして消火作業に取り掛かる。重装備の防火服に熱を浴びながら、燃え盛る炎の最前列で放水の開始だ。
 消防員に交ざって、警察官の姿もある。
「輝ちゃん!」
 人ごみをかき分けて、中肉中背の男性が駆けて来た。
 みんなと同じパジャマの上からジャンパーを羽織った格好で、雪に頭を湿らせている。
「舛木さん!一体何が…」
 続く言葉が見当たらずに口を噤む。
 それでも舛木さんは、私が言いたかったことが分かったらしい。緩く頭を振ると、燃え盛る家屋の裏手を指さした。
 裏手には田んぼが広がっている。
「警邏が終わった途端にやられた。稲藁に火が点いたんだ。それがこの風で舞い上がって、小嶋さんとこに…な」
 舛木さんは悔しそうに歯噛みする。
 稲刈り後、稲の切り株ごと耕す秋起こしと、稲藁を放置して春に耕す春起こしがある。多くの田んぼが、春起こしだ。
 今回、それが仇となったのだ。
「例の不審火じゃないか…。つまり、放火じゃないかって話だ。あんなとこ、失火なんてありえないからな」
 舛木さんは落胆の息を吐き、ゆっくりと篁さんを見上げた。
「で、こちらさんは?」
 怪訝な表情が、篁さんの頭から爪先までを舐めるように値踏みする。
 それに怖気づいたように、するりと篁さんの手が背中から離れた。
「どうも。篁です…」
 従兄とは言わなかった。
「タカムラ…」
 舛木さんが何度も篁と咀嚼し、「ああ」と気難しい顔で頷く。
「輝ちゃんの家に入り浸っている怪しい男ヒモか」
 動けるヒモは大歓迎と言っていたのに、いざ目の前にすると歓迎の気持ちは失せるらしい。
 舛木さんは坂を下った先の、謂わば隣人だ。子供の頃から家族ぐるみでお世話になっていて、私が独りになってからも、何かと気に掛けてくれている。
 そんな舛木さんが、ヒモの存在を良しとするはずがない。
 射るような視線が、篁さんを委縮させている。それでもなんとか、「ヒモではない」と小声で反論しているので、よほどヒモ扱いは嫌なのだろう。ただ、その声もサイレンに掻き消されて、舛木さんの耳には届いていない。
「そんなことより、家の人は無事なんですか?怪我人とか…」
「ああ、消防団の若いのが何人か軽い火傷を負ったくらいだ。小嶋さんとこは全員無事だが…」
 小嶋さん。
 親しくお付き合いしていたわけではないけど、顔は知っている。すれ違う時には会釈する。その程度の付き合いだったけど、燃え盛る炎を見ると胸が痛くなる。
 新年を迎えようと言う時に、一切合財を失ったのだ。その心情を思うと居た堪れない。
 舛木さんと並んで消火作業を見守っていると、「御厨!」と雪に足を滑らせながら先輩が駆けて来た。ダウンジャケットに足元は長靴と防寒しているけど、やっぱりダウンジャケットの下はパジャマだ。
「先輩」
「御厨、大丈夫か?」
 顔を覗き込まれて、思わず苦笑する。
 よほど私の顔色は悪いらしい。
「大丈夫です。ただ…身近でこんなことが起きて…。動揺しているというか…怖いというか…」
「怖い?」
「放火だって話だ。小森んとこの倅の和幸だったよな?」
 舛木さんの問いかけに、先輩は「はい」と頷く。
「サイレンで目が覚めて、両親がバタバタして何事かと思ったけど…放火なんて…。本当ですか?」
「稲藁に付け火されたんじゃないかって話だ。そこから強風に煽られて…な」
 舛木さんはぎりぎりと歯軋りし、先輩は呆然と空に吹き上がる火の粉を見上げた。
 火の粉はすぐに横殴りの雪に消されて見えなくなるのに、濛々と立ち昇る黒煙は消してはくれない。むしろ、雪の方が黒煙の中に消えている。
「克っさん!克っさん!」
 叫び声に、舛木さんが「おう!」と手を振る。
 舛木克尚かつひさで”克っさん”だ。
 駆けて来たのは、舛木さんと同年代の男性だ。土木事務所の社名がプリントされたジャンパーを着た男性は、額の汗を拭いながら息を整える。
「これから見回りするらしい。不審なのがいないか。警察も巡回するそうだが、俺たちのが土地勘があるだろ?人が隠れそうなとことか」
「ああ、確かに。放火魔は、燃えてる様子を近くで眺めてるって聞くからな」
「そういうことだ」
「じゃあ、ちょっくらゴルフクラブ持って来る」
 舛木さんは息巻いて、「輝ちゃん、戸締りしてろよ」と家へと駆けて行く。その後を、男性が息を切らしながら追いかけた。
「御厨。連絡待ってたんだぞ」
 ぽつり、と恨みがましい声に目を向ければ、先輩は眉尻を下げた情けない顔をしている。
 丸みを帯びた顔と二重瞼のぱっちりした目と相俟って、お預けを食らったワンコみたいだ。
「あ……忘れてました」
 目まぐるしい日々に、先輩から連絡先を渡されたことを忘れていた。あの名刺は、カバンの中だ。
「そんなことだと思った。しっかりしているようで、どこか抜けてるよな」
「色々と忙しいんですよ。これでも」
「そういうことにしといてやるよ」
 先輩は笑う。
「じゃ、送ってくよ。御厨んち、上の方だから暗いだろ?」
「その必要はない」
 今まで沈黙を保っていた篁さんが、不意に私の手を握った。
 その顔は硬く、どこか怖い。
「えっと…誰?」
 先輩も怪訝な顔つきだ。
 険悪な雰囲気に、空気がピリつく。
 今こそ大人の対応をお願いします。と、篁さんを見上げれば、篁さんは私の目を見て小さく頷いた。
 ピリピリとした空気を一変させ、嫣然と微笑む。
 寝癖に跳ねた頭をしているのに、自分の魅力を存分に発揮した笑みの威力は絶大だ。何しろ、顔が良い。大人の色気を増し増しに、篁さんは先輩を見据えた。
「輝ちゃんとは一緒に暮らす仲なんだ。だから、送り狼はお呼びではないよ」
「ちょ…」 
「帰ろう。ここにいても邪魔になるだけだし、天候も悪くなる一方だ」
 篁さんの口調は終始硬い。
 先輩としては、送り狼呼ばわりされて面白いはずがない。不愉快そうに顔を顰めながらも、私と目が合うと、ぎこちない笑みを作った。
「御厨。風邪を引く前に帰った方が良い。またな」
 先輩の方が、よっぽど大人だ。
 先輩は篁さんをひと睨みして、有志が集い、班を形成し始めた見回り組へと歩いて行く。
 私は先輩になんと声をかけていいのか分からず、横殴りの雪に消えて行く姿を黙って見送った。
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