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「輝ちゃんは、ユウマって知ってるかい?」
眉宇を顰めた気難しい顔で、「ユマだったけか?」と首を傾げているのは、いちご農家の末広徳重さんだ。
祖父世代の末広さんは、腕を組み、額に深い皺を刻みながら考え込んでいる。末広さんが答えに辿り着くには、もうしばらく時間がかかりそうだ。
その間、なんとはなしに賑やかな周囲を見渡す。
末広農園はビニールハウスを8棟も有する、この地域で一番大きな農園だ。8棟の内6棟は、12月から5月まで、いちご狩りで賑わう。
今日も例外ではない。
平日だろうと、冬休み期間だ。寒さをものともしない子供たちが、いちごに飽きたのか、ハウスの周りで追いかけっこをしている。SNSにアップするのだろう。ハウスの前で写真を撮っている女の子も多い。その手に持っているのは、末広農園と菓匠花山のコラボ商品であるいちご大福だ。
菓匠花山は、末広さんの娘さんの嫁ぎ先になる。
いちご狩りシーズンのみ、ハウスの傍らに出張テントを張り、精力的にいちご大福を販売しているのだ。しかも、予約必須のいちご狩りとは違い、いちご大福は予約なしで買えるとあって、常に行列が出来ている。菓匠花山のロゴ付きワゴンが日に何度も商品を補充に来ているのだから、その人気は目を見張るものがある。
何しろ、ここのいちご大福は絶品だ。
大ぶりの"あまおう"を漉し餡と牛皮で包んだいちご大福は、ひと口齧るとジューシーな果汁が溢れ出す。甘さ控えめの餡と相俟って、いちごの風味が口いっぱいに広がる、いちごが主役の甘味となっている。
確か、昨年はテレビの取材が来ていた。
エリア情報誌にも掲載されたことがある。
「あぁ…もう少しで思い出せそうなんだがなぁ」
末広さんは帽子越しに頭を掻き、「悪いね」と歩き出す。
「年取ると物忘れが酷くなる。特に横文字は覚えらんねぇ」
そう苦笑しながら、ずんずんと歩いて行く先は、いちご狩り用ハウスとは異なる。奥まった2棟のハウスは、関係者以外立ち入り禁止の札が立つ、商品として卸すいちごが栽培される専用棟だ。
卸す先は、スーパーや道の駅。大手デパートの贈答用にも出荷しているという。
私はその専用棟で、規格外のいちごを安価で譲ってもらっている。
歪な形やサイズのいちごは、味は同じだと言うのに、ひと昔前は売り物にならない廃棄品だった。廃棄と言っても捨てるわけではなく、無料で近所に配っていたそうだ。近年になり、規格外でも用途が増えている。
形の残らないジャムを初め、ジュースやアイス等の加工用だ。それ以外にも、オーバーサイズでも形が良ければ、宝石のような扱いで1粒売りされる。形はハートが好ましという。
専用棟の前まで来ると、末広さんは「うんうん」と唸りながら、「やっぱユウマだ」と私に振り返った。
ハウスのドアを開けてくれながら、「ユウマ、知ってるか?」と私の目を見据える。
「ユウマですか?」
横文字は覚えられないというから、きっと日本語ではないのだろう。何かの略語かもしれない。
口の中でユウマを何度噛み砕いても、心当たりはない。
「ごめんなさい。知らないです。何かの略ですか?それとも人の名前?」
訊けば、末広さんは「違う違う」と手を振る。
「あれだよ。ほら、ネッシーとかツチノコとかの」
「それを言うならユウマじゃなくてUMAですよ」
困ったように笑えば、「似たようなもんだろ」と末広さんも笑う。
2人でドアを潜ってハウスに入れば、甘酸っぱいいちごの香りが肺いっぱいに満ちた。凍える寒さの外とは違い、暖かく、春の陽気だ。
ハウス内は、日中25度で管理されている。
その中で、青々と茂った葉の間から、真っ赤ないちごが顔を覗かせる。ぶんぶん、と飛ぶのはハチだ。いちご農園はいちごを栽培するだけでなく、受粉に必要なハチも養蜂している。末広農園では、攻撃性の低いハナバチを養蜂しているので、刺される心配はない。
甘酸っぱい香りを堪能しつつ、「ネッシーとか好きですよ」と末広さんの背中に声をかける。
末広さんは今朝収穫したいちごの箱を抱え、歯抜けた口を大きく開いて陽気に笑った。
「輝ちゃん、そんなのが好きなのか」
「日本だとツチノコやイッシー。夢があるじゃないですか」
「男の子みたいなこと言うね」
折り畳みの長テーブルに、いちごの詰まった箱が3箱重ねられる。
いちごの品種は”あまおう”。
小ぶりな物もあれば、歪に成長して規格外というのもある。とても甘そうな色合いをしているのに、規格外と弾かれるいちごは可哀想だ。小ぶりのいちごを1粒拾い上げて口に含めば、濃厚な甘さと香りが鼻に抜ける。
「甘~い!」
「当たり前だ。誰が丹精込めて育ててると思ってるんだ。手間暇かけて育ててるんだ。品質はどこにも負けないと自負してる」
末広さんが自信満々と胸を張る。
「尊敬してます」
お世辞でもなんでもない。本心から言えば、末広さんは可愛らしく照れた。
「それで、UMAがどうしたんですか?」
もう1粒頬張って訊けば、末広さんが「そうそう」と頷く。
農協マークの入った帽子を脱いで、肩に掛けたタオルで薄くなった頭の汗を乱暴に拭う。
「それなぁ。出るっていうんだよ。ユーマが。檜乃山に」
檜乃山地区は、この辺り一帯のことだ。
うちは乙原地区だけど、檜乃山とは隣接しているので距離は近い。
「どんなUMAが出るんですか?」
食べ終えたいちごのヘタをハンカチ包み、ジャンパーのポケットに入れながら末広さんの顔を見る。
末広さんは首を傾げながら、「なんつったかなぁ」と腕を組んだ。
「俺ぁ、それは妖怪じゃねぇのかって言ったんだけど、松さんがユーマだって言うんだ」
松さんが誰かは知らないけど、妖怪っぽいUMAが出るらしい。まぁ、妖怪とUMAの違いを聞かれても説明に困るのだけど。
「えっと…なんつったかなぁ…。横文字なんだよ」
末広さんはしばし考えこみ、「あ」と手を打った。
「フライング、ヒュー…ヒューなんとかだよ。空を飛んでる人間なんだってよ」
思わず、噎せ返りそうになった。
篁さんではないと思う。話を聞く限り、すごく慎重なタイプだし、何より篁さんが目撃されていたならフライング・ヒューマノイドではなくアラジンだ。
平静を装って、ぎこちないながらに笑ってみせる。
「凧か何かと見間違えたんじゃないですか?」
「やっぱそうだよなぁ」
末広さんがからからと笑う。
「でも、本当にUMAなら私も見てみたいです」
「本当に好きなんだな」
末広さんは言って、2箱を持ち上げる。もう1箱は私が抱える。
「いつなら見れるか聞いてますか?見れるなら、見てみたいかも」
「松さんから聞いた話だと、夜に飛んでるらしい。暗い人型の影が、ふわふわと飛んでるんだってよ」
「夜かぁ。風邪ひいちゃいそうだから…夏までいると良いんだけど」
「違いない」
がはは、と末広さんは豪快に笑う。
「輝ちゃん。見れるといいな」
末広さんが器用に開けてくれたドアを潜り、「はい」と頷く。
外に出ると、気温差で頬が強張った。見上げた空は墨色だ。雲と雲の間に、僅かばかりの青空が覗いているけど、日が射すには雲が多すぎる。
なんでも、夜の内に霙が降ったらしい。朝には止んでいたけど、濡れた地面は底冷えの寒さを保っている。
ほんの数分だけど、一度体が温まると外の寒さが堪える。
ぶるり、と身震いして、元気な子供たちの姿に感嘆の息を漏らす。まさに風の子だ。
「そういえば、男が転がり込んでるんだって?」
本当に田舎の情報網には辟易する。
目玉をぐるりと回して末広さんを見れば、末広さんはにたにた笑っている。
「勝巳んとこで働いてるって小耳に挟んだよ。なかなかの色男らしいじゃねぇか。働きっぷりも良いって聞いてるぞ。忠司も草葉の陰で歯軋りしてんじゃねぇかって専らの噂だ」
忠司は祖父のことだ。
呵々と笑う末広さんに嘆息して、「そういうんじゃありません」と控えめに反論する。今さら「従兄」と嘯いても、広まった疑惑の芽は摘むことはできない。変に藪を突いて、実は見知らぬ人を泊めました、という事実を掘り出される方が恐ろしい。私の危機意識の無さが招いたこととはいえ、これ以上の詮索はされたくはない。
色々考えて、少しばかり照れ臭そうに俯けば、「ああ、これ以上言っちゃうとセクハラってやつだな」と、末広さんは追究の手を止めてくれた。
あとは話題をぶり返されないように、大急ぎで車のトランクにいちごを詰め込み、支払いを済ませて末広農園を後にした。
まるで逃げたようだな、と反省が頭を擡げる。
田園風景から集落の中を通過し、迷いながらもハンドルを切る。行く先は、若菜さんのビニールハウスだ。
線路を渡り、濡れた大根や白菜畑が、其処彼処で陽射しを浴びて煌めている。かと思えば、ミヤマガラスが集団で翼を休め、地面を突いている畑もある。その畑は、春に向けての土作りをしているので、今季の作付けを休んでいるのだ。
若菜さんの露地栽培用の畑も、土作りで休めている畑が幾つかある。作付けしているのは、道の駅用と自宅用に栽培している大根だと聞く。片やハウス栽培は、通年、野菜を栽培をしている。主力は長ネギとアスパラガスだ。
ぽつぽつと建つビニールハウスの棟の中に、青い軽トラックを見つけた。
ゆっくりと軽トラックの後ろに車を止める。エンジンを切ってドアを開けたところで、「輝ちゃん」と声をかけられた。
軍手を叩きながら、タイミングよくハウスから出て来たのは若菜さんの奥さん――裕子さんだ。裕子さんは火照った頬を伝う汗を手の甲で拭い、「どうしたの?」とエプロンのポケットに軍手を押し込んだ。
それから何を思ったのか、訳知り顔で頷く。
「カレシの頑張りを見学に来たのね」
またか、と思う。
愛想笑いで受け流せば、裕子さんはソバカスの散る頬に手を当て、ハウスへと視線を投げた。
「年は離れてるけど、輝ちゃんには年上が良いと思ってたのよ。なにより、いい男を捕まえたわ」
頬を緩ませながら吐息をもらす。
「うちのみたいに筋肉バカじゃなし、低姿勢で働き者。ちょっと奥手というか、人見知りっぽいのがキュートなのよね。おどおどしてるのが可愛いの」
「はぁ…」と微妙な顔で相槌を打てば、裕子さんが「安心して。これでも旦那一筋だから」と笑う。
「でも、見て楽しむ分は許してね。目の保養は大事でしょ?」
おどけたように手を合わせた裕子さんに、「どうぞ」と適当に頷く。
裕子さんの話を聞くに、篁さんの立ち位置はアイドルらしい。裕子さんやパートのおばさんたちの質問攻めに、しどろもどろする姿が可愛いと好評を得ているようだ。裕子さんたちも、わざと答え辛い質問で揶揄っているのだろう。
裕子さんはひと通り話し終えると、「ごめんね」とにまにまと笑う。
「カレシに会いに来たのよね」
「少し話せますか?」
「ええ、大丈夫。ちょっと待って」
裕子さんはハウスのドアを開くと、「篁くん!篁くん!輝ちゃんが様子を見に来たわよ!」と大声を上げた。
「今が一番楽しい時期よねぇ」
反論する隙すら与えてくれない。
辟易したため息を嚥下すると、困惑顔の篁さんが出て来た。土で汚れた軍手を脱いで、頭を掻きながら「すみません」と裕子さんの脇を通る。裕子さんはにまにま口元を綻ばせつつ、そそくさとハウスの裏手へと消えて行った。
「御厨さん。どうしたの?」
「噂がひどい…」
「ご、ごめん。何度も従兄だって言ったんだけど、笑って流されるんだ…」
「知ってます。私も面倒臭くなって訂正するの止めちゃったし」
目が合うと、どちらからともなく笑ってしまった。
「それで、何か問題でも出た?」
「変な噂を聞いたんです」
「噂?いちごの仕入に行ったんだよね?」
「その帰り」
車のトランクを指さす。
「もしかして、市場でも俺たちの噂が広まってるってこと?」
どうやら篁さんも田舎の洗礼に辟易しているようだ。
田舎の噂にSNSは必要ない。猛スピードの伝言ゲームは、捻じれに捻じれて面白おかしく改竄される。その恐ろしさに気付いた時には手遅れで、噂が沈静化して立ち消える七十五日を待たなければならない。
「別のことです。ちなみに、仕入先は市場じゃなくて農園。末広農園って言って、おじいちゃんの友達が経営してて、そこの規格外を格安で譲って貰ってるんです」
ふぅ、とひと息吐く。
ちょいちょい、と手招けば、篁さんが腰を折って耳を傾ける。
別に怪談を披露するわけじゃないけど、思わず周囲に視線を巡らせてしまう。
「末広さんが、この辺でオカルトな話が出てるって」
声音を落として言えば、篁さんは首を傾げた。
「それが?」
「フライング・ヒューマノイドが出たそうですよ」
「フライング・ヒューマノイドって…UMAとか宇宙人とか言われてる?」
「そう。空を飛ぶ人間」
篁さんの顔が強張った。
「一応、凧じゃないかって誤魔化したんですけど。末広さんも同意して笑ってたけど…。噂がどれだけ広がっているか、ですよね」
聞いてますか?と軽く腕を叩けば、篁さんは我に返ったように「ひゅ」と息を吸い込んだ。どうやら呼吸が止まっていたらしい。
青い顔が空を仰ぎ、目を伏せ、「ああ…」と両手で顔を覆う。
「大丈夫ですか?噂の出所は知りませんが、篁さんのことじゃないですよ?篁さんのことなら”アラジン”で広まってます」
「俺はそんなヘマはしない」
「ガス欠で墜落したのに?」
意地悪な口調で言えば、篁さんは真っ赤な顔で俯いた。
「噂が広まってるなら、若菜さんたちも知っていると思うんです。なので、情報収集をお勧めします」
「ん…そうするよ。ありがとう」
「それから、もう従兄は通用しそうにないので、周りの噂に便乗しましょう」
「同棲カップル?」
「そうじゃありません。聞かれても否定も肯定しないこと。勝手に想像させてあげるということです。根掘り葉掘り聞かれたら、私が窮地に陥るから……」
特大のため息を落として、「とりあえず」と篁さんを見上げる。
「御厨さんじゃなくて、輝って呼んでいいです。急に名前呼びすると周りが怪しむとは思うんですけど、私も暁央さんと呼びます」
「ごめん。外では輝ちゃんって呼んでる。従兄だから苗字で呼ぶのは変だろ?」
確かに…。
「とりあえず、仕事頑張って下さい」
ぽん、と篁さんの腕を叩いたところで、ハウスの裏手から裕子さんが戻って来た。
「ラブラブねぇ」とにまにました顔は、新しいネタを仕入れたぞと語っている。
裕子さんの目に、今の私たちは仲睦まじく映っているらしい。慌てて篁さんと距離をとっても遅い。
裕子さんは喜色満面に、「ごゆっくり~」とハウスの中へと入って行った。
眉宇を顰めた気難しい顔で、「ユマだったけか?」と首を傾げているのは、いちご農家の末広徳重さんだ。
祖父世代の末広さんは、腕を組み、額に深い皺を刻みながら考え込んでいる。末広さんが答えに辿り着くには、もうしばらく時間がかかりそうだ。
その間、なんとはなしに賑やかな周囲を見渡す。
末広農園はビニールハウスを8棟も有する、この地域で一番大きな農園だ。8棟の内6棟は、12月から5月まで、いちご狩りで賑わう。
今日も例外ではない。
平日だろうと、冬休み期間だ。寒さをものともしない子供たちが、いちごに飽きたのか、ハウスの周りで追いかけっこをしている。SNSにアップするのだろう。ハウスの前で写真を撮っている女の子も多い。その手に持っているのは、末広農園と菓匠花山のコラボ商品であるいちご大福だ。
菓匠花山は、末広さんの娘さんの嫁ぎ先になる。
いちご狩りシーズンのみ、ハウスの傍らに出張テントを張り、精力的にいちご大福を販売しているのだ。しかも、予約必須のいちご狩りとは違い、いちご大福は予約なしで買えるとあって、常に行列が出来ている。菓匠花山のロゴ付きワゴンが日に何度も商品を補充に来ているのだから、その人気は目を見張るものがある。
何しろ、ここのいちご大福は絶品だ。
大ぶりの"あまおう"を漉し餡と牛皮で包んだいちご大福は、ひと口齧るとジューシーな果汁が溢れ出す。甘さ控えめの餡と相俟って、いちごの風味が口いっぱいに広がる、いちごが主役の甘味となっている。
確か、昨年はテレビの取材が来ていた。
エリア情報誌にも掲載されたことがある。
「あぁ…もう少しで思い出せそうなんだがなぁ」
末広さんは帽子越しに頭を掻き、「悪いね」と歩き出す。
「年取ると物忘れが酷くなる。特に横文字は覚えらんねぇ」
そう苦笑しながら、ずんずんと歩いて行く先は、いちご狩り用ハウスとは異なる。奥まった2棟のハウスは、関係者以外立ち入り禁止の札が立つ、商品として卸すいちごが栽培される専用棟だ。
卸す先は、スーパーや道の駅。大手デパートの贈答用にも出荷しているという。
私はその専用棟で、規格外のいちごを安価で譲ってもらっている。
歪な形やサイズのいちごは、味は同じだと言うのに、ひと昔前は売り物にならない廃棄品だった。廃棄と言っても捨てるわけではなく、無料で近所に配っていたそうだ。近年になり、規格外でも用途が増えている。
形の残らないジャムを初め、ジュースやアイス等の加工用だ。それ以外にも、オーバーサイズでも形が良ければ、宝石のような扱いで1粒売りされる。形はハートが好ましという。
専用棟の前まで来ると、末広さんは「うんうん」と唸りながら、「やっぱユウマだ」と私に振り返った。
ハウスのドアを開けてくれながら、「ユウマ、知ってるか?」と私の目を見据える。
「ユウマですか?」
横文字は覚えられないというから、きっと日本語ではないのだろう。何かの略語かもしれない。
口の中でユウマを何度噛み砕いても、心当たりはない。
「ごめんなさい。知らないです。何かの略ですか?それとも人の名前?」
訊けば、末広さんは「違う違う」と手を振る。
「あれだよ。ほら、ネッシーとかツチノコとかの」
「それを言うならユウマじゃなくてUMAですよ」
困ったように笑えば、「似たようなもんだろ」と末広さんも笑う。
2人でドアを潜ってハウスに入れば、甘酸っぱいいちごの香りが肺いっぱいに満ちた。凍える寒さの外とは違い、暖かく、春の陽気だ。
ハウス内は、日中25度で管理されている。
その中で、青々と茂った葉の間から、真っ赤ないちごが顔を覗かせる。ぶんぶん、と飛ぶのはハチだ。いちご農園はいちごを栽培するだけでなく、受粉に必要なハチも養蜂している。末広農園では、攻撃性の低いハナバチを養蜂しているので、刺される心配はない。
甘酸っぱい香りを堪能しつつ、「ネッシーとか好きですよ」と末広さんの背中に声をかける。
末広さんは今朝収穫したいちごの箱を抱え、歯抜けた口を大きく開いて陽気に笑った。
「輝ちゃん、そんなのが好きなのか」
「日本だとツチノコやイッシー。夢があるじゃないですか」
「男の子みたいなこと言うね」
折り畳みの長テーブルに、いちごの詰まった箱が3箱重ねられる。
いちごの品種は”あまおう”。
小ぶりな物もあれば、歪に成長して規格外というのもある。とても甘そうな色合いをしているのに、規格外と弾かれるいちごは可哀想だ。小ぶりのいちごを1粒拾い上げて口に含めば、濃厚な甘さと香りが鼻に抜ける。
「甘~い!」
「当たり前だ。誰が丹精込めて育ててると思ってるんだ。手間暇かけて育ててるんだ。品質はどこにも負けないと自負してる」
末広さんが自信満々と胸を張る。
「尊敬してます」
お世辞でもなんでもない。本心から言えば、末広さんは可愛らしく照れた。
「それで、UMAがどうしたんですか?」
もう1粒頬張って訊けば、末広さんが「そうそう」と頷く。
農協マークの入った帽子を脱いで、肩に掛けたタオルで薄くなった頭の汗を乱暴に拭う。
「それなぁ。出るっていうんだよ。ユーマが。檜乃山に」
檜乃山地区は、この辺り一帯のことだ。
うちは乙原地区だけど、檜乃山とは隣接しているので距離は近い。
「どんなUMAが出るんですか?」
食べ終えたいちごのヘタをハンカチ包み、ジャンパーのポケットに入れながら末広さんの顔を見る。
末広さんは首を傾げながら、「なんつったかなぁ」と腕を組んだ。
「俺ぁ、それは妖怪じゃねぇのかって言ったんだけど、松さんがユーマだって言うんだ」
松さんが誰かは知らないけど、妖怪っぽいUMAが出るらしい。まぁ、妖怪とUMAの違いを聞かれても説明に困るのだけど。
「えっと…なんつったかなぁ…。横文字なんだよ」
末広さんはしばし考えこみ、「あ」と手を打った。
「フライング、ヒュー…ヒューなんとかだよ。空を飛んでる人間なんだってよ」
思わず、噎せ返りそうになった。
篁さんではないと思う。話を聞く限り、すごく慎重なタイプだし、何より篁さんが目撃されていたならフライング・ヒューマノイドではなくアラジンだ。
平静を装って、ぎこちないながらに笑ってみせる。
「凧か何かと見間違えたんじゃないですか?」
「やっぱそうだよなぁ」
末広さんがからからと笑う。
「でも、本当にUMAなら私も見てみたいです」
「本当に好きなんだな」
末広さんは言って、2箱を持ち上げる。もう1箱は私が抱える。
「いつなら見れるか聞いてますか?見れるなら、見てみたいかも」
「松さんから聞いた話だと、夜に飛んでるらしい。暗い人型の影が、ふわふわと飛んでるんだってよ」
「夜かぁ。風邪ひいちゃいそうだから…夏までいると良いんだけど」
「違いない」
がはは、と末広さんは豪快に笑う。
「輝ちゃん。見れるといいな」
末広さんが器用に開けてくれたドアを潜り、「はい」と頷く。
外に出ると、気温差で頬が強張った。見上げた空は墨色だ。雲と雲の間に、僅かばかりの青空が覗いているけど、日が射すには雲が多すぎる。
なんでも、夜の内に霙が降ったらしい。朝には止んでいたけど、濡れた地面は底冷えの寒さを保っている。
ほんの数分だけど、一度体が温まると外の寒さが堪える。
ぶるり、と身震いして、元気な子供たちの姿に感嘆の息を漏らす。まさに風の子だ。
「そういえば、男が転がり込んでるんだって?」
本当に田舎の情報網には辟易する。
目玉をぐるりと回して末広さんを見れば、末広さんはにたにた笑っている。
「勝巳んとこで働いてるって小耳に挟んだよ。なかなかの色男らしいじゃねぇか。働きっぷりも良いって聞いてるぞ。忠司も草葉の陰で歯軋りしてんじゃねぇかって専らの噂だ」
忠司は祖父のことだ。
呵々と笑う末広さんに嘆息して、「そういうんじゃありません」と控えめに反論する。今さら「従兄」と嘯いても、広まった疑惑の芽は摘むことはできない。変に藪を突いて、実は見知らぬ人を泊めました、という事実を掘り出される方が恐ろしい。私の危機意識の無さが招いたこととはいえ、これ以上の詮索はされたくはない。
色々考えて、少しばかり照れ臭そうに俯けば、「ああ、これ以上言っちゃうとセクハラってやつだな」と、末広さんは追究の手を止めてくれた。
あとは話題をぶり返されないように、大急ぎで車のトランクにいちごを詰め込み、支払いを済ませて末広農園を後にした。
まるで逃げたようだな、と反省が頭を擡げる。
田園風景から集落の中を通過し、迷いながらもハンドルを切る。行く先は、若菜さんのビニールハウスだ。
線路を渡り、濡れた大根や白菜畑が、其処彼処で陽射しを浴びて煌めている。かと思えば、ミヤマガラスが集団で翼を休め、地面を突いている畑もある。その畑は、春に向けての土作りをしているので、今季の作付けを休んでいるのだ。
若菜さんの露地栽培用の畑も、土作りで休めている畑が幾つかある。作付けしているのは、道の駅用と自宅用に栽培している大根だと聞く。片やハウス栽培は、通年、野菜を栽培をしている。主力は長ネギとアスパラガスだ。
ぽつぽつと建つビニールハウスの棟の中に、青い軽トラックを見つけた。
ゆっくりと軽トラックの後ろに車を止める。エンジンを切ってドアを開けたところで、「輝ちゃん」と声をかけられた。
軍手を叩きながら、タイミングよくハウスから出て来たのは若菜さんの奥さん――裕子さんだ。裕子さんは火照った頬を伝う汗を手の甲で拭い、「どうしたの?」とエプロンのポケットに軍手を押し込んだ。
それから何を思ったのか、訳知り顔で頷く。
「カレシの頑張りを見学に来たのね」
またか、と思う。
愛想笑いで受け流せば、裕子さんはソバカスの散る頬に手を当て、ハウスへと視線を投げた。
「年は離れてるけど、輝ちゃんには年上が良いと思ってたのよ。なにより、いい男を捕まえたわ」
頬を緩ませながら吐息をもらす。
「うちのみたいに筋肉バカじゃなし、低姿勢で働き者。ちょっと奥手というか、人見知りっぽいのがキュートなのよね。おどおどしてるのが可愛いの」
「はぁ…」と微妙な顔で相槌を打てば、裕子さんが「安心して。これでも旦那一筋だから」と笑う。
「でも、見て楽しむ分は許してね。目の保養は大事でしょ?」
おどけたように手を合わせた裕子さんに、「どうぞ」と適当に頷く。
裕子さんの話を聞くに、篁さんの立ち位置はアイドルらしい。裕子さんやパートのおばさんたちの質問攻めに、しどろもどろする姿が可愛いと好評を得ているようだ。裕子さんたちも、わざと答え辛い質問で揶揄っているのだろう。
裕子さんはひと通り話し終えると、「ごめんね」とにまにまと笑う。
「カレシに会いに来たのよね」
「少し話せますか?」
「ええ、大丈夫。ちょっと待って」
裕子さんはハウスのドアを開くと、「篁くん!篁くん!輝ちゃんが様子を見に来たわよ!」と大声を上げた。
「今が一番楽しい時期よねぇ」
反論する隙すら与えてくれない。
辟易したため息を嚥下すると、困惑顔の篁さんが出て来た。土で汚れた軍手を脱いで、頭を掻きながら「すみません」と裕子さんの脇を通る。裕子さんはにまにま口元を綻ばせつつ、そそくさとハウスの裏手へと消えて行った。
「御厨さん。どうしたの?」
「噂がひどい…」
「ご、ごめん。何度も従兄だって言ったんだけど、笑って流されるんだ…」
「知ってます。私も面倒臭くなって訂正するの止めちゃったし」
目が合うと、どちらからともなく笑ってしまった。
「それで、何か問題でも出た?」
「変な噂を聞いたんです」
「噂?いちごの仕入に行ったんだよね?」
「その帰り」
車のトランクを指さす。
「もしかして、市場でも俺たちの噂が広まってるってこと?」
どうやら篁さんも田舎の洗礼に辟易しているようだ。
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「別のことです。ちなみに、仕入先は市場じゃなくて農園。末広農園って言って、おじいちゃんの友達が経営してて、そこの規格外を格安で譲って貰ってるんです」
ふぅ、とひと息吐く。
ちょいちょい、と手招けば、篁さんが腰を折って耳を傾ける。
別に怪談を披露するわけじゃないけど、思わず周囲に視線を巡らせてしまう。
「末広さんが、この辺でオカルトな話が出てるって」
声音を落として言えば、篁さんは首を傾げた。
「それが?」
「フライング・ヒューマノイドが出たそうですよ」
「フライング・ヒューマノイドって…UMAとか宇宙人とか言われてる?」
「そう。空を飛ぶ人間」
篁さんの顔が強張った。
「一応、凧じゃないかって誤魔化したんですけど。末広さんも同意して笑ってたけど…。噂がどれだけ広がっているか、ですよね」
聞いてますか?と軽く腕を叩けば、篁さんは我に返ったように「ひゅ」と息を吸い込んだ。どうやら呼吸が止まっていたらしい。
青い顔が空を仰ぎ、目を伏せ、「ああ…」と両手で顔を覆う。
「大丈夫ですか?噂の出所は知りませんが、篁さんのことじゃないですよ?篁さんのことなら”アラジン”で広まってます」
「俺はそんなヘマはしない」
「ガス欠で墜落したのに?」
意地悪な口調で言えば、篁さんは真っ赤な顔で俯いた。
「噂が広まってるなら、若菜さんたちも知っていると思うんです。なので、情報収集をお勧めします」
「ん…そうするよ。ありがとう」
「それから、もう従兄は通用しそうにないので、周りの噂に便乗しましょう」
「同棲カップル?」
「そうじゃありません。聞かれても否定も肯定しないこと。勝手に想像させてあげるということです。根掘り葉掘り聞かれたら、私が窮地に陥るから……」
特大のため息を落として、「とりあえず」と篁さんを見上げる。
「御厨さんじゃなくて、輝って呼んでいいです。急に名前呼びすると周りが怪しむとは思うんですけど、私も暁央さんと呼びます」
「ごめん。外では輝ちゃんって呼んでる。従兄だから苗字で呼ぶのは変だろ?」
確かに…。
「とりあえず、仕事頑張って下さい」
ぽん、と篁さんの腕を叩いたところで、ハウスの裏手から裕子さんが戻って来た。
「ラブラブねぇ」とにまにました顔は、新しいネタを仕入れたぞと語っている。
裕子さんの目に、今の私たちは仲睦まじく映っているらしい。慌てて篁さんと距離をとっても遅い。
裕子さんは喜色満面に、「ごゆっくり~」とハウスの中へと入って行った。
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