魔法使いの約束

衣更月

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 欠伸とも呻き声ともとれる声を零し、篁さんがのたのたと台所へ入って来た。昨夜は早くに鼾が聞こえていたけど、疲れが取れていないらしい。半開きの目には、輪をかけて生気がない。
 気だるげに頭を傾げ、「…はよ…」とぼそぼそした声を落とす。
 時刻は朝の5時半を少し回ったところだ。
 薬缶の湯気で曇った窓の向こうは、夜特有の静けさに包まれている。きっと空には星が瞬いているに違いない。
「おはようございます。顔、洗って来たらどうです?目が覚めますよ」
「……ん」
 篁さんはストーブで手を温めた後、うつらうつらと頭を揺らしながら台所を出て行った。
 冷たい水に手を浸せば、間違いなく目が覚める。顔を洗えば、2度寝したいなんて思いは吹き飛ぶはずだ。
 こんなに朝が早いのは、昨夜、祖父が懇意にしていた農家からヘルプが入ったからだ。人手が足りないので、小遣い稼ぎにどうだ、と声をかけてくれたのだ。
 うちの事情を知る人たちは、優しくも仕事を回してくれる。
 ありがたいことだと思う。
 でも、”人手が足りない”の裏にあるのは、”男手がほしい”という本音も隠れている。
 農業は根気と忍耐力はもちろんのこと、体力勝負だ。ヘルプが入った農家は、パートで女性が4人いるけど、男性の手が足りていない。
 その点を慮って、従兄・・を向かわせることにしたのだ。
 農家の朝は早く、6時半には作業に入る。午前中の内に収穫を含めた農作業が続き、午後から選別出荷となる。ただ、道の駅への納品は別だ。9時までには店舗に並べられるように収穫し、”朝採れ野菜”をアピールする為に早々に搬送されて行く。その為、午前中は休む間もなく忙しいという。 
「うぅ…目が覚めた…冷たいを通り越して痛い…」
 ぼそぼそと不満を垂れ流し、篁さんが震えながら戻って来た。ストーブで手を温め、身震いしながら食卓を眺める。
 体が温まるように、肉豆腐がメインだ。木綿豆腐と豚肉、長ネギを甘辛いタレで煮た簡単料理になる。他は、だし巻き卵とたくあん。お味噌汁の具材は大根と油揚げ。朝食に必須の納豆。
美味うまそう…」
「おかわりもありますよ」
 ごはんをよそって、席に着く。
「いただきます」と、手を合わせる。
「俺、農業とか未経験なんだけど大丈夫?」
 大口を開けて肉豆腐を頬張りながらも、些か不安そうな顔つきだ。
「大丈夫です。体力はありますよね?」
「そこは問題ないかな」
「農家さんの名前は若菜さん。ビニールハウス内での作業なので、カラスの心配はいりません」
「ハウス栽培?」
「長ネギやアスパラを栽培しているんです」
 露地栽培では季節に合わせて、玉葱や冬瓜、ズッキーニを作っている。
「午前中だけだっけ?」
「はい」
 こくりと頷くと、篁さんは「昼から納屋作りだな」と独り言ちる。
 昨日はカラスに怯えながらも、瓦礫の撤去を終えたと聞いた。再利用できそうな材木と、そうでないものを選り分け、農具や散った釘を回収したそうだ。
 果たして、畑仕事から戻って、納屋を作る体力があるのだろうか。
 意気揚々とごはんを掻き込む篁さんを見ながら、あまり期待はすまい、とお味噌汁でため息を呑み込んだ。


 若菜さんのビニールハウスまでは、車で20分ほどかかる。
 空は僅かに夜が薄らいだけど、星は瞬いているし、山の稜線も暗く沈んでいる。吐く息は白く、霜の降りた地面に薄氷が張っている。車庫がなければ、車のフロントガラスも凍っていた。とはいえ、車の中が暖かいはずもない。
「さ…寒い…」
 助手席で亀のように首を窄め、ごぅごぅと吹き出る暖房の風に両手を向けている。
 寒いのも当然だ。
 畑仕事に向く服を持っていないのだ。ぱつぱつの体操着もゴミ箱の中だ。仕方なく祖父の作業着を引っ張りだしたけど、サイズが合うはずもない。紺色のヤッケは、やはり丈が足りない。サイズが異なっても着ることができたのは、ヤッケのウエストや裾、袖口がゴムだったからだ。
 篁さんが震える度に、ポリエステルのヤッケがしゃかしゃかと鳴る。
 暖房が利く5分間、助手席からのしゃかしゃか音は止まなかった。
 若菜さんのハウスは、町を横断した先にある。外は暗くても、町は動き始めている。着ぶくれた格好でカブを走らせる新聞配達員や、白い息を吐きながらジョギングをする青年、冬休みでも部活に勤しむために学校へ向かう学生たち。
 クリスマスが終われば、軒先には注連縄や門松が飾られ、今年も残り僅かだとしんみりしてしまう。
 線路を渡ると、途端に民家が減った。
 畑がぽつぽつと目立ち始め、煌々と明かりの点いたビニールハウスの群れが現れる。
「えっと…若菜さんのハウスは…」
 記憶が曖昧だ。
 車の速度を落として、ハウスの前に止められている車をチェックしていく。若菜さんの車は、青い軽トラックだ。
 多くが白い軽トラックの中、青い軽トラックが止まるハウスを見つけた。脇には赤いスクーターが止まっている。
 恐らく、ここなのだろう。
 若干の不安を抱えながら、ゆっくりと車を止める。
 エンジンをかけたままに車を降りると、温まった体があっという間に冷えた。呼気は白く濁り、冷気に頬が引き攣る。ぶるりと身震いし、ハウス横の白菜畑に視線を転じる。白菜がしっとりと濡れ、ハウスから漏れる明かりで白くぼんやり光って見える。一面に霜が降り、足を踏み出せば霜柱が小気味よく拉げた。
 私から少し遅れて、篁さんが車から降りた。
 顔を強張らせ、内股で身を捩りながら、しゃかしゃかとヤッケを鳴らす。
 と、ハウスのドアが開いた。
「やっぱり輝ちゃんだったな。悪いなぁ、朝早くに」
 野太くも軽快な声が飛んで来る。
 浅黒い肌に白い歯。短く刈ったごましお頭にタオルを巻き、長袖Tシャツ1枚の寒々しい格好をしている。理由は明白。体にフィットした黒いアンダーウェアは、筋肉をアピールするツールだ。通年薄着がモットーで、昔は冬でも半袖だった。見ている方が寒いからという理由で、家族から長袖を着るように叱られた経緯があると聞く。
 ボディビルダーにも見えるが、マッチョは趣味だ。地域の野球チームで活躍しているという噂を聞くくらいで、基本は農業一筋。野菜をこよなく愛している。
「おはようございます。若菜さん」
 ぺこり、と頭を下げれば、篁さんが「男なの!?」と素っ頓狂な声を上げた。
 若菜とだけ聞けば女性と思ってしまうのも無理はない。
「若菜は苗字だ。若菜勝巳」
 若菜さんは軍手を脱ぎ、篁さんに手を差し出す。
 片や篁さんは、若菜さんの筋肉に驚愕し、怖気づきつつ握手に応じた。
「た…篁暁央です」
「輝ちゃんから聞いた時は驚いた。従兄・・とはいえ、男を住まわせてるんだからな」
 従兄に含みを持たせ、不躾な視線で篁さんを値踏みしている。
 篁さんの方が背は高いが、若菜さんの筋骨隆々な体格と並ぶと、篁さんが小さく見える。
「なんだその恰好は」
「はぁ…突然のことで、農作業に適した服がなくて…。お祖父さんのヤッケを借りてます」
「なるほどなぁ」
 顎に手をあて、しげしげと篁さんを観察する。
 そして、徐に篁さんの腕を掴み、胸を撫で、腹を叩いた。
 驚いたのは篁さんだ。女子のごとく胸を隠し、内股になって一歩後退する。悲鳴こそ出さなかったが、警戒心剥き出しの子猫みたいだ。迫力はない。
「若菜さん。男同士でも、それはセクハラですよ」
「ああ、そうか。悪い、悪い」
 悪びれた様子なく笑い、感心したように頷く。
もやし・・・かと思ったが、それなりに筋肉はついてるな」
「やっぱり力仕事要員が欲しかったんですね」
 私が言えば、若菜さんは図星とばかりに苦笑する。
「でも、声をかけてもらったのは嬉しかったです。気に掛けて下さってありがとうございます」
 頭を下げれば、若菜さんは照れたように頭を掻いた。
「それじゃあ、12時くらいに迎えに来ますね」
「いや。終わったら俺が送ろう」
 にっと白い歯を見せ、篁さんの肩を力強く掴む。
 篁さんは委縮した不安そうな顔で私を見ている。その目はSOSを発しているけど、助けることは出来ない。
 私は頭を下げ、そそくさと車に戻った。
 バックミラー越しに見る篁さんは、ドナドナを彷彿させる表情で、若菜さんに連れられてハウスの中に消えて行った。


 家に帰り着いた頃には、頭上で瞬いていた星の殆どが消えていた。白み始めた空に、数羽のカラスが飛んで行く。電信柱には丸々としたスズメが留まり、ちゅんちゅん、と朝を告げる。
「今日こそは良い1日になりますように」
 影を落とす山の峰を見上げ、力いっぱいに手を合わせる。
 朝日が昇り始めたのか、眩い光りが空いっぱいに広がり、僅かばかり見えていた星を消し去った。空が水色に変化し、山の色が暗い影から濃い緑青色ろくしょういろとなる。味気ない冬の色合いも、霜が朝日に煌めいて綺麗だ。
「よし!」
 気合いを入れて、作業に取り掛かる。
 やることは山積している。
 掃除洗濯は毎日だし、9時には郵便局へ行って荷物の発送をしなければならない。ジャム工房は細々としているけど、着実に常連さんが付き始めている。今日の発送は4件分だ。さらに、昨日収穫した金柑の仕込みもある。
 金柑は自家栽培で、農園が管理した糖度の高い果実とは違う。灰汁があるので、丁寧な下処理が欠かせない。
 ヘタを取り除いて洗い、金柑の皮に小さな切れ込みを入れる。これをしないと、茹でている最中に実が崩れてしまうのだ。イメージとしては、電子レンジに卵を入れた感じかもしれない。
 灰汁抜きは2行程。
 うちの金柑は露地栽培なので、皮が固い。重曹を入れたお湯で下茹でし、さらに水に漬けて灰汁を抜く。祖母に教えられた方法だ。「うちの金柑は甘さはイマイチだけど、風味が強いからジャムや甘露煮に適してるんだよ」と。
 水に浸す時間は1時間ほどだ。掃除機をかけ、洗濯物を干し、郵便局へと荷物を出して戻って来る頃には、十分に灰汁は抜けている。
 鍋はジャム用と甘露煮用の2つ。
 甘露煮を艶々に仕上げるには、急がずゆっくりが基本だ。鍋に金柑、砂糖、りんご酢、水を適量注ぎ、弱火でことこと煮込む。金柑が空気に触れないように落とし蓋も忘れない。
 ジャム用の金柑は一度ザルに上げ、種と芯の部分を取り除き、金柑の食感を残すために粗みじん切りにする。鍋に金柑と水を入れ、弱火でことこと煮ながらグラニュー糖を入れる。
 焦がしてはダメなので、作業中は目が離せない。しかも、煮詰めている時に熱々のジャムが跳ねるので注意が必要だ。煮詰めすぎると固くなるので、白い丸皿に一滴垂らしてとろみをチェックする。
 うちはジャム工房と屋号を掲げているけど、パンに塗るジャムというよりは、ヨーグルトやバニラアイスのトッピングに適している。テクスチャーはジャムよりコンフィチュールの方が近い。
 ジャムは熱々の内に瓶に入れ、蓋を閉めると瓶をひっくり返す。
 甘露煮はジャムとは違い、ゆっくりと冷ます必要がある。急激な冷やし方は、金柑の皮がしわしわになる原因だ。艶々金柑に仕上げる為、鍋敷きの上に置いて放置する。
 時計を見れば、もうお昼だ。お昼ご飯の準備をしなければと思ったところで、ピンポンとチャイムが鳴った。
「はぁい」と声を上げ、ぱたぱたとスリッパを鳴らして玄関へと向かう。
 変だなと思った。
 うちの玄関ドアは昔ながらのすりガラスの引き戸だ。客が来たら、ぼんやりとした人影が透かして見えるので、そこで凡その性別や人数を把握できる。それなのに、人影が見えない。死角に入っているのだろうかと、少しの警戒心を込めて傘立てに置いてある金属バットを確認する。
 恐る恐ると玄関の引き戸を開き、頭だけをだしてきょろきょろと周囲を探っても誰もいない。悪ガキのピンポンダッシュだろうかと眉宇を顰めたところで、敷地を出た先にあるブナに留まったカラスに気が付いた。
 うちの正面は山だ。なだらかな山肌に沿って、ブナやナラ、杉に椎木、楓に桜と多種多様な木々が繁茂している。山の中に入れば、ヤマモモ、木苺、栗、クワと果実も豊富だ。その為に野鳥は多いが、日中にカラスを見ることは殆どない。カラスを見るのは、塒へ出入りする朝方や夕暮れくらいだ。それも数羽で群れたカラスばかりで、一羽でいるのはあまり見たことがない。しかも、じっとこちらを見ているカラスなんて、篁さんではないけど気味が悪い。
 目が合ったような気がして、さらに怖くなる。
 と、軽トラックのエンジン音が坂道を上って来ているのが聞こえた。
 青い軽トラックが、うちへと入って来る。
 若菜さんだ。助手席には疲弊の色が濃い篁さんが座っている。
 軽トラックが止まると、のろのろと篁さんが降り、若菜さんに向かって頭を下げた。若菜さんが豪快に笑い、窓を開けると頭を出す。
「輝ちゃん!しばらく暁央を借りるけどいいか?」
 しばらくの意味が分からずに首を傾げると、「明日からも頼みたいんだよ」と若菜さんが白い歯を見せて破顔する。
「なかなか力があって使えるんだ」
「本人が良いのなら、私は構いませんよ」
「よし、決まりだ」
 若菜さんは上機嫌にハンドルを叩き、「暁央」と篁さんを呼ぶ。
「明日からも頼むぞ!」
 クラクションを鳴らし、軽トラックは忙しそうに来た道を引き返して行った。
 ぽつん、と佇む篁さんはゾンビさながらの覇気のなさだ。ヤッケは土に汚れ、若菜さんに借りたのだろう長靴は泥濘を歩かされたのだと語る。どうやらハウス外の作業にも従事したようだ。
「気に入られたみたいですね」
「農業がこんなにキツイなんて思わなかったよ…」
 足腰が辛い、とぎこちなく歩いている。
 明日には筋肉痛だろう。
「その荷物は?」
「長ネギと玉葱、アスパラを貰った。あと…いらない作業着をくれたよ。長靴は予備を貸してくれた…」
 ビニール袋に入った野菜を受け取る。
 紙袋に入った作業着を覗き込めば、モスグリーンのツナギだ。膝が擦り切れ、袖口にオイル汚れがあり、全体が色褪せて草臥れている。それでも丈足らずのヤッケよりはマシだ。裾に折り目の跡があるので、篁さんの身長ではピッタリかもしれない。作業着とは別の袋には、篁さんが履いていた黒い合成皮革のハイカットのブーツが入っている。
「カラスは大丈夫でした?ハウスの外で作業したならミヤマガラスがいたんじゃないですか?」
「群れをなしてたかな。まぁ、あれは大丈夫」
「大丈夫なカラスと、ダメなカラスがいるんですか?」
 意味が分からない。
 眉宇を顰めて篁さんを見据えれば、篁さんは深刻な顔で何度も頷く。
「凶暴なやつがいるんだ」と空を仰ぎ、「飛んでない?」とおどおどと黒い影を探す。
「カラスなら木に留まってますよ」
「え!?」
 びくり、と肩を震わせ、私が指さす方向に振り向いた。その瞬間を見計らったように、カラスが猛スピードで滑空して来た。「うわ!」と篁さんは叫び、紙袋を盾にする。
 私は玄関に飛び込んだ。
 カラスのターゲットは篁さんらしい。黒い羽を散らし、「ガァア!ガア!」と威嚇の声を上げて執拗に篁さんを攻撃している。
 正直、怖い。
 近くで見るカラスは、意外と大きくて怖い顔をしている。太い嘴と鋭い爪は、相手を威圧するに十分な迫力がある。助けなければと思うのに、カラスの迫力に押され、腰が引けてしまって動けない。
 篁さんは「ぎゃ!」とか「いて!」とか叫びながら、必死に紙袋でカラスを押し退けている。
 その紙袋も、ボロボロだ。
「い…いい加減にしろ!」
 ボロボロの紙袋から作業着が零れ落ち、篁さんの堪忍袋の緒も切れた。
 くいっと手首を翻したと思った次の瞬間、カラスが地面に叩きつけられた。篁さんが手で叩き落としたのでも、振り回す紙袋が当たったのでもない。なのに、カラスは両翼を広げた形で地面に張り付いている。突然、カラスにだけ何倍もの重力がかかったみたいに…。
 篁さんは肩で息をし、頭についた羽を払い落し、作業着を拾い上げた。
「いい加減にしてくれ!もう俺に構うな!」
 誰に言っているのだろうか…。そんな疑問は、「わがまま言うな!」との一喝で立ち消えた。
 慌てて周囲を探っても、誰もいない。声の出所は何処だと視線を彷徨わせていると、地面に張り付いたままのカラスと目が合った。
「おい、女!」
 ハスキーというより酒焼けした濁声だみごえが、カラスから飛び出した。テレビで見るような、甲高く愛嬌のある声真似ではない。中年オヤジの濁声だ。
 私が怯むと、カラスがぎろりと睨む。鳥というには表情豊かに、嘴がへの字に歪んで見える。
「お前が暁央をそそのかしたのか!」
「分を弁えろ。その羽、毟り散らすぞ!」
「あ…暁央に言ったんじゃない!」
 ギャーギャー、ガーガー、カラスが絶叫している。それも、鸚鵡返しではなく、会話が成立しているのだ。
 地面でばたばたと羽を散らし、今にも泣きだしそうな顔つきで篁さんを見ている。
 鳥なんて庭先にいるのを遠目に見るくらいだ。胸を張って鳥に詳しいとはいえないけど、少なくとも喜怒哀楽が顕著で表情豊かでないことは分かるし、会話は成立しない。
 夢でも見ているのだろうか…。
 尻餅をつかないように、玄関の戸にしがみ付く。
「な…なんなんですか…?篁さんも…そのカラスも…」
「御厨さん…」
 途端に、篁さんが情けない顔つきで俯く。
 カラスに向けていた手を力なく落とせば、カラスは翼を1回、2回とばたつかせて態勢を整えた。それから羽ばたき、篁さんの頭の上に留まる。長身の篁さんの頭に留まれば、カラスは鷹ほどに威圧感を生む。
 怖くて逃げ腰になってしまう。
「その…俺は…このカラスから逃げてて…。こいつはくろっていうカラスで…」
crowカラスで黒だからって単純なネーミングセンスだよな」
「お前は黙ってろ」
 篁さんが手を振れば、カラスは驚いたように嘴を閉ざした。まるでアメリカの子供向けアニメみたいなコミカルさで、翼で嘴をタップし、開かないとアピールしている。
 篁さんは泥だらけの足元を見下ろした後、唇を噛みしめ、意を決したように私を見据えた。
「黒はスパイカラスなんだ」
「スパイカラス?スパイって…あのジェームズ・ボンドみたいな?」
「俺を見つけて、報告するつもりなんだ。買収されてるに違いない…。こいつは昔から簡単に買収されるんだ」
 なぁ?、と頭上のカラスーー黒を睨む。
 黒が翼をばたつかせて抗議する。なのに嘴を閉ざしたまま、鳴くことがない。
「一体…篁さんは何者なんですか?カラスが喋るのも普通じゃないですよね?」
 警戒心が篁さんを怯ませる。
 弱々しく頭上の黒を払い除け、力なく肩を落とした。
「俺は…その……」
 何度も唇を舐め、視線を泳がせ、作業着をきつく握りしめながら、「魔法使い」と消え入りそうな声が告白した。
 頭の中で、ハリー・ポッターが竹ホウキに乗って空を飛び、杖を使って呪文を唱えた。その奥で、白雪姫や眠りの森の美女に出て来る魔女が悪巧みし、シンデレラに出て来る魔女がネズミとかぼちゃを馬車に変えている。
 つまり、ファンタジーな世界が頭の中をぐるぐると巡っているのだ。
 思わず「ぷ」と噴き出してしまった。
「深刻な顔をしてるから何かと思えば」
「いやいや、本当なんだよ」 
 あたふたとしながら、畑を指さす。
「小屋が壊れたのは、俺がミス…というかエンストしたっていうか…つまり、落下したからなんだ」
「ハリー・ポッターみたいにホウキで飛んでた?」
「カーペット」
 アラジンを忘れてた!
「もう、止めて下さいよ。お腹が痛くなっちゃいます」
 ぷるぷると笑いを噛みながら、畑の方へと目を向ける。
「カーペット、落ちてないですよね?昨日も見てませんよ」
「落ちたのは俺だけで…。たぶん、どこかの木に引っかかっているか、離れた所に落ちてると思う」
「アラジンの話題なんて耳にしませんよ?」
 アラジンが飛んでいたら、誰かが撮影してSNSに拡散している。テレビでも話題になる。何より、田舎の情報網はSNSやテレビを凌駕しているのに、今日も安穏としている。
 この話題は終了だと、笑いを嚥下し、腰に手を当てて篁さんを見上げる。そろそろ真剣に、質問に答えてもらいたい。そう目で促すのに、篁さんは頑として譲らない。
「人に見えない魔法ベールをかけてたんだ。魔法使いは、存在が秘匿されてる。悪用を阻止するのと、魔女狩りの再来を防ぐ自衛のために…」
「ハリー・ポッターみたいに杖は使わないんですか?」
 うんざりぎみに訊けば、篁さんは真顔で「使わない」と頭を振る。
 抱える作業着を、ブーツの入る紙袋に押し込め、利き手を私に向ける。「こうやるんだ」と、手首をくいっと翻す。と、足元に風が吹いた。三和土の四隅から大きく渦を巻き、掃き掃除で取りこぼした砂埃が中心に向かって円を描く。小さな旋毛風のようでいて、埃が舞い上がらない。
 篁さんが手を下ろす頃には、真ん中に砂埃が集められ、風は消えていた。
 偶然…というには上手くいきすぎだ。
 ぱちくりと瞬きを繰り返して砂埃を見下ろしていると、「こほん」と篁さんが咳払いする。
「映画や絵本みたいに、ワンドは使わない。ワンドを使うと、自分が三流なことを白状しているようなものなんだ」
「どうしてですか?」
 自分で質問しながら、耳に膜が張ったような不明慮な音に聞こえる。どこか現実離れしていて、夢の中にいるようだ。
 なのに、夢特有の支離滅裂さがない。
 篁さんは眉尻を下げる。私を気遣う表情は、自分は無害の人間だから怖くない、と宥めているようにも見える。
 一応、気を使ってくれているのだろう。
「それで、どうして杖は使わないんですか?」
 ゆっくりと深呼吸して、頬を叩いてから同じ質問をする。
ワンドは子供が使うんだ。とても分かりやすいだろ?どこにどれだけ力を込め、どこに力を放出すればいいのか。目安にしやすい。だから、ワンドは子供か技術の無い者が使うんだ。まぁ、素材によっては増幅器ブースターになるから、好んで使う人もいるけど、俺は使わない」
 個人的には、杖を使った方が魔法使いらしいと思う。
 そんな思考を読んだとばかりに、再び黒が篁さんの頭に留まった。何事か懇願するように翼をばたつかせれば、篁さんが嘆息とともに手を翻した。
「ぷはぁ!」
 黒が大きく嘴を開いて深呼吸する。
「お前、バァカ!危うく召されるとこだろうが!」
「…うるさい」
「オレっちが言わねぇと、小娘から舐められっぱなしだろうが!」
 黒は叫んだかと思うと、私を指さすように右の翼を私に向けた。
「いいか、小娘!こいつにワンドは必要ねぇ!こいつほどスゲェ魔法使いはいねぇんだからな!」
 ふん、と胸を張る。
「でも、家出したんだよね?」
 恐る恐る口を挟めば、黒は怒りがぶり返したらしい。
「そうだ!てめぇ、ガキみてぇに家出だぁ?舐めてんのか跡継ぎ!一般人パンピー小娘にもバラしやがって!!」
 黒が吼えた。
 篁さんの頭を突き、篁さんは「いて!」「痛い!」と両手を振って抵抗している。
「仕方ないだろ!お前が喋るから!」
「オレっちは九官鳥で誤魔化せんだよ!さっさと帰って説教くらえ!」
「俺は絶対に帰らないからな!」
 そう叫んで頭を抱えて蹲った篁さんは、すごい魔法使いというよりは、スーパーの駐車場で駄々を捏ねている子供みたいに見えた。
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