魔法使いの約束

衣更月

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「ふぁ」と、欠伸が漏れる。
 手が悴むほどの冷水で顔を洗い、化粧水と乳液、保湿クリームで整える。今日は外出の予定はないので、メイクはなしだ。太くて硬い、所謂いわゆる剛毛の髪に櫛を通し、手早くポニーテールに纏める。
 寒さに足踏みして、「はぁ」と息を吐けば、家の中だというのに息が白んだ。
 築50余年の日本家屋は、雨風を凌げるだけで、室温は外気温と然程変わらない。気密性が低いので、ドアの隙間から冷気が流れ、薄い窓ガラスから寒さが入り込む。
 台所の石油ストーブを点火させ、薬缶に水を注いでストーブの上にセットする。
 部屋が暖まるまで、台所と続き間になっている居間のテレビを点ける。
 地元の天気予報を待つのが日課だ。
 今は地元のお出かけコーナーが流れている。サンタクロースの格好をした男性リポーターが、中継先の門司港のイルミネーションの紹介をしている。点灯は夜なので、今は疎らな歩行者とレトロな建物だけのありきたりな映像だ。それでもリポーターは、海風に吹かれ、寒さに凍えながらも、「デートで女性に喜ばれること間違いなし」とおどけている。
「メリークリスマァス!」とリポーターがクラッカーを鳴らし、天気予報のコーナーへと移った。
 こちらもクリスマス一色だ。
 番組特製の温度計がクリスマス仕様に飾られ、気象予報士も暖かなコートにサンタクロースの帽子を組み合わせている。中継先は局前だ。寒風に震えながら空を指さし、「ホワイトクリスマスとはなりませんが、良い天気になりそうです」と白い息を吐く。注意すべきは北風だと言う。空気の乾燥と相俟って、気温は上がらないらしい。特に山間部では、農作物の霜害、更には車での峠越えなどに注意を促している。
 週間天気予報と一緒に、三が日の予報も出た。
 天気が良くないらしい。
 30日の午後から天気は下り坂。全国的に大寒波が襲来するので、備えが必要だと言う。
 お天気アシスタントの女性が、イラスト付きのボードを手に必需品を読み上げている。
 灯油の買い足し、車のチェーン、雪かき用スコップ、融雪剤、水道管の保温チューブ。
 どれも山間部の田舎では必需品だ。
 天気予報が終わる頃に、部屋の中が暖まって来た。
「よし」
 手を擦り合わせ、昨夜セットした炊飯器に目を向ける。
 ぐつぐつと白い湯気が立つ。炊き上がりまでのカウントが、2分を切っている。
 冷蔵庫から油揚げと塩サバを取り出す。勝手口の前に置いたカゴから、キッチンペーパーに包んだ白菜を取り、葉を一枚千切る。残りは再びキッチンペーパーに包み、カゴに戻した。
 フライパンで油揚げを軽く炒め、ざく切りにした白菜と一緒に片手鍋に放り込む。ダシは手軽な顆粒だしを使い、味噌は地元の味噌蔵の麦味噌だ。うちにグリルなんて洒落たものはないので、把手付きの焼き網で塩サバを焼く。
 シューシュー、と薬缶の注ぎ口から熱々の湯気が噴き出し始めた。
 加湿器要らずで重宝する分、窓ガラスは結露で真っ白に曇る。それでも薬缶をストーブから下ろさないのは、寒さに対する抵抗だ。
 小さい頃から冬はストーブと薬缶がセットだったので、白い湯気を噴く薬缶を見ると、部屋中が暖かく快適に感じるのだ。
 塩サバの香ばしい香りを換気扇が吸い上げる頃、テレビではスポーツコーナーから全国ニュースに話題が移った。
 景気の良い話ではない。年末になると多発する飲酒運転や事故、強盗といった、暗い話題が中心だ。
 マグカップに緑茶のティバッグを入れ、薬缶のお湯を注ぐ。
 お味噌汁を注ぎ、冷蔵庫から納豆を1パックとたくあんを取り出す。焼き上がった塩サバを皿に移していると、地元ニュースに変わった。女性アナウンサーが、今月に入ってから不審火・・・が増えている旨を伝えている。
「朝から嫌な話題」
 緩く頭を振って、食卓に料理を並べる。
 ごはんをよそえば、今日の朝食の完成だ。
「…と。その前に」
 仏飯器にごはんをよそう。茶湯器には、薬缶のお湯をつかって煎茶を淹れる。
 仏間は玄関脇だ。
 盆に乗せた供物を仏間に持って行き、供物台に載せる。蝋燭に火を点け、線香に灯す。
 線香から細い煙りが揺らぐと、白檀の香りが鼻孔に広がった。香炉に線香を寝かせ、仏壇に飾った写真立て3つを見つめる。
 1つは両親の写真。
 交通事故で逝去した両親の写真は、新婚旅行先で撮ったものだと聞いた。満面の笑顔で、背景は燦然と煌めく青い海が広がっている。
 残り2つは、私を育ててくれた祖父母の写真だ。
「おはよう」
 声をかけ、おりんを鳴らして手を合わせ、目を伏せる。
 この時、何を考えればいいのかは分からない。夜に手を合わせる時は、1日の報告をしている。でも、朝は何も言うことがない。
 なんとなく、今日は良いことがありますようにと頭を下げた。
 神社と混同している節は否めない。
 独りで苦笑を零し、蝋燭の火を手を払って消す。
「よっこいしょ」と、年寄りじみた声が出て、また苦笑する。
 仏間のカーテンを開け、冷えた空気に体が震えた。
 窓の結露を軽く手で拭い、外を覗き込めば、夜を押し退けて眩い陽射しが走っている。祖父が手入れを欠かさなかった庭木は、私の手によってワイルドな見た目になってしまった。庭師に頼む金銭的余裕はないので、自らの手で剪定しているのだ。ガタガタな見てくれの松に、霜が降りて白くなった躑躅。黒ずんだ枝が幾重にも交差する梅は、他の庭木に比べて冬の侘しさがある。それでも、枯れ枝のような梅の木に、丸々としたスズメが羽を休めて囀っている様は絵になる。
 改めて空へと目を向ける。
 今日は雲の無い晴天が期待できそうだ。
 クリスマスだけど、うちには関係ない。年越し間近の25日という認識でしかない。やることは山積している。大掃除に、仏間に飾る正月用の花も考えなければならない。寒波に備えて点検も必要だ。
 やることを指折り数えていると、ドドン!と晴天に似つかわしくない轟音が、庭木の小鳥たちを一斉に逃がした。
 私も危うく腰を抜かしそうになった。
 雷が落ちたのか、ガスボンベが爆発が起きたのか。
 恐る恐ると廊下に出ても、ガス臭さも煙もない。台所のドアは閉じたままで、破壊された様子はない。
 動揺に震える胸に手を当て、家を飛び出した。
 寒さに腕を組み、波板屋根の車庫へと視線を馳せる。中古で購入したアイスグリーンのタントが、何事もない顔で停車している。その隣の自転車も、倒れることなく立っている。
 家が無事かチェックして回ろうとしたところで、隣の畑から濛々と砂煙が上がっているのが見えた。
 空を見上げれば、雲一つない青い空が広がっている。雷を落としそうな暗い雲は見当たらない。
 小走りで畑へ向かい驚いた。
 農具置き場として使用している納屋が、砂埃を上げながら倒壊しているのだ。
 うちは山肌に建っている。集落の外れで、隣の家は100メートルほど坂道を下った先になる。家の前を通る道も、うちを境に未舗装の林道だ。そこを通って山へと上るのは、森林組合の軽トラックくらいしか見ない。
 鬱蒼とした森が目と鼻の先にあるので、野生動物は多い。シカにタヌキ、イタチにアナグマ。幸運なことにイノシシ被害には遭ったことはないが、荒くれイノシシの大群が納屋に体当たりしたら、掘立小屋な見てくれの納屋は簡単に倒壊してしまう。
 イノシシだったらどうしよう。
 恐る恐ると周囲に視線を巡らせる。
 今の時季の野菜は大根と白菜が主軸だ。野菜を食べられるのも困るけど、一番困るのは畑の脇に植えた金柑だ。
 オレンジ色の果実を実らせた木々は、薄っすらと霜を被っている。目を凝らしてみても、害獣被害を受けているようには見られない。ならばと、じっくりと畑を見渡すけど、野菜を貪る動物はいない。シカ除けネットに破れも見られない。
 砂埃が晴れると、倒壊した納屋の様相が改めて分かった。折れた板や柱が散乱し、トタン屋根は無惨にバラバラとなっている。壊れた衝撃で農具が散乱し、破れた袋から肥料が零れ、牛糞や鶏糞の臭いが立ち込める。トタンの一部から突き出した2本の把手は、恐らく一輪車のものだろう。
 これは片付けるだけでも大変だと落胆したところで、瓦礫の山に足が見えた。ガタガタ、と板が動き、「う~、う~」と呻き声が聞こえて来る。
 納屋を壊したのはイノシシではないらしい。
 人だと分かれば、恐怖は倍増する。
 どうやって納屋を壊したのか、どこから来たのか。それ以上に、納屋に置いていた農具は鋤や鍬、鎌だ。ビニールシートやシカ避けネットを固定する杭や針金なんかも収納していた。下手をするとスプラッターだ。
 血だらけだったらどうしよう…。
 ざく、ざく、と霜柱を踏みしめながら近寄れば、強烈な肥料の臭いに咳き込んでしまう。
 朝日に照らされて、細かな埃が空気中に滞留しているのが分かり、慌てて両手で口を覆った。
「あの…」と声をかければ、「げほっ!ごほっ!」と相手も臭いに噎せた。それからバリバリ、ガサガサとトタンが動き、仰向けに倒れている男性と目が合った。
 埃塗れの顔が、私を認識すると驚愕と困惑に瞠目する。
 どうやら大きな怪我はないらしい。
 それが確認できると、やっぱり素性が気になる。
 男性は見知らぬ高校の青い体操着を着ている。それも丈足らずで、裾が短い。サイズ自体が合っていないので、体操着がぱつぱつだ。
 コートは見当たらない。
 丈足らずの体操着だけでも不審なのに、男性はどう足掻いても高校生には見えない。
 ぼさぼさの髪に無精髭。疲弊した顔つきは、仕事に疲れた30代が妥当だと思う。
「あの…大丈夫ですか?」
 一歩だけ歩み寄る。
 色々と気になることは多いけど、ひとまず人命救助だ。
「今、救急車呼ぶので頑張って下さいね」
「ちょ!ま…って……待って…!」
 地声が低いのか、痛みで上手く声が出せないのか、地を這うような低音ボイスだ。「うぅ」とか「いっ…」と痛みを堪える呻きを上げながら、「だっ、いじょうぶ」と、大丈夫とは思えない声を絞り出す。
「いててて…」と歯を食いしばり、カラカラ、ガタガタと音を立てて体を起こそうする。
「骨が折れてたら大変ですよ!」
「骨は大丈夫。本当に折れてないから…」
 是が非でも立ち上がりたいらしい。
 肥料の臭いが、男性を追い立てているのかもしれない。
「待って下さい。危ないから動かないで」
 ため息を嚥下し、男性の周辺に転がる鍬や鋤を遠ざける。鎌は男性の尻の下にあった。杭は壁材の下敷きなのだろう。見当たらない。あちこちに錆びた釘が転がっている。
「済みません。小屋を潰してしまったようで…」
「どこから突っ込んだんですか?普通、こんな派手に壊れませんよ?」
 一応、毎年の台風には耐えているので、それなりに頑丈なはずだ。
 それを木っ端みじんに倒壊させるには、猛スピードのバイクで林道からジャンプして体当たりでもしなければ無理だ。そう思うのに、バイクどころか自転車も見当たらない。
 少し離れた場所に、ぱんぱんに丸まったボストンバッグが落ちているくらいだ。
「起き上がれますか?」
 訊けば、男性は「いててて…」と体を起こし、よたよたと立ち上がった。
 意外と背が高いが、ぱつぱつの体操着ばかりが気になる。
「怪我はないですか?」
「あ~」と、男性は手や足を振りながら、「大丈夫」と頷く。
 大きな怪我はないというだけで、あちこち擦り傷だらけだ。よく見れば、体操着も破れているし、ささくれた木片がハリネズミのように刺さっている。
 男性は安堵に頬を緩めた後、12月であることを思い出したのか、歯を食いしばって小刻みに震えだした。小さな木片が体操着のあちこちに刺さっているので、寒くても腕は組めない。ぎゅっと拳を握って足踏みし、首を窄めるようにして私に頭を下げる。
「ほ…ほ、本当に申し訳ない…。小屋を破壊してしまって…」
 図体はデカいが、声は小さく震えている。
 バツの悪さもあるだろうし、寒さで口が開き難いのかもしれない。
「あの…弁償を……といっても…今、お金なくて……。こう見えても手先が器用なので…その、自分で建て直しさせてほしい。だから…その…」
 うじうじとした弁明だ。
 私も男性が無事と分かって、忘れていた寒さを思い出したところだ。手を擦り合わせ、腕を組み、白濁する息を大きく吐き出す。
「建て直せるですか?」
「手先は器用なんで」
 男性は深く息を吐き、意を決したように「しばらく泊めて下さい!」と大声を張り上げて土下座した。
 行く当てがない。
 なんでもするから。
 まるで命乞いのような懇願と共に、ぐぎゅ~、と盛大な腹の音が鳴る。
 寒空の下、霜柱で凍てつく地面に額を叩きつけ、図体のデカい大人が土下座する様は、なんとも痛々しい。
 祖父母が生きていたら、どうしただろうかと考え、苦笑が漏れた。
 きっと家に招くのだろう。祖父は曲がったことが大嫌いで厳しい人だったけど、人情味に厚かった。祖母はお腹の空いた人を無視できない、とても優しい人だった。
 私は笑みを嚥下し、「納屋が完成するまでなら」と頷いた。


 男性の名前はたかむら暁央あきお。年齢は、なんと28歳だ。
 てっきり30代半ばあたりかと思っていたけど、無精髭を剃り、シャワーを浴びて身綺麗になれば、28と聞いても驚かない風貌まで若返った。
 つまるところ、イケメンだ。
 ひとつひとつのパーツが整っていて、精悍な面立ちをしている。猫っ毛の髪は涅色で、緩やかな天然パーマがルーズな色気を醸し出す。上下グレーのスウェットというのを差し引いても、顔が良い。
 ただ、目元が眠たげというか、生気がないというか。腫れぼったい訳ではないのに、なんとも覇気がない。世に言う死んだ魚のような目だ。ぐぅ、ぐぅ、と盛大に腹を鳴らすのも相俟って、残念感がすごい。
「シャワー…ありがとう」
 篁さんは卓上の朝食を見て、ごくり、と生唾を飲み込んだ。「美味そう…」との呟きで、腹の虫が大合唱を始める。
「髭は伸ばしてたわけじゃないんですね」
「あ…ああ、単なる無精髭…。2日くらい放置してた…」
 はは、と腹を押さえながら、弱々しく笑う。
「それで…体操着を捨てたいんだけど…」
 ハリネズミとなった体操着を詰め込んだビニール袋を、申し訳なさそうに掲げる。
「分別?」
「いえ。燃えるゴミで大丈夫です」
 ビニール袋を受け取り、台所の隅にあるゴミ箱に入れる。
「まずは、ごはんにしましょう」
 席に座るように促せば、篁さんの腹が歓声をあげた。さすがに恥ずかしいのか、俯けた顔は耳まで真っ赤だ。
 いそいそと着席した篁さんの前には、レンジでチンした塩サバ、一度鍋に戻して温め直したお味噌汁、たくあんと納豆、お茶が並ぶ。ごはんをよそい、「どうぞ」と手渡せば、篁さんはお米ひと粒ひと粒を見据えて生唾を嚥下する。
 まるで2、3日も食事をしていない人のようだ。
「召し上がって下さい」と言えば、「いただきます!」と手を合わせた。がつがつとご飯を掻き込む姿は、部活帰りの高校生のようだ。
 私の分を篁さんに回したので、新たに作らなければならない。塩サバはないので、目玉焼きを作る。お味噌汁を椀に注ぎ、篁さんの向かいの席に置く。冷蔵庫から納豆を新たに取り出すのも忘れない。
「あ…君のごはん…」
 今気付いたとばかりに、篁さんは半分ほど食べた塩サバを見て眉尻を下げた。
「構いません」
「ごめん…。この恩は絶対に返すよ…」
 大袈裟だけど、それが篁さんの矜持なのだろう。
 悪い人ではなさそうだ。
「そういえば、名前は?玄関の表札は見たけど…なんて読むのかな?」
御厨みくりやです。名前は輝。輝くで”ひかり”。年は19です」
 御厨輝、と篁さんはごはんと一緒に何度も咀嚼する。
「ご両親は仕事?」
「いませんよ。両親は15年も前に事故で他界しました。育ててくれた祖父母も2年前に立て続きに病気で他界したんです」
「あ………その………悪いことを聞いた。申し訳ない……」
 ずん、と陰気な空気を背負って項垂れる。
「両親を聞くのは自然な流れです。私も気にしていません」
 ごはんをよそって、空になった炊飯器の内釜を流しに置く。薬缶の熱湯と水道水を半々注いでおくのも忘れない。そうしなければ、かぴかぴに乾いた粘りが容易に取れなくなるのだ。
 席に着き、「いただきます」と手を合わせ、お味噌汁から口に付ける。
「篁さんは、何をしに、こんな辺鄙な場所の納屋に突っ込んだんですか?」
「あ…なんていうか…家出?」
「家出?アラサーですよね?」
「アラサー……ま、まぁ…そうだけど…」
 納得いかないといった顔つきが、納豆をねばねばとかき回す。
「夫婦喧嘩の末の家出とかですか?」
「独身だよ」
 不貞腐れたように、「彼女もいない」と先手を打って、勝手に落ち込む。
「両親と揉めてね」
「つまり、28にもなって両親と同居。挙句、喧嘩で腹を立てて、ぱつぱつの体操着を着て家を飛び出した、と?」
「棘があるね…」
「もしかして、引きこもりニート?」
「ちゃんと仕事はしてたよ」
 辞めたけど、とぼそりと呟きが落ちる。
「まぁ、元引きこもりでもニートでも構いません。しっかり働いて納屋を建て直してくれるなら」
「それはもちろん!こう見えても一宿一飯の恩は忘れないんだ」
「なんでもするって言ってましたよね?」
「言った」
 篁さんは深く頷く。
「納屋も建てるから、用件は小出しにしてくれると助かる。納屋の大きさは?」
「小さな掘立小屋です。農具しか入っていなかったんです。鍬とか鎌とか肥料とか。一番大きなもので一輪車です」
「一輪車って…子供が遊ぶやつじゃなくて?」
「運搬用のカートです。知らないんですか?」
 一輪車の把手を握る仕草をしても、篁さんはピンと来ないようだ。
「トタンの下敷きになっていたので、あとで確認して下さい。肥料とか重いものを運ぶのに便利なんです」
「分かった」
 納豆とご飯を掻き込み、お味噌汁で口の中の物を流し込む。
 口直しのたくあんを食べ終えると、篁さんは「ごちそうさま」と手を合わせた。
「で、小出しにする仕事は何かな?御厨さんが仕事…?学校?に行っている間の家事?畑仕事?」
「学校は行ってません。働いてます。働きに出ているのは、基本的に週3日なんです。残りは家で仕事をしてます。その手伝いをしてほしいんです。お給料は出せませんが」
「そんなのはいらない。俺が悪いんだから、慰謝料として働いて返すのが当然の義務だ。何より宿代も払えてないからね」
 篁さんはお茶を啜り、「ほぅ」とひと息吐いた。
「で、なんの仕事?」
「週3日はカフェで働いているんですけど、家ではジャムを作ってます。ネット通販や道の駅、働いているカフェに置いて貰ってるんです」
「ジャムで生計を立ててるのか?」
 理解できないという顔つきだ。
 篁さんの中のジャムは、きっと食パンに塗るだけの加工食品なのだろう。しかも、ジャムはなくても構わないバター派だ。
「まぁ…手伝えることがあるのなら手伝うよ」
「あとで手伝ってもらいますね。その前に、部屋に案内します」
 納豆を混ぜ、お箸で掬い上げる。
 篁さんはごはんの上に納豆を乗せていたけど、私はごはんとは別々に食べる派だ。糸を切りながら納豆を口に運ぶ。
 篁さんは食べ終わった食器を流し台へと持って行き、不慣れな様子ながら食器を洗う。バシャバシャと水音を立て、「冷た!」と手を震わせる。うちは井戸水を使用しているので、冬は氷水のように冷たいのだ。
 食事を終え、食器を洗い終えてから、篁さんの部屋へと案内する。
 1階には居間、台所、仏間を含めて座敷が2間、トイレ、お風呂だ。仏間を使わせるわけにはいかないし、もう1間の座敷は作業部屋にしている。熟考の末、2階へと案内する。
 昔ながらの薄暗い階段だ。玄関のすりガラス戸越しに射し込む光も、階段の3段目までしか届いていない。明かりを点けても、オレンジ色の薄暗い明かりでしかない。踏板を踏めば、ぎしぎしと板が軋む。
 2階には3部屋ある。南側の部屋は私が使っている。東側は祖父母の部屋で、北側が物置だ。
「この部屋を使って下さい」
 祖父母の部屋へ案内した。
 6畳間に桐箪笥が1棹、鏡台が1基置いてあるけど、主を亡くした部屋はがらんどうに見える。
 押し入れを開ければ、上の段は空っぽ。下の段には衣装ケースが押し込まれている。衣装ケースの1つを引っ張り出して、中から濃紺の綿入り半纏を取り出す。
「祖父のだけど、使って下さい。そんな格好じゃ風邪ひきます」
「良いの?」
「物は使われてこそです」
「ありがとう」
 早速、半纏を着ているけど、やっぱり丈が足りない。
「客用布団が座敷の押し入れにあるので、一度外に干しましょう」
 使っていない電気ストーブも出した方が良い。
 寒さに手を擦り合わせ、1階へと下りる。
 作業場となっている座敷は、仏間の隣。台所の手前になる。仏間とは続き間になっていて、襖で仕切られている。襖の上部が欄間になっているせいで、冷たい空気が仏間から流れて来る。
 兎に角、寒い。
 手を擦り合わせ、座敷に入る。篁さんがきょろきょろと興味深げに座敷を見渡しているけど、何が面白いのか皆目見当もつかない。
 座敷は6畳間だ。
 石油ストーブを部屋の角に置き、中央に座卓を配置している。座卓の上にはディスクトップパソコンとプリンター、ラベルシールとラベル用プリンターを置く。壁側には、以前あった衣装箪笥を撤去し、中古で買った扉付き食器棚に交換した。食器棚はジャム用の空瓶や、配送用の小さな箱、緩衝材等を保管している。
 押し入れを開ければ、上部に客用布団と毛布やシーツの予備がある。下部には両親の形見の品が、大中様々なサイズの柳行李に納まる。
 篁さんは卓上カレンダーを覗き込み、クッキー缶を再利用したラベル入れからラベルを1枚引き抜いた。
「ジャム工房ひかりや」
「シンプルだけど分かりやすいでしょ?」
「確かに」
 篁さんは頷き、ラベルに描かれたフルーツに首を傾げる。
「金柑」と呟き、別のラベルも手にする。
「いちご…木苺…梅…柚子…いちじく…ヤマモモ?」
 ぽかん、と口を開いて、「ジャム?」と首を傾げる。
「いちごとマーマレードくらいしか知らないけど…こんなに種類があるの?」
「もっといっぱい種類はありますよ。うちはそれだけです。さらに時季もあるので、今の取り扱いは金柑と柚子、いちご。もう少し暖かくなれば梅。木苺も収穫できれば、木苺です。今年はブルーベリーにも挑戦したいなって思ってるんですよ」
 押し入れから布団を引っ張り出すと、篁さんが慌てて手伝ってくれる。
 篁さんの腕には敷布団が2枚、毛布が1枚、枕が1個だ。私は羽毛布団を持って、外へと出る。田舎の布団の干し方は大胆で、車を庭の真ん中に出すと、車に2枚の敷布団をかけ、枕を隙間に載せる。残りはブロック塀や門に引っ掛けるのだ。
「次は収穫をお願いします。私は掃除があるので」
「収穫?」
「金柑の収穫です。金柑と梅、柚子、いちじくは自家栽培なんです。いちごは懇意にしている農家さんから、規格外を格安で買い取ってます。木苺やヤマモモは収穫に行きます」
 と、すぐ側の山を指さす。
 この環境があるからこそ、高校を卒業して自活できている。もし就職していたら、きっと家は空き家となって朽ちるに任せることになっていただろう。それを思うと、畑を整えた祖父母と山の恵みに感謝の念が絶えない。
 玄関の下駄箱の上に置いた青果鋏と、竹編みの収穫籠を手渡す。
「オレンジ色に熟れている金柑は全部収穫して下さい。収穫したら…」
 玄関を出て、すぐ傍らの水道を指さす。
「井戸水なので冷たいですが、ここで軽く汚れを落として下さい。改めて台所で洗うので、本当に軽くで大丈夫です。虫とかを洗い流す感じ」
「冬なのに虫がいるの?」
「暖冬の時は意外と出て来るんですけど、今冬は寒いから。ただ、秋に死んだ虫とか蜘蛛の巣とかがくっついている時があるんです」
「なるほど」
 篁さんは頷き、のろのろと空を仰いだかと思ったら、手にした収穫籠を頭からすっぽりと被った。
 祖父母が見ていた時代劇で、円筒形の笠を被って尺八を吹くキャラがいたのを思い出す。笠のことを虚無僧笠こもそうがさと言い、その名の通り僧が被るのだと祖父が教えてくれた。ただ、時代劇では現代の覆面マスクよろしく刺客が愛用していた。
「何をしているんですか?」
「カラス…がいた気がする…。飛んでない?」
「カラス?」
 空を見上げる。
 青々と澄んだ冬の空だ。雲ひとつない。
 カラスはどこだと見渡しても、電線にスズメが数羽、庭の片隅の椿にジョウビタキが1羽、ちゅんちゅん、ひ、ひ、ひ、と甲高く鳴いているくらいだ。
「カラスはいませんね。カラス、苦手なんですか?」
「まぁ…そうだね。嫌いだ」
「友達にもいますよ。カラスじゃなくてハトですけど。田舎こっちより都会はハトだらけだって嘆いてます」
 ふぅ、とひとつ息を吐く。
 篁さんの頭から収穫籠を取り、青果鋏も返してもらう。
「収穫は私がするので、掃除お願いします」
「ごめん…」
 カラスが苦手で、よく田舎に来たものだ。それともハトと同じで、都会の方がカラスが多いのだろうか。
 なんにしても、納屋が完成する日は遠そうだ。
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現実世界で普通の高校生として過ごしていた「白崎レナ」は謎の空間の亀裂に飲み込まれ、狭間の世界と呼ばれる空間に移動していた。彼はそこで世界の「管理者」と名乗る女性と出会い、彼女と何時でも交信できる能力を授かり、異世界に転生される。 次に彼が意識を取り戻した時には見知らぬ女性と男性が激しく口論しており、会話の内容から自分達から誕生した赤子は呪われた子供であり、王位を継ぐ権利はないと男性が怒鳴り散らしている事を知る。そして子供というのが自分自身である事にレナは気付き、彼は母親と供に追い出された。 時は流れ、成長したレナは自分がこの世界では不遇職として扱われている「支援魔術師」と「錬金術師」の職業を習得している事が判明し、更に彼は一般的には扱われていないスキルばかり習得してしまう。多くの人間から見下され、実の姉弟からも馬鹿にされてしまうが、彼は決して挫けずに自分の能力を信じて生き抜く―― ――後にレナは自分の得た職業とスキルの真の力を「世界の管理者」を名乗る女性のアイリスに伝えられ、自分を見下していた人間から逆に見上げられる立場になる事を彼は知らない。 ※タイトルを変更しました。(旧題:不遇職に役立たずスキルと馬鹿にされましたが、実際はそれほど悪くはありません)。書籍化に伴い、一部の話を取り下げました。また、近い内に大幅な取り下げが行われます。 ※11月22日に第一巻が発売されます!!また、書籍版では主人公の名前が「レナ」→「レイト」に変更しています。

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